5月16日〜19日まで、県大生が復興支援のため、被災地へボランティア活動に行ってきました。
以下の内容は、その中の一人がくれたメールです。
私は、このメールを読んで返信できなくて、ただ涙するだけでした。
被災地へ行かなくともできる支援はたくさんある。
それを考えながら、出来ることを1つずつやって行こうと思います。
たくさんの人に読んで貰いたくて、転記することにしました。
長いですが、読んでみてください。
被災地の現状
石巻市渡波地区
東日本大震災から2ヶ月余りが過ぎた今でもまだまだ津波の爪痕は大きく、車は部屋の2階に突っ込んでいたり家の中にはがれきのじゅうたん、海水や汚水などあらゆるものの腐敗臭、行き場所を探す廃棄物、臭い、ほこりなどでいるだけで体調を崩しそうなほど…
マイナスからのスタートを余儀なくされている人たちが大勢いた
まだまだ被災地の支援はまったく足りない
時間とともにみんなの頭の中で津波は過去のものになる、だけどまだまだまちのスタートは全然先
一日目のお宅、遠藤さん宅の作業中どこからか流れついたかわからない、ふたの空いてないビールの缶があった
泥にまみれ、決して飲む気になるようなものではなかった、しかし、遠藤さんは『それは貴重なものだからとっておいて飲みます』と言われた
簡単に捨てようとした自分、これくらい新しいものを買われるだろうと考えた自分
なんて愚かな自分なんだとすごく自分に腹が立った
生命線はギリギリのところまできている
たくさんの思い出の詰まったものより、少しでも命をつなげるものを優先して確保する姿
思い出しただけで涙ぐむ
遠藤さん宅の学校から帰ってきた子どもたち、ポケモンや自分の大切にしていた宝ものが捨てられているのをみてただ呆然としていた
必至になだめるお母さん
僕はただ『ごめんね』ということしかできなかった…
被災地での辛い想いの中にも小さな光を見た。遠藤さん宅の近所に住む子どもはガラスや釘など危険なものがたくさん転がっているなかで、自転車で遊んでいた、家のなくなった更地の場所に自分で公園をつくるんだと目を輝かせていた。
子どもたちは自分たちで自分たちの遊び場を取り戻そうとしていた
どうか、子どもたちの希望の光が途絶えないうちにいち早く復興に向かってほしいと心から願った。
最終日の活動
今日の作業は本当に心も体もきつかった
アパート一階部分の家具や瓦礫の撤去に加え水産加工場に近いということもあり、腐敗した魚の山々、そこにたかる無数のうじむし、今でも光景も臭いも体に染み付いて離れません。
後になってわかったことだが、そんな光景や悪臭が広がるアパートの無傷だった2階には今でも避難場所では眠れないからということで生活をしている人がいた。
少しの光景、少しの臭いで吐き気が止まらない、『もう無理』と何千回呟いただろう
早く帰りたい、早くお風呂に入りたい、もう投げだしたい…
私たちは今から帰ります。しかし、現地の人はこの先もそこに残りつづけなければならない。そんな現実を考えると自分の小ささ、自分の弱さ、惨めさが本当によくわかった。
県大生の西岡くんと坂本くんがアパートの大家さんから聞いた話をお伝えします。
「この話しをみんなに伝えなければならない。」「そして、伝えなければ、守れる命も守れない。」
この話しをしていただいた方の言葉だ。
その方の話しによると、地震発生当初、アパートの前の細い道には津波によって押し流されたた重機等が横倒しにされていた。なので、その間を縫うように歩いていたという。また自衛隊や消防隊もしばらくは来なかったため、がれきの撤去などの復旧作業は難航したそうだ。
町にはその加工場から流されたマグロなどの魚もそうであるが、人間の遺体もあらゆる場所に転がっていた。しかし、自衛隊などの支援の手はなかなか来なかった。住民たちは自ら担架を作り、遺体を運んだという。
当然ライフラインは寸断されていたため、泥で汚れた遺体の顔を水で洗ってあげることも出来ず、近くに落ちていた毛布などの布でふき、道の横の空いたスペースや空き地に並べていた。
震災直後、車で高台に非難しようとした住民たちが列を作り、そこに津波が押し寄せた。車を捨てその足で逃げたのならば、助かった命もあったはずだ。
しかし、捨てることが出来なかった人もいた。それは車を捨てるという決断の出来なかった人、体になんらかの障がいを背負った人、小さな子どもと一緒にいた親子、妊婦、ご老人。そういった人たちが飲み込まれていった。
そこに広がる光景は地獄だったと言う。
しかし、そんななかでも生き残った人たちがいる。そして、自ら立ち上がろうと、強く生きようとしている人たちがいた。
また今回の話しをして頂いた方は今後、自分のすべき活動を見越していた。
それが始めの言葉だ。
僕たちはそんな人たちの活動を支援していかなければならない。そして自分たちも伝えなければならない。そしてみんなで支えていかなければならない。
遠く離れた島根からでも行える支援は必ずある。
またそのビジョンも多少はつかむことも出来た。
最後に、震災という過去をみんなで共に乗り越えようと、そして未来を切り開こうとしている人たちの姿はまぶしく僕には写った。
今はこの臭いが消えないうちに、この大震災と自分が本当に向き合える手段を模索したい
私たちにできること それは
島根を愛し 浜田を愛し 家族を愛し 全てのものに愛を持って接することです
自分が今いる環境に誇りを持って愛を持って生活しよう!
なんとなく生きるのはやめよう
感謝の心を持って
『ありがとう』
どうかいつまでもみんなの心に大地震が起きたこと、大津波が起きたこと、被災地の人はまだまだ苦しんでいること、東日本大震災の全てを想う気持ちが残りますように。
くまのコメントです
最後のほうは自分の感想も少し入っています。
今日の方の話を聞いて記憶が新鮮の内に書きました。
実際、今日の作業した場所などはまだ十分の一ほど被害だった。
震災当時で、石巻市渡波の今日の活動場所では、近くに、魚の加工工場があったため、いろんな魚が流れてきて、最初は海から流れてきたと思ったが後に加工工場が破壊されて流れてきたことを知る
391号では死体がたくさん並んでいて、高台に逃げる人々も列になっていたため、津波に襲われ、悲惨な死に方をした人も多く、車で逃げようとした人なども、逃げれず、二十歳くらいの人も死んでいた。
自衛隊からの応援も遅く、生き残った人々たちで担架をつくり、死体を空地や広場へ運び、自分たちで飲む水もなく雑巾で顔を拭き、流れてきた毛布を被せたという
本当に地獄絵図だったという。
震災発生当時から支援物資の不足、家屋全壊、半壊、生き残った人たち同士の衝突や治安悪化、報道規制、様々な問題や困難と戦い続けています。 もう2ヶ月以上になるのだが道路脇は瓦礫の山、自宅避難民の食料不足などの問題もあり、まだまだやらなきゃならない問題が山ほどあります。