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2024年12月31日

テレ東、路線バス乗り継ぎの旅 年末特番リレー8日間



テレ東を代表する「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」年末特別編!ミスターバス旅・太川陽介&バス旅Wで大活躍中の木菜那の二人をリーダーに、チーム太川とチーム高木が交互に4区間たすきをつなぎ、史上最長800キロ超コースに挑む!前代未聞のバス旅リレー…果たしてゴールできるのかを2日間楽しんでみた。
チームメンバーは
1区:太川陽介・信子(ぱーてぃーちゃん)・水谷隼・草薙航基(宮下草薙)
2区:高木菜那・佐々木彩夏(ももいろクローバーZ)・川村エミコ(たんぽぽ)・高島礼子
3区:太川陽介・神田愛花・澤穂希・酒井貴士(クズ芸人)
4区:木菜那・村井美樹・松村沙友理(さゆりんこ)

【たすきをつないで8日間の長い旅!】

2024年の3月に誕生したテレ東系列を挙げての大型バラエティ特番「テレ東系 旅の日」。
第1弾では人気旅番組がタスキをつないで好評を博したが、早くも第2弾として年末にカムバックし放送時間もパワーアップし、ゴールデン帯で4時間放送が二夜連続で計8時間に。

今年の夏の猛暑と天候不順で5月の福井以降は旅らしい、旅にでておらず、楽しみはテレ東の過去の路線バス乗り継ぎの旅の再放送を見ながら、これまでカミさんと二人で旅してきた土地がでるたびに懐かしがってみていました。

オリジナルのメンバーの太川陽介は来月66歳になります。
蛭子能収は団塊世代、77歳。
第一回は17年前の2007年、太平洋側の神奈川県の横浜から日本海を臨む富山県氷見まで、路線バスを乗り継いで行く旅に太川陽介、蛭子能収、中島史恵の3人の旅人が挑戦。第一回目は成功しています。
当時の太川は49歳、蛭子さんは60歳でした。
この時からの太川・蛭子+マドンナの路線バスの乗り継ぎの旅シリーズ1は2017年に25弾で終了しました。
この歳、太川陽介は還暦前の59歳、蛭子さんは70歳で、初期の軽い認知症を患っていました。

その後に続いたのは「ローカル路線バス乗り継ぎの旅Z」

メンバーは俳優・田中要次と直木賞作家の羽田圭介コンビにバトンタッチし。
このコンビの評判は太川・蛭子と違い、やや知名度・人気がなく、2022年8月に、3連続失敗を理由に第19弾で最終回を迎えています。

007年10月に放送を開始した「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」初代・太川陽介&蛭子能収コンビは2017年に卒業、2代目・田中要次&羽田圭介コンビの「ローカル路線バス乗り継ぎの旅Z」も19回目の放送で負け越し無念の終了。
そして3代目は…シリーズ初!女性3名で挑む新シリーズがスタート!バス旅W=Woman!女子旅になってもアポなしガチンコ旅は変わらずでした。
初回、第一回旅をしたのはこの3人!
・人気ラジオ番組のパーソナリティーを務めた赤江珠緒。
・持ち前の明るさと元気でゴールまっしぐらの三船美佳。
・「ももクロの鋼少女」の異名を持つ高城れに。

コースは初夏の日光・中禅寺湖をスタートし3泊4日で目指すゴールは…千葉県房総半島の最南端の岬に立つ野島埼灯へ゛。
県境をどう越えるか?千葉県の内房と外房どちらを回るか?シリーズ初の女性3人旅。観光気分で浮かれていた旅の始まりましたが、メンバーが固定せず、ガチンコ旅、ノンスケジュール・仕込みなし、リアル旅番組となり、参加する女優人から敬遠されるようになりました。

テレ東の旅番組はいろいろ人材を発掘してきた

なかなかメンバーは固定されずシリーズ化が難しいかと思われていたが第3弾、伊良湖岬・善光寺ルートで救世主的女性タレントを発掘されました。
五輪スピードスケートの金メダリスト高木姉妹の姉、高木菜那。
五輪で金メダルを獲得し、タレントに転身する選手・スポーツマンは数多いが、五輪後、数年で消えていくのタレントが多いなか、テレ東の旅番組制作陣の前に前に現れたのは、小柄でバイタリティ・体力溢れる、テレ東のバス旅にぴったりの女性タレントが現れた。
五輪金メダルの女性が旅先の宿を自分探し挙げ句は、ラブホに泊まり、スナックので雑魚寝するなんて、普通のTV局、制作会社ではあり得ない旅番組をこなしきています。

今回の年末特番のチーム4に登場した「村井美樹」45歳もその一人

旅好き、撮り鉄・乗り鉄・電車好きとして業界内で知られており、テレ東の「鉄道・バス乗り継ぎ対決旅」で才能開花しました。
テレビ番組のなかで、深夜、雨、雪の降るなか30Km歩かせるなんて、これまでのタレント事務所とテレビ・番組作成業界ではありえなんかったことを、平然とやってのける、体力・才覚・気遣いがある、テレ東の「お宝的」な「鬼軍曹」となっているのてす。

そこに、新スター発掘、10キロを2時間で歩くのは平気というスポーツウーマン、高木菜那が四日目のリーダーとして登場し、二人四輪駆動エンジン搭載車のように雪の竜飛岬を目指します。
今回の最終目的地の龍飛崎へは最終便乗り継ぎで成功しました。

大きな力となったのが、電車に強い「村井美樹」でした。
竜飛岬へ通常路線バスでいくの難しく、JR津軽線になるのですが、JR津軽線蟹田駅〜三厩駅は、令和4年8月の大雨により線路設備の大きな被害が確認されたため、復旧の見込みは立っていませんが、村井美樹は 運転を見合わせている区間について、JR東日本旅客鉄道株式会社で代行バスの運転を知っていたのです。
JR代行バスは、終点到着時間に合わせて、終点からさらに先にいく人たちの為にの路線バスに合わせた運転することを知っており、代行バスの発車する三厩に到着した時点で
今回のテレ東年末「旅の日」特集で成功したことを確信していたでしょう。

令和7年、太川は66歳、蛭子さんは78歳、私は77歳の喜寿となります。

この路線バス乗り継ぎの旅が始まった頃から、ほぼ欠かさず、見ています。
理由は、通常の観光や美味しい食べもの紹介のような旅番組ではなく、自分の昔の若い頃のバックパッカーのように、一番安いルートで、自分の行きたい所だけにいく旅のスタイルは、テレビ画面越しに見ていて、共感するものが多いのと、同世代の蛭子さんに自分を重ねて、見ているのでしょう。
特に今年後半の熱暑と天候不順で6月以降、旅にでていないのと、体力・筋力の低下に加えて、健康上の不安、食道炎・胆嚢炎が増してきており、もしかするとこの先、遠距離都市だけでなく、一泊2日程度も怪しくなりかけてきている、昨今、益々、このテレビ画面上の旅が待ち遠しくなっています。

気になるのはこのテレ東の番組、全国で見られるのか
以前、私の実家信州、長野市ではテレ東は有線TVでしかみられませんでした。
調べてみると・・・地上波で見られるのは・・・
テレビ東京(テレ東)の番組は、テレビ東京のネットワーク「TXN」に加盟しているテレビ北海道、テレビ愛知、テレビ大阪、テレビせとうち、TVQ九州放送の6局を通じて、全国の約70%の世帯で視聴することができます。
また、BSテレ東はBS“7チャンネル”で、全国どこでも無料で視聴することができます。
後の地域はケーブルテレビとなるようです。

確かに、信州はケーブルテレビ経由でしか見れない。

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2024年12月29日

50歳でのカナダ留学 芸人光浦靖子を読んでみて

自分の居場所探しにカナダ留学
カミさんの愛読雑誌は婦人公論で、1月号の芸人光浦靖子のカナダ留学記を読みたいから、大船で唯一の大型書店で買ってきて頼まれました。
東京外語大卒の芸人「芸人光浦靖子」が、慣れ親しんだ芸能界から飛びだして、知り合いも収入もないカナダで、自分の居場所探しにでかけた記事を婦人公論に掲載していました。

コロナ禍もようやく落ち着き始めた2021年7月、光浦靖子は日本を出発しカナダへ・・・。
P CR検査を受けるのにも一苦労し。
16日間の隔離に始まり、ままならない英語に悪戦苦闘しつつ、語学学校で出会った女王様のようなコロンビア人女性のヘレナや、バンクーバーに住む作家の西加奈子さんをはじめとする日本人ママ友会、名付けて「オバンジャーズ」に頼った引越し騒動、そしてカレッジへの道が開けたことなど、
新しい世界を知る不安や期待や興奮をありのままの心情で綴っています。
50歳での初の海外暮らし。アラフィフ世代はもちろんのこと、全世代に共感を呼ぶ、待望の留学エッセイ!出版社の惹句です。


50歳すぎての海外留学・渡航・移住となると全くの別物
大学・高校新卒で海外留学する話は最近では全く珍しい話ではないのですが、50歳すぎての海外留学・渡航・移住となると全くの別物です。
そのひとつの例として、私が55歳で早期リタイヤして、鎌倉に越してきて、鎌倉市の市民活動センターを第三セクターとして運営する認定NPOに入った時の当時の理事長がその場引退・交代し、カナダに短期語学留学するという時でした。
日本最高学府から大手旅行会社の役員を経て60歳で定年後、NPOボラの世界に飛び込み、65歳で学生時代からの夢だった留学をやっと実現させたのでした。
日本一の大旅行会社に務めていていたので海外はお手の物と思っていたのですが、そうでもなく、元会社の専門部署の手助けで、一青年、個人として海外で一人暮らしをして、
若い外国人と裸の付き合いしたいと出かけていきました。分かる気もしないではないのですが・・・
でも半年の滞在で、帰りはハワイのホテルで三ヶ月過ごしての豪華な定年後留学の帰国でした。
正直、日本のエリートサラリーマンの、自己満足のお遊び留学だった私は思っています。
御本人に、何が良かった、何を改めて学び、経験してしたと問うと、全く年齢も社会的地位・経験も、人種も、宗教も違う外国人、若者と友人となり、色々な話が出来て
酒を酌み交わす中になった。日本のサラリーマン人生では味合うことのなかった、青春時代を味わった・・・
【なんだ、そんなものか、あほらしい】が私の率直な感想でした。

この芸人光浦靖子の居場所探しの手記を読んでみました

記事の一部引用
芸能活動を休止し、カナダへ留学して四年目の光浦靖子
芸能界を離れ、自分のことを誰も知らないバクーバーで全く新しい人間関係を築いている。
物価が高く暮らしはつましくても、気持ちをどんどん開放されていく。
2021年7月からカナダに留学しています。子供の頃から夢でいつか実現したいと思っていました。このタイミングでの留学を決めたのは、30年近く芸能界で仕事してきて、このまま続けていくべきか悩んでいました。
〜中略〜
自分の人生は一回しかないので、納得出来る道をえらびたかった。
正直では、場所はどこでもよくて、東京外語大学に通っていたのに英語が喋れないことが、コンプレックスだったから、英語圏に行こうと思ってもいた。
世界の共通語を喋れるようになればこの先、どんな仕事でも有利だし、そこは一応損得勘定もあった。



