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あかし情報誌グループとまとPRESS
誰もがいきいきと生きていくことのできる社会をめざした男女共同参画社会の実現に向けて情報を発信していきます。
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最新記事
兵庫県明石市の情報を発信します。
図書情報(本の紹介)を発信します[2019年05月12日(Sun)]
2012年から2017年にかけて企画編集をしてきた「図書情報紙Dog Ear」を発信していきます。
男女共同参画関連の本の紹介をあかし男女共同参画センターがオープンした時から指定管理になるまでの15年間、1号から60号までを作成してきました。
紙媒体から電子発信へと変革し、必要な人に情報が届くことを願って本の情報を届けます。

※Dog Earとは、本や雑誌など気に入ったページや大切に思ったページの耳を折ることをいいます。あなたの心のページにたくさんのDog Earが作れることを願っています。
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明石ちぢみのお菊〜ちぢみ織りの発案者〜[2008年09月26日(Fri)]

明石ちぢみとは、縦に生糸、横に強い練糸を使って縮ませた高級な薄織物で、夏の婦人和服地などに用いられました。
明石藩主が小笠原忠真だったころ、茶園場に織物工場がありました。
そこで働いていたのがお菊です。

カンナくずから明石ちぢみ


お菊の父親は船大工で、いつも作業場でカンナくずをまき散らしていました。
その薄くちぢれた木くずを見たお菊は「こんな織物ができないものか」と思いました。
試行錯誤の末、とうとう絹糸を縦糸に、強く練った木綿糸を横糸にして練り上げた布ができました。
それはまるで薄く削ったカンナくずのように美しくちぢれていました。

「明石ちぢみ」と名付けられたお菊の織物は大評判になりました。
寛永9年(1632年)に小笠原忠真が国替えとなって九州小倉へ移るとき、お菊も九州に渡ったため、ちぢり織りの技術は小倉で受け継がれたということです。

もうひとつの明石ちぢみ

17世紀ごろ明石城主・松平信之の家来、堀将俊(明石次郎)が、雪の中に糸を埋めてから織り上げるちぢみ織りを完成させました。
明石ではあまり雪が降らないので、次郎は家族とともに新潟の小千谷へ移り住み、ちぢみ織りを伝えていきました。
小千谷では、次郎は『明石様』と呼ばれ。ちぢみ織りとともに神社に祭られているそうです。

残念ながら、現在、明石では明石ちぢみは生産されていませんが、お菊が始めた明石ちぢみは、遠くの地で、今も受け継がれています。
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小式部内侍〜プレイガールは母ゆずり〜[2008年09月25日(Thu)]

情熱の女性歌人としてその名も高い和泉式部。
彼女の最初の夫は、和泉守道貞という県知事クラスのオジサマでした。
二人の結婚生活は和泉式部の相次ぐ恋愛沙汰によって破たんをきたしましたが、この二人の間に生まれた娘が小式部内侍です。


佳人薄命のひと

 大江山いくのの道の遠ければ
 まだふみもみず天の橋立


という歌が百人一首に残っていますが、このとき、小式部は若干12〜13歳。
即興で詠んだにもかかわらず、見事な出来で周囲の大人たちを驚かせました。

また、恋愛遍歴のほうも母に劣らず華やかなものでした。
藤原道長の息子たちとも浮き名を流しました。
その一人、藤原教通との間には静円という子どもを産んでいます。
また、万寿2年(1025年)には、藤原公成の子どもを出産しましたが、それが原因で20代の若さでこの世を去りました。

小式部祈りの松

魚住町に小式部ゆかりの史跡が残っています。
その史跡にまつわるお話です。

小式部の歌の才能を見込んだ天皇は、御所にある枯れそうな松を歌で蘇らせて欲しいと命じました。
小式部が祝い歌を詠むと、不思議なことに松は元気を取り戻し、緑の色濃い松に蘇ったそうです。

小式部に先立たれた母の和泉式部は、せめて菩提を弔おうと姫路の書写山を訪ねました。
その帰り道、魚住の長坂寺を訪れた和泉式部は同寺の寂心上人から法華経を詠むことを勧められました。
一心に法華経を詠んでいると、立ちのぼる香煙の中から小式部の姿が現れました。

和泉式部は、京に帰ってこのことを天皇に申し上げ、小式部の歌で蘇った御所の松を魚住の長坂寺山に移し植えました。
村人たちは「小式部祈りの松」と呼んで大切にした、ということです。


※魚住町錦が丘には、寂心上人が小式部の供養のために建てた五輪石塔があります。
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明石の上 光源氏の愛した女[2008年09月22日(Mon)]

都から須磨に流されてきた光源氏は、明石入道のすすめで明石に移り住みます。そこで、入道の娘”明石の上”と出会いました。

源氏物語のヒロイン

明石の上は上品で聡明な女性でした。
二人は愛し合うようになり、幸せな日々を過ごしていました。
その一方で、明石の上は自分の身分が低いことや、光源氏には都に紫の上という愛する人がいるということで、いつかは別れがくるのではないかと思い悩んでいました。

光源氏が明石に来て、3年後のある日、都からの知らせで京に帰ってしまいました。
翌年3月、明石の上は姫君を出産しました。そして、都に帰った光源氏から京に来るようにと勧められます。
最初は躊躇していた明石の上も姫君のために京へ行くことを決心しました。

京の嵯峨で、平穏で幸せな日々がしばらく続きましたが、姫君の将来を考えて涙ながらに紫の上に姫君を託します。

そして、その後、紫の上のとりはからいにより、明石の上は姫君おつきの女房となり、幸せな日々を過ごしました。

源氏ゆかりの史跡


作者、紫式部は、明石の地を訪れずに「明石の巻」を書き上げたと言われています。
伝聞などをもとに、明石のゆびほかなる地というイメージを作り上げていったのでしょうか。
平安人にとって明石は、畿内のはて、はるか遠くの憧れの地だったようです。

江戸時代の風流人であり、名君でもあった明石のお殿様・松平忠国公は、源氏ゆかりの史跡を各地に残しました。
今風に言えば”観光によるまちおこし”といったところでしょうか。
現在市内には浜の松、源氏屋敷、月見の池、蔦の細道などの『源氏物語』ゆかりの史跡が点在しています。

※ゆびほかなる・・・ゆったりした様子・広々とした様子


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あかし女性物語スタート[2008年09月22日(Mon)]
今日から1997年に発行した『あかし女性物語』を随時お届けします。
これは、私たちがグループ発足したての制作物です。
読み返すと懐かしさと恥ずかしさが入り混じった感情に出会うのですが、電子情報として残していきたいと思います。

発信します[2008年09月22日(Mon)]
団体ブログをスタートします。

今まで個人ブログからの発信をしていましたが、団体と個人のすみわけをしていこうと思います。
団体ブログでは情報を発信していきます。

情報発信のきっかけとなったのは
9月20日21日につながれっとNAGOYA で参加した
「情報開示ワークショップ 信頼と資金につなげる、確かな発信」でした。

各地で行われているこのワークショップ。
一歩踏み出すきっかけの再スタートに向けて、背中を押された2日間でした。

まずは、今まで個人ブログで書いていたものを引っ越しをさせながら、印刷物を電子発信していきたいと思っています。
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