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2024年10月30日

海外旅行トラブル2 フライト・航空機

今月、シニア姉妹の中欧五カ国七歳の旅 by 旅好きおけいの個人手配旅行中のトラブルに刺激されて、私たち夫婦のこれまでの海外旅行のトラブルの幾つか、特に前回は、ロストバギジについてかきましたが、今回は第二弾、海外旅行、特に個人旅行では付き物の航空機トラブルについて、思い出しながら書いて見ます。
今回のトラブルは飛行機が飛ばない話

飛行機が遅れる・・ではなく飛ばない話
日本の国内線では、飛行機が天候により飛ばない、フライトキャンセルのニュースはかなり目にします。そんな時羽田の各航空会社窓口では、長蛇の列となり、キャンセル手続きや振り替えや、宿泊の為に色々混乱しているのをお見かけして、大変だろうなと思ってみていますが、これが個人手配の国際便それも、外国の航空会社だったらと思うとゾッとしますが・・・しかし、かなり確率で起きうることなのです。

■ 単純に遅れる場合
もう、これはどんな理由であれ、受け入れるしかなく、飛んでくれるだけ、ラッキー感謝するしかありません。
特にアジアの国内線の場合、もう飛んでいただけるなら幾らでも待つしかありません。
それも、都会の大きな空港なら待合室も多く、フライトボードもあるような所なまあ、ゆっくり待つしかないのですが、小さな地方都市の場合、ろくに英語も通じないような地方都市の場合は焦ります。

<例>カトマンズからのポカラ便

当初私達二人はのんびりと現地の高級観光客特急バス(ツーリスト)で行く予定でした。
しかし、実際にカトマンズの旅行社はいくら高級特急バス(ツーリストバス)といっても、日本のバスのような訳でもなく、時間も8時間かかる云いますし、山道で事故も多いので飛行機でいくように勧められました。
飛行機なら30分で行けるのですから、と極力空路を勧められました。
それは解っていたのですが、初めてのネパール、空の上からひとっ飛びよりも、バス旅の好きな私は色々な街を縫っていくバスを選んだのですが、最終的にはツーリストバスであってもトイレはついていない、トイレは途中の路上?とう話になり、かなりその点では、日本の女性として逞しいカミさんも、やっぱり飛行機にしようかと、直前にフライトに変更しました。
その時、カミさんには、ネパールの国内便の事故率の高いことは云いませんでしたが・・・
当日、カトマンズ、国内線ターミナルでチケット(ワラ半紙に手書き)を貰い、出発ゲートはどこか聞くと、そのうち、アナウンスがあるというのです。

フライトボードはと見ると何処にもありません。
すると、向こうで大きな声、とうやら英語らしいですが、良くアジアのバスターミナルで「何処とこ行きのバスがでるよ」とやっているあの呼び込みをやっているのです。
近寄ってこの手書きのチケットを見せると、まだだと云います。何時と聞くと、分からない、ポカラからの帰りの折り返し便だといいます。
途上国の国内線は似たりよったりで、飛んでくれるだけありがたいのです。
結局、フライトボードがないのでこの案内人の叫び声の聞こえる範囲で1時間待って、ようやく乗れました。
2004年の話です、今はどうなっているか知りません。

<例>パナマシティからサンブラス島便

中米パナマのカリブ海に浮かぶモラ刺繍で有名な島にセスナ機で飛びます。
まだ暗い時間パナマシテイ空港のローカル線乗り場に行くと、小さなセスナが停まっていて案内されました。
乗客は私達夫婦ふたりと、現地のクナ族らしきファミリーで合計8名で満席のようです。・・が乗る前に手荷物をすべて軽量するのはわかるのですが、一人づつ、体重計にのって計量し座席位置を指定されました。何度セスナにのるのは慣れていましたが、初めてでした。乗って理由が分かりました。
8席の座先の奥になんと生きた豚が乗っていたのです。
これはこのクナ族ファミリーの手荷物のようでした。
サンブラスのホテル一軒だけの小さな島3泊しての帰り、ホテルが帰りのフライトを手配してくれました。

何時のフライトかと聞くと、行って見ないと分からない、と云います。フライトスケジュールなんてなくて、客がいれば飛ぶ、空のタクシーのようなものでした。
小さな島の集まりのサンブラス諸島では、外国人が宿泊出来るホテルのある島は2つだけ、で島のホテルがすべて送迎手配をしてくれました。
翌朝、ボートで空港のある島に行き、ホテルの主人は時計を見て上空を見上げています。
空の彼方からセスナが近づいてきて、着陸せず上空を通過していきました。何で?と聞くと、満席で降りてこなかったのです。
後2時間は、パナマ方面に飛ぶフライトはないので、ホテルに帰って朝飯にしよう・・・、つくづく私はスペイン語が堪能で、パナマシティから長期滞在しているコスタリカ・サンホセのフライト予約をしてこなくて正解だったと思いました。

これには後日談があります。
刺繍や手芸の大好きなカミさんは、サンブラスの島で沢山のモラ刺繍を買ってきたので、パナマで最高級のパナマホテル内の専用ショップのオーナーオバサンの所に挨拶に行こうというので行きました。あいにくその日、オーナーの店主は不在で娘さんがいました。
サンブラス諸島へ行ってきた報告に来たというと、彼女はびっくり「私のママは世界一のモラ刺繍の専門家で、日本で紹介する本を出版している第一人者だけど・・・
サンブラス島には一度も行ったことはないのよ」と云います。「エー本当」「だってあのセスナ何度、パナマのジャグルに墜落したことがあるのか、私も絶対に乗らない」と云いました。
この話は1996年の話、今でもそう変わっているとは思えませんが・・・

<例>シンガポールからマダカスカルの首都アンタナナリボへのフライト

世界遺産やら、団体パックツアーでは行かないような、世界遺産の地に行くには、個人でいくか、その方面の専門旅行社を通すかしています。
ある年、お付き合いのあるアフリカ専門店から連絡があり、シンガポールからマダカスカルまでのフライトが開通したので行ってみないかと云うのて2つ返事でOKをだしました。
フライトは成田・シンガポール乗り換えシンガポール・マダカスカルです。
成田午後便でチャンギに夜ついて、マダガスカル航空に乗り換えようと空港職員に尋ねると、マダガスカル航空?」と不思議顔をします、何処かに連絡して聞いて
いるようで、理由はつい先週このチャンギに就航したので解らなかつたとようです。
乗り換えエリアのマダガスカルフロントに行くと、機材故障によるフライトキャセルの張り紙が一枚あるだけです。
真夜中、知らない空港に置き去りです。
なんとかアジアの模範空港チャンギですから、英語は通じるので、メインフロントに相談しました。
解ったのはマダカスカル航空の事務所はシンガポールにはなく、シンガポール航空の子会社がすべてここの代理業務をやっているそうで、連絡をとってくれました。
事務所は空港内にあったようですぐに来てくれて、フライトは明日の午前中に変更、今晩は市内にホテルを確保するのでそこに泊まって下さい。
今日・明日のタクシークーポンとホテルカードを渡してくれました。と、その前に手荷物の積替えの確認をした所、一応間違いないと思うけど、クレームタグを預かります
と云うので、明日、乗る時マダカスカルへのクレームタグを間違いなく私に下さいとお願いしました。

ホテルにはいったのはその深夜2時過ぎでした
この翌朝のマダカスカル航空は、これまた最終のアンタナナリボ空港に4時間遅れで到着しました。
この時のマダカスカルは私の旅史上日最悪でした。
マダカスカル内の国内線は季節外れの台風で3日間飛ばす、ホテルに缶詰、8間の旅で観光したのは2日だけ、おまけに帰りのシンガポールへのフライトがこれまた、機材不良で4時間遅れ、かろうじて成田へのフライトギリギリという有り様でした。
この話2000年。現在マガかスカル航空は国際線は飛んでいないと思います。

エンジントラブルによる遅延・或いはキャンセル
すべてではありませんが、機材を沢山持っている航空会社は、ディレーや機材のトラブルがあっても、代替対応できるのですが、余裕の少ない、或いは全くない中小航空会社は場合、結構大変なことになります。

<例>成田・トロント・ブエノスアイレス便 2006

普通、今まで日本から南米、ペルー・ブラジル・アルゼンチンへ飛ぶ場合、JALまたはUAのLAX経由が一般的でした。
価格は高いですが一番アクセスが効率的で20時間台で目的地に到着できる利点がありました。
しかし、航空業界の競争と、ブラジルの大手バリグの倒産で様変わりしています。※2020年代は、中東・ヨーロッパ経由が一般的ですが・・
そんな時、成田からブエノスに行くルートして、カナダ航空が巷で注目されるようになり、なるべく安い料金と最短距離の北米ルートして利用者が増えている時期、初めて利用しました。

しかし・・・成田空港到着時、既にカナディアンは機材トラブルで3〜4時間遅れの状態でした。
このままでは、トロントからの南米ルート便に乗り遅れますので、相談すると直ぐバンクーバー便がでるのでそれに乗って、国内線線乗り換えトロントで行ってくれという訳で急遽、バンクーバー便に乗り込みました。
しかし、バンクーバーで成田からのチケットを見せて、トロント便を探すと、手荷物・スーツケースの積替えが出来ない恐れがあるので無理と、ブエノス便には‪間に合わないのが判明しました。
結局、次の次のトロント便に乗り、トロントで航空会社が手配したホテルに一泊となりました。
お陰でトロントタワーに登ることが出来ましたが。
入ったホテルでブエノスの空港に迎えに来る予定友人に国際電話をして、フライトが一日遅れになることを伝えました。

翌朝のチェックアウトの時に国際電話の請求をされました。航空会社のせいで泊まったけど、国際電話料金は会社に請求しろと云っても、やはり無駄で30ドル近く払うことになりました。
結構、個人旅行をしているとこんな事も多く、手荷物には最小限、着替え・洗面道具・必要な書類、メモは入れておかないと拙いことを改めて学びました。

<例>成田・ストックホルム・キルナ便 2002年

北欧、スゥェーデンの北極圏の街でオーロラを3晩みる阪急の格安パックツアーが込み込みで10万を切るのをみつけて、行くとこにしました。
予定では成田からストックホルムまでノンストップで行って、国内線に乗り換えて北極圏の街「キルナ」で先ず最初の夜を迎えて、オーロラを見る予定でした。
しかし、成田空港でスカンジナビア航空のエンジントラブルで数時間ディレーすると云います。
とういうことは、今日中にキルナにはいれず、ストックホルムで一泊しも翌日キルナに向かうことになります。
北極圏でオーロラを見る機会が3回から2回に減ることになります。
空港の阪急社員に問い詰める、今、この時点でツァー参加をやめることは可能で、全額返却しますと、云いました。
折角、今やっている現場を抜け出して、格安10万以下でオーロラをみてくると、宣言してでてきましたし・・・仕方なく、行くことにしました。

とりあえず、スカンジナビア航空に対して、2時間以上のディレーだから、成田空港での食事券を出すように要求しました。
航空会社によって違いますが、スカジナビアは20ドルのクーポン券をだしてくれました。
この2時間と制約を知っておいて下さい。でも多くはサンドイッチとカップコーヒーというほうが多かったです。

<例>成田・マニラ・バンコク・ムンバイ・イスラマバード、PIA航空

日本人若者バックパッカー御用達のPIAには、何度乗っていますが、まともに飛んだことは一度もありません。
このパキスタン航空の成田発、イスタンブール便は「アジア出稼ぎ便」と呼ばれていた、東アジアからヨーロッパに出稼ぎにいく人たちが多く利用する便として有名ですが、一度として定刻とおりに飛んだことありません。
イスラマバードから同じ機材でレバノン・トルコ経由パリまで飛ぶ、稀有なルートなのです。
現在もあるかどうか分かりません。
何度乗ったか?今でも鮮明に覚えているのはイスラマバードからバンコク経由成田に戻る飛行機がバンコク空港着陸時、翼から炎が上がるのを車窓からみえました。
でも、飛行機内はそうパニックにもならず、平然とゲートに着きました。
しかし、いくらなんでもこのまま、同じ機材で飛ぶとは思えません。
アナウンスでは、エンジントラブルの為、出発が遅れるという云います。するとマニラ方面に戻る出稼ぎフィリピン人は、まずは食事を要求してからバンコク空港内での居心地のよい場所、眠れそうな場所探しをして、なんと彼らは自前のブランケットを用意しているのです。
彼らに、そり毛布何処で手に入れたと聞くと、「いいや、これは自前、パキスタン航空を利用するには必需品だと云います」

