10月1日、娘さんとお孫さんに伴われ、Sさんが来られた。病院を退院した足でともの家に来られ、
あいさつをすると
、「ついにやってきました」とお返事。
二匹の犬を見て
「うちのムクより美人じゃなあ」と笑われた。
中へ入ると、柱を見て「これはヒノキかな」と言われ、触ってみて、
後から「やっぱりあれはヒノキじゃないな。ヒノキだったら上のほうに節がある」と
考え直しておられた。97歳、年を感じさせない思考力だった。
窓から外を眺められ、「ほー眺めがいいなあ。ここは静かで落ち着いとる、なかなか家庭的な」と感想を言われ、「畳の部屋があるの」と喜ばれた。
部屋から見えるお大師さんに「おーっ石手寺の真ん前じゃ」と言われた。
歓迎会を兼ねた食事会で、自己紹介していただくと
「誕生日までに退院できれば、と思っていたのですがかなわず残念でした。
これを機会に2,3分お話しできればと思います…」と始められ、
滔々と御自分に就いて述べられ、
「…とまあ、私はこういうアウトラインをもっておりますが、詳しいことは追々
わかってくると思います。皆さんのご紹介もいただければと思います。
このような若い方がお世話くださりありがたいことです」
と締めくくられた。
赤飯、煮魚、果物、煮もの、きれいにお箸で召し上がった。
その後、歩行器を使い、何ヶ月振りかに御自分の足で部屋まで歩かれた。
翌日、外気浴に出られ、穏やかに皆さんと会話され、
「せっかく外へ来たんだから…」と、外の風景を楽しまれていた。
夜は箪笥をごそごそとされ、ほとんど眠られない様子。
聞けばノートを探されているとか。
夜勤者にあんた名前は、と尋ねられ記録しておられた。
日曜日には、お風呂にも入った。とくに問題もなく
気持ちよく入浴されたという。
月曜、容体が急変した。朝、挨拶に伺うとゼロゼロと痰が絡みつらそうな様子で、
「痰を取ってくれ、早く早く!!」とそれまでとがらりと変わった
切迫した口調でまくしたてられた。
私は驚き、すぐに看護師を呼んできた。
吸痰機を使って、痰をとると薄緑色の喀痰が多量に取れた。
サーキュレーションで酸素濃度を測った看護師の顔が曇った。
「努力呼吸になっている」と私はこっそり告げられた。
主治医に連絡し、訪問看護が来られた。
酸素濃度は70を切っており、医師の判断で入院の措置が取られた。
救急車で運ばれる間にも、「どこの病院(へ行くのか)」と尋ねられ、
意思がしっかりとされていた。
「ともの家に帰りたい、と父が言うのです」お二人の娘さんが相談に来られた。
「ドクターは、これ以上良くなることはない、
連れて帰るならターミナルを見据えなければというのです。
家庭的な雰囲気の中で最期を送りたい、というのが
父の希望なので、私たちはかなえてやりたいのですが、
こちらにご迷惑をおかけするだろうし、どうしたらよいでしょうか」
お話を伺い、私とホーム長は“できるだけのことはしたい”とお答えした。
まだ経験も浅く、未熟なチームではあるが、医療技術を学びつつ、
スタッフ全員で努力させていただきたい、と。
その晩、御家族とスタッフ全員とのケアカンファレンスが開かれた。
これまでの経緯を告げ、スタッフ各人の意見を聞くと、
皆「不安はあるが精一杯頑張りたい」とのことだった。
そして帰ってきたSさんの、ターミナルの日々が始まった。
すぐに在宅酸素を設置、訪問看護と連携をとりつつケアがなされた。
スタッフはサーキュレーションと吸痰機の使い方を練習した。
御家族は毎日訪問され、長い間枕元で過ごされた。
Sさんは顔色が悪く、お疲れの様子だったが、
私の子どもを見て「昨日はどこにおったの」とにっこりしてくださった。
子どもの手を握る指に、かすかながら力が宿っていた。
御家族の持ってこられたお酒をお匙でなめられると目がしっかりと開き、
「おまえらも飲め」と娘さんに勧められた。
「何か食べたい」と食欲が戻り、高野豆腐と焼き肉を、ひと匙ずつ召し上がった。
ターミナルの指針として、私たちは
“ご本人の希望をできるだけかなえる”
“心地よさの提供”“御家族が主、スタッフはできない部分のお手伝い”ということを確認した。
看取りの場所がここであるというだけで、やはり最後は御家族が
主体となり、見守るべきだと思ったからだ。それがSさんの望みだとも思う。
夜勤者はかなり不安だったと思う。だが、予想に反してSさんは
特に夜中は、「本当にターミナル?」と思われるほどお元気だった。
