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岩井俊宗ノート

「若者の力を活かして、地域の課題解決/活性化を加速する」とちぎユースサポーターズネットワークの代表理事。地域ニーズと挑戦する若者のコーディネートを担い、地域に新しい物語(価値創造)づくりを行っている。日々に事業の中で感じたこと、考察を徒然草のように記録していきます。


思考の記録 2019.9.27 [2019年09月27日(Fri)]
自身の頭の中にある思考の記録。


・ネットワークは生き物。ネットワークは育み、愛でる。ネットワークの活かすには、アイデア。

・ワクワクする未来の景色を描く。業務、タスク、役割よりも、未来の景色への共感。

・希望は、今日より明日がもっといい日になると信じて疑わず、未来を考えるとワクワクするもの。

・心の声を紡ぎ、心の声を見せ合う。重なりには、深い連帯感。違いには、新たな視点。

・一人でもやってるやる。仲間とともに立ち向かう。の共存。

・創ると壊す。どこに立ってみるかによって違う。個人でできることを助ける道具の開発、人との連帯感を壊す道具の開発。

・資本主義 → お金を介した対価交換。お金が増える。交換できることが増える。お金を増やそうとする力。 4人家族でお茶の間で、みんなでテレビを見ると、1台の売上げ。一人ひとりの部屋にテレビを置けば4台の売上げ。

・地球温暖化 → 異常気象 → アマゾンの大火災、巨大台風、豪雨 → 生活、経済への被害。 → 基盤の上に経つものが壊れていく中、基盤となる自然環境を治して力より経済活動。自然環境を守っても直接な金銭的リターンがない。 → 地球、人間の人間可能性

・短期的利益と長期的利益。経済的利益と社会的利益。

・自分以外のものへの願い=祈り。

・自然と先祖に生かされていることへの感謝=神。 アイヌ文化。

・セーフティネットとしての起業家的思考と技術。

・できないと思ったことがやったらできた体験。

・補助輪チャリから二輪チャリへ。転んでもできるまでやる。

・やるかやらないか。

・不安で、自信が無いときに描く未来は、景色ではなく、できない理由ばかり。

【考察20150529】NPO法人と一般社団法人の違い・特徴について [2015年05月29日(Fri)]
[仕事関係/長文] 
昨日の日本で初めて行われた非営利法人格(一般社団法人とNPO法人)の比較研究報告(公益法人協会、日本NPOセンター実施)に、それぞれの法人運営している団体が報告内容と法人比較をどう捉えているのかを意見述べさせて頂きました。

自分自身、そもそもボランティア育ちのNPO法人の代表であり、別の一般社団法人の理事も務めていることもあり、個人的な宿題として持ち帰らせていただきました。
私見ですが、考えの整理をしたいと思います。

両法人を考えるにあって、まず個人的なスタンスは、
・社会的信用に関しては、法人格のあるなしだけでは不十分であり、情報公開と実績が重要である。
・また法人格は、箱みたいなもので、重要なのは、ミッションであり、取組みであることはもちろんである。
・その箱の特徴を活かしたチームでありたい。

そもそも、一般社団法人は、現在約50000法人(?)。
活動は自由で、所轄官庁もなし、報告提出義務もない。所轄官庁もないということで、一社のすべて実態を把握することが難しい。どこで何の活動をしているかは、インターネットで検索して見つける他ない。それすらないところは、活動実態は分からないとのこと。一社の法人数や事務所の場所は、法務局いければわかりますが。税制に関しては、活動内容(公益性)に応じて、3種類あるとのこと。その他、法人登記は有料。理事会は委任不可。

NPO法人は、約55000法人(認定含む、26年2月末現在)。
行政に書類提出して、認証(書類にミスがなければ通る)をもらう。これが2か月〜4か月程度かかる。活動は、NPO法に定められた20種類に限られる。そのほか、毎年の事業報告等提出義務があり、出さないと罰金もありうる。法人登記は無料。


5万もNPO法人があるので、それぞれ考え方があることわかりながらも、
私見では、NPO法人は、市民「参加」をベースにした運営が大事ではないかと思っています。
当会では、社員(会員、職員、理事)の力に加え、外部とパートナーを組みながら、外部資源をお借りしながら事業運営しています。

