『ハンガリーで思ったこと』
白根大輔
5月22日から25日までハンガリーに行ってきた。目的は現地でとあるロマ女性の家を建てる建築プロジェクト(ワークキャンプ)に参加すること。ジュネーブの仕事のためたった3日間しか滞在できなかったが今後につながる経験、つなげたい出会い、そしてこれからいろいろやっていける、進めていこうと思う一歩が踏み出せたと思う。
ハンガリーでは近年極右政党の勢力が増し、同時に極右組織による「ロマ」の人をスケープゴート、ターゲットにした人種主義的扇動、暴力・迫害行為も増えている。2008年以降、現在まで把握できているものだけで計11の殺人、15の襲撃事件が報告されている。今年の3月初めには極右政党ジョビック(Jobbik)がブダペスト北東90キロにある村ジェンジェシュパタ(Gyöngyöspata)で反ロマ行進を行い、それに続き極右団体が3つの「自警団」なるものを形成した。この自警団がそれ以降、ロマの人々が住む村で「パトロール」を継続している。また4月のイースターをまたいで「防衛団」(Védero)という極右団体自警団がジェンジェシュパタで「訓練キャンプ」を組織し村には再び多くの極右の人々が集結した。これを通し村に住むロマの人々の間にも不安と緊張が高まり、一時ロマの女性と子どもたちは集団で村を避難した。その後4月26日には極右団体と現地のロマの人々の間の衝突も起きている。ハンガリー政府からはこのような一連の出来事にも関わらず、ロマの人々に対する差別や偏見、人種主義的暴力や迫害を止めるための具体的な施策は取られていないし、上記のような極右団体を効果的に取り締まる様子も未だ見られない。
ワークキャンプの背景になった事件はブダペストから南南東へ60キロほどいったところにある村で起きた。2009年2月23日、その村に住むロマ女性、イルディさん(仮名)の家を複数の人間が襲撃、彼らは家の水道の元栓を閉め、家の中で水が使えないようにした上で火炎瓶を投げ込んだ。燃え上がる家から外へ逃げ出したイルディさんの旦那さん、息子さん、娘さんらを襲撃者は更に銃で撃った。旦那さんと息子さんがなくなり、家は残骸のみとなり、イルディさんと娘さんが残された。2009年8月、イルディさん一家襲撃を含め1年半の間に合計9つの襲撃と6つの殺人に関与したとされる4人が逮捕された。訴訟は未だ継続中である。
ワークキャンプはこのイルディさんの両親が住む村にイルディさんと娘さんのための新たな家を建てるというもの。土地や資材購入等の必要な費用は主に現地のNGOやドイツシンティ・ロマ中央委員会(以下中央委員会)を通じた寄付でまかなわれ、現地でのコーディネートはプラリペ(Phralipe)というNGOによって行われた。ワークキャンプ中の実際の建築作業はイルディさんの両親と親せき、中央委員会とバウオーデン(Bauorden)というワークキャンプNGOからのボランティアで進められた。家を建てるプロジェクトと言ったが、今回はその第一段階、2週間の労働で家の基礎を作る。僕はジュネーブでの仕事の都合上最初の2日半しか参加ができず、途中で帰る形になったが、他のボランティアたちは6月3日まで現地に泊まり込み作業を続ける。5月22日にブダペストに計7人のボランティアが集合した。中央委員会からは僕がいつも連絡を取っているホイスさんが参加、ドイツから2人、ポルトガルから一人、ブルガリアから2人のボランティアが来ており、その日は全員プラリペのアグネスさんの家に泊まった。このグループに僕は最後に合流し、アグネスさんは「7人目の侍」が来たと迎えてくれた。
一日目、5月23日朝にみんなで村へ向かう。イルディさんと彼女の両親や親せきと現場で合流、簡単な自己紹介の後、早速仕事に取り掛かる、つもりだったが設計を担当した技師の到着が遅れており、まずはみんなで彼を待った。テニスコートよりちょっと大きいくらいの空き地には木製の簡易トイレ以外まだ何もない。20分ほどして技師が到着、作業にとりかかる。まずは設計図を基に家(まだ何も建っていないけれど)を取り囲む形で地面に杭を打っていく。その杭に今度は地面から10~20センチほどの高さに水平に細めの角材を打ち付ける。さらにそこに家の骨組みの構造にあわせ紐を張っていく。これらは大体1時間ほどで終了した。そこから一日目のメインワーク、家の基礎の溝掘りが始まった。骨組みの構造にあわせて張られた紐を目安に幅50センチ、深さ90センチから1メートル20センチの溝を掘る、日差しがとても強く風邪がまったく吹いていない日だったのですぐに汗だくになった。午後2時ころ簡単な昼食休憩、イルディさんのお父さんが鶏肉をあげたもの、酢漬け野菜、パプリカとパンを差し入れてくれみんなで分け合って食べる。ボランティアたちはドイツ語と英語、イルディさん一家はハンガリー語、現場監督のヤノシュさんはドイツ語を少し話す、アグネスさんは英語とハンガリー語。建築に関わる大事なところは何度も確認しながら通訳してもらう。それ以外はみんな身振り手振りを使って直接コミュニケーション。お互いの話している言葉はわからなくても一緒に作業をしたり休憩したり、飯を食べたりする中で互いの意思や言いたいことが通じ合う時がある。この日は午後5時半ころ作業を終えた。大体70%ほどの溝が掘り終わった。普段パソコンでばかり仕事をしている手には豆が出来てつぶれた。汗と土にまみれたままみんなで飲んだビールがとてもおいしかった。作業の後イルディさんのご両親の家でみんなで夕食をごちそうになる。ちょっとした予定変更があり、この日もブダペストのアグネスさん宅に泊まる。
