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命をいただくということ〜「食」と「生命の連鎖」〜 [2025年05月22日(Thu)]
お久しぶりです。
障害当事者団体ベクトルズ 尾侍です。
「命をいただくということ」と題して「食と生命の連鎖」をテーマにコラム記事を執筆しました。近年散見される「ヴィーガン思想」に対しても私の個人的な意見を申します。

私たち人間は、日々の暮らしの中で多くの命をいただいて生きています。肉や魚、野菜や穀物――そのどれもが、かつては生きていた存在であり、それぞれの命がこの地球の中で役割を果たしながら存在していました。そして今、私たちの口に運ばれ、体の一部となり、生命をつなぐ力となってくれているのです。

スピリチュアリズムでは、人間は肉体だけの存在ではなく、霊体、そして魂を持った三層構造の存在であると考えます。この魂は永遠であり、肉体の死をもって終わるのではなく、成長と学びの旅を続けていく存在です。

そうした霊的な視点に立つと、「命を食べる」という行為もまた、単なる生理的な営みではなく、魂がこの地上での学びを続けていくための、神聖なプロセスの一部であると理解できるようになります。

命をいただくということは、「奪うこと」ではありません。むしろ、他の命の犠牲のうえに自分が存在するという現実に、謙虚さと感謝の心を持つことが、私たち魂の成長には欠かせないのだと感じています。命をいただくとは、生命の循環の中に自らを位置づけ、そのバトンを受け取り、次へと繋げていく行為なのです。

食事の時間に、ほんのひとときでも「ありがとう」「いただきます」という言葉を、心からの祈りとして捧げることができたなら、それは単なるマナーではなく、霊的な実践にもなり得ます。命あるものすべてが、この地球という霊的学校の中で、それぞれの役割を果たしている。だからこそ、私たちは食べるという日常の中にも、神聖な意識を宿すことができるのです。

私たちは命を食べて、生きています。これはとても自然なことです。けれど、自然であるからこそ、そこに感謝と敬意を忘れてはならない。命をいただくことは、私たち人間に与えられた責任であり、霊的な愛の実践でもあると私は思うのです。

近年、「動物を食べることは人間として愚かであり、植物しか口にすべきでない」とするヴィーガン思想を見聞きする機会があります。その志の高さや動物愛護の精神には敬意を抱きつつも、「動物はだめで植物なら良い」という考え方には、私は少し距離を感じてしまいます。

というのも、スピリチュアリズムの視点では、人間はもちろんのこと、動物も、魚も、植物も、それぞれに魂が宿っている存在であり、それぞれがこの世界での役割を持って生きていると考えるからです。

たしかに動物は鳴き声や目の動きなど、私たち人間に「心がある」ことを感じさせてくれます。一方で、植物には声がなく、動かないぶん、私たちには感情や意思が見えにくいのかもしれません。けれども、だからといって植物に心がないとは、私は思いません。植物もまた、環境に反応し、命を守るために様々な働きを行い、互いに調和しながらこの地上に存在しています。その姿には、霊的な意志が宿っているように私には感じられるのです。

命の尊さに優劣はありません。

人間も、動物も、植物も、すべてが魂を持つ存在であり、この地上での役割を担う仲間です。だからこそ私は、「どの命が良くて、どの命が劣る」という考え方ではなく、命そのものに対する感謝と敬意を大切にしていたいと思うのです。

どんな命も、たった一つとして「無意味」なものは存在していません。すべての命には、魂があり、使命があり、この世界の中で互いに支え合いながら生きています。食べるという行為は、そうした命のつながりを受け取り、自らの内に引き継ぐ神聖な営みなのだと、私は信じています。

だからこそ、今日もこうして生きていること、誰かの命をいただいて明日へ歩めることに、静かな感謝と敬意を捧げながら、私は一日を終えたいと思います。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
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