結局私はこのバンコク空港に3日間足止めされました。その理由は「今、パキスタンから修理部品取り寄せている」という信じられない言葉でした。
3日間、フィリピン人と仲良くなって、聞かされたのはパキスタン航空「P I A」って「Pakistan International Airlines」だけど本当の意味知っていると?
Pは「perhaps」多分、Iはそのまま自分のIAは「arrival」到着
多分、自分は到着するだろう?だって、
パキスタン航空神話というものもありました。
PKは絶対に落ちない・・落ちる前に飛ばないから
ちなみに2024現在、PIAは日本路線はありません。

旅にトラブルは付き物です。
英語の「トラベル(Travel)」と「トラブル(Trouble)」は、同じ語源であるという説と、関係がないという説があります。
「トラベル」の語源は、ラテン語で「労苦を伴う努め」という意味の「トラベイル(travail)」という説があります。
現在のような交通網が発達しておらず、主たる移動手段が徒歩であった時代を考えると、この説も納得できます。

次回の旅のトラブルの話は
■ 時差と夏時間
■ タクシーとバス
■ ホテルトラブルについて 予定しています。

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2024年10月28日

日本の世界遺産、行ってみたいランキングトツプ5


ようやく、秋の風を感じるようになって、今年のこれからの旅の計画を始める気分にになってきしました。
新聞の何でもランキングの欄で、行ってみたい日本の世界遺産の特集に目がとまりました。
トップ5は国内に5件ある自然遺産が占められていました。

第一位 屋久島
樹齢数千年と云われる縄文杉が息づく原生的な天然自然林があり。国内初の世界遺産に登録された。
残念ながらまだ行ったことがありません。
私達夫婦二人の旅のポリシーとしては、原則、個人旅行のスタイルの為、関東かに一番行きづらい場所ですからです。
空路に限りがあるのと、一年に400日雨が降るという気候・天候がいけない理由に輪をかけています。
次に費用の点です。私達早期リタイヤシニアにとっての二泊三日の国内予算に全く収まらない金額であるのも、一つの障害となっていますが
最大の障害は、カミさんが全く雨の降る巨大な森林のなかを長時間歩く、それも山岳ガイドと一緒に・・・抵抗があるのです。
おそらく、この先も行かないでしょう。

読者コトメントは
「生きているうちに訪ねたかった縄文杉をやっと目にして、涙が自然にでるくらい感激した、島の人に愛されている自然が素晴らしく、山に登れなくてもまた訪ねてみたい」
(女性64歳)
「自然の悠久さに感激、人間の幼さを感じた」(男性80歳)
登録後に観光客が急増、縄文杉の前は大混雑し屋久島はいち早くオーバーツーリズムに直面した、今は観光客が落ち着いたが、環境保護と観光の両立の模索が続く

第二位 知床
流氷によって育くまれた海から陸・山とつながる生態系が見られる

高校生の時から、数年前まで何度か訪れてたことのある、地、知床。生態系と生物多様性が評価された地
投稿者コメントは
「半島の先端まで番屋以外、何も無い、道もないようなところを歩き、これぞ自然遺産だと感じた」(男性75歳)
「知床が好きで今年も旅行した、太陽光パネル群設置の計画が持ちあがつているが、中止して違う方法を考えてほしい」(女性57歳)

第三位 小笠原諸島
大陸につながったことのない海洋島には、独自の進化を遂げた固有種が多く存在

ここへは行きたいと思い、何度か計画をしたことがありますが、後期高齢者となり断念しています。
屋久島と同じく、アクセスと宿泊に選択肢が限られているのが大きな原因であるのと、海路しかなく、私は100%船酔いするからです。
特に、小笠原へは日本列島から流れの強い「黒潮」を乗り切って太平洋に出る際、必ず揺れます。
数万トンの大型客船でも揺れるのですから、小笠原へのフェリーは揺れます。
それと、内地の観光と違って、天候に関する条件を選べないことです。
一般的な小笠原ツァーは6日間です。
一日目 東京竹芝桟橋11:00(発) 〜〜(おがさわら丸)〜〜 船中泊
二日目  〜〜11:00(着) 父島 フリータイム ペンション・民宿・ホテル泊
三日目 フリータイム
四日目 フリータイム
五日目 父島二見港15:00(発)〜〜船中泊
六日目  〜〜(おがさわら丸)〜〜東京竹芝桟橋15:00(着)
現在まで断念しているは、天候・費用とカミさんの拒否です。
読者コメントは
「東京湾を出港し一晩開けと時に見えた海の色に驚いた。上陸した時の白砂の色と景気が忘れられない」(男性62歳)
「手が加えられていない自然の美しさと島民の優しい振る舞いに心打たれた」(男性76歳)

第四位 白神山地
青森・秋田両県にまたがる世界最大級の原生的なブナ林に多種多様な当植物が息づく、日本の自然世界遺産登録第一号の地

この地は、車を保たない、運転できない人には、かなりハードルが高い場所となります。
青森県側は、八甲田や奥入瀬渓流があるのでバスの便はありますが、世界遺産のブナ林はバスの車窓からとなります。一度バスを下車すると、次のバス数時間後或いは新緑・紅葉のシーズンは、バスを待っていて満員で乗れないケースもあります。
秋田県側は、人気の五能線で近づけますが、後はタクシーとなり、免許返納した高齢者にとっては、厳しい環境です。
私は、春と秋、実家の車好きの兄と一緒に、信州から4日間、桜と紅葉を撮りにこの地まわりました。
読者コメント
「美しい森林風景に感激、案内人にあなた達がみているのはたったこれだけと地図を示され、その雄大さに圧倒された」(女性77歳)
「山林はもとよりそこから流れる川の水が綺麗で海にも良い影響をおよぼしいてる」(女性68歳)

第五位 奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島
世界的に希少な固有種や絶滅危惧種が多く、豊かな生物多様性を守る為に重要ん地域

私達夫婦が唯一行ったことのあるのは、西表島だけです。
奄美大島も徳之島も私達が一番苦手、手強い、島であり、交通の便やらが商業観光ベース料金に反映されない、内地のリタイヤ年金シニア層には円遠い本土から離れた島部となるためです。
西表島は、退職直後、国内の終の棲家探し、調査の為に訪れた石垣島に一週間滞在している時に一度、観光で行った時だけです。
石垣からの海路、そして西表島内の公共交通である路線バスのルートと時刻表をみて、離島の厳しさを実感しました。
そして、石垣島の不動産価格と台風の規模・強さの違いを改めて感じた時でした。
終の住処に、自然環境の保護も大切であるが、これから年老いて行く、子供のいない夫婦が住み続ける環境には何が一番大切、重要なのかを、学んだのがのこの退職直後の沖縄石垣島の一週間まのお試しステイでした。

以下6位から20位読者ランキングです。
6位 紀伊山地の霊馬と参詣道
7位 白川郷・五箇山の合掌造り集落
8位 姫路城
9位 法隆寺地域の仏教建造物
10位 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
11位 古都京都の文化遺産
12位 厳島神社
13位 古都奈良の文化財
13位 琉球王国のグスク及び関連遺産群
15位 原爆ドーム
16位 佐渡島の金山
17位 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産
18位 平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的移籍群
19位 北海道・北東北の縄文遺跡群
20位 石見銀山遺跡とその文化的景観

これらは朝日新聞の企画、「Be Ranking」を引用しています。
現在、世界遺産は文化遺産952件,自然遺産231件,複合遺産40件を含む1,223件に上り,そのうち日本からは文化遺産21件,自然遺産5件の計26件の世界遺産が登録されています。
このランキングにない、その他六件の世界遺産は
順不動 
■ 日光の社寺 
■ 富士山と信仰・芸術の関連遺産群
■ 富岡製糸場と絹産業遺産群
■ 明治日本の産業革命遺産 ※西洋以外の地域で初めて産業革命を達成した貴重な遺産
■ 国立西洋美術館
■ 百舌鳥・古市古墳群−古代日本の墳墓群

鎌倉は世界遺産を目指していましたが、断念しました。
世界遺産登録には確固たる、証明できる遺跡・遺物が必要の上、このまま保護しないと消滅してしまう恐れがあるという規定があるようで、鎌倉の場合、十分に保護されているのと、登録名目の「武家による政権」に関するものが希薄であると、世界遺産登録審査の「イコモス」から駄目をだされて、再度の登録を目指す運動はそうでなくとも、鎌倉はオーバーツーリズムの障害が市民が迷惑を受けている現状から、世界遺産には登録されないでしよう。


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2024年10月26日

後期高齢者の医療機関巡り

今週月曜日、何年ぶりか大腸カメラ検査をやってきました。
先月、かなり便秘気味である日、トイレを済ませてトイレットペーパーを何気なく見ると、赤い鮮血のようなものがついていました。
これは、明らかに「痔」かもしれない、しばらく二三年、大腸カメラをやってなかったのと、8月の胃カメラのポリープの検査結果を聞いてなかったので、ついでに聞いてみようかなと、消化器系のかかりつけ医に行きました。9月の末日です。
すると、大腸カメラは今、予約がいっぱいで直近で空いているのが10月の月曜日の午後3時でした。
ふーん、ついでに8月の胃カメラも結果も聞きますので予約入れて下さい。とお願いしました。
この、内科消化器系のクリニックは、横浜から鎌倉に越してきた時、旗艦大病院の徳洲会湘南鎌倉総合病院から、かかりつけ医てして紹介された解説間際のクリニックでした。
徳洲会病院の二人(男・女)医師が、共同で設立したクリニックで一階が、老人医療(血圧)専門医の女医さんと、消化器内科、二階は特にカメラに特化した消化器系男性医師、
二人共40歳になったかならなんかった頃でした。

高齢者の病院巡り、待合室のサロン化

大都市近郊の鎌倉では、元々の開業医が多く、立派なお屋敷の庭先にはベンツが二台あるような雰囲気の、昔ながら地方の医療体制でしたが、徳洲会が全国に展開する本部旗艦病院として設立してからは、鎌倉市の医師会と徳洲会の間の亀裂は深まるばかりでした。
とくに、団塊世代一斉退職し、中高年の医療を必要とする世代が増えていくなか、日本の医療は「かかりつけ医」制度をとりいれてし、大型先端医療を展開する医療機関・大学病院や
大型病院への初診について、別額費用を請求するようになったのも、私が早期退職した2003年あたりからでしょう。

現在私は団塊世代ど真ん中、ここ鎌倉にきた頃、団塊世代というとまだまだ若手、これからの地域・ローカル社会の担い手でしたが、今や来年喜寿77歳です。
ここにきた頃は「かかりつけ医」・「ファミリードクター」という言葉意識しませんでしたが、後期高齢者となると意識します。
すべての医療・薬のデーターが1本化するようになると特に必要になります。

私のかかりつけ医・ファミリードクターは
■「T医院」女医さん、高齢者医療・血圧専門医、徳洲や会では、高齢者訪問介護をやってました。徳洲会系列

■「TMクリニック」消化器内科専門医、徳洲会では私の胆管の専門医のお弟子さんでした。数年年前まで週一で湘南鎌倉に勤務していました。

■「I整形外科」徳洲会出のスポーツドクター、
ビタミンや薬で老人の体の不具合は治らない、先ずは痛みを緩和して、自分の足や体で生活できるようにするのが、老人医療と声高に唱える、医師、上記二人と元同僚、小さいクリニックながらMRIをおいています。
このような一般ビル内に大容量電力のMRIを置くケースは、元電気設備屋としてびつくりしました。
医院HPでは説明していました、移転に伴い最新型のMRI装置(ドイツ・シーメンス社製;MAGNETOM Amira)を導入致しました。
2015年4月に発売したMRI装置で日本国内では2台目の導入、東日本では1台目の導入となります。当院の専門領域である整形外科に対応した専用コイルを装備しております
ここは予約制ながら、朝、9時受付なのに8時半には道路前は長蛇の列が出来ています。
予約制ですが、私は近い為、8時半に先頭に並んで受付すると、その日の予約状況によりますが、ほぼすぐに診てもらえます。
  
■「TK脳神経外科クリニック」ここも同じ徳洲会グループ、二から三年一度、MRIによる脳神経を見ていただいています。
これら四人は元々、同僚、顔なじみですから、特別紹介状をかかなくても、予約がとれます。
但し、本部の湘南鎌倉本部病院へは予約は出来ますが、紹介状は必要のようてす。

■「S耳鼻咽喉科」は私が鎌倉にこしてきてから半年でオープンした医療ビルに出来た、耳鼻咽喉科です。
ドクターは三十代の女医さん、耳鼻咽喉科は場所によっては絶対に儲かる医療体制のようで、先ず、子供の多い、ファミリー層の住宅地とうことだそうで ここは、とくに風邪の流行る季節になると、9時開院なのに、8時半にはシャッター前には10数人が行例している盛況ぶりです。
特に、簡単な風邪程度でしたら今の時代、耳鼻科でなおりますから。