二日目、その日の作業を早々から開始するため朝6時起床、ボランティア7人で前日に買っておいたもので軽めの朝食をとる。村に向かう準備が整え終わったところでアグネスさんから朝食の準備ができたと声がかかった。みんな「あれ?」と思いながら、まあいいか、という雰囲気で2度目の朝食をごちそうになる。朝からかなり腹いっぱいになった。朝食の後から出発までアグネスさんと彼女の活動について少し話をした。この日アグネスさんは作業現場に行かないためそこまで詳しく話をする時間がなかったが、あとでいろいろ資料をくれると言う。ただ草の根で活動をしてく中でなかなか英語でのドキュメンテーションが出来ないとも言っていた。政権が代わってからNGOにたいしての資金提供が激減したため財政もどんどん困難になっている。出発の時間になったためアグネスさんにありがとうを言い名刺交換をして村に向かう。現場について一人が声を上げた。何かと思ってみんなで見に行くと昨日掘った溝の側面一部分が幅2メートルほど陥落していた。文句を言ってももとに戻らないので、それぞれさっさと軍手をはめスコップを持って掘りなおしの作業に取り掛かった。1時ごろまででほぼ溝掘りが終了、みんなで気持ちよく昼休みに入る。今日もイルディさんのお父さんが家に招いてくれた。みんなでがつがつとご飯を食べ、食後は家の軒先で全員が横並びに座り食後の一服。午後現場に戻ると、また溝の側面が陥落、今度は同時に3か所崩れていた。作業を二手に分け、一組は溝の修復、もう一組はその溝にセメントを入れるときに一緒にはめ込む鉄筋作り。3時過ぎには溝彫りがほぼ終了したため、全員で鉄筋作りに入る。ここから作業は順調に進み5時前にはこの日のすべての工程が終了した。今日からは現場近くの小屋に泊まれるのでまずはそこに荷物を置いた後買い出しに行った。小屋の外の芝生の上でボランティア7人でパン、サラミ、チーズときゅうりとビールの夕食をとる。みんな疲れていたためか9時過ぎには就寝。4人が小屋の床に寝袋、2人は気持ちいいからとそのまま芝生の上で寝袋、もう一人は車の中で寝た。
三日目、この日は溝にセメントを流し込んでいく作業、ただセメントが10時ころに運ばれてくる予定のため、朝はボランティア7人ゆっくりと起き、ラーツケヴェのパン屋さんでパンとコーヒーを買いドナウ川沿いでピクニックのような朝食をとってから現場へ向かった。セメントが来るまでまだ時間があったため、前もって溝に石を入れていく。そこにイルディさんのいとこのユスフ(仮名)が遅れて到着、彼は昨晩お父さんになった。みんな子どもが生まれたお祝を言う。抱き合って喜びを分かち合う。そこにセメントが到着したので4組に分かれて作業をはじめた。小石を入れる班、鉄筋をはめ込んでいく班、セメントを流し込む班、流し込んだセメントを整えていく班。2台目のセメント車のセメントがなくなったところで午前中は作業終了した。お昼を再びイルディさんのご両親の家でごちそうになる。いつの間にかボランティアのみんなが「おいしい」と「ありがとう」をハンガリー語で言えるようになっていた。
昼食後現場に戻る。もう空港へ向かわなければならない時間になっていたので午後の作業が始まって30分がたったところで他のみんなに一人一人お別れを言った。名残惜しい。ちょうどブダペストで用事のあったホイスさんに空港まで車で送ってもらう。その中でこれから何をやるべきか、一緒に何ができるかちょこっと話した。自分はなにが出来るだろうと考えているうちになんだかあっという間に飛行機の時間が来ていつのまにかジュネーブに着いていた。ジュネーブの街はハンガリーに行く前と変わらずで、手に残った豆だけがつい数時間前までハンガリーの村にいたことを実感させてくれる。
全てがすぐにうまくいくわけでもない。むしろややこしいことも多い。それでもお金を出せる人が出す、諸々の手配をできる人がする、参加したい人が建築作業に従事する、それぞれがつながり自分のできることを通して貢献する。そして一軒の家が建つ。
家が一軒できたところでイルディさんたちの傷がいやされるわけでもないかもしれない。ハンガリーや他の国のロマの人々の状況が変わるわけでもないだろう。極右の人たちが暴力をやめるわけでもないし、差別がなくなるわけでもない。それでも建った家にはこれからイルディさんと娘さんが住むことができる。そこから次の一歩を踏み出していくことができる。またワークキャンプを通して人が出会った。ここで出会った人たちがこれからつながり更なる家を建てていくことができる。その家から更に多くの次の一歩が踏み出されるかもしれない。
今回僕がハンガリーに行って何か大きな変化が生まれたわけではないけれど、イルディさんの家の基礎作りには自分が掘った穴の分だけ貢献できたと思う。問題は大きくて複雑かもしれない、自分ひとりが何かをしたところで何も変わらないと思う時もある。でも自分にできることがある、自分にできなくとも彼や彼女にできることがある、一人では無理でもみんなで出来ることがある。それぞれの一歩一歩が小さくとも、それがつながったらいつか大きな道になるんじゃないかと思っている。小さな変化がつながったらどでかい変化が生まれるんじゃなかろうか。時間はかかるかもしれないけれどそんな小さな一つ一つをつなげるため、今自分にできることを一個一個精一杯やっていきたいと思う。
6月5日にまたハンガリーに行く。中央委員会とIMADRの共同でジェンジェシュパタの件について村とブダペストで調査をする。これに合わせ可能な限りロマ人々の住む村を訪れその個人個人と会う予定だ。現在ホイスさんとアグネスさんと調整中だがラーツケヴェにもまた行く。そのころまでには家の壁が出来上がっているはずだ。