ガバナンスから言えば、多様な人の多様な意見と想いがあるので、手間もかかるし、代表理事にワンマンになりにくい。これを管理しずらい、ガバナンスがしづらいと捉えるのかは、それぞれ団体の考えになると思います。


しかし、それでもなぜ、多様な「参加」を大事にするのか。


この「参加」の多様さがあるからこそ、ミッションが求心力とする組織運営が可能となり、会員、職員、サポーター一同、そこを目指す力が生まれていくと。これがないと、まとまりも、多様な参加による力の掛け算もない。(そのミッション自体が、社会的要請にマッチしているかはもちろん大事ですが)


また「参加」の多様さは、時に、予測できない加速をもたらすこともある。
ある意味、熱のある異分子が入ることによって、小さなイノベーション・科学反応をもたらしてくれる。
今のこのチームも多様なステークホルダーの方々の力を借りらえるのは、今まで関わり頂いた方々の紹介や提案などによるところも大きく、人との出会いすら自分予測どおりとなっていることの方が少ない。


つまり、参加がもたらすイノベーション・化学反応を最大限活かそうと思うと、未だ見ぬ領域に取り組み、新たな支援策やプログラムなどを切り拓いてくことが有効であると思う。その領域は、いきなり収益になりにくく、人から支えられることが重要である。だから、NPOの「参加」の中の「応援」もなくてはならない。


多様な法人がある中、
・ビジネスモデルが構築され、対価収入が可能な領域は、株式会社等の法人が、

・ビジネスモデルがありながら、対価収入が難しく、受益者と資金提供者が違う領域は、一般社団法人が、

・ビジネスモデルが未完で、社会課題の新たな解決のアプローチに切り込む(社会的喚起を含め)領域をNPO法人が

担っていくのはどうか。

また、
・職員で事業を推進するなら、株式会社。

・社員(職員と会員)で事業を推進するなら、一般社団法人。

・社員に加えて、外部の力を借りて事業を推進するなら、NPO法人。

とも捉えたい。

「参加」と「社会課題解決に向けた新たな提示」がないNPO法人の存在意義は何か。
今はまだ、上記も仮説レベルであるが、日々に取り組みから検証しながら、しっかりと応えらえるようにありたいと。


大学の卒論で書いた「国際協力NGOの政策提言活動」で、NGO、NPO等の市民セクターこそ、社会課題解決のための政策を描く必要がありながら、実態はほぼほぼ行われていない(2004年当時)問題意識に、立ち返らせて頂いた。

貴重な機会を頂いた日本NPOセンター、公益法人協会に感謝申し上げる。 2015.5.29
人が育つということ [2011年02月09日(Wed)]
社会の担い手、社会の役割、社会における使命感を自覚し、行動に繋げることのできる若者を育みたい。


育むというよりは、共に切磋琢磨しながら成長していきたい。


自分自身を振り返り、成長を促す要素を考えてみた。


  集中した時間 × 夢中になった時間 
 
  安心感 × 好奇心 
  
  奥底の自分と対話した時間 
   
  使命感(自発的危機感)

  仲間
  
  必要とされた/頼られた経験とその期待

  苦しさから逃げず踏みとどまっている時
  
  成し遂げた達成感と成功体験




課題や問題に立ち向かう時、自分は、夢中になり、試行錯誤し、仲間に支えられながらなんとかしたいと動いた。


初めのころは、不安や恐怖心があった。しかし、それ以上に、自分がやらなれければという想いに突き動かされたことが始まりだった。


色んな気持ちに襲われ続け、その気持ちに捕われないようにしようと動きまわると、その中に何とかできるかもという気持ちに出会う。 その見えたものを大切にかつ、固執せず、前に進む。

その体験が自分の成長につながっていると自負している。 


自分らの生きる社会には、まだまだ課題や問題、生きづらさを抱えている人々がいる。
彼らに寄り添う中で、人は成長する。


課題を解決することと若者が成長していくこと、それがよりよい社会を創っていくこと。
その3点を繋げて捉える人材育成に取り組みたい。

  
  
