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2014年10月08日

避難所リーダーインタビューNo.1 石巻高校 避難所リーダー 松村善行さん

ヒアリング先:
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(特活)石巻スポーツ振興サポートセンター 代表理事 松村善行 さん
スポーツ用品店を経営する傍ら、子どもたちの著しい体力低下に危機感を持ち、地域ぐるみで子どもたちがスポーツをできる環境づくりやプログラムを行ってきた。震災後、およそ600名が避難していた石巻高校の避難所リーダーを務め、避難所ネットワーク会議を主宰。  
URL: http://www.i-support.or.jp/


Q.どういった経緯で、避難所のリーダーになったのですか?

3月11日に発災し、北上川沿い近くにあった私が経営するスポーツ用品店で被災しました。1階部分は津波が入ってきて、2階で避難生活を送りました。3月14日に避難所となっていた石巻高校に行きました。

知っている方々がたくさんいて安心しましたが、皆さん、茫然自失の状態でした。暗い所で、ぼ〜っとしているような感じでした。惨状を見て1年ぐらい避難所生活が続くかもしれないと覚悟しました。そこで、みなさんが避難所生活を気持ちよく過ごすために環境づくりをしないといけないと思い、避難所リーダーになるにふさわしい方に声をかけましたが、自身の家の片付け等に追われているようでした。行政職員の担当も1人いたのですが、非常に疲れている様子でしたし、行政職員の立場で言うと市民が反論され進まないこともあるので、市民が運営するほうがよいかなと思っていました。

避難所生活2日目にこのままではダメだと思い、こういう状態がしばらく続くと覚悟しましょうと呼びかけ、自分が避難所リーダーやっていいか?みんなで班分け等しませんか?と提案しました。そんなに反応はなかったですが、反対する声もあがらなかったので、避難所運営をすることになりました。

当時、避難者の方々は武道館・トレーニングルーム・同窓会館の3箇所に分かれていました。1箇所は私が担当していたので、残りの2箇所を他の方に同様に管理しませんかと提案をしました。各箇所で責任者を決め、大勢が避難しているスペースで区画ごとに班分けし、班長と副班長決め、組織化していきました。また、毎朝8時半〜10時まで学校の玄関付近でミーティングを実施しました。責任者は原則参加とし、それ以外に各箇所から4名程度参加していただきました。毎日実施し、7月中旬まで行いました。ミーティングでは物資の配布や状況の把握、市役所や学校側との調整等をしていました。例えば車が非常に多くなり駐車場内での交通誘導が必要なのでなんとかならないかと学校側から要望があり、避難生活を送っている方々で2時間毎に交代しながら、交通誘導をしました。その他にもトイレの水汲みや食事や物資の配布等しました。苦労はほとんどなかったですが、トイレの問題が一番大変でしたね。トイレットペーパーは流せないので、トイレ脇にゴミ箱を設置し、そこに捨てるようルールを徹底しました。学校は5月に再開しましたが、8月まで避難されている方々がいました。私自身もおぼんまでいました。


Q.避難所運営が順調にいったのは何故でしょうか?

知り合いが多かったので順調にいけました。同世代の方が多く戦後の苦労を知っているので協力してくれたように思います。炊き出しやイベントの受入もしており、役割分担を決めたので学校への調整等もすんなりといきました。


Q特に大変だったのはいつでしたか?

震災後2週間の夜が大変でした。うなされている方が多かったです。津波や火事が襲ってくる様子を目の当たりにしていた方々が夢で見てうなされていたのだと思います。私の娘も奇声を発することもありました。大部屋での生活だったので不安な思いをしながら、たくさんの方が不安な生活を送っていたのだと思います。他にも夜中に徘徊していた方もいて、2名が行方不明になりましたし、夜中に寝ている人を起こして暴れて回る人もいたりしました。精神的な疾患があったのかもしれません。言ったことを覚えていなくて、昼間寝ている人でした。ただみなさん我慢して決して追いだそうとはしませんでした。