■「II眼科医院」眼科医院がこんなに混んでいるとは

60台後半にはいるまで知りませんでした。 
やはり9時開院のクリニックは狭い待合室は高齢者でいっぱいです。メガネの処方箋や、コンタクトレンズを全く扱っていなのに患者で溢れています。
一つには、ドクターが有名医大卒の人気の女つくっ医(おばあちゃん)で、とても親切な対応で高齢者には受けが良いのが原因でした。 
しかし、ここの女医さんの息子の台になると、途端に患者は半分以下になりました。
カミさんも同じ眼科医院に通っており、「あの息子、二代目ではあの眼科潰れるよ」というほどでした。
元々、大学病院の眼科主任の若手がいきなり、母親が開院して鎌倉の叔母様あいて「眼科医院」では苦労するのは目に見えていました。
二年もして、かのの若手息子、有名私立大学病院眼科若手主任は見違えるようになりました、じつくりと話しを聞いて、説明するようになり、患者は再びもどつってきたようです。
そして何よりも電子化、IT化、映像化したことでしょう。
いろいろな説明もやはり若手大学病院出とあって、どんどん眼科計測機器が増えてきました。

■ 「N皮膚科」は戸塚にある何十年も秋の空気の乾燥する季節になると、一年に一度の薬を調合してもらうために、通っていた小さな医院ですが、昨年閉鎖されました。
ここで処方された塗り薬はちゃんと「お薬手帳」に記録がありましたので、私のメインの「T医院」女医さんに年に一度だしてもらってます。

■ 「T歯科」 現在、一番医療費としてお世話になっているのが、歯医者さんです。
私達子供の頃は今のように、毎食時、朝、夜、歯磨きをする習慣はあのませんでした。 
注、これはもしかして、我が家が貧乏で商売をやつていて、四人の子供にそんな手が回らなかったのか、或るいは社会全体が、歯の公衆衛生に関心がなく、行き届いていなかったのかも知れませんが・・・そして成長してから、私の場合、海外で呑気に一人暮らしを、奔放な生活していたのと、帰国してからも、現場に負われ、仕事で、歯が痛くなって初めて、歯医者さん行く、そんな生活をこれまでしてはきたツケが退職後いっきに押し寄せてきたのでしょう。
歯茎、歯槽膿漏、虫歯を長年放っておいた「ツケ」が今、70台になっていっきにやってきています。
歯医者は自宅近くではなく、かつて住んでいた横浜の東戸塚駅前の歯医者さん、もう40年もここだけです。
だって、こんなボロボロ、汚い歯、他所のの初めての歯医者さんに診てい抱く訳にいきません。
ここのドクターも、「まあ、普通のドクターなら、全部抜歯して総入れ歯の状態」と云います。
でも、出来だけやっていきましょう。と週一、電車で二駅の歯医者さんに通う、生活が何年も続いています。
まあ、どうせ、暇ですから、電車に乗っての暇つぶし、お散歩がてらのとなっています。

今回の大腸カメラは

大腸カメラは大きな病院では(湘南鎌倉総合の場合)は、朝9時から行って、ドクターの問診をうけたのち、大腸カメラ専門病棟にいき、手術衣に着換えお尻があいたパンツに履き替えて、看護師の指導であの2リットルの下剤を飲み、トイレに行く度に看護師が排便状態をチェックして、合格がでるまで飲み続けるのです。
勿論途中は飲まず、食わずで過ごして、午後早くてもも1時頃から施術室に運ばれ、カメラ検査を終わってからも、看護師の身体検査、麻酔でふらふらしないか、まっすぐ歩けるかの検査に合格しないと、帰宅できません。
しかし、街かなの「大腸カメラ」医院の場合、前日に自宅で飲む、二種類の下剤と、吐き気止めを渡され、カメラ前18時間まえから自宅で、自分で飲んで、排便し、その様子をしっかりと把握して、施術前30分に行くステップとなったおり、昔よりもかなり簡略化されまのした。
今回のカメラで、ドクターにお願いしたのは、使う麻酔の量でした。
二ヶ月前の胃カメラの後、このクリニックから自宅に徒歩で帰る際、JRの大踏切で少しフラフラとよろけました。
胃カメラの麻酔の影響が残るのは知っていましたが。これまで何回もやったことがありましたが、今回のようなケースは初めてです。
私は、麻酔が良く効く体質のようで、注射されて1秒でコロっと寝てしまい、術後も仮眠室への移動も覚えていないぐらい、麻酔が効きやすい体質です。
この時は、日中の炎天下のせいもあったのと、老化による脚力の低下もあったのでしょう。
そんな話しをカミさんにすると、今回の胃カメラの後、「必ずタクシーで帰ってこい」とのお達しです。
クリニックから自宅まで徒歩12分の距離をタクシーなんて、お金・料金の問題よりも、クリニックに呼ばれたタクシーの運転手さんに、「申し訳ない」という気持ちが優先してしますます。
今現在の自宅近郊のタクシー料金は、近距離はメーターではなく、一乗車500円固定と使い易くはなってきていますが、昭和の貧乏オジサンはなかなか、この距離のタクシー利用には慣れていないのです。

今回は事前にドクターに少なめの麻酔でとお願いしました。
すると、胃カメラと大腸カメラでは、当然大腸カメラのほうが体の負担が大きいので、少なめにはするが、途中で麻酔がきれる可能性があるのでなかなか難しいと云われました。
それでも、やって見ましょうということで、今回の大腸カメラは始まりました。
確かに、今までカメラがお尻から入るのも解らず、目が冷めたら、仮眠ベッドの上という状態ではなく、カメラが進んでいき、ポリープやらにパチンという音も聞こえる状態
、かなりお腹のなかに違和感、痛いという不快感を初めて感じました。
終わって、仮眠室に横たわるのをしっかりと覚えています。
軽く目が覚めた状態で時計を見ると術後25分程度、頭も体も完全に目覚めていたので、手元のベルで看護師さんを呼ぶと、後5分で所定の術後30分の仮眠時間がすぎるのでもう少し
寝ていて下さい、と言われました。
前回は、仮眠室か着替えて一階の待合室まで行く時に、少し足元はふらついていましたが、今回は階段の手すりをしっかり掴んで階下におりました。
麻酔を少なめにした効果なのは間違いありませんが、胃カメラの検査中の苦しさを天秤にかけると、やはりドクターの過去の経験通りの麻酔量のほうが良かったのではと
考えています。

帰りの精算で少し驚きました。

大腸カメラの請求が6.530円です。
私は後期高齢者の上に低所得者ですから、当然健康保険負担割合は1割です。
となると、大腸カメラの医療費は65,300円ということですか、前の3割負担、2割負担の時はそんなに高いとは感じなかったのですが、後期高齢者となつて一回のクリニックへの支払いに一万円札を出すのは初めてで、少し戸惑いました。
2割負担時なら、一ヶ月の高額医療費は月に8,000円が上限ですから、それ以上は戻ってきますが、後期高齢者の高額医療費制度はどうなっているのか?
調べてみると、1割負担の低所得者でも高額医療費の上限は8,000円ですから、この大腸カメラでは戻ってきません。
でも10月は歯医者4回、二ヶ月に一度のファミリードクターの健診と二ヶ月の薬代合わせると、8,000をオーバーするので、ほんの少しでも戻ってくるでしよう。
しかし、こういった話題は地元では来ません。カミさんの話を聞くと、彼女のお友達、同世代の後期高齢者はほぼ90%は、2割負担、あるいは事業主などは、3割負担だそうです。
サラリーマンのご主人がなくなって初めて、1割負担となったという話ですから、カミさんはこの手の話題に触れないようにしているそうです。

11月は大きな検査が2つ残っています。
■ 眼科 緑内障予備軍の為の視野検査
■ 脳外科 二年に一度MRI脳健康検査をしています。
■ ファミリードクターの所で血圧・心臓系の検査
これはすべて、同じ月に集中して幾らかでも、出費を抑えるようにしています。
昔、退職計画を作成した時には、70歳以上は医療費が無料だったのに・・・・

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2024年10月24日

西田敏行、団塊世代同級生の死

10月17日、突如俳優西田敏行「浜ちゃん」の訃報を知った。

76歳、団塊世代のど真ん中、まるで同級生の死を知った如く、少し狼狽えた。
これまで、あまり西田敏行の健康やら、私生活についての報道はなく、同じ世代の私達と同じく少しづづ、体力も気力も衰えていき、持病の一つや2つはあるだろうけどまだまだ俳優として、スクリーンに登場するだろうと思っていた。
死因は?伝わってきてない持病でもあったのか?
翌日の報道で過去ににいくらか「心筋梗塞」を患っていたとの報道やら、「糖尿」やらが伝わってきてた。
朝、事務所関係者がベッドで亡くなっているのを発見し警察に通報したという。
その後の報道によると「虚血性心疾患」という。

虚血性心疾患とは、
動脈硬化や血栓で心臓の血管が狭くなり、心臓に酸素・栄養がいきわたらず、運動やストレスで前胸部などに痛み(心臓の痛み)、圧迫感といった症状を生じる状態です。
虚血性心疾患の症状は様々なものがあり、自覚症状なく健康診断の心電図異常ではじめて指摘されたり、苦しくなったり、歯の痛みを感じることもあります。
虚血性心疾患の原因は冠状動脈の動脈硬化であり、その危険因子は冠危険因子と呼ばれる。
冠危険因子として、高血圧、糖尿病、脂質異常症、喫煙、精神的ストレスなどが関連しているとされる。
虚血性心疾患の5つの危険因子は?
虚血性心疾患の予防は動脈硬化の予防と同じです。 したがって動脈硬化を引き起こす5つの危険因子、高血圧、高脂血症、喫煙、糖尿病、肥満がそのまま虚血性心疾患のリスクファクター(危険因子)でもあるのです



解ったことは、報道にある「虚血性心疾患」とは

直接の病名ではなく、病気の状態であるようで、冠危険因子として、団塊世代、後期高齢者の私を含める多くの男性が持っているものでだれでもが、ご同輩、西田敏行のように、朝伴侶がベッドに起こしにいったら、亡くなっていたというのは、十分にありうるものと解った・・・けど

家族は?奥さんは?子供?、何も伝わってこない
断片的に過去の闘病について女性自身が伝えている
’01年11月、西田さんは首の骨が変形し手足のしびれなどが 起こる頸椎症性脊髄症を罹患。
’03年3月には心筋梗塞で緊急入院し、生死の境をさまよう事態に。
’16年2月には、自宅ベッドから転落したことで首を痛め、頸椎亜脱臼に。
その手術を同年4月に受けた直後、胆のう炎も発症しまさに満身創痍状態だった。
でも、いままで一版的にはなにも伝わってはきていなかった。
奥さんは演劇集団「青年座」の研究生で、西田の一目惚れ、彼女のアパートに転がり込んでの結婚、一女がいるようです。

団塊世代の演劇・俳優・歌手の昭和の時代のデビュー話は
今とは違い、ひとつのパターンがある


私と同じ団塊世代、地方から一度は上京し、最高教育を目指すも中退し、己の目指す道を進むパターン。
私の中学・高校は、県立ながら県下一の進学校だったせいか、高校の同級生になると、半数以上が東京の国立、東大・一橋・農工大・東工大・そして東京六大学学校、特に早稲田が多く他にもほぼ半数は旧国立一期、旧帝大系に行っており、同級生には中央官庁の次官クラスとか、一部上場企業の役員クラスまで上り詰めた者も多かった。
そんな元同級生とは云え、55歳で早期退職した私にとって、同じ団塊世代の仲間という意識はほぼなかった。
彼らの人生と、私がドロップアウトして歩んできた人生の違いを私は十分に感じていたし、55歳、かれらがこれからだという年齢・時代に私は、同じ思いのカミさんと一緒に、さっさと日本社会の「人生レース」から降りていたのですから。そんな時、同じ年齢、世代としてわりと親近感を抱き、勝手に同期生だと思っていたのは次の四人プラスもう一人の5人です。

五木ひろし 1948/3/14  現在 76歳 福井県 中卒後上京  
武田鉄矢  1949/4/11 現在 75歳 福岡県 大学中退後上京 
西田敏行  1947/11/4 2024年10/17 死去76歳  福島 高卒後上京 
谷村新司  1948/12/11 2023年10/8 死去75歳  大阪、大学中退 
もう一人、元首相・菅義偉 1948/12/6 現在76歳 秋田県