     
【考察】信頼とチームと個人主義 [2010年06月30日(Wed)]
ワールドカップ南アフリカ大会、日本代表は、ベスト16で終わった。

強さや勝利は、嬉しいし楽しかったけれど、今回のサッカーで見ていたのは、チームのあり方だった。

行ったことのないステージで戦っていく日本代表。毎回挑戦と結果が命題として与えられる日本代表。

自分のチームと重ねて見ていた。

今回の日本代表チームから感じたこと。


”信頼のある個人主義”

試合は個人主義というよりも、連携重視だと思う。しかし、過去の日本代表チームと違うのは、チームの根底に”信頼、信用”が全体で共有され一体感があると感じた。

その信頼に基づく一体感の土台の上に個人の強みを表現できる、そんなチームに映った。



先週の月曜日に、ユースのインターンシップ生との話合いをした。

”ここでの経験を自分の何に活かすのか”。

ここで何を学びたいのかではない。

ここに来る大学生は、空気が読めるし、気配りができる。

その良さが、ネガティブに働く時、挑戦の妨げになる。

彼ら、彼女ら、には、自分の成長を何よりも貪欲でありたい。

貪欲になった時、悔しい、さみしい、しんどい、など負の感情と向き合うことが多くなる。

負の感情とはあまり出会いたくないものだ。避けようと思えば、避けて生きていける社会の中にいる。

ここでは、あえて、負の感情と向き合える空間と仲間でありたい。

この負の感情を正の感情に変えていくことこそ、力を育てるということだと思っている。



また
人から教えてもらうことが前提になってはいけない。すべての経験を自分の何に活かしていくのかを自分でつかめるかどうか。

与えすぎると、主体性が腐る。腐った主体性は、本人の甘えや自己中心的な単なる自己主張になる。主体性の本質は、その主体性の受け手にとってにも価値のあるかどうかも重要ではないか。

もうひとつユースでのテーマは、友達の作り方ではなく仲間をつくる力を育てたい。

仲間に必要なことは何か。
友達と何が違うのか。考えたら夢に出てきて、その夢の中で考えたことは、

友達は、「今」を共有、共感する。
仲間は、「未来」を共有、共感する人。

とすると、
仲間になるには、共有の種になる「未来」を持っている者どうかが重要になるのではないか。

「未来」を考えること、「未来」に対して「今」のチャンスをつかめること、自分の「今」と「未来」に対して貪欲であり続けること。それが自立した若者が育つ環境のヒントになる気がする。


という岩井の頭の思考の記録。100630
【l考察】「閉じると開く」 [2009年12月11日(Fri)]
「閉じると開く」


宇都宮の中心地にオリオンスクエアというイベント広場がある。
その広場は屋外で商店街沿いに面している。

その広場でのオーケストラの演奏をすれば、誰もが自由に聴くことが出入りすることができる。

逆にそのコンサートなどを文化施設のホールでやる場合。チャリティコンサートはあるが、基本的には入場料が発生する。

つまり同じコンサートであっても、開かれているか、閉じられているか(ゲート的機能があるか)が入場料が有無が分かれる。

コンサート自体に価値があるから人は動くが、そこに必要なお金は音だけではなく、その空間によっても値段が変わってくる。


ゲートがあるかないかで、一つに経済ベースか、ボランティタリーベースか、に分けれうる気がする。

そして経済ベースだけの社会になれば、世の中はどんどん閉じられていくのではないか。
お金を持ってない人は行く場所がなくなってしまうのではないか。
そんな概念と社会ができつつあるのではないか。

いかに開きながら、持続するための収益を確保していくか。

資金を稼ぐだけなら、ゲートを設けて、ゲートを超えたら満足するものが待っていて、また来たくなるようにできれば、収益はあげられる気がする。
ただ収益のためのゲートをくぐらすことが重要ではなく、社会全体のおいてで必要な(ゲート)くぐるもの、通るものを創出したい。
【考察】「ファシリテーターが触媒者と訳される理由についての考察」 [2009年12月09日(Wed)]
「ファシリテーターが触媒者と訳される理由についての考察」(長いのですみません。)