現在の日本の芸能界では、上記のような理由・言い訳で海外に飛び出る人が多い。
しかし、行けば直ぐに理解するだろうが、英語が喋れるというのは、九十九・足し算掛け算が出来る程度、それ以下のレベルの話なのです。
三歳の子供だって話せるのですから、もう英語を習う、勉強するために高い旅費、滞在費を払って海外にいく必要がないのか今の世界なのです。
芸能界・TVの世界でなんとか名も顔も売れ、一定の地位、財産を確保してきた40・50代の
最近の芸人、俳優、役者、スポーツの世界で海外に飛び出していく人間は、「大谷翔平」を夢見て増えてきています。
しかし、実際はごく一部の成功例のみが日本国内で報道されているだけで、ほぼ9割はニュースにもならず人知れず日本に帰ってきているのが現象でしよう。
現在に日本からの現実逃避とも云う人もいます。

早期退職した2003年は「海外ロングステイ」ブームの頂点だった。
今、考えれば「海外ロングステイ」も一種の現実逃避と、幼い頃からの外国への憧れだったのかもしれません。
TV番組では有名俳優夫婦のハワイ島ロングステイに密着し、こんな広大な土地が日本円だたったの幾らするとかドル安で比較し、そして滞在中のホテルや街なかのスーパーを巡る様子などが、楽しく放送されていました。
日本では、1992年2月に通商産業省(現経済産業省)の認可を受けて設立された公益法人、一般財団法人ロングステイ財団がロングステイの普及と啓発活動を盛んに行ったいました。
※現在でも経産省のOBの受け皿として活動しています。
あの当時、円・ドル相場は現在2024年末のほぼ半値の時最安値で78円の時もありました。
夫婦ともに国民年金でも十分に暮らしていける、国によっては貯金出来ると宣伝していました。
多くの60から70代のリタイヤ世代は、マレーシア・タイに移り住んでいきました。
ほどんどが、私達団塊世代より少し上の世代で、海外に住み、暮らし、外国人と話し、交流する生活を学生時代から憧れてきていた世代の方々です。

あの海外ロングステイブームから25年、
今のリタイヤ世代には、定年後の海外ロングステイは「夢のまた夢」です。

この婦人公論の「光浦靖子の留学記」の感想をカミさんに聞かれ

このブログで書いているような感想・意見を伝えると、カミさんは「無理・無理」そんな考え・意見を云ったって、実際に経験しないと人間ってわからない者よ
そして彼女自身が経験した海外でのトラブルに話が及びます。
「私達がブエノス・アイレスのバスのなかで味わった人種差別やパナマの街なかで、小さな子供たちが、目を釣り上げて「チーノ・チーノ」と囃し立てことなど、実際に経験しないとわからないのよ。貴方の中学時代の同級生女子が、大学二年でアメリカ南部の大学に留学した時の話、私には衝撃的だったわ、」と云います。

その話というのは・・・・
私の中学同級の女子は中学の時から英語が大好きで、あの頃の時代には珍しく、大学二年の時にアメリカに一年留学ししていました。1968年のことです。
ケネディの暗殺は1963年、公民権法の成立は1964年、キング牧師の暗殺が1968年4月、彼女の渡ったアメリカ南部の州の大学内では、まだ黒人生徒おらずはアジア人女性の学生は、学内で彼女に一人だけという時代でした。
バスもレストランも「ホワイト・カラード」に分かれていたそうです。
アメリカの学生は戦後始めての日本人女子学生をとても大切に扱ってくれたそうですが、自宅パーティとか学内の催しに招待される時、決まって「着物を着て来れ」と頼まれたそうです。
初めは喜んで参加しましたが、やがて自分に求められている役割が、パーティの催しのひとつ、チンドン屋と分かり行かないになったそうです。
やはり、友人たちと一緒に食事する時はなんでもなかったレストランも、一人で行くと、表の看板を指さされたそうです。アジア人は「カラード」の時代でした。

同じような経験をスェーデンへ留学した、旅仲間の女性からも聞きました。
時代は1975年、ベトナム戦争が終焉してきた頃、彼女は国費留学生として、ストックホルムの王立医学部にいました。
すでに日本で医師免許を取得した後でした。
本当に小柄な女性で、大柄な北欧男性からみれば幼い子供のように見えたのでしょう。
街中の男性の多くから、性の対象として声をかけられというのです、それが一人や二人ではなくも大勢の男たちから。
大学でそれを話すと、当時のスェーデンには多くのベトナム難民が押し寄せてきていて、その多くのアジア人難民の受け入れ費用が巨額なり、働きもせずに自分たちの税金で食っている彼らに反感を持つ人が多くいたそうです。
今、日本でも世界各地でも、外国人移民反対の論議がもりあがっていますが、人権先進国の北欧でも50年も前からこのような状態だったのです。
彼女に「そんな時、どう対応したの?」と聞くと、大学が身分証明書を特別に造ってくれたそうです。
人間って何処の国でも「権威に弱いのを実感したわ」
「スェーデン王立医学部研究員」という証明書は絶大で笑っちゃうほど威力があって、男どもは目を丸くして退散していったわ、と彼女明るく笑っていました。

2024年、私達団塊世代が置かれている日本の経済力は

海外留学、定年後の海外ロングステイ、手軽な海外旅行にしろ、全て日本の経済力に左右されます。
私達団塊世代は日本経済の高度成長と一緒に歩んできました。
バブル崩壊から、失われたと云われる30年を経て、今、定年を迎えようとしている世代や、新社会人からみると確かに恵まれている世代だと思われます。
この芸人光浦靖子のカナダ留学にしろ、相当の資金力がないと四年、カナダでの生活は成り立たないし、私達の孫の世代が新たに海外留学をを目指すには、祖父・祖母にあたる団塊世代の援助がなければ到底なりたたないでしょう。

今の日本国民個人の経済力は「韓国」よりも低く、地中海トルコの下にある小さな島、昔、戦火に揺れたキプロスよりも少ないのです。
もう、海外留学は相当裕福な家庭の子供か、超優秀で国の援助がないと行けない国とっているのてす。
そして同じく「定年後のロングステイ」はいつしか、「そんな時代もあったね」と語り継がれる時代になるのでしよう。

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2024年12月27日

年末年始の準備は特になし カレンダーとスケジュール手帳

年々、年末・年始のとしての準備することは少なくなっています

72歳で退職後のほぼ全ての趣味のクラブ、ボランティア団体、市関連NPOの役職やら、所属団体のwebサポート等の一線から身を退き、二・三の団体だけのお付き合いとなっている2024年の年末、趣味やスポーツのとの接触もほぼなくなり、忘年会のお呼びは一つだけとなり、特別年末・年始だからする用事もありません。

特に年賀状のやりとりを辞めると、若干寂しさはあるものの、義務感・プレッシャーは亡くなりますし、郵便代・はがき代・プリンターインク代など大凡一万円の出費も亡くなります。
そいて、今年は夏以降の退職シニアにとって、メインイベント・行事の国内旅行もおしなべて中止としたので、12月下旬から年末にかけて、昔と大違いであり余っています。
元々、子供のいない夫婦、お互いに地方出身で都会に住み、長期お休みがとれるお正月休みとなると、100%海外旅行にて出かけていました。
手元に残る記録ではローン返済のめどがついた1984のメキシコ以来1997年のC型肝炎入院の年を除くと2004年完全退職、鎌倉に超す年のお正月までづっと海外で過ごしていました。
ですか年賀状は全て、海外のとんでもない奥地から、これみよがしに、自慢タラタラ、旅の友人に出していました。
お正月の海外旅行は辞めたのは2005年からです。
理由は単純・明快、こんなチケット・ホテルの高い時期に行く必要がなくなったからです。
2005年に生まれて始めて大学箱根駅伝をテレビでなく、生の走る姿を隣町、藤沢の遊行寺でみました。

先ずは、来年のカレンダー、どうするか?
今までのカレンダーと云えば、JVC(日本ボランティアセンター)発行のカレンダーと決めていました。
少々お高いのですが、寄付の気持ちで毎年買っていました。
というよりも鎌倉のNPO傘下のアジアの子供たちの支援をする大きなアジアの子どもたちを支援する団体のwebサポートをしていた都合と、長年、JVCカレンダーの画像
を撮影してる写真家の一人「三井 昌志」さんと云う若手写真家の映像がで好きでしたが、JVCは昨年30年間続いていたカレンダーの作成を終了しました。
それ以降は、先年から自分の部屋は特にこだわりなく季節を感じる、単純に綺麗な風景のカレンダーにしています。



書斎の机の前の卓上カレンダーも

カミさんの部屋のカレンダーは元LAJ勤務のお友達から毎年の頂き物の日本航空のカレンダーを使っているようですが、国際版のためか?日本の祭日が赤丸になっていなかっりするもので、あまり役にたってはおらず、インテリア的に飾っているようです。
メインのリビンクは、大判の月めくり、画像なしの書き込み出来る白い部分の多い、ごくシンプルなものにしており、夫婦二人の予定・日程を各々書き込んでいます。
か゛・・・ここ数年はカミさんの予定の書き込みがほとんどで、私の場合、今まで週一のスポーツも、NPOの講座もなくなり月に一度程度の、自然保護団体と認知症グループホーム
の支援の予定日しか入っていません。
後、書き込むのは、「歯医者」「眼科」「湘南鎌倉の泌尿器科」「ファミリードクター」の予定日程度で、ほぼ日本の後期高齢者男性の典型的な一月のスケジュール
となっています。
55歳で退職直後、シニア諸先輩のブログを見ていて、毎日、暇、妻から一日一度は外出してと云われているのを見て、「行く所、やりたいことは山程あるてしょうに」
と思っていましたが、後期高齢者となり、確実に脚力・体力が落ちてきて、比例するように「気力・好奇心の低下」となり、あの頃の諸先輩とおなじような環境であることがが
カレンダーの予定に如実に現れてきています。