元首相・菅義偉は、一度上京し朝は築地市場、夜は新宿区の飲食店でアルバイトをして生活し、その合間に受験勉強をし東京に移住した2年後に「授業料が最も安かった」という理由で法政大学法学部政治学科へ進学し、警備員や新聞社、カレー屋のアルバイトで生活費と学費を稼いで、1973年、法政大学法学部政治学科を卒業し、建電設備株式会社(現・株式会社ケーネス)に入社している。

共通しているのは、
いずれも地方から苦学上京しており、決してエリートの道を歩んできていない。
菅元総理が入社した会社は、国が所管する道路や河川・ダム等の社会インフラの円滑な運用・管理に必要な電気通信設備等の維持管理を担う総合保守点検会社
社会的知名度は低いが、業界内でダントツNO,1会社、私が居た建設業界に近い業種の会社です。

退職した2003年まで、上記のブラウン管・スクリーンの人物には特別な親近感は抱いていなかったが、65歳を数える頃になると、健康年齢を気にし初めて、自分と同じ年齢、世代、青春時代をどう生きてきたかが、気になり、チェックするようになりました。

今回の西田敏行の報で、彼が青年座に出身と初めて知りました
昔、築地でバイトしていた頃、青年座に所属していた、今風に云うと「美女」「イケメン」夫婦にお世話になったことがあるのです。
私が南米から数年ぶりに帰国し、都内の電子專門学校夜間部に入って時、朝・昼の仕事で給料はまあまあ、一食と寝る場所付きのアルバイトを捜してたどり着いたのが、築地市場でした。
魚まみれ、匂いと水に浸りたくないけど、乾物・練り物業界なら出来るかもと、当時人気の求人雑誌、「学生援護会 アルバイトニュース」をみて応募・採用され
大手スーパー相手の練り物問屋さんの築地市場内店舗で働くことが出来ました。1975年(当時私は27歳)のことです。
築地市場は一版的には朝の6時から、場内の店は10時に閉めます。
実労4時間、朝飯つき、大浴場一定条件で無料、給料4時間で凡そ4,000円から5,000円が相場でした。
月25日働くと10万前後、当時社会保険も健康保険も失業保険もバイトはありませんから、所得税を引かれて、バイトで半日働いて月10万になる結構良いバイトでした。
1975年昭和50年、「泳げたいやきくん」がラシオから流れていた時代、1975年の大卒初任給は、8万9,300円の時代、朝6時から午前中の築地で働くと、当時の大卒初任給よりも上だったのです。


多くの夢や希望を持った若者が、築地で働いていました。

特に、これから海外を目指す若者、演劇・歌謡界・芸能界を目指すものがや多くいました。
私が入った練り物問屋には、私と同年輩の「イケメン」がいました。入った当時、バイトリーダーとしてやっているようでした。
彼は、演劇、芸能界、映画の世界を目指していたようで、南米から帰ってきた私を面白がって、色々世話をしてくれました。
そして数ヶ月経った頃、同じ演劇を目指している彼女が、私の南米の話を聞きたいと、かれらのアパートを招待しお昼をご馳走してくれました。
美人の彼女の手作りカレーでした。
その後二人は、劇団のヨーロッパ公演に参加する為に会社を辞め、それ以降会ったことはありませんが、今回の西田敏行の訃報で「青年座」に所属と聞いてふと思い出しました。
あの二人の所属していた劇団名は良く覚えていませんでしたが、「青年座」の本部が代々木八幡近くと聞いて、確かあのアパートは、劇団けいこ場の近くと聞いて覚えていました。
ると、あのイケメンカップルはもしかしたら、若き日の西田敏行と一緒に、演劇を目指していたのかと思い出しています。

劇団青年座は1954年に10人ほどで設立し、これまで研究生なども含めて1,000人以上が在籍、巣立っている
劇団の卒業生には以下の顔と名前が売れた俳優がいる、いたようです。
緒形直人、段田安則、竹中直人、山岡久乃。
現在 高畑淳子が理事として運営しているようです。

同期・同級生とも感じていた西田敏行の死で、半世紀も前のバイト時代の仲間を思い出していました。

私の場合、誰か反応してくれるだろか。


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2024年10月22日

久しぶりの外出、招き猫の豪徳寺へ


新聞の日曜版で、招き猫の特集で、世田谷の豪徳寺を特集していました
昔、上野・池之端から転職の為に、渋谷井の頭線沿いの新築アパートに引っ越した時、住所が世田谷区と初めて知りました。
最寄り駅から二駅先が下北沢でした。今のようにグーグルマップで住まいの周辺を知ることもなく、転職先の会社に近いという理由だけで選んだ場所でした。
下北沢・明大前・高井戸・吉祥寺・渋谷、今まで全く縁のなかった町が身近になりました。
そのなかに、井の頭公園とか、松陰神社とか、豪徳寺とか、三軒茶屋の名前もありましたが、住んでいた三年間、会社の花見で一度だけ井の頭公園にはいきましたが、行かずに三年後には
新築マンション購入で横浜へ引越しました。
あの世田谷のアパートから45年経ちました。
豪徳寺は今、インバウンド観光客が「招き猫」がインスタ映えするというので毎日大勢押し寄せているようです。
特にそんなインスタ映えには魅かれませんが、乗り鉄・撮り鉄として、三軒茶屋から豪徳寺最寄り駅の「宮の坂」経由、下高井戸を走る一部路面電車のレトロな東急世田谷線を見てみたい、
思いがしたので、ひさしぶりに出かけようと思いました。

最近の体調を考えてルートを選択します、


今年の熱暑・猛暑で確実に体力・筋力は昨年よりも衰えてきているのを実感します。
そして次の旅に備えて、自分の体力・筋力を確認するために先ずは、近場に行ってテストしてみようと、そんなに「招き猫」の豪徳寺に関心があった訳でもありませんか、あまり陽射しの
きつくない日を選んで行って見ることにしました。
いつも、旅のルート計画を考える時の基本は
1,最優先事項として一番安く行けるルート多少の歩きは覚悟
2,出来るかぎり乗り換えが少ないルート
3,お金はかかっても、一番早く行けるルート


今回の場合自宅からは
1,は自宅最寄り駅「JR大船」⇒「JR藤沢」小田急乗り換え⇒相模大野・乗り換え⇒登戸
⇒豪徳寺⇒徒歩18分お寺に到着
所要時間1時間40分 乗り換えは快速へり乗り換えの為 料金 744円
2,は 安いが豪徳寺まで徒歩15から20分は強い陽射しの下歩きたくない場合
「JR大船」⇒「JR横浜」東横線乗り換え⇒「渋谷」⇒田園都市線乗り換え「三軒茶屋」
乗り換え世田谷線⇒「宮の坂」徒歩5分お寺に到着
所要時間1時間27分 乗り換え3回 料金825円
3, 通勤時間帯、楽して最後まで座っていきたい
 「JR大船」始発湘南新宿ライン⇒「渋谷」⇒田園都市線乗り換え「三軒茶屋」乗り換え
  世田谷線⇒「宮の坂」徒歩5分お寺に到着
  所要時間1時間16分 乗り換え2回 料金1,164円

今年76歳、この夏の暑さ、体力不足、夏バテにまけて、ついに一番イージーなルート3を選んでしまいました。
これは、きっと晩年、嗚呼あの時からだったと思い起こすことになるでしょう。

生まれ変わって大きく変化した渋谷駅で乗り換え

このブログを見ている多くはタイヤシニアの方々で、渋谷の駅前にはかまぼこ屋根の駅舎を思い出すでしょうが全く東急の駅舎は変わってしまい、昔の渋谷しか知らない人は99%迷子になります。
昔、井の頭線を利用していて、渋谷駅は新宿や東京駅よりも親しみのある駅でしたが、今は全く違っています。
ともかく、構内各所に張り出されている案内板に沿って歩くしか方法はありません。
私の行きたい「田園都市線」の表示は「DT」なんです、東横線は「TY」なんです。勿論日本語漢字表記もありますが・・
JR線ホームから何回も上がり、降りても曲がりも素直に田園都市線にたどり着くのは、地方(神奈川県鎌倉も同じ)から来た人には迷路そのものです。
ネットの乗り換え案内ではJRホームから乗り換え時間5分と表示されますが、これは毎日JR渋谷・東急渋谷駅を利用している人でもかなり難しい時間でその3倍15分は絶対に乗り換えにかかるでしょう。そして「三軒茶屋」乗り換えもネットの案内は乗りかえ必要時間6分と表示されていますが、絶対無理です。
昔、学生時代を渋谷道玄坂ですごしたり、「三軒茶屋」あたりでブイブイいわしていた人も、無理です。全く三軒茶屋は変わっていました。

昔なつかしレトロな世田谷線?

建設業界に入った頃、職人さんの車の助手席に座って環七(環状七号線)を走っていると、いつも渋滞が起きている場所があります。
「若林踏切」こんな東京の大動脈の環状線に踏切があるなんて・・と思った事があります、それが東急世田谷線なのです。
電車が来たら環七の交通を止めるのではなく、信号(交通信号)が変わるまで電車の方を待たせる仕様になっており、電車が信号待ちをする方式です。
踏切の種類としては若林踏切は第4種踏切とされている(踏切警報機・遮断機がなく、交通信号で道路交通を規制するタイプの踏切も第4種として分類され珍しい踏切です。
現在の世田谷線の区間は、1925年に三軒茶屋駅 - 世田谷駅間が玉川電気鉄道(玉電)の支線の下高井戸線として開業したのに始まり。
同年5月1日には残りの世田谷駅 - 下高井戸駅間が開業した。1938年玉川電気鉄道は東京横浜電鉄(現在の東急の前身)に合併され、玉川線となる。
そのため、私達世代では玉電と呼ばれている、団塊世代にとっては懐かしい、緑色の電車で、この古い車両は現在でも私の地元「江ノ電」にも使用されています。

最寄り駅は小田急「豪徳寺」ではなく東急世田谷線「宮の坂」

玉電「宮の坂」駅には、豪徳寺への案内看板は全くありませんでしたし、無人駅でトイレも有りません。
世田谷線は三軒茶屋から下高井戸まで均一料金160円の上、すべてカード方式の為改札の必要のないワンマン運転がなりたっていますので、駅はホームだけのシンプルな造りでここ豪徳寺最寄り駅「宮の坂」には多くの外国人観光客は下車するとすぐにスマホグールマップで歩き出す方向を見極めて歩き出しています。
ちなみに駅名「豪徳寺」は新宿よりの小田急線にある駅で、下車するとこの豪徳寺まで商店街を歩くこと15分以上かかります。
この世田谷線に沿って歩くのもひとつの観光になるんもしれませんが。
豪徳寺とは、ホームページによると

大谿山 豪徳寺は、世田谷区にある曹洞宗の寺院。
彦根藩主・井伊家の江戸における菩提寺で、井伊家ゆかりの文化財が数多く所蔵。
世田谷区でありながら緑豊かな地にあり、都会の喧騒を忘れてしまうほど、心やすらぐ静寂な時間が流れています。
境内にある梅・桜・牡丹・芍薬・つつじや晩秋の紅葉などの四季折々の草木で、季節によって変わる境内の表情もお楽しみください。
石門から山門に至る山道の松並木、さらに野鳥が飛び交う奥深い森林もまた見所です

何で招き猫なのか

はじまりは、一匹の猫が鷹狩り帰りの殿様を、寺へ招いたこと。
ある日、この地を通りかかった鷹狩り帰りの殿様が、お寺の門前にいた猫に手招きされ、立ち寄ることに。寺で過ごしていると、突然雷が鳴り雨が降りはじめました。
雷雨を避けられた上に、和尚との話も楽しめた殿様は、その幸運にいたく感動したそうです。
それが彦根藩主の井伊直孝でした。
豪コ寺は、直孝に支援され、寛永10年(1633年)に再興しました。

招福猫児が見守る招福殿

その後、豪コ寺では、福を招いた猫を「招福猫児(まねきねこ)」と呼び、お祀りする招福殿が建てられました。招福殿には、家内安全、商売繁盛、開運招福を願うたくさんの参詣者が訪れています。
堂内には招福観音菩薩立像が安置されています。
お堂の横に隙間もないほどずらりと並ぶ、大小さまざまな招福猫児は圧巻!
ここは招福猫児の奉納所で、願いが成就したあとに返納すると、さらに御利益がいただけるといわれているのです。
つまり、ひしめき合っている招福猫児の数だけ願いが叶っているわけなので、それだけでも縁起のいいスポットといえそうです。

