前立腺生検入院とサッカ気になるーW杯予選の日本チームと、事柄が続いてきていたので、前々から気になっていた評判の映画を見に行く機会がおくれてしまった。退職後引っ越ししてきた大船か東海道線で二駅先の、「辻堂」の駅はもともと関東特殊製鋼工場(約25ha)の為の駅でしたが、周辺の住宅開発が進み、私が鎌倉・大船を終の棲家としたころと同時に駅きた側は大型ショピング頃からモールに大変身しました。
そのなかで、世の中の趨勢複数、多くスクリーンを持つシネコンも登場しました。
「109シネマ湘南」は退職後おじさんが一日のんびりと時間潰しのできる格好の場所となったのです。
20数年前、座り心地の良い席に座り、大きなスクリーンと音響効果のなか、ほほ半日、当時1,100円で半日過ごせる場所だったのです。
終わってからの広大なフードコートで一人食事をし、大きな本屋さんで興味ある本を探し、午後、二駅先の自宅に戻る一日、なんだかんだで一日の歩くノルマの一万歩はクリアできる、退職シニアおじさんの格安ワンダーランドでした。
退職して23年、暇な時間の過ごし方は変遷する
現在のサラリーマンの定年はほぼ65歳でしょう。私たち団塊世代の時は60歳でした、そのころから少しづつ再雇用が義務つけられてはきていましたが、再雇用後の待遇は前の基本給の60%と、仕事内容は全く同じ、責任・ノルマも同じでやってられるかよという声が大半でした。
私の場合は、定年退職ではなく、55歳の自己都合退職でした。
今まわりを見回すと55歳男性というのは、まだまだ働き盛りの「壮年」でしょうが、この頃、映画すぎの私は、金曜日の封切を誰よりも早く見られる、優越感・楽しみにハマっていました。
子供の町の映画館に忍び込むような生活環境がありました。
今、日本のレトロ映画館NO,1と云われています、長野市の「相生座・ロキシー」は自宅の眼の前で、小学生の頃から大人の映画から、東映のヤクザ・任侠もの、そして日活の吉永小百合、青春モノにどっぷりハマっていた青春時代でした。
定年退職してから23数年の経過は・・・
・55才から65才は海外ミドル・リピートステイ+鎌倉市のNPO活動
・65才から75才は毎月の日本全国の旅+趣味のクラブ活動のお手伝い
・75才から・・町内会、老人会のヘルプが続いており、大好きな「今評判の映画を封切日の金曜日」に見に行くのが楽しみとなつています。
今、話題の映画とは第79回カンヌ国際映画祭カンヌ・プレミア部門出品

この季節、世界各地で映画祭が開催されています。
特に、商業映画でも特に芸術性の高い映画がエントリーする「カンヌ映画祭」は特に評価が高く、興行的にも注目されています。
「カンヌ映画祭」のこれまでの日本映画は、最高賞のパルム・ドールを過去5回獲得するなど世界最高峰の評価を受けてきました。
監督賞や脚本賞のほか、柳楽優弥の最優秀男優賞など俳優陣の快挙も多く、日本の映画史において輝かしい実績を刻み続けています
1954年『地獄門』(衣笠貞之助監督)- グランプリ(当時の最高賞)
1980年『影武者』(黒澤明監督)- パルム・ドール
1983年『楢山節考』(今村昌平監督)- パルム・ドール
1997年『うなぎ』(今村昌平監督)- パルム・ドール
2018年『万引き家族』(是枝裕和監督)
今年は「スパイの妻」「クリーピー 偽りの隣人」などで国内外から高く評価されてきた黒沢清監督が自身初の時代劇に挑み、第166回直木賞と第12回山田風太郎賞をダブル受賞した米澤穂信による同名ミステリー小説「黒牢城 」を映画化したものが注目をあつめました。
主なストーリーは
信長の天下統一の足がかり、秀吉の命じた中国地方「播磨攻め」のお話荒木村重は織田信長の暴虐なやり方に反発して謀反を起こし、有岡城に立てこもる。
織田軍に包囲され孤立無援となった城内で、村重は血気盛んな家臣たちを抑えつつ、妻・千代保を心の支えに、城と人々を守ろうと苦心していた。
そんな中、城内で少年が殺害される事件が起こり、その後も怪事件が続発する。
容疑者は密室と化した城内にいる家臣や身内の誰かで、城外には敵軍、城内には裏切り者という状況に、誰もが疑心暗鬼に陥っていく。
追い詰められた村重は、信長の使者として説得に訪れ牢に囚われた天才軍師・黒田官兵衛に協力を仰ぎ、事件の解決に挑む。
