愛子様(敬宮愛子内親王)の学習院大学文学部日本語日本文学科への内部進学が決定した。中国新型肺炎という東日本大震災以来の災いの中で数少ない明るく良いニュースだ。単にオメデタイのではない。日本皇室の本家の姫君が日本文学専攻なら適切とかいうだけでもない。その学科の目指すとされる内容が、私がここで書く議論に直接に関わるものでもあり、強い関心を持ったのだ。
学習院の「日本語日本文学科」とは如何なる所か。一般的な国文学科ではないのか? あくまで学科側は「古代から現代に至る日本語・日本文学を中心とする日本の文化、及び日本語教育に関心のある学生を受け入れ」としている。学科の中に二つの「系」があり、「日本語日本文学系」では普通の日本文学科(国文学)と同様に日本文学の研究が基盤となろうし、「日本語教育系」では日本語の教育論や文法構造等が重要かと部外者の私は推測する。
だが、説明を見ると、少なくとも教育研究の目指す理想では、それだけでもなさそうで、ソコが私には重要なのだ。
学習院大の「日本語日本文学科」の目指すものとは、学習院側の言では、
「実証的で堅実な研究方法と、創意に満ちた新しい国際的な感覚を体得し、日本的な思考の特色を、具体的かつ相対的に把握することを期待」
だそうだ。
これが普通の私立大学なら、「理想通りなら良いが」「看板だけ」「無力な私学の独りよがり」とか皮肉られよう。だが、昔は学習院は皇族華族の学校だったから特別だし、上の教育目的の説明文は私には実に腑に落ちる内容だ、私の持論を地で行く話だから。一般の学習院の学生や教員が、どれ程、その高い理想や目標を理解しているかは別としても、言葉の看板は大変に優れた興味深いものなのだ。
「実証的で堅実な研究方法」とは、昔はマルクス主義的な仮定に仮定を積み重ねる独善的な議論に疑問を抱き、長良川河口堰問題の頃からは非常識無責任なマスコミ報道と対立したりした私には重要で当然の話だ。
「創意に満ちた新しい国際的な感覚」も、日本人には少々不可思議な西洋流のキリスト教・一神教的な価値観を持つ私には当然だ。
そして私は日本人だから、「日本的な思考の特色を具体的かつ相対的に把握」など当然中の当然なのだ。それに気づくには時間がかかり、それ故に日本人がナゼ分らないかという点も理解ができるのだが・・・。
そもそも、この文章の前に、日本人を理解するのに文学が重要であるだけでなく、タイ人などを相手に「日本語教育」を徹底したいと私は強く願ってきたから、「日本語日本文学科」との名を聞いた時に直ぐに大きな期待を抱いたのだ。
日本企業の大量進出で急に経済成長した親日国のタイでも日本語は必修ではなく、その前に日本文化に関する正確な情報は全く不足し、中国人のナベ料理でしかないニセモノすき焼きを「日本料理だ」と本気で考えていたくらいだ。そんな惨状を改善するためにも、将来は親日国の人間に大量に良質の日本語を中心とする文化教育を施し、単に不足する日本の労働力とするだけではなく、各国の祖国の発展の担い手にしなければならないと考える私には、「日本語教育」こそ最重要なカギなのだ。愛子内親王が日本語日本文学と日本語教育のいずれの系に進まれるかは不明だが、日本語教育の海外指導等は視野に入ろう。
ここ数日間にも私はこのブログコーナーで日本文化の特色、その最も深刻で厳しい部分の話に外国との関わりや比較の中で何度も触れている、中国新型肺炎という大天災への日本政府や社会の反応と情報発信という深刻な話で。世界最低の言論無能に支えられた最悪の政治愚鈍と。何故だか、ここ数日は特に日本文化論に関わる文章に不思議なアクセスが多い。その文章を元に他の文章を多く見ているデイープ?な者がいるのだ。まさか、愛子様か? 少なくとも、学習院日本語日本文学科の提示するような理想を求める者と期待したい。それとも、愛子様が来るからと、教員や関係者が慌てて読んでいるのかね、「ああいう看板を出した以上は考えないと」とか・・・。
日本文学は古代から日本人の特性を現わすモノとして有名だそうだ。あの文化の香りのないトランプの訪日晩餐会スピーチでも歌人の名が出たくらいだし。だが、最古の時期の古代の文学作品ですら、日本社会の文化や日本人の性格が決定した一万年近い先史時代の後に造られたモノ。ソコへの理解がないと日本文学の根本にあるものも分らない事になる。ソコが分らないままで日本民族の特色云々を語っても基礎の不足する根無し草になりかねない。タダでさえ、大学の教授になるには学者として業績が基本・最優先で、真の教養人である必要は特に無い、理想とは違い。学術研究とは針で突くような細かいものだ。日本文学の研究も日本への理解を深め極める手段であって欲しいが実際には生活の手段と化してはいないか。安倍の「愛国タカ派」が政治稼業の手段であって真の目的ではないから、安倍政権は最低の売国ハト派になってしまったのと似て。学習院日本語日本文学科がそうでないことを祈るが。
繰り返すが、「アワてて勉強」とは決して冗談ではない、それも特に相手が愛子様だと。内親王は私と極めて縁が深い領域「水」を御専門とする新帝と、私のマタ同窓生でマタ同僚の新后の間の姫君であり、しかも、敬宮愛子内親王という正式名称にも関わりがあるから。既述だが、私を西郷隆盛の好んだ言葉と言われる「敬天愛人」になぞらえる者がいるようだ、実際には人に失望しきった私は「敬天愛天」だが。その話に気づいた頃の御誕生なのが敬宮愛子内親王で、「ああ、敬天愛人の配列そのもの」と。おやおや、両陛下の専門のみならず、御長女の専門までもか。考えてみれば当然か。私は朝鮮人の奴隷として洗脳されて人生を破壊されたから、まだ奴隷根性が抜けず、このような状況に身体が慣れていないのなら困る。当然のものとして慣れないとな、当然のモノとして。それには賠償程度無いと困るのだが・・・。
そんな天皇家の姫君が日本文化や日本語教育に御関心となれば、その思想的背後に私がいる事になる。これは尋常ならざる背景の深さだ。学習院大という私学で実社会への就職などと関係が薄いだけでなく実社会との接点が足りない文学部の教員達は覚悟しないと愛子様の御関心に応えられない事態になりかねない。しかも中国新型肺炎という私の声に沿うような大天罰の中で日本文化の本質や世界との関わりが深く問われている。そこでアワてて勉強しているといったコミカルな設定もできるわけだ、無理なく。
秋篠宮佳子様は国際論専攻で世界から日本を見ようとし、愛子様は日本文化専攻で世界との比較で日本そのものを見ようとする。ちょうど良いではないか。頼もしい姫君達だ。そう考えれば、昨年の巨大水害に続く新型肺炎感染という天罰の連続の中では明るいニュースだ、私には。