外国人観光客に大人気の「招き猫」のお土産


普通のお寺でも最近、御札や数珠などが売られていますが、このお寺で一番混雑しているのが、のお土産用招き猫販売所で、外国人観光客が列をなしていました。
画像でも解るように、大きなものはすべて「Sold Out」です。
残っていたのはすべて日本円で1,000以下のものばかりです。それでも日本人の私達からみたらちょっと高く感じるのですが、ドル・円換算すれば7ドルにも満たない金額で、日本の由緒ある宗教施設で正価としてこの値段で、こんな可愛い、ものが買えるなんて、そしてもらった方もきっと嬉しいことでしょう。
そして、英文の説明署には、願いがかなったらその「招き猫」をこのお寺に返納することを勧める英文も書かれていました。

帰りの玉電 東急世田谷線は

唯一一両のみの招き猫ラッピング車両でした。
今回の外出の目的は数カ月ぶりに一人、カメラを持っての都内への遠出で、夏バテ気味、体力不安の自分の体の調子をみることでした。
しかし、歩いた距離10,000歩、思っててたよりも下半身は疲れていなく、途中何処かに腰を下ろしての休憩のの必要もなく、渋谷の駅に帰ってきてました。
予定では、このまま湘南新宿ラインで帰宅するつもりでしたが、体調もも良いので折角渋谷まで田園都市線できたのだから、改札を出ずにそのまま東横線で横浜まで戻れば交通費いくら安くなるかと、計算すると339円も、三軒茶屋から横浜まで東急線を乗り継いで帰るほうが、早く、安いのが分かりました。
しかし、途中の中目黒まで混んだ電車のつり革を掴みながらでしたが・・・・・

自宅に帰ってTVをつけると「西田敏行」が亡くなった報道・・・同い年、同級生のような彼の死・・・ゆっくりと、追悼しよう

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2024年10月20日

いつか伴侶を失い、悲観と向き合う時の対処方法

カミさんが家のなかで足先を机の角にぶっつけ、小指・薬指の骨折でほぼ一ヶ月、外出、買物へいけず、かなり家事の負担が多かった一ヶ月がようやく過ぎました。
そんな時、新聞の特集記事「人生の最後を見つめる、それぞれの最終章」という記事が目に入りました。
子供のいない夫婦は、いつかは一人になる時がくる事は解っています。

しかし、日本全国の男性、否、世界中の男性は、自分が先に逝くと疑いもなく信じています。
確かに、人類の男女の間には平均的な余命の差があり、生物学的にも立証されている事実ですから、そうなんでしょうが、しかしそれが全ての男女・夫婦に当てはまる訳でもなく、妻、女性が先に逝くことだってありますが、統計的には先に逝くのは男性です。
20年の国勢調査によれば、65歳以上の高齢者で配偶者と死別した女性の割合は35%で、男性は同9%だった。これが75歳以上になると比率はさらに高まり、女性の51%、男性の15%が、配偶者との死別を経験しているのだ。
カミさんはこの統計を引き合いにだして、「私が先に逝くことも考えて、家事・炊事・洗濯・買物も今からやってもらういい機会よ」とおつしゃいます。

特集記事は「最愛の妻の死」によせられた感想が掲載されていました。
恐らく読者が期待しているのは、最愛りの妻をなくして途方にくれ涙する夫の手記なのでしょう。

妻の死と自殺一例として鎌倉文士江藤淳の例
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

退職後鎌倉に越してきて、写真クラブに入って色々写真好きの方々のパソコンサポートでお宅に伺うことが増えました。
その一人の方のお宅に伺う時に、道に迷いとおりすがりの方に住所を告げて教えていただいた時、「ああ、奥様の後をおってなくなった作家、江藤淳さんのお隣さん」ですね。
と云います。
作家・戦後日本の著名な文芸評論家で、小林秀雄没後は文芸批評の第一人者とも評された。鎌倉文士の一人、20代の頃から長らく文芸時評を担当し、大きな影響力を持った。
1998年(平成10年)12月、癌により妻の慶子が死去。妻を亡くしてからはかつてのような気力を失っていったと言われている。
妻看病中に前立腺炎を患い、1999年6月には脳梗塞におそわれた。
最後は自らを「形骸」とし、1999年7月21日、鎌倉市西御門の自宅浴室で剃刀を用い、手首を切って自殺、66歳没。
遺書には「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし 以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。
乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日」とあった。
妻の葬儀のあとのことで、自身も脳梗塞の後遺症に悩んでいた。ライフワークであった『漱石とその時代』は、数回を残し未完に終わった。
妻の闘病生活を綴った『妻と私』を残し、続く『幼年時代』も未完に終わった。
まあ、これが子どものいない、わりと知的社会階層の男性の死とし受け入れられているケースだと思います。

しかし、プレジデントには、妻に先ただれて男性の投稿記事がありました。

ようやく私に自由な時間がきた。
30年以上、どこに行くのもいつも妻と一緒だった。
妻は出かける前の化粧や洋服選びに時間がかかるし、買い物の時間は長いし、荷物は持たされるしで、本当に一緒に出かけるのが億劫だった。
でも、これからはひとりでどこへでも行けるのだ。
まず何をしたいか?
そうだ、妻が生前に溜め込んだ服や食器を捨てよう! 
まとめてゴミ袋に入れて、業者にでも引き取ってもらえばいいか。
気に入らなかったアジアン風の籐(とう)のベッドも、食器棚も本棚も全部捨てる!
50枚近くある犬の服も、こんなにはいらない。元々うちの犬は、服を着るのが嫌いなのだ。
これまで妻がうるさいから行けなかった友だちとの飲み会も、「毎晩でも付き合うよ」と友人たちにLINEしとこう!
そうそう。歌舞伎町のキャバクラのあみちゃんにも、もう堂々とLINEできるのだ。
LINEの通知音も消さなくていいし、男の名前で登録しておく必要もなし
しかし、 妻に先立たれ「自由だ!」「天国だ!」と全くならず・・・
「なんでもない日常ばかり思い出されて仕方ない。あれが幸せだと今になって気づいた」
私が先に逝くはずだったのに、現実は逆だった。
そして、妻が先に死んだからといって、冒頭に書いたようにはならなかった。
なぜならなかったのだ?
自由を手に入れ、ひとり暮らしを満喫し、新しい彼女でもつくって、優雅に海外にでも遊びにいけばいい。なぜそうしない。
現実は、未だ喪失感に苛まれ、ただ無為に4年の時を過ごしただけ。
LINEに友人からメールが来ても、既読スルー。キャバクラのお姉ちゃんはブロックした。五十肩でお姫様抱っこなんか到底無理! ひとりでは焼肉屋にすら入れない。
パーティーどころか、今日もせっせと自炊して、ひとりで侘びしく「金麦」を飲むだけ。
それが現実だ



ネットAIの解説に寄れば「妻に先立たれた夫」は

妻に先立たれた夫は「男やもめ」「寡夫」「鰥夫(やもお)」などと呼ばれますが、一般的には区別する呼び方が定着していません。
妻に先立たれた夫の寿命は平均3年という説があります。
妻が先立つと夫の余命は5年縮まるという説もあります。
妻の死後は、精神的にこたえることがあり、身体の半分がもぎとられたような気持ちになることがあります。
妻の死の直前の苦しむ姿を目の当たりにしているため、度々それがよみがえることがあります。
妻が使っていた道具がそのままになっているため、妻がいるような気がすることがあります。
妻がしていた家事をするごとにあれこれ思い出して、悲しい気持ちになることがあります

妻を亡くした男性は、余命が短くなる可能性が30%も高かった

妻が先立つと夫の余命は5年縮まり、夫が先立つと妻の考えて余命は延びる…
妻の死後、夫に一番多い"死因"とは
妻が先に亡くなると、夫は酒やたばこの量が増える
なぜ、こんなに差があるのか。夫の妻への依存の割合が高いからです。
多くの場合、65歳を過ぎたあたりから、夫にとっては妻だけが大きな心の支えになっていく。
だからこそ妻のほうが先に死ぬと、夫はガタッとくる。ガタッときて、何に対しても、興味も持てなくなり、好奇心もなくなる。欲望もなくなるのです。
とりわけ死因の中では、心臓病が一番多い。なぜかというと、妻が先に亡くなると、酒やたばこの量が増えたり、甘い物を食べ過ぎたりなど、アディクション(依存性)の状態になりやすいからです。それが血液の凝固性を高めて、心筋梗塞が起きやすくなる。まさにブロークン・ハートです。
がんになった場合も同様で、がんになったら、最初の2カ月はガタガタッとくる。ガタガタッと心が壊れて急性のうつ状態になっていく。
これも対象喪失です。自分の命はもう長くないんだ。そういう対象喪失状態に陥っていきます。
「対象喪失」というのはこのように、命を失う、健康を失う、妻を失う、大事な人を失う、といったように「大事な何かを失うという体験」そのものです。

妻の死について書き留めるという自己癒やしの法

奥様をなくされたNさんは8年間の介護を経て逝った妻への思いを手紙に綴った。
二人の出会いから、親に猛反対されての結婚、子どもに恵まれなかったが、二人して海外旅行によくでかけて、テレビの中に二人で行った国々の映像を見るたびに思い出をはなしていたこと、しかし70歳を過ぎて妻は寝たきりになり、Nさんは買物をしたり、食事を造ってきた。
死は突然やってきた。いつもより元気そうな妻の頭を両腕で支え、そうめんを食べさせた直後のこと、「美味しい」と云った後に天井を向き目を開き、ガクンと顎を落とした。
もう何度も呼びかけたが、返事はなかった。
それから三ヶ月、暗い自室にこもり遺影にてを合わせて泣いた。今年七月で一周忌、今も「いってらしゃい」「ごはんですよ」の声を思い出し、涙がとまらない。
今回、書くことをすすめられ、悩んだ。書いてみてどんなに妻が好きだったか解った。
今も妻がフラッシュバックして苦しい、でも書いて良かった。書かなくとも写真にするとか俳句に読むとか、表現方法は何でも良い、最愛の人はどんな人で、どんな時間を一緒に過ごしたか、死によってバラバラになっていく記憶の断片をまとめ、今とつなげる。そうやって残された人が前を向くことを死者は望むはずたから」と

私達夫婦の場合、1,000%私が先に逝くのは解っています。
そしてカミさんは私のが逝った後、恐らくですが20年は生を保っていることでしょう。
もうその頃は、私と暮らした思い出も残っていないかもしれません。
人は忘れることで生きていけると思っています。
いろいろな生きていた頃の思い出・経験など覚えていたらたまったもんではないはずなんてすから。
そう、我が家は全てにおいてサバサバしており、カミさんの写真も私の写真も今現在、何も残してありません。
カミさんは「人は忘れることが出来るから生きていけるのよ」とほざいています。
「解った認知症に女性が多いのは、これが原因かも知れない」


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posted by 西沢 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

いつか伴侶を失い、悲観と向き合う時の方法

カミさんが家のなかで足先を机の角にぶっつけ、小指・薬指の骨折でほぼ一ヶ月、外出、買物へいけず、かなり家事の負担が多かった一ヶ月がようやく過ぎました。
そんな時、新聞の特集記事「人生の最後を見つめる、それぞれの最終章」という記事が目に入りました。
子供のいない夫婦は、いつかは一人になる時がくる事は解っています。

しかし、日本全国の男性、否、世界中の男性は、自分が先に逝くと疑いもなく信じています。
確かに、人類の男女の間には平均的な余命の差があり、生物学的にも立証されている事実ですから、そうなんでしょうが、しかしそれが全ての男女・夫婦に当てはまる訳でもなく、妻、女性が先に逝くことだってありますが、統計的には先に逝くのは男性です。
20年の国勢調査によれば、65歳以上の高齢者で配偶者と死別した女性の割合は35%で、男性は同9%だった。これが75歳以上になると比率はさらに高まり、女性の51%、男性の15%が、配偶者との死別を経験しているのだ。
カミさんはこの統計を引き合いにだして、「私が先に逝くことも考えて、家事・炊事・洗濯・買物も今からやってもらういい機会よ」とおつしゃいます。