カバン内にいれるスケジュール手帳を今年も買いました。

なかなか、日曜日はじまりのカレンダー形式の手帳が少ない、あるいはあっても高いので、来年からは手帳をやめて、スマホ内のカレンダーアプリで済ませようかと考えました。
しかし、スマホの場合アプリを起動し、予定を記入したり、確かめるたびにタップして開かねばなりません。
予定を書き込むのにも、スマホの入力画面は使いにくく、年齢を増す毎に日に日にミスタッチが増えて行きます。
それならば、まだ従来の紙の世界のほうが、どれだけ楽かともっぱらカレンダー手帳を使っています。
かなり若い世代にwebプログラム言語記述を教えていますが、生徒さんから「先生、手帳ですか?」と度々云われてきましたが、76歳になって益々手帳のほうが絶対に楽ですし、毎年暮れになって新しいスケジュール手帳を買い替えるたびに、年末を感じています。
今年から手帳は変えました。
現役時代からずっとスケジュール手帳の老舗、専門の「高橋の手帳」を使い続けてきましたが、やめました。
そんなに、色々の機能やページは必要なく、単純に日曜始まりのカレンダーと、メモする余白、白ページがあればいいのですから。
先ずは、100均に行くと、いくらでもありました。
デザインや厚さ、色などはどうでも良く、大きさも手頃なものを買って、自分でカバーやスマホタッチペンフォルダーをつけて、満足しています。
一年間使うものですから、特に100均にこだわる必要もなく、私の手帳はせいぜい、翌々年までアレば十分なのですから。

同じ100均ダイソーでハガキフォルダーも買いました。

ハガキフォルダーは特に年賀状や海外絵葉書を収納するのでなく、パスワード・暗証番号・IDなどを記録したものを手元のはがき紙きれ・名刺・はがきにその場で手書きで書いて、このフォルダーに収納する為です。
以前から同様のものを作り、自分の机の手の届く眼の前に置いていますが、収納がいっぱいになり、追加しました。
今までのものを一度整理し、ハガキ大の用紙に手書きではなく、印刷したものを収納していましたが、最近、富みにID・パスワードを要求されるものが増え、その場のメモ書きが増えていきました。
それらを忘れずに、なくさずに保管する物が必要だったのです。
それは、私の「終活」の大事なタスクなのです。
今回の「胆石騒動」でも実感しました。
医療側は、次の痛みの時は「外科的処置」も考えてください。と云いますし、消化器内科のファミリドクターも80代で起きた場合、生命にも関わるかもしれないと云われています。
そして、我が家のカミさんのように、一度も銀行ATMを使ったことのない、「天然おばんさん」ですから、私が逝った後、パスワードやIDで苦労するのが目に見えていますので、こそ泥・強盗には絶好のお宝かもしれませんが、机の眼の前に、全ての「パスワード・ID」が分かるフォルダーを用意しています。
来年は「喜寿・77歳」いよいよ、本格的に備ねば・・・

お正月と云えば年々一休禅師が詠んだという句を思いだしています。

二人の両親ともに亡くなり、それ以降お正月もお盆も実家に帰ることはなくなりました。
実家の兄(来年80歳)とも、嫁いで未亡人となって姉(来年81歳)とも、しばらく会っていません。
何か特別な用事でもなかったら、電話もしていません。
信州・北信濃・市内はそんなに雪深くはありませんが、とつてもなく寒いです。
関東・湘南は晴れて青空、富士山が綺麗にみえますが、北信濃は小雪の空。
子ども頃、長野市の東南の菅平の先に東京の晴れた、乾燥した空があるのだろうと憧れていた頃を思い出しています。

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2024年12月25日

年末年始の海外旅行事情 エジプトミッド15万円

12月は、我が家・夫婦二人の家計費決算月です。
残された、早期退職21目、これので全く働かず、僅かな公的年金と個人年金に足りない分は、老後資金からの取り崩しでこの21年間やってきて冷静に残り財産を見つめる月です。

今年、特に財布の中身や、通帳残高やらエクセルを開かなくても、予算が大幅に余っているのは解っています。
その一番の大きな理由は、この5月の福井旅行以降、宿泊を伴う旅行・遠出をしていないのが大きな原因です。
私たち退職年金シニアの一年間の出費・予算の支出の大半を占めている旅行に半年、全く行っていないのです。
その理由は。
・今年の夏の猛烈な暑さ
・二人ともにこの暑さのなか出歩く体力に自信がない
・秋になっても・・大雨と台風とても旅行にいけない
・インバウンドがいない場所にこだわり過ぎか?
・ホテルが異常に高い、泊まれるけど、馬鹿らしくなる
・無理をしても行ってみたい場所がない

などなど自分たちの理由を考えれば、沢山ありますが、一番は「おっくう」なのか。
やがて、お年寄りのように、のんびり温泉に浸かるだけの旅になるのか?
※76歳と73歳の夫婦は「お年寄り」ではないの?と云われそうですが。

そろそろ旅の思い出の締めくくり・精算の年齢か
掲示板BBSに同じ団塊世代の方々のこれまでの海外・国内旅行の思い出・履歴が掲載されるように、そろそろと感じていいます。
そんな時、昔の現役時代の旅の詳細を記録したDATAを目にしました。
私達夫婦の海外の旅の基本は、年に二回、 正々堂々と10〜2週間の休みが取れる時期、高いのを覚悟で出かけることにしていました。
予算は原則、100万円以内、私の一回のボーナス手取り範囲内としてきました。
つまり年に200万。
早期退職し、退職後の海外ロングステイ資金はカミさんのボーナスと私の稼ぎで蓄え、月々の生活費は、カミさんの稼ぎで十分でした。
ですから、毎年、秋になるとお正月の旅行計画が始まり、それが二人の楽しみとなっていました。

旅先の目的地は、歴史的建造物・文化・歴史のある国でした。

先日、50年続いたシリアアサド政権が倒れたシリアへは1996年のお正月休みにいってます。
シリア・ヨルダンの旅10日間、これは個人旅行ではなく、パック旅行でした。
当初、個人旅行レベルで計画にはいりましたが、やはり中東諸国を全くの現地旅行会社抜きでのフリーは、まだまだ難しい状況で、いまはありませんが中近東を専門に扱っている旅行会社に相談した所、少数10名程度のツァーを計画中で費用は一人28万を予定していると云います。
もちろん、顎・足・ガイド付き飛行機は悪名高い「パキスタン航空」の南廻り便、別名「アジア出稼ぎ便」
成田・マニラ・バンコク・イスラマバード・ドバイ・イスタンブール便です。乗る足袋にイスラム風の機内食がでる便です。
一般の先進国、ヨーロッパやアメリカ、韓国・アジアを旅している人達からみれば、とんでもない旅とボロ航空会社なのですが、参加しているカップル・個人は、ほぼ私たち夫婦と同じような人種でこのボロ格安旅を楽しむような人たちばかりでした。
今更ですが、この私達夫婦のブログに目が留まるような方々にはすでに遅すぎですが、先進諸国、ヨーロッパ・北欧・北米・南米はへは年取ってからでも十分いけます、お金さえかければ体力がなくても快適な旅かてきますが、開発途上国・超異文化の国、イスラム圏などは、絶對に若いうちに行くことをおすすめします。
ちなみに、この時の二人の費用は60万円でした。
特に世界四大文明、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明は行っておくことをお勧めします。
その理由は、どんどん、古い歴史建物・遺産が失われていっているのです。
ニュースで伝わっくるように、シリアのメソポタミア文明は、アレッポの世界的博物館やパルミラ遺跡は破壊され、インダス文明は元々レンガ建築類なので崩壊しつつあり、中国の黄河文明には遺跡とるような建造物はなく、石器・陶器類は海外が流失しつつあ現状で、元っとも大切にに残されており、今でも研究・発掘が盛んに行われているのが、エジプト・ナイル文明でしょう。

今年のお正月は9連休も可能と云われています

リタイヤして365連休の真っ只中にいるので、カレンダーの巡り合わせは全く気にしていませんでしたが、確かに現役時代なら気になります。
9連休なら、エジプト文明に触れ、ギリシャ文化にも触れることが出来ます。
私達がエジプトへ行ったのは、1993年のお正月でした。45歳・42歳。
エジプトは絶対に一生に一度は行かなくてならぬと、決めていた頃、41歳の時にマチュピチュの旅で知り合った、女医さんの友人が、日本の医学部の経験もある女性が、カイロで旅行ガイドのバイトをしていると情報を聞いて、彼女とその関連旅行会社にお願いすることにしました。
成田からアテネ経由カイロの航空券を含め、アテネ・カイロ・ネクソール・アレキサンドリア・カイロをほぼ二人+専任通訳ガイドでまわりました。

費用は私達の予算内、一人40万円以内に楽勝収まり、帰路フランクフルトで観光する余裕もありましたが、冬のヨーロッパの寒空に参って、二度と、ヨーロッパは旅するまいと、ヨーロッパが好きな日本人おばさんに叱られるそうな感想を持ちました。
我が家のカミさんも全く同じで、アジアの混沌とした雑踏は居心地は良いが、一寸異質なキリスト教文化のヨーロッパには全く興味を示しません。

阪急のパンフ、お正月弾丸エジプト5日間15万iに目が止まりました。

私達夫婦が行ったのは1993年ですから、31年前、かなり自分で絞って、吟味していた時辛うじて40万を切ったのに、超大手阪急と云えどもエジプト5日間150,000のからくりは何なのだうと、調べてみました。
ターキッシュエアラインズ<羽田夜発>世界遺産ギザの3大ピラミッド観光付!GOGOエジプト5日間<カイロピラミッズ指定>

こだわりポイント 空港⇔ホテル間の送迎、日本語ガイド同行の世界遺産ピラミッド観光付き
旅程
1日目
22:05 羽田発 空路、ターキッシュエアラインズにて
カイロ空港へ
※途中イスタンブール空港で各自にてお乗り継ぎ手続きを行っていただきます
2日目
10;25〜11:05 カイロ空港到着後、現地係員と合流し、入国手続きを行っていただきます。
※到着時、査証代金を現地にてお支払いいただきます。(目安:30ドル)
その後、日本語ガイドがお出迎えし、観光へご案内いたします。

≪【世界遺産】ギザの3大ピラミッドとスフィンクス観光≫
◎クフ王のピラミッドの内部に入場します!
○カフラー王のピラミッド、○メンカウラー王のピラミッド、
○スフィンクス、○階段ピラミッド
ご昼食は、市内レストランにてご用意しております。

夕方:ホテルご到着後、自由行動。
ご夕食は、ホテル内レストランにてご用意しております。
食事
【朝食】 機 【昼食】 レストラン 【夕食】 ホテル
滞在先 ギザ泊 カイロピラミッズ

3日目
終日:自由行動 思い思いの休日をお楽しみください!
オプショナルツアー(別料金)をご用意しております。
『エジプト考古学博物館(約2時間)(または大エジプト博物館)と
ナイル川ディナークルーズ<ベリーダンス付き(約2時間)>』
おひとり様/22,000円
催行時間/14:30〜21:30頃

食事【朝食】 ホテル 【昼食】 × 【夕食】 ×
滞在先 ギザ泊 カイロピラミッ

4日目
ご出発まで自由行動 ※ホテルチェックアウトは12時となります。
各自にてホテルチェックアウトをお済ませください。
夕方:空港へ送迎いたします。
※Eチケット控えとパスポートをご用意の上、お客様ご自身にて、空港でのチェックイン手続きを行っていただきます。
20;50 カイロ発 空路、ターキッシュエアラインズにて帰国の途へ 
※途中イスタンブール空港で各自にてお乗り継ぎ手続きを行っていただきます。
食事
【朝食】 ホテル 【昼食】 × 【夕食】 機
滞在先 機中泊

5日目
19:45 羽田空港着後、解散となります。
どうしても、自分の人生のなかで、一目、人類の偉大な遺跡としてのピラミッドを見たいと云う、旅慣れた70歳までシニアならなんとか熟せる内容

そのお値段は、ハウマッチ
2月10日 基本代金   149,800円
     燃油チャージ  56,000円
     現地ビザ    5,000円
     その他     3,200円 
概算   220,000円 小遣い・滞在費 80,000 
総合計 300,000円

最近の日本人若者のパスポート保有率が下がっていると云われてます

うちには子供がいませんが、もしいたら海外が全くはじめてでも、武者修行として私達夫婦の国内旅行費用を分けてもいかせます。
今、就職氷河期世代、ジュニア団塊世代は「こどおじ」というスラングで呼ばれています。
「こどおじ」とは、成人しても実家を出ず、子どものころ使っていた部屋で暮らしている人のことを指すネットスラングです。
大阪マクドナルド女子中学生殺人事件の犯人と目されている容疑者に使われていました。
思い切って、一度、私達団塊世代が経験した世界に一人ででいってみるも良いのでは思います。
と、思っているのは団塊世代のおじさんたちだけでしょうか?