城主・荒木村重を本木雅弘、天才軍師・黒田官兵衛を菅田将暉、村重の妻・千代保を吉高由里子、村重の腹心・荒木久左衛門を青木崇高、
若手の家臣・乾助三郎を宮舘涼太(Snow Man)、事件の目撃者である狙撃の名手・雑賀下針を柄本佑、村重の隠し刀として暗躍する郡十右衛門をオダギリジョーが演じる。
この映画がヒットしそうと評判の理由は
第79回カンヌ国際映画祭の「カンヌプレミア」部門で披露された黒沢清監督、初の時代劇が、米澤穂信による同名のミステリー小説を映画化した「黒牢城」。もっとも、本作はいわゆる時代劇からイメージするような派手な戦場シーンも、チャンバラもない。舞台はほぼ城の中。織田信長に反旗を翻した武将、荒木村重(本木雅弘)が籠城中に城内で殺人が起こり、それを機に不可解な事柄が続く。
一体城内で何が起きていたのか、という謎に迫る物語です。
この映画がヒットの兆しになつているのが、今年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」のストリー展開です。
ちょうどこの映画公開される週、「豊臣兄弟」では秀吉に味方するは播磨衆黒田官兵衛が、秀吉の使いで謀反を起こした荒木村重の城に向かい、ここで囚われの身となる時期なのです。
この映画で囚われの身なる黒田官兵衛を演じているのは「豊臣兄弟」のなかで、秀吉に使える二人頭脳・二人の官兵衛の一人「竹中半兵衛」を演じている菅田将暉なのです。
この囚われの身となった黒田官兵衛は長い牢生活で下半身が不随になり、結果びっこ、足を引きずって生き、秀吉・徳川の世を九州黒田藩として、明治まで生き抜いてくるのです。
「酒は飲め飲め 飲むならば日の本一の この槍を飲み取るほどに 飲むならばこれぞまことの 黒田武士」あの黒田藩の藩祖のお話なのです。
黒田藩(正式名称:福岡藩)の領地は、現在の福岡県西部にあたる筑前国ほぼ全域(現在の福岡市やその周辺)でした。
石高は47万〜52万石の大藩で、福岡城 を拠点に黒田官兵衛(孝高)・長政の親子が治めました。
テレビドラマ豊臣兄弟では6月この播磨攻めが佳境に
天正6年(1578)、それまで織田信長に従っていた、摂津有岡城の城主・荒木村重が、突如として反旗を翻しました。これによって、播磨平定を進めていた羽柴秀吉は、重大な危機に陥ることになってしまいます。
三木城の別所長治が毛利方へ寝返り、さらに摂津では荒木村重が有岡城に籠城。このダブルパンチによって、信長政権は、毛利攻めどころではなくなり、摂津・播磨の支配すら揺らぎかねない危機に直面することになったのです。
荒木村重とは、どのような人物だったのか?
歴史的映画ですが、ちゃんと当時の歴史的事実を知った上でこの映画を見るととても面白いのです。
● 下剋上によって成り上がった武将
荒木村重は、天文4年(1535)、摂津国の国衆・池田氏の家臣である荒木義村の嫡男として生まれました。
若い頃の記録はあまり残っていませんが、江戸時代の軍記物『荒木略記』には、興味深い逸話が伝えられています。
大食漢だった村重が、父親から食べ過ぎを叱られた際、「武士には強い身体が必要です」と主張し、自らの怪力を証明するために、
父親を碁盤の上に乗せたまま担いで歩いたというのです
元服後、荒木村重は池田勝正に仕えました。しかし当時の池田家は内紛の最中にありました。家督を継いだ池田勝正と、その弟である池田知正が対立していたのです。
当初は勝正派だった村重ですが、やがて知正派へ転じ、主君であった勝正を追放してしまいます。
その後は知正からも実権を奪い、最終的には織田信長の支持を得て、摂津支配を任されるまでになりました。
まさに戦国時代を代表する、下剋上武将の一人だったといえるでしょう。
● 荒木村重と織田信長の有名エピソー
荒木村重には、信長との有名な逸話があります。
『陰徳太平記』によれば、初めて信長と対面した際、信長が突然刀を抜き、饅頭を突き刺して村重に差し出しました。
周囲が固唾をのんで見守るなか、村重は平然とその饅頭にかぶりついたといいます。
この話はフィクションでしょうが、「信長ですら認めるほど肝の据わった人物」という後世の評価をよく表しているエピソードです。
● なぜ村重は謀反を起こしたのか?