大学生の時に、発展途上国の住民主導の開発を専攻してました。その時、PRAといわれる簡易農村調査法という言葉やファシリテーターという言葉などをよく耳にしておりました。

当時開発学の中でのファシリテーションという言葉は、「促進者、触媒者」と日本語訳をされていました。促進者はわかる気がするけど、触媒者って?という想いは、卒業後5年経ちますが、自分の中に残っていました。

改めて、触媒を調べてみると、(ウィキペディアですいません。)
「触媒(しょくばい、catalyst)とは、特定の化学反応の反応速度を速める物質で、自身は反応の前後で変化しないものをいう[1]。また、反応によって消費されても、反応の完了と同時に再生し、変化していないように見えるものも触媒とされる。」

と書かれています。おもに化学の分野で使われる言葉で、私も高校の授業で「触媒」聞いたのを覚えています。(記憶があやしいのですが、水を沸騰させるときに軽石みたいなものを入れて、沸騰する速度を速めていたような・・)

開発学は、化学というより社会学の分野として認識しています。そこで化学の分野の言葉が使えるのか単純に先週あたりから気になり始めました。

そして触媒の言葉が使われる理由の仮説を作りに頭の中で旅に出ました。


そして生まれた仮説を下記に書いてみます。長くてすいません。

科学の進歩とは何かと考えたときに、私は、技術革新だと考えます。今までできなかったことができるようになる技術が生まれた。技術が生まれるということがどういうことか。それは「発見」だと考えます。
科学の「発見」を考えると、簡単に発見できるわけではなく、その「発見」するために、過去から積み上げられた知識から仮説を作り、検証/研究を行う。その仮説通りにいくわけではなく、検証/研究を繰り返し行う中で、生まれる聞いています。かの有名なトマス・エジソンも「私は実験において 失敗など一度たりともしていないこれでは電球は光らないという発見を いままでに、2万回してきたのだ。」(余談ですが、この続きは「私は一日たりとも、いわゆる労働などしたことがない。なにをやっても楽しくてたまらないから。」)と言っています。電球を光らせることに2万回も検証しています。(実際2万回やったかはわかりませんが)

つまり、打ち込み続けることの中に、「発見」があるのだと思います。そしてその「発見」には、「過去の知識からの仮説」と「検証/研究からの学び」が必要である上に、もうひとつ重要なことがあると考えます。
それは「偶然性」です。
エジソンの環境にいないのでわかりませんが、「電球が光る」発見をした時の温度や湿度、化学反応、などなど、様々な条件が一致して生まれたのではないかと推測しています。検証/研究の学びの中で”もっとこうしたら”という仮説を作ってきたのではないかと思います。
つまり、検証/研究は、その偶然性に出会うための実験ではないでしょうか。

科学の世界での進歩が技術革新のための「発見」が重要であるならば、それを社会学の世界にもいうことはできないか。社会学の世界、すなわち社会システムについてです。

社会システムの進歩とは何か。

社会システムは、法的・制度的に作られるフォーマルな社会システム(国の社会保障や会社の序列など)と、住民同士や個人のつながりで作られるインフォーマルな社会システム(子供が親に怒られたらおばあちゃんのところに愚痴をこぼしに行く、とか駄菓子屋にいくとか、大人では友人に相談するなど、全員が一定に受けられない社会システム)があります。

今回の社会システムではフォーマルな社会システムについて考えていきます。
フォーマルな社会システムの場合、必ず誰かがフォーマルな社会システムを設計しています。国の社会保障では、法律などがそうですし。会社では規律や規則があります(暗黙の了解で社内文化できることがあります。それはインフォーマルに近いと思いますが)。
今できているフォーマルな社会システムは、過去に誰かが作ったものです。
しかしながら、社会システムが活用される社会は日々変化していきます。本来であれば外部環境である社会に適した社会システムが必要とされますが、過去に作られた社会システムを享受している人がいる場合、急激な変化は難しくなります。そこで少しづつ変化させていきますが、結局つぎはぎだらけの社会システムとなってしまいます。
そこで求めてくるのが、社会システムの変化と進歩だと考えます。
前の科学の進歩ついて述べましたが、進歩に「発見」が必要だとすると、社会システムにも「発見」が必要なのかもしれません。