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posted by 西沢 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2024年12月23日

カミさんのランチ会・お友達のご主人が逝くお年頃

今年の猛暑過ぎた頃から、カミさんのお昼ランチ外出が多くなりました。

ブログ原稿を書いている今日もお友達とランチのようです。
以前は月に一二度程度でしたが、今は最低週に一度、多い時は二回、三回とあります。
今日は、11時半から鎌倉芸術館小ホールでの映画鑑賞、1,000円。
元々大船は松竹撮影所があった西の京都・太秦、東の大船と云われる、映画産業の盛んな街で、松竹がここを閉鎖した後も多くの市民団体が、撮影所の後に鎌倉市が建設した芸術館内のサントリーホールにスクリーン上映出来る、大・中・小のホールがあり、多くの映画愛好市民団体が格安で上映しています。
この日の映画は「翔んで埼玉」だそうです。
カミさんに映画「翔んで埼玉」ってどんな映画だか知ってるのと聞くと、いつか評判になった映画って知っているけど、内容なんてなんてどうでもいいの、出かける理由になればいいのよ。
と、云います。

今日のお相手は、カミさんの元スポーツ仲間の女性、78歳
ここ、鎌倉に越してきてから知り合いですから、もう20年になります。
スポーツ(ストレッチ)意外のお付き合いはそれほど多くはなかったのですが、今年になって急にこのAさんと出かける用になりました。
そんなお仲間は実は今年、大きく増えているのてす。

Aさん、78歳、元小学校の先生をしていました。
60歳の定年を待たずに58歳で辞めています。
ご主人の詳しい経歴は聞いていませんが、3つ上のようです。
地元大船うまれ、大船育ち、自宅は商店街に近い、戸建て。かなり広い敷地で、駐車場として車六台分あります。
土地柄住宅地でなく商業地の為、実際の固定資産税は知りませんが、二人共退職しても二人の年金では足りない金額だと聞いています。
当然ながら、健康保険負担は3割のようです。
子供は二人、上の子は女の子で結婚し、京都でアニメに関わっており、下の子は男の子で、一部上場会社務めながら独身、自立を促して自宅から出したそうです。

彼女Aさん、私とほぼ同じ団塊世代です。

昔の中学時代の女性徒のその後の追跡は、同級会にでてこない分からないですが、私達の同期で女性が大学を卒業して教員となっているケースは、私がいた信州の市立でもどちらかと云う進学率の高い、長野県一の中・高・都会の大学コース場合でも、女性徒で大学に進んだのはクラス24名で4名でした。
Hさんは横浜生まれ、育ちですから、信州の田舎環境とは違うと思いますが、でもやはり団塊世代の女性です。
彼女か定年退職前に教師を辞めた理由は、実家の兄の介護でした。どうやら独身だったようですが・・・やはり団塊世代の女性の典型なのでしよう。
カミさんとは、スポーツを通じてのお付き会いですが、カミさんによると、全く着るものとか、持つ物、お化粧とか無頓着で、買い物も安けりゃいい、という性格で、子供しか相手にしたこなかった女性ってこんなものなのかな、と感じていたそうで、今年の秋まで、一緒にランチも喫茶もいっさいなかったとのことです。

何があったのか・・・今年9月、自宅介護していたご主人82歳が亡くなりました。
つい3年前、胃がんが見つかり、その時点ステージ4でした。ご主人本人には知らせてなく、「胃潰瘍」と告け、本人も疑いながら入院・治療ではなく、訪問看護を望んで自宅療養を続けていました。そして今年の夏、二週間のホスピスで亡くなりました。
ご主人は四人兄弟の長男で、やはりある程度規模のお葬式がひつようだったり、また長男故に親世代から引き継いだ、土地・家屋などの遺産相続が大変だった、現在進行中ですがそれは、やはり我が家のカミさんとAさん、そして同じスポーツ仲間Bさんの息子さんが「社会保険労務士」なので、司法書士・弁護士に伝手があり、現在サポートしていいるようで、カミさんは、私の時にもお願いすると云ってます。

あの、着るものも、化粧も、ましてやランチにさえ行かなかったAさんが盛んに電話してくるようになりました。電話・・・いまだ固定電話でスマホを使っていない様子です。
今まで行っていたテニスクラスのコートが旧JR敷地内にあったため、新開発駅賃貸停止となり、年齢もありテニスを辞めると、お友達はカミさんとBさんだけ、もう、まっすぐ夫の看病の為に、誰も待っていない自宅に帰る必要がなくなり、カミさんかせ入っているカーブスに入るようになると、盛んにカミさんに、「何処かいかない」「誘ってよ」と電話してくるようになったのです。

同じようなケースが他にもあります。C子さん同じく78歳。(団塊世代)
このブログで一度書いたことがありますが、70代半ばで御夫婦二人で乗っていた車死亡事故を起こし、ご主人は執行猶予付き禁固刑をうけました。
その後心労がかさなったのか、これがきっかけにになったのか、認知症を発症し数年後、入っていた施設から老人病院に移され3年ほど、今年亡くなりました。
ご主人は大手百貨店に定年まで務めており、C子さんも50半ばまで小学校の給食員とて働き、50歳過ぎに給食正規職員制度からはずれたものの、事故のあった年まで働いていましたので
二人の年金は、二人併せて38万(一ヶ月)ほどあり、使い放題の生活をしていた模様です。
しかし、ご主人が亡くなり、デパート時代の企業年金はゼロになるとご主人の遺族年金と自分の年金だけとなり・・・それでも私達二人と同じさして変わらないのてすが、以前の
支出と全く同じ生活をしています。
次女は離婚して二人の子供連れて戻り、男の子は専門学校に入り、すぐに知り合った子と同棲生活を始めてアパート代をだしてやったり、女の子は今年大学それも超お嬢様大学F学園
に入れるなど、全くご主人が無くなる前と同じ生活をいまだ維持し続けています。

そして、カミさんに毎週のようにランチのお誘いです。

流石に、以前よく行っていた鎌倉の会席料理の名店ではなく、「和食ファミレス」へと、ランクを落としたようですが、今の年金収入の無頓着ぶりでカミさんは警戒しているようです。きっと亡くなったご主人の金融資産が沢山あったのじゃない?と聞くと、カミさんは「それはありえない、C子さん、次女を離婚させるのに相手にかなりお金を払ったようで、手元現金は100万もないはず。ともかく今までもらっていた二人年金が多かったので、節約とか貯金なんて端から考えたことがない、生活を何十年も続けてきた人なんだから・・・
一緒に住んでいる次女がいるからいいじゃない、我が家と違って。
いいえ、あの子といっても50歳だけど、聞いた所による、派遣で三ヶ月以上保ったことがないと云うし、お金は一銭も家に入れていない様子。
それなのに、毎週のランチに、週末はお友達の家で料理持ち寄り「麻雀大会」いつか破綻するんじゃないかと心配なんだけど・・・

前述のB子さんのケース年齢推定80歳
彼女のカミさんのランチ仲間で、ご主人はとうに亡くなっている未亡人です。
長女・長男の二人暮らし、長男は前述のように「社会保険労務士」で、独身です。
ご存知のように「社会保険労務士」とう云う資格は持っていても、現在の世の中この資格だけで独立してやってはいけません。
ある程度の大きさに会社と契約したり、社員となるか、各市町村の「社会保険事務所」で輪番で働かないと食っていけないレベルです。
そして、長女は「障害者」です。どの程度の障害なのかは、カミさんも知りません。
このB子さんも、映画やランチのお誘いをかけてと云われているそうです。

このような女性と比べてシニア男性はどうか?

私と同じ年齢、世代との会食・ランチ・飲み会は?意外と少ないのが現実です。
ボランティアなど地域活動の中心を積極的に担っているのは、多くの場合、女性たちです。
一方で、特に仕事一筋の会社人間だった男性たちの場合は、定年退職後もなかなか地域で人間関係を作れず、孤立してしまうことが少なくありません。
長いあいだ時間を勤務先で過ごし、生活の場と切り離されてきた男性たちはどうしたら良いのか
男同士・・・何か同じ組織、サークル、趣味の会に属して、一度外れるとなかなか集まり一緒の時間を過ごすこと少なくなります。
どうしてか?それは、男を相手を仲間であるよりも、いつも競争相手と見がちです。
特に、団塊世代は、地方で生まれてからは、中学校までなんとか、競争社会を意識せずに済んできましたが、高校・大学・社会にでてからの実業の社会での競争、結婚まで。
いつも自分の自分の置かれているポジョンを気にしながら生きてきています。
退職して戻ってきた地元社会でも何かしら、相手を知りマウントを取りたがるのが古希を迎えるシニア・男性社会にもありがちで、
素直に一緒に映画にもいけないのを十分に承知しているのてす。

夫を先に看取った女性たちは、直ぐに立ち直りいきいきと残された人生を過ごしているように見える、反対に男たちは、組織、社会を離れると極端に孤独になる、同じ世代の相手は仲間ではなく、最後までライバルなのだ、それが団塊世代なのだ