酸素マスクを「こんなもんずっとつけとったら死んでしまいます」と
すぐ外されるので弱った。外されると途端に呼吸が苦しくなり、
つけて苦しさが和らぐとまたすぐ外して、のいたちごっこだったが、辛抱強く付き合った。
退院して6日目。
その日は朝から何も口に入れられず、娘さんが持ってこられた
刺身もビールも「もういらん」と口をあけられなかった。
「元気になってくださいね」「(うん、とうなずく)」
「頑張ってください」「(うん)」
「折角ここに来られたのだから、いい思い出をたくさん作りましょう」「(うん)」。
手を握るが力がなく、ぶるぶる、と震えている。つらかった。
朝からずっと付き添われている娘さんもお辛かったのではないか、と思う。
口からはいる分しか食べない、点滴や延命措置はしない、と確認していたが、
食べることが生命力につながることをひしひしと思った。
その日の夕方、覗くたび休まれてばかりだったのが、
目を開けて足を下ろそうとされていた。
「何か召し上がりますか」「食べる」といわれ、夕食のできたものから
おもちした。「ビール飲まれますか」「ビール?飲む!」と目を輝かされ、
美味しそうに2,3口飲まれ、御自分でテレビをつけられた。
煮魚3,4口、梅がゆ4分の1。厚揚げ3切れほどで「もういい」。
「あんたおってや」と言われ、しばらく一緒に過ごさせていただいた。
「お大師さんのところに、夕日が沈んでいますよ」「ああ本当じゃ。今何時?夕かな」
カーテンを開け、ガラス戸もあけてくれ、とじーっと15分ほどともに
暮れゆく空を眺めた。「もうええ、閉めて」満足そうにSさんは言われた。
ニュース番組を一緒に見て、「怖いねえ」と話し、アイドルが出ていると
「これはあなた?デビューしたの」と冗談を言われにやっと笑われた。
1時間ほど過ごし、ベッドに移ったのを見てから私は帰った。
それが、Sさんと過ごした最後の時間になった。
深夜、体調が急変したと電話を受けて、駆けつけた時には
すでに息をしておられなかった。お綺麗な顔で、眠っているとばかり思っていたので
手を取って脈が探れないときには動転してしまった。
1時間前まで夜勤者の手を握り、「私は明日何したらいいのか」と長々と話されていたらしい。
「あんた今日は宿直かね、家は近いんかね」と心配してくださり、「早く元気になってくださいね」と声をかけると「あんた私は97やし、元気いうてもな」と笑っていたそうだ。
風のように訪れ、去って行かれたSさん。数えるに足る思い出さえ一緒に作ることができなかった。
もっと色々なところに出かけ、楽しいことをしたかった。
暮れゆく秋には冴えわたる月を見ながら一杯やり、
干し柿を作って年を越したらおせち料理に舌鼓をうち、
春になったら咲き誇る桜を眺めたかった。
それでも、私の胸にSさんは強烈な影を残して輝いている。
初めて会ったときから私を打ったのは、Sさんからあふれる「品格」とでもいうものだった。
病院のベッドに横たわりながらも、Sさんは御自分の信念を失われていなかった。
Sさんの望まれることは、ただ自分らしくありたいという、人間なら当然の欲求だと思う。
最後の場所に選んでいただけたことを、その幸運な出会いを私は感謝せずにおられない。
病苦にさいなまれながらも、人を気遣ってくださったSさん。
余裕とユーモアを忘れなかったSさん。理知的で優しく、温厚なSさん。
挙動の端々に、往年の人柄がしのばれた。
もっと、と貪欲なことは言うまい。去り際がその方の生きざまだと聞いたことがある。
私たちに温かな気持ちを置いて一陣の風のように去って行ったSさん、苦しみなく浄土へ向かわれただろう。
小規模多機能居宅介護で看取りをできたことが、チームにとってよい経験になった。
亡くなられて10日後、御家族に参加いただいてささやかながらケアを振り返る「Sさんをしのぶ会」をもった。これからも、この御縁が続くとよいと思う。
私たちのしていることは「高齢者介護」であるが、ただそれだけではないと思う。
人と人との触れ合いは、「仕事」が終われば途切れるというものではない。
仕事を離れてもその人のことを考え、会いたければやってくるし心配なら様子を見にいく。
それは「仕事」という狭いくくりではとらえられない。お年寄りから様々なことを教えられ成長していく。日々人生勉強だな、と感じている。
どうか、Sさん、遠い空から私たちを見守っていてくださいね。