「発見」には、「過去から積み上げられた知識に基づく仮説」と「検証/研究からの学び」、そして「偶然性」が必要だと書きました。仮説や検証/研究は、偶然性に出会う確率を上げる作業とも捉えました。
つまり、それを社会システムにおいても求められているのではないか。
社会学における社会システムの実験は、実際に人を巻き込むので、実験しにくいと思われます。現実には、社会実験ということで、ETC割引が始まる前に、一部区間で料金を安くして、人の動きや流れをみるなどの実験をしています。社会保障や命にかかわる問題での社会実験は、知らないだけかもしれませんが、あまり聞いたことがありません。つまり、検証/研究がしにく特徴があります。
しかし、新たな社会システムの変容が求めれらています。そこでその新たな社会システムを発見する役割の一つにNPOやNGOがあると考えています。

新たな社会システムには、その分野と向き合い続けた人にしか生まれない「偶然性」が必要です。新たな社会システムにとって必要な「偶然性」とは何か。

それは、「創造的なアイデア」だと考えます。その「創造的なアイデア」は、現場のリアルな現状や課題を知らずして生まれないと考えています。
そしてただ現場に向き合い続けるだけでも駄目で、もうひとつ重要な要素として、「異物」だと思います。「異物」と表記すると悪者みたいですが、要は、自分と違った物です。そして、その大きな一つは、「人」だと考えます。その「人」は違う分野で何かに向き合い続けている人がいいと思います。その「人」は情報と想いを持っています。その「人」との出会いが、「創造的なアイデア」からなる「偶然性」に出会う可能性を高めていくことになると思います。

話は長くなりましたが、社会システムにける「発見」のために必要な「偶然性」という化学反応を起しうる人が「触媒」者といわれるファシリテーターといわれる人なのかなと思います。個人的にはファシリテーターは調和調整者のような意味合いが強いのでは思っておりますが、想いの持った人同士の出会いが生まれる群れ(コミュニティ)を作っていくことに社会的な意義なあるというと勝手な解釈と仮説でした。

長文にわたり大変失礼いたしました。

岩井俊宗
【考察】「社会ための生きる」 [2009年12月09日(Wed)]
「社会のために生きる」


行政と仕事をしたり、NPO支援の現場にいると、よく出てくる言葉がでてくる。

「利益が生まれると・・・・・」


民家企業の営利追求だろうと、ボランティアの無償性だろうが、そこはどうでもいい。

重要なのは、「社会のために生きる」自負があるかどうかだ。

「社会のために生きる」自負は、自分に与えられた社会的使命の認識につながると考える。

社会的使命は、誰が指示するわけではなく、社会の中で生活する中で内発的に生まれるものだと思っている。


「社会に対してお客さんになっていないだろうか」

税金を勝手に持ってかれて、それなりの行政サービスを受けることを当たり前に感じている。

自分がやりたいことは、社会に対してお客さんや観客を社会自体を自分のものとして感じてもらいたい。

社会のために生きること、社会的使命を自負している人が増えれば、選挙率も変わっていくと思う。市民活動も盛んになると思う。行政が対応できない民間サービスも生まれていくと思う。そして地域や社会の誇りが生まれると思う。

自分がどう生きるかはどうでもいい。自己実現はどうでもいい。
社会に必要なことを提供できる人材になれるか、そしてこの社会、この時代に生まれてよかったと思える人が増やしたい。

そこだけをシンプルに目指していきたい。


【考察】「岩井仮説、NPOを強くする7つの役割」 [2009年12月08日(Tue)]
「岩井仮説、NPOを強くする7つの役割」

@ NPO経営者:人材マネジメント、事業マネジメント、労務、税務、未来への投資、諸法律/規制/制度に長ける
A ボランティアコーディネーター:ボランティアの力を最大限に発揮させる。資源とボランティアを対等な関係性を構築する。
B 社会事業家:社会課題に対して、対応/対策/プロセスを描き、事業を実行できる人
C ファンドレイザー:市民の共感を得ながら、資金を調達する。
D 経理、会計:透明性のある会計処理
E 広報:潜在層を関心者/実践者にするきっかけを創造
F 調査研究プランナー:政策提言/アドボカシー