やはり、男は孤独で仲間もなく、看取ってくれるのはカミさんだけか。

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2024年12月21日

胆石発作の恐怖再び 12年間前と同じ辛さ

何年ぶりかの痛みが襲ってきたのは

このブログ原稿を書いているちょうど一週間前の火曜日の夜、私の大のお気に入りのBSテレ東「路線バス乗り継ぎの旅Z」の再放送第15弾「和歌山・高野山口から潮岬」を見ていました。
マドンナは鈴木杏樹、後番組は後20分、9時で終わる頃になって、かなり久しぶり、以前何度も経験した「鳩尾の痛み」を感じました。あの痛みです。こりゃまずい、横にならなきゃ。
でもこの潮岬到着出来たどうが、再放送ながら気になります。
私も旅好きでとくにやはり昔のフォークソングのように「岬めぐり」が好きで、都会からはなれ突き出している、先に海しかない行き止まりに行くのが、海なし県生まれの高校生の頃から趣味でした。そしてまだ潮岬は行ったことがないので、Zの旅本放送の時からどんな所か、そして個人旅行なのでアクセスルートが気になっていました。

今回のZ再放送を途中まで見ていても、成功したのか覚えておらず、記憶も定かではないので、最後まで見ていたいのですが、鳩尾の痛みは徐々に増すばかりです。
リビングのリクライニングチェアで胸に手をあて,俯く顔をしているのに気かついたカミさんは「あの痛み?」と聞いてきます。
「うん、そうだけど、少し様子をみる」とテレビを見ている余裕もなく、自分の部屋のベットに倒れ込みました。
カミさんはその様子を見て、私の着替えの準備を始めました。
「救急車にする、タクシーにする」と聞いてきます。
「タクシー」と辛うじて答える私は、医療関係資料ファイル・フォルダーから今回の「鳩尾の痛み」の印刷データの準備をしました。

夜9時半、湘南鎌倉総合病院の夜間外来救急救命センターへ

救急車で搬送される患者の受け入れ数が日本一多い病院、徒歩12分の湘南鎌倉総合病院です。
2021年度にはドクターヘリを含めて1万8026台の救急車を、年間約1万4000人と一般的な救命救急センターの3倍近い人数を受け入れています。
湘南鎌倉総合病院では、総合内科や一般外科とも連携し、病院全体で臨機応変に動くことで、患者の「たらい回し」を回避しています。
また、2022年4月には救命救急センター・外傷センターを開設し、年間2万5,000件の救急車応需に対応できるようになりました
そしてメディアでもたびたび登場しています。

救急車で搬送される患者の受け入れ数が日本一多い神奈川県の湘南鎌倉総合病院。他の病院3倍近い年間約1万4000人を受け入れ、多いときは10分に1台の救急車が到着するER(救命救急センター)を率いている主任ドクターを以前、ドキュメンタリー番組「情熱大陸」で紹介していました。
怒涛の日々の中でも3交代制のシフトを徹底して職場環境の向上を図るドクター「働き方改革」や、搬送されてくる患者の大半を高齢患者が占める救命救急の現実を伝えていました。
今回もER待合室には、テレビ朝日の取材班の撮影が行われている旨の掲示板案内がありました。

今回の発作は始めてでなく2012年から何度か経験しています。

タクシーは電話して5分ほどでマンション玄関前に待っていました。
このタクシーに乗り込むまで、カミさんに支えられてエレベータをおり、玄関から外にでるのも階段でなくスロープを使うほどで、タクシー運転者さんは車椅子を用意しますかきくほど、私の姿、見た目は酷かったのでしょう。
直ぐに、到着し「緊急・夜間外来受付」に行きました。
広い館内には、平日の夜10時近くなのに大勢の患者さんの姿が見えました。
私、どちらかという慣れた患者なので、この病院のカード一つと今日も夜間外来、救急センターにきた理由を口頭で伝えると、パソコンに向かい、データと照合ているようでした。
そして
「ここは救命・救急センターなので、今の痛みに対しての処置のみになります」
「その後の治療、処置については日にちを改めて本館にいってください」
「血圧を計って、看護師のトリアージ問診を受けて下さい」

と云われました。
一般外来のような、手書きの問診票のようなものは一切なく、私の場合、病院のカードとマインンバーカードの2つだけでOKでした。
待合室の血圧計を測る「164・100」と、とんでもない値でびっくりです。
すぐに、トリアージ看護師による問診です。

トリアージとは、
災害や救急などの状況下で、傷病者の緊急度や重症度に応じて治療や搬送の優先順位を決めること。
フランス語の「trier」に由来し、「選別する」という意味があります。
トリアージは、災害時医療で最も重要な3つの要素(3T)のひとつで、治療(Treatment)、搬送(Transport)とともに位置づけられます。
トリアージの主な目的は、優先順位の高い「実施しなければならないこと」に能力や人員、時間などのリソースを割けるようにすることです。
トリアージの具体的な手順は次のとおりです。
トリアージカテゴリーを基準にしながら優先順位を決定する。
その結果に基づきトリアージタッグに記入し、適当な切り取り線で切り取り、当該患者につける。
トリアージタッグには、傷病者の緊急度や重症度を示す色分けの区分が表示されています。
色分けの区分は、黒、赤、黄、緑の4色です。
黒:死亡または絶望的重篤、赤:要緊急処置、黄:非緊急治療、 緑:軽症。
トリアージは、災害発生現場で行う一次トリアージ、現場救護所での二次トリアージ、搬送前トリアージ、病院前トリアージなど、状況に応じて繰り返し行われます。


看護師の問診に答えていきます。
痛みの最大が叫びたい程が9としたら、今幾つぐらいですか、私は7と答えました。確かにこうやって椅子に腰掛けて受け答え出来るのですから。
私は10とはどのくらい、聞くと、意識をうしなうぐらいの痛み、と看護師を答えます。
そして、これまでの湘南鎌倉でのこの胆石発作の経過書類を見せると、ハイといって直ぐに返しますし、血圧が「164・100」なんて数字だけど聞くと、ここは、そして今は特別の環境下なので気にしなくて良いですとの返事でした、これを持って、茶色の椅子にお待ち下さい。と云います。
待合室の椅子は、トリアージによって座る場所が違っているようでした。
そした渡された私の緊急性の色は黄色、「非緊急治療」のようでした。
こっちとして緊急なのですが。

待っている間、普通に座っていると極端に辛く長い椅子横になってました。

この待合室の椅子は長椅子であったり、肘掛けであったり、そして色々な色に分かれており、トリアージの結果に座る位置は決められててたようです。
おおよそ30分待っている間、館内には、ドクターヘリ着陸で業務用エレベーターの利用制限アナウンスが流れていました。
救急車も頻繁に到着しているようてすが、ピーポーサイレンの音は敷地内ではならさないとか、院内患者を不安がらせるないようにルートでのストレッチャー搬送ルートは私達待合室から見えない場所にあるようです。
痛みは続きます、そして辛いのが体のダルさです。家を出る前にトイレで自分のおしっこの色の濃さをスマホで撮影しておきました。
かなり、橙色に近いオレンジ色、確実に肝機能が衰えているのが、自分でもわかります。
以前、ウズベキスタンで感染したA型肝炎の時は、オレンジは通り越して「赤」でした。それに比べればこの程度かとドクター問診の時に備えて撮影しておきましたが、その必要はありませんでした。

待合室で30分程待ち、ドクターに呼ばれました。

原因は解っていますので、今はこの痛みから逃れたいだけです。
私の担当は若い研修医でした。
研修医が指導医の元に診察しますと眼の前に大きく書かれていました。
26,7歳の若い、小柄な医師はとても丁寧に見てくれました。
私の記録したデータに12年前の日付と担当したドクターの名前などを書いておいたので、眼の前のパソコンで調べられますし、づっとこの病院で受けてきた記録、カルテが電子データとして残っていますから。
問診・触診も丁寧でした。
何よりも大病院、直ぐ採血して検査室に送り、1時間待たずに結果が出ます。
ファミリドクターの所では、結果が出るまで丸24時間かかります。
採血の後はエコーです。その場、診察室でハンディエコーで画像が見えます。
このエコーの結果、CTで撮影に回されました。
CTのデータも直ぐ担当ドクターのパソコンから見られるようで、この時になって指導医が現れ、一緒に見ていましたした。
そして、今回も造影剤CTをとることにしました。

造影剤CTとは
造影剤CT検査では、静脈注射で体内に造影剤を注入して血管や病変を鮮明に映し出すことで、病気を早い段階で見つけたり病気の性質を調べたりすることができます。
また、コンピュータを用いた特殊な画像処理を行うことで、体内のより細かな情報を得ることができますが、一部副作用があるようで、本人の承諾・署名が必要でした。
造影剤を使用するCT検査では、次のような副作用が起こる可能性があります。
検査中や直後:蕁麻疹、発疹、かゆみ、気分不快、血圧低下、呼吸困難、意識障害など
数時間から数日後:頭痛、吐き気、めまい、のどのイガイガ、咳、冷や汗、動悸、脱力感など
注射部位:痛みやしびれが持続する血管外漏出:注射部位が腫れて痛みを伴うt可能性がある。


事前に本人の承諾書が必要な検査で、以前にもやったことがあり、確かに静脈注入するので、撮影中体が火照った感じになりました、
すべでて終わって、私は鎮痛剤の点滴をうけました。
やや強めのとドクターいうように、かなり体は楽になりました。

最終結果と現状は
全ての結果がでて、若い担当研修医ともう一人指導医二人がもう一度、エコーと触診をし、鎮痛薬を10回分処方され帰宅となりましたが、救急緊急外来なのに、3日後結果を診察するので予約して同じ、救命外来でみられるように手配しておきますと、帰ることなりました。
おそらく勝手な考えですが、救命緊急外来の研修としてはとても良い、お勉強になるケースだったのでしよう。
3日後に今度は再び同じ医師に診察してもらい、この三日に飲んだ、鎮痛剤の数と時間を報告し
再びエコー・CTと、指導医の最終触診で終わりました。
そして、私のファミリードクター宛の紹介状を渡されました。
私のファミリドクターの一人は、湘南鎌倉出身で専門は消化器内科です。
指導医の考えとしては、何度「胆嚢炎」を繰り返しているので、最終的に「外科的処置」も考えておいて下さい。と伝えられました。

3日後ファミリドクターの所へ
「外科的処置」とは手術で胆嚢を取り除くこと、取るとその後多少、不具合も生じるがこの先、何度も経験する今回のようなことは起きない。
今76歳、次の発作次第では命、或いは今後の生活環境・レヘルに影響が生じる可能性がある、
今、直ぐではないけど、来年には決断すべきが、消化器内科医の見解・・・
80歳にもなって,開腹手術は嫌だなと云うと、今どきお腹なんか開けませんよ、内視鏡手術で
入院5日間・・・だそうです。