ところが、その荒木村重が天正6年、突然信長に背きました。
謀反の理由については、現在も明確にはわかっていません。
家臣が石山本願寺へ密かに兵糧を送っていたことが発覚したためとも、摂津の国衆たちが信長の度重なる出陣命令に不満を募らせたためともいわれていますが、いずれにせよ決定的な証拠はありません。
荒木村重の寝返りを知った信長自身も、村重の謀反を予想していなかったため、大きな衝撃を受けたとされています。
さらに信長は、村重と親類関係にあった明智光秀を使者として有岡城へ派遣しました。
光秀の説得を受けた村重は、一度は降伏を考えたとも伝えられています。
しかし家臣たちの反対に遭い、結局は有岡城へ戻ってしまいました。
こうして有岡城は、織田軍との全面対決に突入することになります。
● 孤立する有岡城
有岡城に籠城した荒木村重は、毛利氏との連携に期待していました。しかし状況は、彼の思うように進みませんでした。毛利軍は上月城を奪取したものの、それ以上大きく進軍してきません。
一方で、高山右近や中川清秀など有力な同盟者たちは次々と織田方へ寝返ってしまい、有岡城は完全に孤立してしまったのです。
とはいえ有岡城は、村重が整備した堅固な城です。
当時の有岡城は、現在のJR伊丹駅から阪急伊丹駅まで広がる大規模な惣構えの城郭であり、力攻めで攻略することは容易ではありませんでした。
一度は短期決戦の力攻めを仕掛けた信長も、有岡城の堅牢さの前に敗れ、戦略を兵糧攻めによる長期戦へと切り替えます。
有岡城(伊丹城)は、兵庫県伊丹市(旧摂津国)にあります。
JR宝塚線の伊丹駅を下車してすぐの場所に本丸跡が公園として整備されており、石垣や土塁、空堀の跡が残されています。
● 城主自ら、謎の脱出
有岡城は、1年以上にわたって抵抗を続けました。
ところが天正7年(1579)9月、驚くべき出来事が起こります。
城主である村重自身が、わずかな供回りだけを連れて城を脱出し、尼崎城へ逃れたのです。
村重はなぜ脱出したのでしょうか。
その理由には、兵糧補給路を確保するためだったという説や、毛利氏に直接援軍を要請するためだったという説など諸説ありますが、どれも確かな史料はなく、真相は現在も謎のままです。
城主を失った有岡城は、同年11月に開城しました。しかし悲劇はここから始まるのです。
● 一族・家臣が600人以上犠牲になった悲劇
降伏した家臣たちは、自らの妻子を人質として城内に残すことで信長の許しを得て、尼崎城にいる村重へ降伏を勧めに出かけて行きました。
しかし村重は、これを拒否します。
その結果、人質となっていた一族や家臣の家族ら600人以上が、処刑されることになりました。
『信長公記』によれば、村重の妻・だしをはじめとする近しい者たちは特別に京に送られ、六条河原で処刑されたといいます。
妻女たちは最後まで取り乱すことなく、首切り役人に静かに己が首を差し出しました。
また、14歳だった荒木久左衛門の子・自念も落ち着き払って最期を迎えたため、見物人たちからは感嘆の声が上がったと記録されています。
● 茶人として生きた意外な晩年
その後も村重は花隈城に移って抵抗を続けましたが、花隈城も落城すると、今度は毛利領へと逃れて身を隠しました。
そして信長が亡くなった翌年の天正11年(1583)には堺へ戻り、茶人として暮らしていたと伝えられています。
このときの村重は出家して道薫と名乗り、天正14年(1586)に堺で死去したとされます。
多くの家臣や一族を失いながら、当の本人がのうのうと生き延びたため、荒木村重に対する後世の評価は決して高くありません。
しかし一方で、信長に反旗を翻しながらも最後まで生き抜いた数少ない武将だったことも事実です。荒木村重は、家臣たちを見捨てた卑怯な武将だったのでしょうか?