それぞれの役割のプロフェッショナルが揃うチームを考えるとわくわくします。

単純な方法は、
→生え抜きで育てるか。
→経験者をひっぱるか。
【考察】「マエ、ヨコ、サキ」 [2009年12月08日(Tue)]
「マエ、ヨコ、サキ」

社会事業家はマエ(目の前のこと)、ヨコ(社会全体)、サキ(将来)をよく見てるなと感じています。

社会事業家になるために頑張ってきたという人ではなく、何かと向き合う中で、自分が”やらなければ(使命感)”と”やりたい”と想いから、行動と試行錯誤を繰り返しているうちに周囲の人の認識が変わっていき、地域を巻き込み、個人から地域への変容がしていった点が共通していると感じている。
【考察】「目的を決める」を疑う [2009年12月06日(Sun)]
昨日から今朝にかけて(泊まりで)いわゆる「限界集落」と言われる高齢者が多く住む地域住民の若手地域づくりリーダーの方々(50代層)との会合があった。お互いが描く地域像や想いを共有した。

お話を聞きながら、ここの地域(栃木県日光市三依地区)のポテンシャルを感じると同時に、現地に入った活動を2年通しても、5年後を地域像を描くことの難しさを感じている。

単純に人口増加する社会であれば、交流人口議論や定住人口議論、二地域居住議論ができうるが、現在の日本全国で人口が減りはじめ、高齢者が増える社会の中にいる。

中心市街地活性のプロジェクトチームBBQの事業でも、農村と中心市街地の地域性の違いはあれど、次の世代や後継者、世代間問題は、三依地域と共通している。三依地区のほうが、切実な状況ではあるが。

人が減ると、文化が消滅していく。三依地区に入って初めてわかった。それまで文化について大して考えてこなかったが、地域の人との出会いを通し、文化は、過去からつながる財産であり、一つの地域の誇りでもあると思った。

映画(踊る!大捜査線 )「容疑者室井慎次」の中で、最後になぜ弁護士をやっているのかという質問に足して、”金になるから。真実は金にならねーんだよ”というセリフを一度だけ見た映画にも関わらずずっと残っている。

地域の誇りが真実だとすると、お金になりにくい。その誇りはお金にならなくても守り続けられ、受け継がれつつあった過去からつながった現在がある。

「ゴールを決める」を疑う始まりは、経済活動ではごくあたりまでで常識化された「目的や到達点の設定」という言葉を人前で話す機会でも堂々と胸を張って言っている。様々な事業化やチーム化には、想いのある目的意識の共有が不可欠だと考えているし、実践している。この三依プロジェクトチームも目的を持ち活動している。その他、個別(個人)の課題対応に関しても、目的や到達点の設定を描く。

自分発(チームの目的、課題対応の目的、事業の目的)のものは目的が描ける。しかし、農村やコミュニティと行った時にエリアを捉えたときに「目的」と言うと違和感がないか。
目的という言葉自体の対象物は「人」ではないか。「場」や「エリア」を対象としていないのではないか。それはある意味自分たちでコントールできる範囲であったり、意志があるモノの中で使える言葉ではないか。強く言えば、目的という言葉自体の中に人間としての「エゴ」の部分もあり、勝手に設定しているだけではないか。自分の思い通りや計算ができる社会において使えても、自分の思いや計算が成り立たない自然や

村やコミュニティを考えた場合、自分たちの力だけはどうしようも社会の流れと対峙することになる。その大きな社会と対峙した時、コミュニティへのゴールを描くことができずに悩む。ただの力不足かもしれないが。

限界集落におけるゴールはどこにあるか。考えて続けているが、もしかしたらゴールを創りだすことを一般化、常識化したに本質的には意味がなく、今の目の前を対峙し続けること、関わり続けること自体が、重要ではないか。

目的の良さを感じながら、その目的は、力や資源の集中のために必要なだけであって、自分たちの身の引き際を決めたと勝手に設定したものではないか。

ゴールのないマラソンはきついが、ゴールの内長距離走はジョギングであったりする。スポールという枠や競争という枠に入れるとゴールや目的が発生する。

なんて、リアル頭中旅でした。

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