昭和初期の亥の子さん [2006年11月08日(Wed)]
昭和17年頃の本通り(現在も広島市の中心商店街)界隈はアスフアルト(あのころはコールタンといっていました)を敷いていましたが、今と違ってでこぼこの道でした。そして、その道を荷馬車が往来していました。
私が住んでいた所は今でも一番繁華街の八丁堀でしたが、あのころはお店と住居が一緒でした。 通学は幟町小学校で、朝早く裸足で小学校に行きました。10月は運動会の季節ですが、小学生には駆けっこで速く走るための一つのおまじないがありました。それは前日に荷馬車の置き土産の馬糞を踏むことでした。間違っても牛の糞を踏んでは駄目、というジンクスがあって私たちは競って道の上に落ちている乾いた馬糞を我先にと走り回って踏んだものでした。馬糞は、わらが混じってふんわりと暖かく、そのなま暖かさが子供の心に「さーこれで一等賞だ・・」と幾つ踏んだと自慢しあいながら意気揚々と学校に走って行ったものでした。私はそのおまじないの効果もなく三人走って3等という結果でした。 運動会の季節が終わると「亥の子さん」。 私の町内では本屋さんの店先がいのこさんの集会場でした。 前日、大人達がいのこさんの舞台作りに、下に敷く茣蓙や大鍋、子供の喜ぶセルロイドで出来た桃太郎や侍、金太郎に豪傑などの面・・はては大人たちが喜ぶ一升瓶がずらりと並べられていました。その周りを取り巻いて頬を真っ赤にしてうろうろする子供を追っ払いながら、追っ払われながら何時までも離れなかった寒かった夜・・懐かしい・・・ 翌朝、早起きした子供達は茣蓙が敷いてある上で大鍋でぐつぐつ煮えている餅入りのぜんざいをフーフーいいながら食べた懐かしい思い出。 食べ終わった子供達が揃ったところで、楽しい一仕事が待っていました。 しめ縄で綺麗に化粧された石臼に何本もの荒縄が通され、その先をホッペタを真っ赤にした子供達が持ち町内の店先で石臼を力一杯引っ張り、声を張り上げて「亥ーの子 亥の子 亥の子餅ついた 繁盛せい はんじようせい・・」 と引っ張っては手をゆるめ、ドスンドスンと引っ張り上げられた石臼の高く上がるほど自分の家の商売が繁盛するような快感を味わいながら登校する前の一仕事をワイワイがやがやとすませ、ランドセルを背負って一目散に学校に行ったものでした。 その日はまだ祭りのフィナーレが残っています。 下校もそこそこ、ランドセルを店先に掘り投げて表に掛けだし大人達が扮した赤鬼、青鬼を誘き出しながら逃げ回る楽しさ 怖いのに「赤来い・青来い・・」と子供達の大合唱があっちからもこっちからもきこえ、その声に右往左往する鬼、鬼・・ ひとしきり鬼ごっこが終わった後の楽しみが有りました。 三々五々子供達がいのこさんの祭壇の前に集まってきます。 車座になって顔をドラム缶のたき火で真っ赤にしたお父さんやおじさんが大声でお酒を酌み交わしている側で「僕は桃太郎 僕は大将・・」で焼き餅やお菓子の入った袋と壁に飾ってあるセルロイドのお面をと男の子達の面の品定め・・女の子は「あれよりこっちが良いのに・・」とがやがや・・ 大人も子供も祭りの小さな渦の中でした。 頃合いに大人達がお菓子の入った袋を一人一人の子供に労いの言葉をかけながら渡してくれました。袋を胸に抱いてそれぞれの家に帰ったのを思い出します。 私の幼い日の思い出です。 戦前、65年ほど昔です。 今の祭りとは想像もつかないほどちっちゃな、ちっちやな祭りでしたがあの繁華街で人並みにもまれながら鬼を誘き出しては、怖さにどきどきしながら逃げ惑った遠い昔・・私にはついこの間のような・・幼なじみの声が聞こえてきます。 女性会員(74) |