今回の費用
一回目 湘南鎌倉救急内科 4,130
二回目 湘南鎌倉救急内科 1,330
ファミリドクター  600 合計 6.060 但し保険適用 1割負担

来年は決断しなくては、カミさんは積極派のようですが

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2024年12月19日

マイナンバーカード更新 自撮り写真の難しさを思い知る

マイナンバーカードの更新手続き書類が郵便で届いた。

マイナカードに有効期限があるなんて知らなかった。自分の現在のカードを見ると、来年の誕生日までとなっている。
住所も変わっていないので、なんでそのまま使えないのか考えてみると、証明写真の問題のようである。
カードが本人のものであることを証明するに、そのためにパスワードを設定しているのだから、何年間の間にに年老いて、容貌が変化するのは当たり前、とくに年老いていくと、かなり違ってくるのは当たり前だが、そのためにパスワードがあるのだからと、ブツブツ云っても仕方がないのでしよう。

だって、今直ぐ、パスワードをなんだっけと覚えておらず、医療の現場では顔認証でとおしてきているのだから。
おそらく、顔認証の一番の有利な点は、いくら年老いても両眼の間隔は絶対に変わらないという論理で成り立っている、と聞いたことがある・・・
本当に、今、76歳、5年後の81歳の時の自分の顔と、今回申請用に撮影した写真の顔の輪郭やら、絶対変化しないという両眼の間隔の論理はあってるのでしょうか。

申請の方法は4種類
更新手続きの書類をみると、申請の方法が記載されていました。
1,スマートフォンでの申請
2,パソコンでの申請
3,証明用写真機での申請
4,郵便での申請

スマートフォンでの申請
手順と必要なものを見て直ぐにパソコン申請にしました。
@ スマホで顔写真を撮影
A オンライン申請用QRコードを読み取る
B 表示された申請用サイトに自分のメールアドレスを登録
C スマホに申請者専用サイトURLが届いたら顔写真を登録し、必要事項を入力して申請完了

私は団塊世代男性、少なくとも現在でもwebエンジニアとして、お手伝い程度をしていますので、手順は理解します。
でも、この方法・システムを作った人間は、スマホを完璧に使いこなせており、申請用の写真を何度も何枚を撮影して、お気に入りを保存する場所をスマホ内のディレクトリーとしてわかってる方、そして「QRコードを読み取り」が普通の生活で慣れており、自分のスマホに届くメルアドを簡単に、直ぐに入力でき、相手から確認メルアドに、顔写真を登録し、スマホで必要なテキストを間違いなく入力し、送信するまで、一度も「スタック」せずにやり遂げられるレベルまで、スマホを使い込んていない、出来ないでしよう。
とても、後期高齢者は絶対99.9%、一回の操作では出来ないでしょう。
私はだって自信がないので、さっさと躊躇なく手慣れたパソコンでの申請にしました。

パソコンで申請
必要なものと申請方法
@ 申請書ID(23桁)
A パソコン
B 顔写真ダータ

申請方法
・六ヶ月以内に撮影した顔写真データー
・専用サイトにID登録し自分のメルアド登録
・申請専用サイトURLに顔写真と必要事項入力


自分の使い慣れたパソコンでこれらの作業は待ち時間を含めても2〜3分でお終わるハズです。
問題は顔写真データです。
一つの問題はデータ容量・サイズ・形式・解像度については、申請手引にはサイズ寸法が4.5cm横3.cmとしか書かれていないのです。
正確なマイナンバーの写真の基本データ形式をネットで調べると・・・
アップロードファイルは、ファイル形式がJPEGで、カラーモードはRGB、ファイルサイズは20KB〜7MB、解像度は幅480〜6,000ピクセル、高さ480〜6,000ピクセルとされています。
とありました。あまり詳しく書くと、かえって一般市民が困惑するから書かなかつたのでしょうと推測していますが。

困ったのは自撮り撮影でした。
今、マイナンバーカードで使った顔写真は気に入っており、パソコン内にデータとして残っているのでこれを使えば簡単なのですが、相手は「マシン」以前と同じものと瞬時には判断し
跳ねられるのはミエミエなので、スマホで自撮りしてみましたが、画面いっぱいに映る自分の顔が嫌なのと、カメラレンズと顔の位置・高さ・距離何度やっても鼻の穴のまで大きく写ったりして一枚も気に入ったものが撮れません。そこで自撮りを諦めてカミさんが帰宅してから、コンデジで何枚も撮影し、そのうちの一枚を仕方なくUPロードしました。
この写真が後5年、私が82歳になるまで身分証明書の顔写真となるのでしよう。
82歳か、遺影と同じか、それにしても髪の毛が薄い爺さんの顔だ

証明用写真機で申請する
証明用写真機って何だ
先ず疑問は証明用写真機って、街なかにある証明写真ブースのことなんでしようが、あすこで写真を撮ってその場で申請が完了するのか?という疑問です。

申請からの方法をよーく読むと
1,ブース内のタッチパネルから「個人番号カード申請」を選択
2,撮影料金を料金を投入し交付申請書の「オンライン申請QRコード」をバーコードリーダーにかざす
3,画面の案内にしたがって入力必要事項ほ入力
4,顔写真を撮影して送信して完了

とありますが、料金が幾らかかるのか、画面に従ってと実際にどんな画面なのか、果たして撮影された自分の顔写真が気に入るのかは、解りません。
ネットで検索し、料金が幾らなのかは解りませんてしたし、撮った写真が気に入らなかったら最初からやり直すのか全くわかりませんでした。
第一、都会の便利な所にしか、そんなハイエンドなマシンはないでしょうに、地方に住む人には無用の案内になるでしよう。
少なくとも都会に住む、73歳のうちのカミさんには絶対無理な相談てす。

郵便で手書きで申請する
結局アナログ的方法になるのか
申請方法は
■ 交付申請書に必要事項を記入し六ヶ月以内撮影の所定の大きさの写真を添付し返信用封筒(料金受取人払)て郵送する、考えてみれば、これが一番簡単な方法だったのです
送られてきた案内書の冒頭に
1,スマートフォンでの申請
2,パソコンでの申請
3,証明用写真機での申請
4,郵便での申請
の順番で書かれていたのと、最近の返信用封筒には切手が必要なものが大半ですので、ついその場で一番簡単手軽なパソコンによる申請にしてしまったのが失敗だったのかもしれません。
来年になったらカミさんの分の更新書類が送られてくるけど・・・カミさんの顔写真撮って、自分の家のプリンターで印刷となると、今のインクがギリギリしか残っていないし、印刷用も残っているかな、もう何年写真を自分の家で自家プリントしたことがないものな。
そう思うと、今、プリンターメーカー大変だろうな。
昔はパソコンを買うと、プリンターはセットで買うような習慣が残っていたのに、今の若者は自分の家で印刷なんて考えもしないだろうな。

顔写真のチェックポイント


今回、このマイナンバーカード更新で、顔写真についていろいろかんがえさせられました。
カミさんと二人で海外旅行にでかけたのはもう50年も前のことてした。
その頃から、カメラに凝りだしており、一般的な観光記念写真的なものほとんど撮っていませんでした。
そして、カミさんも写真に撮られるのも、人の写真も見せられるのも、比較的苦手のようで、スマホにしてからも、スマホで写真を撮った様子もなく、ラインで送られてくるカーブスのお友達の家族写真やら、お孫さんの写真にはやや、呆れ果てているようてす。
我が夫婦はもうすぐ、金婚式を迎えますが、二人一緒の写真は結婚式いらいないのではと思うほど、何もないです。
これからもないでしよう。

これから考えなくてはならないのが、私の遺影ですが・・・
カミさんは云います。
「遺影」なんて必要ないからと。


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2024年12月17日

老化の宿命 歯の治療は最終段階か

男性の老化の進行順序は「メ」・「ハ」・「マ◯」と云われてきました。

「メ」目に関しては、これまでの自分の記録してきた日記帳を振り返ってよると1995年、イースター島に旅した時のタヒチ空港入国カウンターの暗いデスクでかなりイライラして、書類に書き込みして、この旅からもどったら、眼科に云って老眼のメガネを作ろうと決意したと書かれています。47歳の時です
そして、それはちょうど私のパソコン人生が始まった年と重なります。

「マ◯」に関して何時か、何処かで書くこともあるでしょうが・・いずれにしろ、前立腺肥大、それも並に見る肥大とドクターに云われているぐらい・・です。
一般的に、芸能人のように若い奥さんと再婚する人とか、「紀州のドンファン」のような旺盛な人って何歳まで、子孫を残す機能を維持しているのか?不思議と思うほど普通に衰えていますが、妄想だけは人並みの男性なのかな(他人はわかりませんが)と思っています。

「ハ」に関してはもう、全く、平均以下のボロボロ人生です。
歳いってから良く目にする、若い時の後悔、「ああしておけば良かった」で常にトップにきているのが健康に関する後悔で、とくに歯にかんするものです。
「もっと、若い頃から歯を大事にしておけば良かった」がいつの時代でも老後の後悔のトップです。

我が家は父親病弱不在の超貧乏母子家庭でした
その頃、子供のころから、歯を磨くという習慣はありませんでした。
小学校・中学校の修学旅行の時でもみんなと一緒に歯磨きした記憶はありません。
唯一小学校の「歯の検診」の時を微かに覚えている程度だけで、私は成長していったと思います。
現在の私の歯のを30年診ていただいているドクターに、この子供の頃の経験を話すと、私達、戦後二三年で生まれた子供たちはみんな同じで、歯の治療や健康について学校で検診するようになったのは、づっと後のことのようです。
私の場合、ろくに歯の健康などを考える前の20歳で日本を飛び出してしまったものですから、歯医者さんに定期的に診てもらうよなこと皆無でした。
私はブエノスアイレスで暮らしていた間に、虫歯が痛くて近所の歯医者さんに駆け込んだ時、「有無は言わさず」抜かれたのを覚えています。

本格的に、歯医者さんにお世話になるのは、結婚してからです。

それでも、虫歯で歯が痛くなった時のみでした。
仕事は大型建設現場のエンジニアリング系統の現場監督で、いくつも現場を抱えており都内・関東周辺を渡り歩h生活で、日中、決まった歯医者さん、担当医・かかりつけ医という今では当たり前の医療感覚がなく、あくまでも痛くなくなったら、食べることに不自由しなくなると、定期的に通うということは全くないまま、55歳の早期退職を迎えてしまいました。
現在、通っている、かかりつけ医の歯医者さんは、この早期退職する四年前からお世話になっているドクターです。
55歳で退職する前の4年間は都心の高層ビル丸々リニューアルと云う超大型物件で、土日・祭日に工事が集中し、水曜日定休日となりました。

そして4年後、早期退職し、再び海外にでることを決心していた私は、これまでの健康に関する反省から、特に「歯」に関しては海外に出た時のリスクが大きいのを若い頃から体験していましたので、日本のいる環境の時からしっかりとケアしようと、50歳で初めて、デンタル・ファミリー・ドクター的存在を作りました。
このドクターは、私が30代半ば、購入・引越してきた横須賀線東戸塚駅前再開発の一角のビルに開業した若手のドクターでした。
この頃、東戸塚駅前開発は30年計画と云われ、この歯医者さんは開院したての頃、まだまだ歯医者さんは少なく、カミさんは自身の勤務先に近い歯医者にし、あれからもう40年にもなるのに、カミさんも鎌倉の歯医者さんではなく、電車で通う横浜の古いお付き合いの歯医者さんに通っています。