特集記事は「最愛の妻の死」によせられた感想が掲載されていました。
恐らく読者が期待しているのは、最愛りの妻をなくして途方にくれ涙する夫の手記なのでしょう。

妻の死と自殺一例として鎌倉文士江藤淳の例
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

退職後鎌倉に越してきて、写真クラブに入って色々写真好きの方々のパソコンサポートでお宅に伺うことが増えました。
その一人の方のお宅に伺う時に、道に迷いとおりすがりの方に住所を告げて教えていただいた時、「ああ、奥様の後をおってなくなった作家、江藤淳さんのお隣さん」ですね。
と云います。
作家・戦後日本の著名な文芸評論家で、小林秀雄没後は文芸批評の第一人者とも評された。鎌倉文士の一人、20代の頃から長らく文芸時評を担当し、大きな影響力を持った。
1998年(平成10年)12月、癌により妻の慶子が死去。妻を亡くしてからはかつてのような気力を失っていったと言われている。
妻看病中に前立腺炎を患い、1999年6月には脳梗塞におそわれた。
最後は自らを「形骸」とし、1999年7月21日、鎌倉市西御門の自宅浴室で剃刀を用い、手首を切って自殺、66歳没。
遺書には「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし 以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。
乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日」とあった。
妻の葬儀のあとのことで、自身も脳梗塞の後遺症に悩んでいた。ライフワークであった『漱石とその時代』は、数回を残し未完に終わった。
妻の闘病生活を綴った『妻と私』を残し、続く『幼年時代』も未完に終わった。
まあ、これが子どものいない、わりと知的社会階層の男性の死とし受け入れられているケースだと思います。

しかし、プレジデントには、妻に先ただれて男性の投稿記事がありました。

ようやく私に自由な時間がきた。
30年以上、どこに行くのもいつも妻と一緒だった。
妻は出かける前の化粧や洋服選びに時間がかかるし、買い物の時間は長いし、荷物は持たされるしで、本当に一緒に出かけるのが億劫だった。
でも、これからはひとりでどこへでも行けるのだ。
まず何をしたいか?
そうだ、妻が生前に溜め込んだ服や食器を捨てよう! 
まとめてゴミ袋に入れて、業者にでも引き取ってもらえばいいか。
気に入らなかったアジアン風の籐(とう)のベッドも、食器棚も本棚も全部捨てる!
50枚近くある犬の服も、こんなにはいらない。元々うちの犬は、服を着るのが嫌いなのだ。
これまで妻がうるさいから行けなかった友だちとの飲み会も、「毎晩でも付き合うよ」と友人たちにLINEしとこう!
そうそう。歌舞伎町のキャバクラのあみちゃんにも、もう堂々とLINEできるのだ。
LINEの通知音も消さなくていいし、男の名前で登録しておく必要もなし
しかし、 妻に先立たれ「自由だ!」「天国だ!」と全くならず・・・
「なんでもない日常ばかり思い出されて仕方ない。あれが幸せだと今になって気づいた」
私が先に逝くはずだったのに、現実は逆だった。
そして、妻が先に死んだからといって、冒頭に書いたようにはならなかった。
なぜならなかったのだ?
自由を手に入れ、ひとり暮らしを満喫し、新しい彼女でもつくって、優雅に海外にでも遊びにいけばいい。なぜそうしない。
現実は、未だ喪失感に苛まれ、ただ無為に4年の時を過ごしただけ。
LINEに友人からメールが来ても、既読スルー。キャバクラのお姉ちゃんはブロックした。五十肩でお姫様抱っこなんか到底無理! ひとりでは焼肉屋にすら入れない。
パーティーどころか、今日もせっせと自炊して、ひとりで侘びしく「金麦」を飲むだけ。
それが現実だ



ネットAIの開設に寄れば「妻に先立たれた夫」は

妻に先立たれた夫は「男やもめ」「寡夫」「鰥夫(やもお)」などと呼ばれますが、一般的には区別する呼び方が定着していません。
妻に先立たれた夫の寿命は平均3年という説があります。
妻が先立つと夫の余命は5年縮まるという説もあります。
妻の死後は、精神的にこたえることがあり、身体の半分がもぎとられたような気持ちになることがあります。
妻の死の直前の苦しむ姿を目の当たりにしているため、たびたびそれがよみがえることがあります。
妻がいつも使っていた道具がそのままになっているため、妻がいるような気がすることがあります。
妻がしていた家事をするごとにあれこれ思い出して、悲しい気持ちになることがあります

妻を亡くした男性は、余命が短くなる可能性が30%も高かった

妻が先立つと夫の余命は5年縮まり、夫が先立つと妻の考えて余命は延びる…
妻の死後、夫に一番多い"死因"とは
妻が先に亡くなると、夫は酒やたばこの量が増える
なぜ、こんなに差があるのか。夫の妻への依存の割合が高いからです。
多くの場合、65歳を過ぎたあたりから、夫にとっては妻だけが大きな心の支えになっていく。
だからこそ妻のほうが先に死ぬと、夫はガタッとくる。ガタッときて、何に対しても、興味も持てなくなり、好奇心もなくなる。欲望もなくなるのです。
とりわけ死因の中では、心臓病が一番多い。なぜかというと、妻が先に亡くなると、酒やたばこの量が増えたり、甘い物を食べ過ぎたりなど、アディクション(依存性)の状態になりやすいからです。それが血液の凝固性を高めて、心筋梗塞が起きやすくなる。まさにブロークン・ハートです。
がんになった場合も同様で、がんになったら、最初の2カ月はガタガタッとくる。ガタガタッと心が壊れて急性のうつ状態になっていく。
これも対象喪失です。自分の命はもう長くないんだ。そういう対象喪失状態に陥っていきます。
「対象喪失」というのはこのように、命を失う、健康を失う、妻を失う、大事な人を失う、といったように「大事な何かを失うという体験」そのものです。

妻の死について書き留めるという自己癒やしの法

奥様をなくされたNさんは8年間の介護を経て逝った妻への思いを手紙に綴った。
二人の出会いから、親に猛反対されての結婚、子どもに恵まれなかったが、二人して海外旅行によくでかけて、テレビの中に二人で行った国々の映像を見るたびに思い出をはなしていたこと、しかし70歳を過ぎて妻は寝たきりになり、Nさんは買物をしたり、食事を造ってきた。
死は突然やってきた。いつもより元気そうな妻の頭を両腕で支え、そうめんを食べさせた直後のこと、「美味しい」と云った後に天井を向き目を開き、ガクンと顎を落とした。
もう何度も呼びかけたが、返事はなかった。
それから三ヶ月、暗い自室にこもり遺影にてを合わせて泣いた。今年七月で一周忌、今も「いってらしゃい」「ごはんですよ」の声を思い出し、涙がとまらない。
今回、書くことをすすめられ、悩んだ。書いてみてどんなに妻が好きだったか解った。
今も妻がフラッシュバックして苦しい、でも書いて良かった。書かなくとも写真にするとか俳句に読むとか、表現方法は何でも良い、最愛の人はどんな人で、どんな時間を一緒に過ごしたか、死によってバラバラになっていく記憶の断片をまとめ、今とつなげる。そうやって残された人が前を向くことを死者は望むはずたから」と

私達夫婦の場合、1,000%私が先に逝くのは解っています。
そしてカミさんは私のが逝った後、恐らくですが20年は生を保っていることでしょう。
もうその頃は、私と暮らした思い出も残っていないかもしれません。
人は忘れることで生きていけると思っています。
いろいろな生きていた頃の思い出・経験など覚えていたらたまったもんではないはずなんてすから。
そう、我が家は全てにおいてサバサバしており、カミさんの写真も私の写真も今現在、何も残してありません。
カミさんは「人は忘れることが出来るから生きていけるのよ」とほざいています。
「解った認知症に女性が多いのは、これが原因かも知れない」


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2024年10月18日

私達団塊の時代を映したフォークソング

好きな70年代のヒット曲は

朝日新聞の土曜版「Be Ranking」では読者からいろいろなランキングアンケートをネット上で募集している。
これらのアンケートに応募するには、web上に登録が必要昨年、後期高齢者となり色々なものから卒業し特に土日が暇になったで登録しました。
それらののアンケートデーターから回答者の年齢をを見ると、圧倒的に60代・70代が多いのがわかりました。
50代ともなると、土日の新聞社の調査結果を紙面で再確認するよりも、ネット・パソコン・スマホでの確認のほうが多いのでしょう。
そして、そのランキング調査も必然的に、回答が多く期待できる、年代層にそったテーマとなることは必然的でしょう。

今回のランキング募集は70年代のフォークです。
演歌・洋楽を含めればもっと多くの年代層から応募があったでしようが、70年代・・・
私達のメイン世代団塊世代は狭い意味、人口統計からみると1947〜49年てす。
ベストテン上位曲は、70年半ばから後半、年齢に例えると27歳前後、男性だとちょうど結婚を意識しだす頃、女性だと既に結婚し、第一子を出産頃でしよう。
私といえば・・・長い南米での好き勝手な生活に一区切りをつけ6年半くでぶりに日本に戻ってきた頃(1975)です。
ですから、ここに選ばれた懐かしのフォークソングで、ヒットした当時は知らなかった曲が多くありました。
今のように、テレビの国際放送もなく、日本のNHKの暮れの紅白歌合戦はフィルムで半年遅れで、日本人会館で上映されてる時代です。
時々、日本からくる人たちから日本でのヒット曲を聞くか、新しくやってきた人のレコードを聞く程度でした。
勿論、カセットテープはまだまだ先の話しで、レコードでした。
それでも、不思議にこのランキングベスト20のなかで私が日本にいなかった頃もヒットした曲は概ね、耳に残っています。

以下が今回のランキングベスト20です。

20 時の過ぎ行くままに  沢田研二        1975     
19 シクラメンのかほり  布施明         1975
18 あの日にかえりたい  荒井由実        1975
17 津軽海峡冬景色    石川さゆり       1977
16 いちご白書をもう一度 バンパン        1975
15 旅の宿        よしだたくろう     1972
14 岬めぐり       山本コータロー     1974
13 銀河鉄道999     ゴダイコ        1979
12 学生街の喫茶店    ガロ          1972
11 ショニィへの伝言   ペドロ&カプリシャス  1973
10 木綿のハンカチーフ  太田裕美        1975
09 知床旅情       加藤登紀子       1970
08 また逢う日まで    尾崎紀世彦       1971
07 いとしのエリー    サザンオールスターズ  1979
06 喝采         ちあきなおみ      1972
05 22歳の別れ      風           1975 
04 心の旅        チューリップ      1973

ベスト3はちょうど私が南米から帰国した75年前後の曲です。
03 神田川 かぐや姫 1973


02 いい日旅立ちの 山口百恵 1978


01 なごり雪 イルカ 1974


この記事では以下に締めくくっている。
これらの時代を映したフォークソングベスト20の大半は別れの歌
別れとは他者が自分の思い通りにならないことを心底実感させられる体験だが、その苦しさを味合わずして豊かに生きることことなど出来ない。人を傷つけたり、傷つけられたりする事をタブー視せず、より深く他者とかかわろうとする当時の人々の思いが歌の中に息づいているように思える。

1970年代、特に75年から80年代初頭は私の転換期だった

あの当時、南米アルゼンチンは遠く離れたまさに「異国」だった。
6年過ごして戻った日本は、経済発展の歯車をまわりはじめて、南米で好き勝手に生きてきた私には、必死に生活するに「努力」が必要で、早く技術と資金を身につけ、もどろうとしていた、
仮の国、成長する人生の階段の踊り場であったハズ・・・
しかし、ブエノスアイレスの下町に響く、「タンゴ」のバンドネオンの調べ・大パンパの土地に染み込む「アルゼンチンフォルクローレ」よりも、カミさんの部屋で聞く「神田川」や私が帰郷する時に上野駅に見送りにきてくれて彼女の姿と国鉄時代の列車はまさに「なごり雪」の世界だった。

今、人生の終盤近くに入り
マンションのユニットバスに浸かり、換気扇タイマーを1時間にセットし、湯船のなかで最初はブエノス時代の「タンゴ」の名曲を聞き、やがてアルゼンチン民謡を聞いて30分、後半はこのアンケートにあるような70年・80年代の名曲を、少し仕事で疲れていたあの頃を思い出しながら30分ゆっくりと入浴するのがこれから寒くなる季節の日課となっています。
しかし、カミさん20分起きに、コップに冷水を入れてやってきた、「生きている・長湯しないでね」と生存確認にやってきます。

追気 ランキング21位から50位は以下のとおりでした。
21位 17歳         31位 黒猫のタンゴ     41位 UFO   
22位 太陽が暮れた季節    32位 青春時代       42位 かもめが飛んだ日    
23位 勝手にしやがれ     33位 青葉城恋唄      43位 襟裳岬
24位 わかれうた       34位 わたしの城下町    44位 魅せられて
25位 瀬戸の花嫁       35位 圭子の夢は夜開く   45位 関白宣言
26位 別れの朝        36位 学園天国       46位 北国の春 
27位 舟唄          37位 ふれあい       47位 ヒーロー
28位 あなた         38位 微笑がえし      48位 フィーリング
29位 泳げたいやきくん    39位 チャンピオン     49位 ロマンス     
30位 今日でお別れ      40位 走れコータロー    50位 クチナシの花 