ごく一部の30代の若い親の方々と揉めたことが何度かありました。水汲みや駐車場の誘導を交代制で行っていました。20人近くいる班で交代していくのですが、肉体労働をできないお年寄りが多かったので、若い方に回る番が多くなってしまっていました。若い方々からするとそれは平等ではないと。でも私からすると、お年寄りやお子さん等出来ない人がいるのだからできるひとがやらなければいけないし、それが平等ではないかと思うんです。誰にでも同じことをできるわけではないと考えています。なかなか解決には至らず、最終的に2組は違う避難所に行かれました。確かにしんどいのはわかるんです。お風呂も着替えも十分に無かった時ですから。何が平等なのか世代間の価値観の違いを感じました。


Q障碍者・子ども・外国人・妊婦等の特別なニーズを持つ方々は、いかがでしたか。

石巻高校は子どもは少なかったと思います。フィリピン人の方もいましたが、日本語を話すことができました。我慢をされていた面もあると思いますが、日本人の方と同等に対応していました。障害を持った方もいましたが親が面倒を見ていたので特に問題にはなっていませんでした。親御さんが面倒を見られるように、駐車場誘導等の当番を外すなどの工夫をしていました。石巻高校で避難されていた方が、みんなで弱い方々の面倒みていたような印象を持ちます。

Q避難所ネットワーク会議を主宰されていたと思いますが、ネットワーク会議を始めようとしたのは何故ですか?

物資の過不足や避難所の現状の情報交換や役所に対する要望を行うため、避難所運営者らが集まるネットワーク会議をスタートさせました。知り合いの校長の会議室を借り、市役所経由で他の避難所に呼びかけました。3月下旬の電気も来ていないときに、第1回目を行いました。7ヶ所の避難所の代表者が集まりました。1周間に1回集まり、6月まで会議を行っていました。多い時には20箇所程度の避難所が参加していたと思います。避難所のリーダーが避難所ネットワーク会議で色々話すことで少しは安心するし、自分たちよりひどいところがあることがわかれば自分もがんばろうと思えたようでした。

また、ネットワーク会議を開いたもう一つの目的は学校を早く再開させなければいけないということを、避難所リーダーに理解していただきたかったこともあります。今回の被害の規模はあまりにも大きく、10年、20年以上かかると思いました。私たちの世代だけで復興することはできないので、復興を実現する世代の子どもたちが早く学校に行って勉強を再開し、子どもたちに将来頑張ってほしいと思っていました。

一回避難してそこに安心してしまうと人はなかなか動こうとしません。今の仮設住宅と似ている面があります。避難所となっていたとある学校では、震災直後は1つの教室に20人〜30人で生活していましたが、4月下旬には5〜6人に減っていました。各教室に避難されている方々を集約し学校を早く再開させたいと思っていましたが、動きたがりませんでした。避難所ネットワーク会議では学校を早く再開させるためにどうするかを促すようにしようとしていました。

そういえば避難所ネットワーク会議の頃から、つなプロのスタッフが会議に参加しだしましたね。会議の書記をしていただいたり、自転車や扇風機、掃除機、食料等支援物資のお話をいただき大変助かりました。


Q.これから避難所リーダーになる可能性がある方々に一言お願いします。

勇気を持って避難所リーダーをやってほしいです。誰かにやってもらうとかじゃなくて。行政が言うと反発することも多いです。裏で行政とやりつつ、市民が主体的にやったほうがいいと思います。避難所では一年くらいいるかもしれないと常々いっていました。みんなで楽しく暮らせる仕組みを作りましょうと主張しました。1〜2週間で避難所がなくなるなら役所の言うとおりでいいと思いますが、長期間になるのであれば仕組みづくりは大切です。震災直後は大変寒かったです。灯油が不足していました。私は朝5時頃に起きてストーブに火をつけて回り8時には消しました。使う時間を決めましたが、文句言う人はいませんでした。一方で、不足している物を何でも役所に要望しようとする人もいましたが、自分たちでできることをまず考えようとすることが大切だと思います。網戸を設置してほしいと求めるだけではなく、お金をだし合いホームセンターで網だけ買い、入り口に貼付ければお手製の網戸を作ることができます。

次に災害が起きた時、世代間の考え方や価値観の違いが障害になるかもしれません。自分だけではなくお年寄りや弱い方々に配慮できるようにならないといけません。周囲に対する思いやりを持つ心。次世代の教育がとても重要だと思います。



聞き手:(特活)石巻復興支援ネットワーク 渡部慶太
posted by 前川 at 20:43| Comment(0) | TrackBack(0) | インタビュー
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