私の歯はボロボロ、次は総入れ歯か

ドクターによると、戦後生まれの団塊世代は、ほぼ同じような環境で育っててきているし、歯の保全環境も似たりよったり、なるべく歯は抜かずに、辛抱強くお付き合いするしかないとと云います。

一度インプラントについて尋ねたことがありますが、このドクターは、私は積極的に勧めていません、と云います。
かなり、リスクのある手術となり、それになりの環境の手術室を用意しなければなりませんし、麻酔医の常駐が必要となります。
私が大きな現場のクリーンルームを担当したことがあるとと知ると、「この貸しビルの一室でインプラントなんて出来まないのを翼わかりでしょ」と云います。
そして、保険適用でないのでかなり大きな金額がかかります、そして、インプラントの歯たけが残ってなくなっていく老人が増えていくのです。
確かに、老化の原因に、ちゃんと食べられなくなるという因果関係もありますが、「私は歯科医として、出来るだけ抜かないで、今ある歯を残す治療を目指しています」
と云います。

信州からのリンゴを、ついつい丸かじりした時、ガクと前に傾きました。

先々週、前々からの歯槽膿漏でグラグラしていた右前歯は、ドクターの技量で抜かずに済んでいた歯が、鏡をみてもあきらかに、下の歯が出っ歯のような状態になってしましました。
ドクターからは気をつけるように云われていましたのに。
その前から左下のブリッジ入れ歯の支える歯がポロポロと欠け初めており、もう左も右も「刻み食」でないと、怖くて食べれない状態になってしましいました。
食パンを耳の部分さえ、そのまま口にいれて噛み砕くことが出来なくなってしましいました。
全ての形のあるたべもの、口の半分に入る程度の大きさにしないと、食べれない状態、プリプリした皮付きウイナーソーセージを、口に入れて噛み砕けなってしまったのてす。
なんと76歳で、全く哀れな老人の姿に・・・
カミさんは、この年齢で「刻み食」とは・・と呆れ果てました。
「はやく、歯医者さんに行って、総入れ歯でも仕方ないじゃない」
「みっともないなんて云っている余裕はないのよ」と言い放ちます。

11月の連休が重なり、12月に入ってからようやく電話で予約が取れて、電車で二駅の東戸塚駅に行きました。
馴染のドクターの一言、30数年のお付き合いがあるからこそですが・・・
「自業自得、あれほど気をつけてと云ったじゃないですか・・どうしよう」
「普通の歯医者さんの医療の常識では、抜きます」
「左も抜いて、下半分総入れ歯が、妥当な線でしょう」
私「総入れ歯って、昔の漫画にでてくるような、お爺さんがクシャミをすると、口から飛び出す・・・アレですか」
ドクター「そう、あれです」
私「残っている健康な歯も何本かありますが、それも全部抜いて?」
ドクター「そう、です。昔の漫画ほどでありませんが、でも私は抜きたくないので、残った歯をベースにして何とかしましょう」
ドクターの方は左右両方のベースとなる歯にブリッジで入れ歯を造るのは難しく、患者の負担となるので、左右どちらかの部分で食事を円滑に食べれる
ようにするには、いくらかマシな左側で咀嚼出来る程度のブリッジ入れ歯を作り、右側はこのまま、動かないように、固定する努力をします、でも決して、りんごの丸かじりを
前歯から右の歯ではしないで下さい。それは保証出来ません。」と宣言されました。

ヤレヤレ、これで何とか食事が出来るようになりました。

でも、食パンの耳の部分をそのまま、口をあけて食べると、何とかドクターの腕前で固定した前歯にひっかかり易いので、一口にちぎって食べます。
朝ののパリパリのウィンナーは、そのまま食いちぎれないことはないのですが、止めてナイフで切って食べています。
シャキシャキのキウリとか、繊維のしっかりした野菜は、カミさんが適度の大きさに切って食卓にだしてきています。
当年とって76歳、この歳で「刻み食」なのか? 情けない。
76歳でこの調子だと、この先どうなるのか、ヨレヨレで生きていくのか?


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2024年12月15日

終活 年賀じまい 定年退職後の繋がり方の多様性

12月、例年だと年賀状のデザイン、イラストのにとりかかる時期ですが、もうここ何年もこれらの煩わしさから開放されています。
今回もこのブログを書くにあたってネットを検索した際「2024年賀状 イラスト」と入力すると「辰」のイラストが現れてきて、「アレ」と思い直ししました。
私の干支は「子・牛・虎・兎・辰」のネズミ、カミさんは3つ下のウサギなのですから、換算すると来年は巳(み)のヘビどしです。
わたしの検索が間違って2024年賀と入れてしまったのです。
そう来年は2025年なんだ。

改めてうろ覚えの干支を改めて記録し、頭にインプットしました。

子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(いのしし)
なぜかと云うと、最近、自分の兄、姉の生まれた年、年齢があやふやになってきているからです。
でもはっきり覚えているのは、兄は酉(とり)、姉は申(さる)であること、亡くなった母は酉(とり)、父は辰(たつ)ということ。
つまり、父は生きているとしたら120歳はないから108歳、母は5つ下の酉(とり)で103歳ということですか。
私は母28歳、父が33歳の時生まれた三男ですから、母は今、生きていれば76+28=104、うん計算はあっている。そう、年賀状は自分の干支から、親・兄弟の年齢とか、生き方むを思い出す良いチャンスかもしれません。

年賀状の断捨離をスタートしたのは2003年退職した年の暮れからでした

今まで仕事関係でお世話になった方々に早期退職のお知らせとしてご挨拶の意味と、次に海外の旅で知り合った旅仲間には、改めて早期退職のお知らせと今後の旅先から随時、おしらせとの意味を込めてで大凡150通あまり、出しました。
当時はがき料金は50円、自宅プリントのインク代と併せて一万円ぐらいかかっており、まだ年金をもらう年齢でもなし、預貯金取り崩し生活の年末でちょっと大きい自分の小遣いの出費となったのを感覚を覚えています。
それでも、昔の仕事仲間やら、旅の友人と関係・連絡をパタと切ってしまう懸念・恐怖感はあり、まだまだ繋がっていたいと思っていました。
今回、年賀状断捨離で調べた時に発行部数変遷推移のグラフをみて、偶然かもしれませんが、私のタイヤした年2003年がピークで少しづづ減っていくのが見とれました。
このグラフの推移、団塊世代の退職とほぼ同期しているようにみえます。

断捨離」「年賀状じまい」「墓仕舞い」という言葉がネットに登場

特にに今年は急激に年賀状を辞めるという個人より会社が目立っているとメディアが伝えています。その理由の一つが63円のハガキ料金が85円に値上がりし、さらなる年賀状ばなれに拍車がかかって来ているのと、SNSの全盛の社会で人と人のつながりを改めて考える機会になっているのでしょう。
これは特別、私達、団塊世代や退職した60代世代だけではないようで、調査会社による10月のデータでは20歳以上の男女300人のうち、66人が年賀状を「やめるつもり」135人が「送る枚数を減らす」言う回答があるようです。
別のメディアによると、小規模印刷会社では、この年賀状減少で廃業を検討・決意する会社も多くでているそうです。
パソコンの普及で街の印刷屋さんの数は激減していますが、この年賀状のは「特需の風」が吹き、いっときでも落ち着くものの、最近は名刺もチラシの需要も少なく、潮時と考える会社も多いようです。

年賀状じまい、でも時々後悔しないでもないのですが・・・

年賀状は元日の朝に届いて、個性豊かな年賀状を見ることで、楽しいお正月ムードを高めてくれます。
親しい相手の様子も伺いみれるチャンスでもあります。
ただ一方で、年末の慌ただしい中、何枚もの年賀状を書くことはストレスですし“やめようかな?”と考えてしまう気持ちも理解できます」
しかし“年賀状を一方的に辞めると、失礼な感情を抱かされるのではないか”と思ってしまい、なかなか踏み切れない。
まず、大事なのは、感謝の気持ちを表し、そして“年賀状は最後にしますが、あなたとの関わりを断ち切るわけではない”という意思表示をすること。
携帯電話の番号やLINEのQRコードを印刷したり、これからは電話・メールなどで連絡を入れさせてもらいますと一言添えてもいいでしょう。

さらに注意したいのは、その理由です。
年賀状じまいを思い立つきっかけはいくつもありますが、その理由を具体的に書くことは、こちらの都合を押し付けるようで得策ではないので文面はシンプルに「老化」・「思うところがあって」という表現が無難でしょう。
「新年のご挨拶部分は印刷でも《これまで〜》以降は手書きにしたり、すべて印刷する場合は、《ゴルフが楽しかったですよね》《また、お食事に行きましょう》と、
相手との印象に残る出来事や、今後の楽しい時間が想像できるような一言を添えると、特別感が高まりますのでお忘れなく

捨てられない、処分出来ない海外からの絵葉書

 

退職して22年になります
72歳の時、地元のNPO団体などの役職を辞任したさい、これまでの年賀状は、住所録の記録だけを残し廃棄処分しました。
どちらにしろ、一応宛名書きソフトはPC内に残っていますし、カミさんに関係する相手は、紙印刷して残してあります。
今でも、捨てられないのが、海外からのの絵葉書類です。
現役時代に二人で旅した時、ツァーで一緒になりその後、行く先々から互いに絵葉書を出す友人は増えていきました。
世界の辺境の地を旅するような人たち、私達夫婦も含めて、筆まめ、そしてちょっと自慢したがり屋さんが多いので、手元に届く絵葉書の「彼女、僕達よりも
先に、行ってるよ」なんて国もあるのです。
そして、この絵葉書は私達夫婦の旅の歴史でもあるのです。
かなり世界の秘境を旅する時、必ず自宅宛に絵葉書を書いて送っていました。
同時に辺境マニアの旅の友人宛にも送っており、日本の自宅に届いているかどうかの確認もできるのです。
この絵葉書フォルダーには自分宛の絵葉書も含めて400枚ほどが残っています。
いつか、私の部屋のこの書棚はカミさんの趣味のものに代わるのでしょうから、そろそろ元気なうちに整理しようと、パスポートを更新しなかった65歳のときから
考えていたのですが、まだ処分できないままです。