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2024年10月16日

もしかして近未来のアメリカ 映画 シビル・ウォール 



今年、映画を見に行ったのはいつだったろう。

何をみたのだっけ、何処の町のシネコンに行ったのだっけ。
覚えていない・・・、イヤそれは拙いとブログ見直した、そうアカデミー賞作品賞と騒がれていた「オッペンハイマー」を見た、シネコンは二駅先の東海道線辻堂駅前の大ショッピンクモールの中にある、109シネマだった。
自宅から一番近く、交通費も安く快適な環境のシネコン・・・だがあまり好きではない。
109シネマの上映作品は、アニメ・若者向け・ハリウッド・何よりも入場料が期待できる作品のみをやる、経営方針。
良い映画、見て欲しい作品だが、入場者が見込めない作品は「絶対」に演らない経営方針のようだ。どんな、シリアスな映画、感動的な映画でも見終わって、会場の外に出ると、そこは湘南の少し豊かな住民とその子供たちがショッピングを楽しむ、華やかな、湘南のテラスモール、
西の空にの彼方には富士山が見える、駅のホームには5分おききに、湘南新宿ライン直通東海道線快速がホームを通過していく。
つい、5分前まで浸っていた映画の世界と違った、どちらかと云うと明るい風の雰囲気の・・・湘南の風、この数ヶ月、外出時の暑さに参っていたのと、映画を見た後の外に出た時のギャップに戸惑っていた思いが強いのと、見たいという映画がなく、家に閉じこもっていました。

ようやく、秋の雰囲気、風になって映画を見に行く気にもなってきました。

今、評判の映画と云えば来月のアメリカ大統領選挙を控えて、注目されている映画「シビル・ウォール」が良さそう。
この映画は娯楽作品ではなくやや硬めの映画ですが、今アメリカで大ヒットしているので、
「109シネマ湘南」でもやっている。
上映時間をみると通常音響のスクリーンは、08:45、次は13:55、最終は18:55
IMAX-レーザーという光と音が特別でシニアでも+1,900円の3,200円です。
上映回数も多く11:55、14:20、16:45、最終は21:35、都会の駅前交通の便の良い立地を活かしての料金設定です。
普通のスクリーンで十分満足なのですが、初回の8:45は早すぎる、少なくも家を7時代後半にでなくはなならないし、次の13:55はお昼時には中途半端すぎる。
他に近所でやっている所を探すと、湘南・横浜近辺の映画館全てでやっています。
一番、交通の便が良く、交通費も安いのは、横浜駅、桜木町駅周辺にいくらでもあるのですが、全てショッピングビル内で、雰囲気は109湘南と同じです。

私の好きな雰囲気のシネマ、平塚シネプレックスは、やや昭和の雰囲気を残すシネコンです。
しかし、平塚駅から徒歩15分、自宅最寄り駅からの電車代も、乗車時間は短いのに料金は横浜よりも高いのですが・・・
ともかく、空いていて、事前ネット予約しなくても、いい席がその場で取れるのです。
いい映画の余韻に浸ることの出来る環境にある多スクリーンのシネコンなのですが、やはり映画館なのです。
時間も初回9:50ことで、普段の朝の時間ルーティンのままで出かけられるのも気に入って東海道線下り電車で平塚に向かいました。

「映画シビル・ウォール 解説」より一部引用 
「お前は、どの種類のアメリカ人だ?」
映画の舞台は、連邦政府から19もの州が離脱したアメリカ。
テキサスとカリフォルニアの同盟からなる“⻄部勢力”と政府軍の間で内戦が勃発し、各地で激しい武力衝突が繰り広げられていた。
就任“3期目”に突入した権威主義的な大統領は、テレビ演説で「歴史的勝利に近づいている」と力強く訴えるが、ワシントン D.C.の陥落は目前に迫っていた。
ニューヨークに滞在していた4人のジャーナリストは、14ヶ月一度も取材を受けていないという大統領に単独インタビューを行うため、ホワイトハウスへと向かう。

だが戦場と化した旅路を行く中で、内戦の恐怖と狂気に呑み込まれていくストーリーです。
まず『シビル・ウォー アメリカ最後の日』の舞台になった近未来の米国では、アメリカ合衆国大統領が“3期目”に突入し、FBIを廃止している。
この辺りは説明がないのでピンとこない人もいると思うが、米国では大統領の任期は憲法で2期までと定められている。
どんな理由であれ在職期間が3期目に突入するというのは現職大統領が憲法と民主主義を超越した存在になってしまっていることを示している。
そもそも米国大統領の任期が2期までとなった理由は、初代大統領のジョージ・ワシントンが自ら3期務めるのは“不適当”であるとして3度目の大統領選に出馬しなかったことに由来する。
フランクリン・ルーズベルトは第2次世界大戦下で4期まで務めたが、その後、1951年に憲法修正22条で3選は禁止され、「2期まで」という伝統はルールに変わった。
米大統領は1期あたり4年を務めるため、『シビル・ウォー』の大統領は8年以上その職に就いていることになる。
〜中略〜
『シビル・ウォー』における米大統領は「人類における最大の勝利の目前にいる」とスピーチするが、ラストの展開を見るに、大統領はこの時点で苦しい状況に立たされていたことが分かる。
14ヶ月以上メディアの取材を受けず、都合のいいことだけを発信してきたのだろう。
この時点でアメリカ合衆国からは19の州が離脱している。現実の米国は50州の集まりで編成される連邦であり、作中で残されたのは31州ということになる。
合衆国から離脱した組織として“フロリダ同盟”といった名前も登場するが、『シビル・ウォー』で中心的な役割を果たすのは西部勢力=WF(Western Forces)だ。
WFはカリフォルニア州とテキサス州からなる連合で、その旗は13本のストライプと二つの星からなる。
現在のアメリカ国旗は、13本のストライプに州の数と同じ50個の星が象られている。
13という数字は米国がイギリスから独立した際の州の数であり、1960年にハワイが50個目の州として加わってからは50個の星が描かれた国旗が60年以上にわたって使われている。
もともとアメリカ国旗は13の星とストライプというデザインだったが、南北戦争(英語では「シビル・ウォー」と呼ばれる)で奴隷制廃止派が勝利して以降、星の数が増えていき現在の50個になった(追記:独立から南北戦争までの間も州と星は増えており、南北戦争時点で星の数は33だった)。
このため、米国では今でも極端な保守派は独立時の13の星の国旗を掲げることがある。

なぜカリフォルニア州とテキサス州なのか
『シビルは・ウォー アメリカ最後の日』で興味深いのは、米大統領に挑む連合軍としてカリフォルニア州とテキサス州が手を組んでいるという点だ。
テキサス州は伝統的に保守派の共和党が強く、共和党のカラーをとって「レッド・ステート(赤い州)」と呼ばれている。
一方で、カリフォルニア州はリベラルの牙城で、民主党のカラーから「ブルー・ステート(青い州)と呼ばれている。
そうした政治的な傾向もあり、ドナルド・トランプを支持するイーロン・マスクのX社はカリフォルニアからテキサスに移転している。
実はカリフォルニア州もかつてはレッド・ステートの一つだったが、1992年からは民主党の牙城となった。
独裁の道を歩み出した大統領に対し、保守とリベラルが手を組んだという見方が有力だが、州の政治的傾向が変化することはままあり、そうした歴史も反映されているのかもしれない。
〜後略〜

この映画のストーリーは、

ベテラン女性戦場写真家に憧れた23歳、Nikonのフィルムカメラを持つ新人駆け出しカメラマン女性を中心に展開されていく。
彼女は南部から現職大統領が支配するワシントン・DCに向けて出発する「プレス」と記された車に一緒に連れて行ってくれと懇願するところから始まる。
四人はロイター通信社の記者、引退間近のベテラ記者とこの二人の女性カメラマン、ワシントン・DCまでの一種のロードムービーです。

シビル・ウォー、つまり内戦です。
世界各地で内戦と云われているもが沢山あります、アフリカの民族間の殺し合い、バルカン半島の人種によるもの、イスラム世界の宗派によるもの、中国でもアジアでも、同じ国内での
紛争・内戦・殺し合いがあります。
この近未来のアメリカがです。様々な人種、移民によって成り立っている国なのに、ワシントンDCの主とも南部テキサス・カリフォルニアを舞台とする、生粋のアメリカ人との対立がかつての南北戦争のように、合衆国全体に広がっていくのです。
暗に、現在大統領選挙間近になっている、トランプの「メイク・アメリカ・アゲイン」を皮肉つて造られているとも云われています。
南部からワシントンに向かう、ジャーナリストの車は各地・各州で様々な内戦による犠牲者をカメラにおさめていきます。
そして、各地の検問で「お前は、どの種類のアメリカ人だ?」と詰問されます。
映画のなかでは、中米・南米から移民、或いは移民の血をひく人々は別の場所に連れていかれ、英語を上手く喋れなかった香港人はその場で射殺されていました。
いつか、こんなアメリカがあった、そしてこれからこんなアメリカが誕生するかも知れないと思わざるを得ない映画でした。

映画が終わったのは11時50分、平塚駅へ

お昼を食べに駅北口へ。
平塚シネプレックスは平塚駅の南口にあります。
平塚の町の中心は北口に開けた商店街や、旧東海道沿線が町の中心てで南口、海側は工場地帯であったり、競輪場のある地帯で平塚の町の裏側という印象があったのですが、令和の現在
マンションが立ち並び、シネプレックスを抱えたショッピングセンターとして若い世代が多く住まう地域となってきています。
それでも、やはり平塚七夕で有名な町の中心は北側です。
今回、普段まっすぐに自宅に戻るのですが、時間的にお昼、そして駅北には、昔、現役時代担当していたお客さんの会社が入るビルの下に、「牛丼の吉野家」が入っているのを思い出し、そして、今週「吉野家秋の牛丼まつり開催中」を思い出していました。
そうだ、498円が今日「牛丼並がサンキュッパ398だ」
松屋牛めしは普段は430円が50円特別クーポンで380円に
すき家の牛丼430円も、80円割引クーポンで350円に。
でも、やっぱり吉野家が一番高いけど美味しい。

昔の深夜、早朝の吉野家牛丼の味と、昔の職人さん仲間を思い出して、平塚駅北口でランチして帰宅しました。

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2024年10月14日

個人海外旅行のトラブルについて

かつて私達世代の海外旅行と云えば、一括団体旅行が基本でした。

近場の中国・東南アジア・グアム・ハワイの近距離は勿論のこと、ヨーロッパや中近東・アフリカ・中南米の世界遺産のを訪れるには、先ず最初は大手旅行会社の団体パック旅行に参加するのが昭和から平成半ばまでの、海外旅行の王道・常識でした。
昭和の時代、自分で航空会社のチケット予約とか、海外のホテル、の予約を自分でするなんて、考えてもみませんでした。
いつ頃から変わったのか振り返ると、私の場合1996年平成8年頃からだったかなと思いだしています。
会社を辞めて、早期退職に備えて、海外特に、中南米の下見、調査に行こうと考えて時でした。
目的地は中米のコスタリカ、日数は少なくとも一ヶ月。
いままでの海外旅行では、どこかこの方面の団体パックに参加するしか方法、知識はなかったのですが、幸いにも南米に関しては、以前からカミさんと二人の個人企画・手配旅行の経験がありましたので、一般的に日本の団体パックを企画する旅行会社が中南米方面を手配いる時に利用する、旅行会社の向け手配会社を知っていましたので、そこの会社に個人二人旅行だけど、往復のフライト初日のホテルの手配が出来るか相談してみると、「勿論、会社組織でも個人でも手配できます」と回答がありました。
そこでのかの会社から、「うちの存在を何処で知りました」と聞かれました。
昨年ユーラシア旅行社のイースター島ツァーに参加した時、イースター島のガイドさんから、イースター島内の旅行会社と、日本の手配会社の名前を聞いたことを話しました。
すると、相手は「英語・スペイン語が出来るんでしたら、楽勝ですよ」と云われました。
1996年、この頃フライトの標準的な仕組み、値段もなにも知らない素人でした。
この、中南米手配專門会社ら提示された45日フィックス、成田・サンホセの往復航空機運賃は一人ジャスト10万円でした。
但し、フィックス途中で帰ることは出来ません。ホテルは全く知らない、中米の町、到着するのは夜の10時ですから初日のホテルは空港近くの良いホテルをリクエストすると100ドルでした。
当時、1ドル100円を切っていた時代、私達二人の支払いは21万円でした。

今回のフログのテーマの話は、個人海外旅行のトラブルの話
■ 航空機がらみのトラブル
  ※ロストバゲージの話
  ※フィックスチケットキャンセルの話
  ※飛行機が飛ばない話
 ※エンジントラブルの話
  ※夏時間に注意
■ ホテルの話
  冷房効かない
  水漏れ
  鍵がからない 
  うるさい  
■ 現地交通機関の話
  タクシートラブル
  空港入国・税関トラブル

