毒親・精神障害・生きづらさ:魂の視点から見る現代の課題 [2025年05月01日(Thu)]
こんばんは。
障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事 尾侍です。 「毒親・精神障害・生きづらさ」という社会問題をテーマに取り上げます。 "毒親"という言葉が、世間に定着して久しいです。過干渉、人格否定、無関心、支配。そのような親からの影響に苦しみ、いまも心の傷を抱えたまま生きている人が少なくありません。私自身もまた、そうした「親」という存在に心を乱されてきたひとりの当事者です。毒親に育てられた子どもが、大人になったからといって、自動的に回復できるわけではありません。 むしろ問題は、大人になった後に本格化してきます。社会に出れば「親のせいにするな」「いつまで過去を引きずっているんだ」と責められ、語る言葉さえ封じられていきます。その沈黙のなかで、精神のバランスを崩し、精神障害という“生きづらさ”を抱える人も多いのが現代社会です。 私たちはいま、ただでさえ厳しい社会の中で、さらに親からのダメージを引きずりながら生きなければならない状況に立たされています。これは単なる個人の問題ではなく、構造的な、社会全体の問題だと私は考えています。 魂の視点から見る「毒親」 スピリチュアリズムの視点から見ると、魂はこの世に生まれる前に「学びのテーマ」を選んでくるといいます。ならば、なぜ私たちは“毒親”という困難な環境を選んで生まれてきたのか?この問いに、簡単な答えはありません。しかし私は、魂が成熟していくためには「感情の痛み」や「自己否定を越えていく力」を学ぶ必要がある、と感じています。毒親との関係のなかで味わう理不尽や、壊されそうになる自己価値感。それを乗り越えるプロセスそのものが、魂の進化に関わっているのかもしれないと思います。 ただし、それは「だから我慢しろ」という話では決してありません。魂の学びと人権侵害は別問題です。苦しみを声にすることは、魂の成長と同じくらい、地上で生きる私たちにとって大切な営みです。 社会が生きづらさを再生産している 精神障害を抱える人々の中には、幼少期からの家庭環境に大きな原因がある人が多くいらっしゃいます。にも関わらず、福祉制度や医療の現場では「家庭の問題」は個人の問題として扱われがちなのです。さらに、社会の中にも無理解や偏見が根強く存在していることも事実です。「甘え」「逃げ」「弱さ」。そうしたレッテルによって、助けを求める声はかき消されてしまっています。 これは、個人が怠けているからではありません。社会そのものが「傷ついた人間」を受け止める想像力を失い、むしろ傷を深めてしまっているのだと私は感じています。 本当の癒しとは何か 私は、癒しとは「正しさを押しつけること」ではなく、「痛みの存在を認め、共にいること」だと思っています。 スピリチュアリズムでは、人と人は魂のレベルでつながっており、互いの学びのために出会うとされています。ならば、苦しんでいる誰かに寄り添うことは、その人の魂を支えると同時に、自分の魂も成長させる営みなのです。傷ついた人を癒す社会とは、優しさを“与える”社会だけに留まらず、優しさを“育て合う”社会だとも思います。 最後に 毒親という言葉の裏には、長い沈黙の歴史があるように思います。精神障害の陰には、見えない傷と涙があります。生きづらさの影には、社会の硬直と無関心があります。私たちはそれらを見つめ、語り、そして変えていく必要があると思うのです。 魂の成長と社会の変化は、決して矛盾しません。むしろそのふたつが重なるところにこそ、私たちが目指すべき「新しい共生社会」があるのではないでしょうか? 以上 障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事 尾侍酔助 https://x.com/welfare_samurai |