夫婦二人で写った写真はゼロ
私たち夫婦は、旅先で一緒に記念写真を撮ったことはなく、残っているのは風景写真だけです。
お互い夫婦二人の生活はいつしか一人になるのは解っており、二人で一緒に写っている写真は却って郷愁を誘い「邪魔」になるとうのがカミさんの考えです。
ですから、我が家には結婚式の写真も残っていません、ましてや私の遺影に使うような写真もありません。
今、撮影している動画にもカミさんの後ろ姿がチラと入り込んでいる程度でなのです。
つまり、我が家では二人の過去の映像をみて懐かしがる、思い出にふけるという環境の予想、予測はなく、アッケラカンと、生活するに困らない程度の資産だけ残せば良いという、ちょっとドライな夫婦関係なのです。
私がまだ、このアルバムは捨てられない。私の理想としては、思い出は全て、ネットに上げておく、自分のサーバーだっていつ失くなるか分からないので、全て動画化しユーチューブに上げておこうと思っています。
そうすれば、いつか私は湘南鎌倉病院のベッドで、懐かしの国内の旅の動画や、この絵葉書をスライドショー化したものを眺めて、静かに逝くのを願っているのです。
そう、来年はこの絵葉書を全て動画化するプランをやろう、かなりの時間潰しになるだろうから。


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2024年12月13日

東京の夜景 六本木けやき坂と目黒川イルミネーション

東京の秋の風景、紅葉文字通り、木々が赤く染まっていく風景は

東京都内ではなかなかなく、赤く染まる紅葉は郊外一時間以上電車でいくような公園・森林しかなく、一番近いスポットとしての鎌倉にしても、京都のような寺社・仏閣のお庭の紅葉はごく限られており、自然林の紅葉としては、鎌倉の裏山を歩く天園ハイキングコースの「獅子舞」が唯一の紅葉の名所ですが、散歩コース程度なく、ハイキングの準備・装備をして入る、後期高齢者にはやや、厳しいコースで、季節的には日本で一番遅い紅葉で、12月第二週が例年の最盛期です。

東京の秋の風物詩は銀杏の黄葉と、都会のイルミネーションです。

都内の銀杏の黄葉の見どころは、「神宮外苑」「靖国神社」「東京駅丸の口広場」で最盛期にはインバウンド観光客、ほぼ90%は中華系アジア人が道路を埋め尽くして撮影しており、警備体制がひかれているほどです。コロナ以前はこんな、若い中国人観光客ではなく、ほとんどが買い物目当ての爆買い団体客でしたが、コロナ禍が終焉し、来ているのはのは、スマホ片手に撮影する個人旅行と思われる若い中華系女性観光客です。
皆さん、東京の撮影名所を良くご存知です。それというのもSNSからでしょう。
昔と違ってスマホ時代、だれでもが個人として情報・画像を発信し、互いに個人として繋がっている時代で毎日、莫大な情報・写真・画像が世界に広がっています。
良いアングルの撮影場所に驚くべき人数のインバウンド観光客が押し寄せてきており、「オーバーツーリスム」交通障害、地域迷惑ともなってます。
典型的な例が「コンビニ富士山」や、「鎌倉高校前江ノ電踏切」なのでしょう。

若者が海外に出なくなった

東京都はこれだけ史上最高の外国人観光客が押し寄せてきているのに、もっと増やそうと色々な手てを売って呼び込んでいます。
2024年の訪日客数3,310万人(JTB推計)〜3,500万人(政府見通し)これまで最高です。
3,500万人とは日本の人口1億2,500万人、日本人3.5人に一人は外国人生観光客となりますが、東京都に限るともつと多くなり、観光地では圧倒的に日本人よりもインバウンド観光客が多い現象になります。
白人・ヨーロッパ系の観光客が多いと目立ちますが、韓国・台湾・中国の特に若い女性は昔と違い全く区別がつかないほど、これらの国々の文化は、ネット社会で混じり合いそこに、今まで存在してしていた経済的格差の垣根がなくなり、かえって日本が遅れ気味になっていることも反映して益々、都内に観光客が溢れています。
日本人の20代若者のパスポート保有率はわずか5.9%、全く海外に興味がないことを物語っています。原因の一つに極端な円安があるのからでしよう。
日本国内にいれば、手頃で安全な環境があるのですから、何もわざわざ高い韓国・中国へ行く必要もないのでしょう。
団塊世代が、TVのなかのアメリカに憧れたのとは時代が違うのですしょう。

東京タワーから六本木けやき坂イルミネーションへ

現在の六本木アークヒルズ再開発は、ARKアーク(赤坂六本木開発)と呼ばれ地元森ビル主導で大規模開発が進んで今のような形になつてきています。私が日本に戻って建設エンジニアリング会社に再就職し、最初に研修先として配属された現場がこのアークでした。
元々、信州で育ち、東京にきてからも方角的に上野・文京区周辺を生活の場としてきて、この六本木・広尾・恵比寿などの地域は全く足を踏み入れたことのない場所でした。
建設がはじまった当初はまだ木造の家が多かった地域が今や、ここが日本なのかとみまちがうような、高層ビルが立ち並ぶお洒落な街になってきています。
最初のアーク開発周辺のビル(テレ朝・サントリーホール)が竣工したのは1985年、私が36歳の時でした。もうあれから40年たっています。
竣工後、私の受け持ち区域が都心の大手町・日比谷に移ったので、滅多に六本木にくることはなかったのてすが、退職して2003年、六本木ヒルズの竣工時に、検査・応援要員として立ち会って、私の現役人生が終わった場所です。
入学も卒業も六本木六丁目なのに、日比谷線六本木駅出口、はて何番出口一番近いかネットで調べる有り様でした。
日比谷線六本木駅は広大ですから、あらかじめ出口を行く先別に検索することをお勧めします。ちなみに、ヒルズは1Cが直近です。

東京タワーのライトアップ撮影が目的です。

アークヒルズと呼ばれているたけあって、ここやや坂の多い地形ですから、東京タワーは良く見えます。
但し、地下鉄の乗ってネットで調べた出口にでた時に既に方向感覚はゼロの状態になっています。外に出て、私達、建築屋のように本能的に北・南わかる人種でないかぎりタワーの方向はわからないでしょう。
今回も何とか来ているはずのヒルズ・地下鉄の駅でも見回しても、自分の知っているお店も通路もありません。過去の本能的にこちらの方向へと出ると見覚えのある毛利庭園にでで、今自分がいる場所を把握しました、そう眼の前遠くに、東京タワーが輝いていました。
しかし、廻りには私の知らない高層ビルが立ち並び、まだ建設中のものありました。

けやき坂イルミネーションと東京タワー

けやき坂方面へは昔から何度も、テレ朝に用事があって行っているのと、大勢のインバウンド観光客の人の流れ,歓声で分かりました。
方向的にけやき坂イルミネーションの坂上から東京タワーが真ん中にくる位置は解っていました。
二箇所あります、けやき通りのを渡る歩道廊下の上からか、或いは下の横断歩道のこの二箇所は解っていました。
しかし、ものすごい人、中国語の場所取り合戦の声と、スマホの壁前方をさえ切ります。ここで、前のガラスの壁が邪魔してダメ、と下の横断に出ると、警備員が数人道路に飛び出て撮影しないように、警笛を鳴らしっぱなしです。
横断信号は青になると一斉に道路に飛び出してスマホを構えます。
しかし、この横断歩道時間調整がされているようでものすごく短く、きっと10〜15秒もない短さで、車がいっせいに突っ込んできます。
きっと、コンビニ富士山もこんな状況なんてしょうに。
ここの撮影を終えて、次の中目黒に向かうのに、来た時の地下鉄日比谷線の駅に向かう時に、歩き出してわからなくなってなってしまいました。
確か、毛利庭園の方から歩いてきたハズなのに・・・
しかし、最近かなり素直になり、人に聞くことにしています。
以前でしたら、都会に紛れ込んだ田舎ものの、老人と思われるのが嫌でしたが、最近は素直に、久しぶりに大都会にきた老人を素直に演じることが出来るようなりました。

六本木から中目黒へ日比谷線一本です。

今夜の最後の撮影は、目黒川桜並木のピンクイルミネーションです。
六本木から日比谷線で一本乗換なし、と馴染の中目黒駅で下車し目黒川方向に歩きだして、アレ、なんか雰囲気が違うな・・・いつもの桜の季節のようなに賑やかさが全くない、普通の金曜日のよるのような雰囲気、方向は違うのかなと目黒川沿いにでましたが、いっこうに「ピンクイルミネーション」が見当たりません。
もっと下流のほうなのかな、確かネットで検索した時、ピンクの桜のマークが付いていたような記憶があるし、どんどん歩き出しましたがいっこうにありません。
「これは何か変、こんなに暗い訳がない」と山手通りの明るいところででスマホで「目黒川ピンクイルミネーション 何処」と音声入力で検索するとやはり音声で、「目黒川ビンクイルミネーションは、五反田と大崎の間で開催中です」と答えてくれました。現在、人のいない時、家ではスマホに文字を打ち込むのが苦手な私は全て、音声入力にしています。
こうやって、段々、少しづづ、衰えていくのでしょう・・・
頭から目黒川イルミネーションは中目黒と勝手に思い込んでいました。ではここから五反田・大崎へとお向かおうか・・・日頃テレ東の路線バス番組をみています。今
いるのは山手通り、ここを南方向へ行くバスは絶対に五反田駅近く通るはずとバス停で、立ち止まる直ぐにバスがやってきました。
車掌さんに一番近いバス停を聞くと「大崎広小路」と教えてもらい乗車しました。

目黒川ピンクイルミネーションの始まりは

春の目黒川の桜は都内でも12を争うほど有名で、メイン会場は中目黒です、今回のピンクイルミネーションもつい、その続きかと思っていましたが、目黒川ピンクイルミネーションイベントは2013から、五反田の商工会議メンバーが、中目黒に対抗して、冬場、クリスマスに五反田に集客しようとは始めたイベントで、2010年12月3日、「みんなで街への愛着と誇りを育んでいきたい」という想いから始まった、
街の景観資源を生かした冬の風物詩としてメイン会場である五反田ふれあい水辺広場を中心に、川沿いの桜並木をオリジナルの桜色LEDで装飾。「冬の桜」の通称で親しまれている。
イルミネーションに使われているのは、廃食油を資源としたバイオディーゼル燃料による自家発電である。
2016年からは品川区の主催エリアが設けられ、開始当初のスタート地点だった小関歩道橋から居木橋まで延長。全長が2.2kmになった。
品川区のエリアは今、品川駅がJR東海リニア新幹線始発駅となるもようからオフィスビルの建設ラッシュで新しい、品川のビジネス拠点の街と発展しており、これを機会に観光客をよびこもうと考えているようです。
確かに、青白いLEDよりも桜のピンクを意識したイルミネーションは「絵」になります。
しかし、開催してから14年にもなるのに、私のような暇人が知らなかったぐらいですから、まだまだ夜この周辺を訪れて人はまばらで、ましてやインバウンドらしき観光客は皆無でした。
そのぶんゆっくりと撮影が出来、大崎駅まで歩き、帰りは湘南新宿ライン一本で最寄り駅大船まで34分、736円でした。
都会は益々近く、早くなっています。

上野から始まる動画も併せてご覧いただけます。




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