それとも乱世を生き抜いた現実主義者だったのでしょうか? その評価は、現在でも議論が続いています
このような歴史的事実を知った上でみれば・・・
とても、興味深く見れますし、映画監督としての才能豊かな黒沢清監督がどんな思いをもって映画化・作品化したのか、伺えるかもしれません。
この映画を見ながら、今後の大河ドラマ「豊臣兄弟」を楽しみにみます。
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今回は新しい採取方法(経会陰生検)でしたが、前4回よりも出血量かくだんに多く、
2日目の夜から三日目にかけて・・・
自宅から1時間の距離、長後から乗ったお客さんのほとんどはシニアの御夫婦で、全員がバス停「女坂」で降り、バスの運転手に蟹ヶ谷公園への行き方を聞くのですが、運転手さんはその公園の名前も知らない様子です。



横浜中心から離れた中山の駅とは云え、大きな街です。
この道はGoogleマップのあの車ははいって来れないないのですから私がルートを探しても見かからなかった訳です。
整備された住宅街と平行に走る道路なのでストレスなく、公園北口に到着します。
大勢のカメラマンが大砲のようなレンズのカメラをしっかりとした三脚にのせて、水面を狙っています。
2026年6月12日の画像です。
後継機のWin11の発売は2021年10月5日でした。
セキュリティの問題がやや不安
自分の人生で最後のPCと思っていましたWin10ですが、指導する立場から知っておかないと、と「Windows 11」パソコンを買いました。
そして、別に文字・日本語で記録するのに、オフィスは必要ない、キーボードが無くても、音声入力でいれ、テキストはメモ帳に書き込めるWin10で手こずった音声入力はwin11なら簡単になった。撮影してきた動画を普通に編集しユーチューブにUPするには、やはり高性能のパソコンは必須です。
団塊リタイヤ世代の場合、終の棲家と考える持ち家は平均すると40年を超えているかと思われます。

住民の減少により修繕積立金が枯渇あるいは、大幅値上げや一時金の徴収に踏み切るマンションが増加中、人手不足を背景に管理費も上昇傾向にある
自宅の名義人が認知症になり判断能力を失うと売却は極めて困難になるケースが多い
以前朝日新聞の「朝日新聞Reライフフェスティバル2024春」で、タレントの松本明子さんが『直伝! 幸せな「実家じまい」のすすめ』と題して講演。
一回目は病名ははっきり覚えていませんが、中学三年生の時、学校で男子生徒と
1997年夏、私は一人中央アジア・ウズベキスタンを旅して、強烈な下痢を経験しました。
持ち物は
今回の手術日の日程し当然ながら主治医の日程に合わせますか、ドクターから絶対ダメな日はあるか聞かれ、W杯試合中継が見れないような日は困るので外してくれと頼みました。
老後資金とは、公的年金などの収入だけではまかなえない、定年退職後の生活費の不足分や、医療・介護・ライフイベント(旅行や家の修繕など)に備えるための貯蓄のこと。
現在は大きな病気を患っても医療の進歩で延命しやすくなった一方で、死ななくなったということはその分医療費と介護費が嵩み、
■毎年人間ドックを受けている場合
■電力の契約がそのままである

私の生まれ育った信州・長野市、県庁所在地、そして善光寺のお膝元です。
カンヌ国際映画祭は、毎年5月にフランスのカンヌで開催される世界最高峰の映画祭です。
アカデミー賞は、米国の映画芸術科学アカデミー(AMPAS)が主催する世界最高峰の映画賞です。


一日400メーターしか歩かないし人は一日3.2キロ歩く人に比べ認知症のリスクが一転8倍になるとの報告
家族で一緒に考え
特にファンではない芸能人や有名人などの名前を忘れた場合、安易にネットの検索に頼らず思い出そうとする努力をすることが脳にある程度の心地良い負荷をかけることになり脳を活性化させる