書き出したら何ページあってもたりないくらい私達は経験し乗り越えてきています。
昔からバックパッカーのトラブルの話は、汚い・危険・きついの3Kほど面白い、受けるといいますが・・・
今回は多くの皆さんがい経験したかも知れない、航空機に関するトラブル遭遇について

ロスト・バギジ 預けた手荷物がベルトコンベアーから出てこない
これまで何回経験してきたことでしょう。
これまで個人旅行で3回、団体パック旅行で1回ありました。
これらに共通しているのは、日本から目的地まで一回以上の乗り継ぎがある場合です。

■初めてのロストバギジは

成田発・フランクフルト・アテネ・カイロのケースで、航空機はルフトハンザでした。
フランクフルトの空港での乗り継ぎで、空港滑走路で自分の荷物の確認して積み込むスタイルだったのですが、いくら見回して私達夫婦のスーツケースが見当たりません。
同じく成田からの乗客の日本人も見当たらないと騒ぎだして、空港職員が何処か連絡とっているようで、自分たちのスーツケースが見当たらないのに、早くアテネ行きの飛行機に乗るように急がせます、どうやらもつてくるように成田空港での積み残しのようでした。
ここで一安心、「ロストではなく、積み残し」
飛行機が滑走路をでて、水平飛行に移ると、CAが書類を持ってきました。
今晩のアテネの連絡先とこれからの予定書いてくれというようです。私は今晩アテネに泊まり、翌日アテネ市内を観光して夕方便でカイロに向かう予定でした。
CAが云うには、何とか明日の朝までにホテルに届けられると思いますと云います。
私は、でも成田の積み残しで明日の朝に間に合うルフトハンザ便なんてないでしょう?と問うと、世界の航空会社のネットワークでこんなケースでは各社助け合うようになっていて成田から一番早い便で届けるからご安心をと云われました。
結局、翌朝ホテルを出る前に届いて、始めてロストバギジは乗り切りました。

■二回目のロストは超ミセラブル

成田発・LAX・メヒコ・サンホセ着 ユナイテッド航空でした。
こんなクソ現場の担当をしていたら、いつかは爆発する、そうなる前にさっと退職し、老後安住の地の下見に行こうと、会社に退職届を出して、乗り込んで目的のコスタリカのサンホセ空港に着いたのは夜の10時過ぎでした。
コスタリカの首都まサンホセは小さな空港で、ターンテーブルは一台のみ、ユナイテッドで降りた客はに三十名、ターンテーブルはすぐ止まってしまいました。
ターンテーブル前で待っているのは、LAから乗ったみたいな、お年寄りのアメリカ人白人女性と、成田乗り継ぎの私達日本人夫婦のみの三人です。
明らかにロスト、バギジ積替え2回ですからかなりの確率でトラブルになるケース、おまけに、LAとメヒコですから。
さっそく、空港職員イコールユナイテッド職員に詰め寄りました。
しかし、どう騒いでもこのフライトがこの空港の最終便、あとから届くあてはゼロですから、ここはじっくりと対応するしかありません。
先ずは、UA職員に今晩のホテルまでの送迎を依頼し、ロストの書類を明日の朝までにホテルまでに持ってくるように、要求しました。
ここは、コスタリカ、幸いにも私は、英語よりもスペイン語のほうが、こういった喧嘩腰・トラブルに対して英語よりも何十倍も゛キャブラリーがあるのです。
UAの職員が車で送ってくれたホテルは見た目、とても100ドルのホテルではなく、ゲストハウスのよう。
玄関は閉まっていて、何度もベルをおしてもでてきません。UAの職員が何とか開けさせて、バウチャーを予約提示をすると、聞いていないと云います。
でも遅いし、部屋はあるというのでやっと20数時間ぶりに横になることができましたが、会社と大喧嘩して出てきたこの国のこのホテル、そして明日からどうしようと思うと
全く練れませんでした。
私達二人のスーツケースは45日の2人分ですからかなり大きく、そして色々なものを沢山詰め込んできていますが、手元にあるのは、歯ブラシ程度、幸い書類とすかお金に関するものは
全て手荷物で持ってきています。

翌朝、このゲストハウス並ホテルの朝食を食べながら、何から始めたら良いのか考えました。
このホテルは日本からの一泊の予約ですが、少なくとも後二泊程度しないと、展開は開けないだろうと考え先ずは宿の交渉、このバウチャ発行先の代理店に確認をとると、このホテルへの
連絡がされていなかった、そして日本の代理店の一泊100ドルは倍以上のふっかけ値段と判明しました。
私達はケースでは少なくとも2日はここに泊まる事になりそうなので、後二泊50ドルで連泊をきめました。もし、荷物が届かない場合、後45日もこの国で過ごすことは出来ないので、フックスチケットだけどキャンセルしても帰国なくてしいけないので、UAのサンホセ支店の住所を聞くと、1ブロックほどの所ににふるというので、早速行きました。
UAのサンホセ事務所といってもそう大きくもないオフィスで、昨夜の空港での顛末と書類を見せて、もし、私達のバギジが出てこない場合、このままとどまることは出来ないので、フックスチケットだけれでも、フライトを変更してもらうと交渉すると、かの窓口のオバサンは。
「今朝、空港から連絡が入って、スペイン語ペラペラの日本人夫婦がそちらに行くかもしれないけど、よろしくと連絡があったわ」と云います。
「勿論、スーツケースででてこなかつたら、所定の弁償をしますし、帰りのチケットの変更もします」
「今日、明日にも荷物の所在が分かり、到着しましたらホテルに連絡します」
「ところで、スペイン語お上手ですね、どこで覚えました」
「45日間、コスタリカには何のご用事、ですか?」
私は退職後の移住地として調査・下見と答えると、「UAの職員の多くは、退職したらコスタリカに住むのが夢なのよ、是非いらっしゃい」といい、今朝までの不安感は
かなり薄れました。

翌日、空港職員からスーツケヘス2つ届いたとの連絡で送ってくれと頼むと、受け取りサインが必要なので来てくれというので仕方なしにバスで向かいました。
ちゃんと私達の大きなスーツケース、鍵も壊されていなく出てきました。
私はあの時一緒だったアメリカ御婦人はどうしました、と聞くととスーツケースも御婦人も居所が分からない、ということでした。
やれやれの大トラブルこうして終わったのです。
つくづく、スペイン語圏、或いは英語圏でよかったと思ったものでした。

■ 三回目のロストバギジは

成田・ニューヨーク・サンパウロ・イグアス・ブエノスアイレス(アエロパルケ)着便 JAL・アメリカン乗り継ぎ便
2002年、暮れの南半球パタゴニアの絶好シーズンに、奇跡的にチケットが取れてカミさんと二人、普段に中南米へはユナイテットを利用するのですが、このクリスマス・お正月シーズン、個人旅行ではチケットが取れないのですが、ブエノスに住む友人がとってくれたのが、ニューヨーク経由のアメリカン航空ルートでした。
成田・ニューヨーク昔は、アンカレッジ経由だったのがダイレクトになりましたが、ニューヨーク乗り換え10時間という不便さ、JFKからマンハッタンまで時間つぶしに行こうと思っていましたら,
あいにくの大雪、フライトも怪しい状況で、空港に待機しているしかなく、各航空会社を回る無料バスにの乗って暇潰し、時間つぶしの乗り換え10時間を過ごして、やっと南下するアメリカン航空に乗り込んで、サンパウロに着いた時、アメリカンの航空職員が乗り継ぎの案内をしており、クレームタグを見せてくれというので、それ見せると手続きしてくると、言って持っていってしましました。やがて、時間なく急いでいるので現場に渡してきたので、乗り換え便に乗ってくれと云われ、クレームタグなしで乗るみとになりました。
私達の乗ったのはアメリカンとアルゼンチン航空のシェア便で、ブエノスアイレスの空港は「アエロパルケ空港」という、ラプラタ川側の大きな公園のなかにある、国内線・国際線兼用空港です。東京の成田と羽田のような関係で、「アエロパルケ空港」は都心までバスで15分ほどと近いのです。
一方の成田に相当する「エセイサ空港」は国際線専用で、都心から1時間かかる郊外にあります。
ブラジル・サンパウロも同じで、国際線専用と国際線・国内線共用があるので注意が必要です。
そんなんで、私達の飛行機は「アエロパルケ」に到着しましたが、ターンテーブルからは私達夫婦ふたり、2週間分の荷物とブエノスの友人へのお土産が詰まったスーツケースが出て来ません。
もうこれでロストバギジの経験は三度目なので、慌てず、そして第二の故郷的アルゼンチンなので余裕をもって、空港・税関と話し合いしました。
しかし、一番の困ったの、サンパウロでクレームタグを渡して、私の手元にないのです。
日本やアメリカなら、証拠となるクレームタグがな場合、もう仕方なくアテントしてくれないのですが、私のスペイン語がブエノス下町訛りなのを築いた職員が、ちゃんと応対して
書類を書いてくれました。
税関をでると、出迎えの友人夫妻ず待っていてくれて、事情を説明すると、きっと荷物は郊外の国際空港「エセイサ」にいっちゃったんだろう、まあ夕食を食べてから一緒に
「エセイサ」に行こう、今行ってもまだ届いていない可能性もあるし、空港職員が少ない時間帯を狙って行こうとと云います。
この理由は実際に行って理解しました。
夕食を終えて、友人の車で国際空港「エセイサ」に行き、税関事務所で、「アエロパルケ」で造ってもらった書類をみせました。
友人は、今日、とりにこないスーツケースはあるか尋ねると「モントン、やまほど」の答えが帰ってきました。
遠目から私達二人のスーツケースを見つけ出しました。
しかし、ここからが本番です。書類をみせても、このスーツケースの自分のものである証明はてできない、或いは書類にはスーツケースの色が青とかかれているけど
これは「紺色」だとか、我たちはもう仕事はおわって帰りたいとか、色々言ってくるのは承知です。
さりげなく、残業させてしまつて申し訳にない、これで夕飯を食ってくれと、ドル札をまとめたものを手渡して、OKです。
表は10ドル札でずが、中身は5ドル1ドル札を丸めてものです、20ドル程度かな。

■四回目 団体パックの仲間のロストの話

成田・アトランタ・カラカス便 アメリカン航空だったかな
1998年暮れ、ユーラシア旅行社の団体パックでギアナ高地に行きました。
日本から社員添乗員、他、参加者は8名でした。ほぼ全員(私達夫婦と中年女性二人をのぞいて)一人参加のグループ旅行でした。
参考ギアナ高地旅行記

カラカス空港に到着して一人参加の男性のスーツケースがターンテーブルに出てきません。
他の七人のスーツケースが出てきています。
私は成田集合時にこの方のスーツケースを覚えています、一人参加8日間パック(あごあし付き)の旅行にして大きな荷物だなと思ったのを覚えていますし、大きく立派な新品だなと感じました。ちょつと不安がよぎりました。
ユーラシア旅行社の秘境の旅の男性一人旅参加方は、結構こだわりが強く、わがままの方が多いとのは社内では通説です。
なんでこんな事を知っているかと云うと、ユーラシア旅行社が某旅行会社から独立した直後から利用したり、或いは旅行中の添乗員不祥事で、スペイン語通訳としてお手伝いをしたこともあり、かなり内情に通じていたことがあるのです。
お一人のスーツケースが出てこない、団体パックとしては結論がでてくるまで出発は出来まん。
添乗員はユーラシアの正社員で普段は社内で手配業務をしている女性です。
なかなか、添乗員・航空会社とロストの男性客の話が終わりません。
その間、今回のギアナ高地をスルーガイド兼ドライバーと話をしました。
彼によると、ロストではなく、LAで空港内で密かに盗まれたのだろうと、最近よくあるケースだと云います。
特に、アジア人のスーツケースには金になるもの、機材とかが多く、でかい、目新しいものは、LA空港内の組織的犯罪グループに狙われている、幾ら待っても出でこないと云います、「うちの添乗員にそのこと話た」と尋ねると、彼女スペイン語き全く出来ないし、英語もあまり込み入った話は無理みたいとなり、結局このツァーのスタートは2時間30分遅れででスタートしました。
結局、この男性のスーツケースは帰国するまででてきませんでした。
スタートからギクシャクしたこの団体ツアーは、最後までまとまりませんでした。

次回はフライト関係、  
 ※飛行機が飛ばない話
※エンジントラブルの話
 ※夏時間に注意 について書きます。

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posted by 西沢 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