砂場の園児に暴走車が突っ込んだ。つい最近も散歩中の園児に事故車が突っ込んだ。屋外には危険も多い。特に集団だと全体としては動きが制限される。
またまた朝鮮系テロではないと良いのだが、このような場合、関係者の話には「屋外の散歩は幼児の発育に重要」と。確かに軽い運動や気分転換にはなろうが、理由を詳しく聞くと「四季の変化を感じる」とか、大人に対するような話になる。
私は日本の農業や食文化に縁があるし、1年中夏の熱帯のタイはじめ外国と日本との比較を常にするので、日本の四季の変化の美や食を含めた文化との関係での重要性は特に意識し続けている。だが、それは何らかの意味で大人になってから初めて分かる話。極めて文化的な話なのだ。子供の散歩で季節の花を見ても、喜ぶのは主に同行の大人。子供が「スゴイ」「キレイ」とか叫ぶ場合は大人の言葉のオウム返し、大人の誘導だったり。
そう、「四季の変化を見せるべき」とは、園児の親たちの感覚に相当に影響されているのではないのか。保育・育児でカネを取る以上、その程度はやらないと親に満足を与えられないのではと。
「子供の教育というより間接的な親サービスか」とも。
外国人は日本文化の中では初心者の子供、極言すれば幼児のような低レベルの存在だから、それへの文化情報の伝達・教育には工夫、コツがいる。日本人が不得意な話だ。私はそれを考える機会が多いので敢えて言うが、これだけ視聴覚機器が発達すれば、園内の大型画面での映像提示等で相当に迫力のある様々な教育ができるはずと思う。
それを考えて、危険な園外活動への不安という大人の感覚にも応えるべきではなかろうか。運動なら園内・室内でも可能。骨の発育には縦方向の衝撃刺激が有効だそうで、それなら縄跳びやスキップのようなジャンプ運動が良いはずだしな、タダ歩くより。
最後に敢えて言う。モンスターペアレントと言わないまでも、最近は親がウルサすぎ、応じようとする圧力も強すぎる。「子供の声がウルサい」と育児施設建設に反対する予定地周辺住民(高齢者)の話を聞いたが、それは「わがままな親の声がウルサい」の意味を含むのではないのかと。施設ができると、タダ歩いているだけで不審者扱いされ、我が物顔の送迎の親が車で渋滞を起こしトラブルを起こし。文句を言うと不審者・危険人物扱いと。まるで迷惑外国人観光客だ。
「観光公害ではなく育児公害」。
今は教育機関は立派な迷惑施設だ。昔は教育機関は地域の格を上げるされ、大規模宅地開発等の折は開発者の鉄道会社は破格の条件で真っ先に私立の教育機関等を該当地域に誘致したモノだが・・・。
お茶の水大学の学園での皇族狙いテロとおぼしき事件の後も、必要最低限の警備こそ安全という自由に必要なのに、「自由な気風が失われる」とか左翼的なことを抜かすバカ関係者も多いのだそうだ。一見、上記のような私の嘆きと同方向・同意見にも見えるが、実はワガママ親の問題という点で似ているかもしれない。
学園の自由な気風とは、本来もっと高次元の話。学問の自由、言論の自由・・・。そう、愚かで幼稚な首相の官邸を批判してもソンタクの圧力をかけられないような自由な気風であったり。国・民族の独立という最重要の自由の象徴である皇室を守る事も自由を守る事だろうな、霞ヶ関の小役人や首相官邸のバカどもは守るべき国とは思わないが。当然ながら表面的な服装の自由なんぞとも次元が違うし。
千葉の女児虐待殺人事件の背後に推測されるような朝鮮マフィア的な圧力や朝鮮系テロを防いで言論の自由を守るには、防御が必要だ。児童相談所に弁護士や医師や警官が常駐すべきなのと同じで。
今回の皇族狙いテロは「出入り業者の身分チェック」さえ出来ていれば防げた可能性が高いと言われる。皇族御本人の警備と業者チェックだけで「自由がなくなる」のか? 大げさに言えば、OB等の大人が自分が行った時にチェックされるのがイヤなだけではと疑いたくなる。いや、それこそがスパイ活動なのか。
戦後の日本の左翼は朝鮮人のテロの隠れミノにもなってきた。大学は左翼が強い、というより野放しだったのだ、お茶の水に限らず。そんな程度の警備をするな、手薄にしろとは、やはり(皇族狙い等の)朝鮮人テロをやりやすくしろという意味か。それと通じる話かもな、園児の屋外活動は。「お散歩がないと自由な雰囲気がなくなる」とかいうのかね。
少し考えるのだな、もう遅いけど。神に対しても、そんな自分勝手で一方的な態度をとり続けた奴らだからな。「韓国人は日本人に極限まで甘え、日本人は神に極限まで甘えた。両者とも、もう年貢の納め時」なのだ。良く覚えておけ。忘れるとトランプが思い出させるぞ。