暑中お見舞い申し上げます気がつけば、7月を通り越して8の月に突入していました。
更新できなかったこの一か月、忙しくてほとんど記憶がありません
文月だというのに、文の一本も書くことままなりませんでした。
実は、
7月より井谷医院の跡地をお借りしてできた
“小規模多機能ホーム 第二ともの家”の管理者に就任しました。
(このネーミング、仮称のまま見切り発車され、最初は
「え〜、そりゃないでしょ!第一はどこなの」と思っていましたが、
現在は慣れてしまって「ハイ第二ともの家です」と、「本家(第一ともの家)」
に対する「分家」のような気楽さで使っています)
この
“第二ともの家”、もともと医院を改修したもの。
内側は、
天然木材の床に漆喰の壁、“和風”を狙って
居室のドアは障子風にしつらえ畳の部屋も作りました。
(全面さえぎってしまう木のドアより、天然の光が入り
音も聞こえる紙のほうが優しい感じがする、という理由です)
元・レントゲン室は窓がなくて暗かったため、天窓をつけると
ぐっと明るくなり、受付と診察だった場所は台所に変わって、
台所から南のウッドデッキに出られるようになりました。
が、
外側は井谷内科のままなので、時折患者さんが
間違えて入ってこられます。
そのついでに「えー、えらい変わったねえ」と見学していかれたり、
「まだ病院を続けてくれればよかったのに…」とお茶を飲みつつ
愚痴をこぼしていかれたりします。
「お寺から始まった…」ではなく
、「病院から始まった」小規模多機能です。
さて、実はこの第二ともの家、
岩崎ともの家のリメイクなのです。
ともの家はここから始まった、ともいえる、
先年103歳でなくなられたM・Kさんの自宅。
その後、遺族の手により売却され、ついに取り壊しが決まりました。
ホーム長はご遺族に、要らないものは寄付していただきたい、と頼みました。
そして
M・Kさんの遺品が、水屋や本棚、日常使っていた茶碗やコースター、壷、掛け軸や座布団にいたるまですべて運び出されました。
この気の遠くなる作業は、休みの日にホーム長と理事長の2人によって
こつこつと勧められていたのです。
ホーム長の中には、M,Kさんの思い出を土にうずめてしまいたくはない、という
気持ちがあったに違いありません。
明治生まれのM/Kさんの使っていたものは、今では歴史資料館に収められ
そうなものばかり。それが、第二ともの家へやってきて、再び日の目を見ることになりました。
幸いにして、
北海道からスーパーバイザー・横山紘子氏が応援に駆けつけてくださり、
飾りつけや家具の配置をてがけてくださいました。
そのセンスにより、内部は落ち着いた“和”の装いと、立ち止まって懐古できるたくさんの仕掛けを得ることになりました。
飾り棚の上には、昭和を思わせる黒電話、ゲートル、が飾られています。
その上の理念は、利用者第一号のTさんが書いてくださいました。
(Tさんの今は亡きご主人も、理念を書いてくださって「溝辺」「この道」にそれぞれ掲げられています)
五つダマのそろばん、和裁用のものさし、M.Kさんがはぎれで作ったはたきなども
壁面を飾ります。
歩きながら、ここで歩を停めて、「そろばんの授業がありましたか」「ゲートルってどうやって
使うのですか」と尋ねたり、一休みして理念を読んだりします。
和室には、K.Mさんの家の家宝であった掛け軸と床の間。
それにKMさんの着物が掛けられています。
古いものと新しいもの、和と洋が溶け合って、ひとつの調和を作ります。
暗い家の中でひっそり眠っていた家具たちが、新しい場所で命を与えられ生きている
のを見て、「木は死なない」というのは本当なのだと実感しました。
まるで呼吸をしているようです。
ここに、いろいろな方が訪れてくださいます。
元・溝辺ともの家の管理者だったSさんは利用者のMさん、Tさんを昔から知っており、
お花を持って紙芝居を読みにきてくださいました。
やはりなくなられたKさんのご家族も、食器や延長コードなど、たくさん寄付してくださいました。
井谷先生は時折「困ったことないかな」と覗いてくださるし、
アンジュールやこの道、溝辺、第一のスタッフも休みの日に見に来てくれたり遊びに来てくれたりして心嬉しいものです。
私は、何よりここにいると心落ち着きます。
K/Mさんをはじめ、多くのお年寄りに囲まれているような安らぎを得るのです。
ひとつひとつの思い出を数え、その裏に脈々と流れるともの家の歴史にまで心をはせます。
「生きて、生かされている」
そんな謙虚さを忘れずに、いま、この場所で命を大事にしながらお年寄りとともに生きて生きたいと思います。
どうか皆様、一度足をお運びください。お待ちしております