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2024年08月31日

人生の最後は自宅で迎えたいか?

朝日新聞土曜版「between 読者とつくる」のテーマは

四ヶ月に一度の前立腺PSA検査で、近所の地域総合大病院を訪れる度に、「自分の最後はこの病院で過ごすことになるのだろうか」といつも思います。
私は中学3年生の時の怪我で2ヶ月、体調不良でブエノスのオスピタルで1ヶ月、そして50代はじめ、A型肝炎・C型炎で国際親善病院で3ケ月入院したことがあり、平均的な日本人男性と比べて、病弱で長期入院経験が他人より多く、入院生活慣れしているかもしれません。
75才を過ぎ、今年の春先、そして北陸の旅からもどってから急激に体力・筋力の衰えを感じ、自分に残された「余命」を思い、最後に過ごす場所に思いを起こすことが増えました。
今の夫婦二人の環境では、先ず99%、近くの地域包括旗艦病院になるでしょうが・・・

今回のテーマ「人生の最後の場所」

読者の回答はほぼ予想どおり、やや「はい」が少ないのは仕方ないかなと思います。
私、個人としては、住み慣れた自分の家、自分の部屋、手を伸ばせば全てが揃っている部屋が最後の場所でありたいと思っています。
パソコンも、テレビも、スマホも、Wi-Fiも、お気に入りの過去の写真スライドショー&BGMセットも、トイレは隣にあるし、リビングからは、鎌倉の緑、お月さまが上がってくるのが見える、普段の生活のまま、訪問看護による緩和治療のまま、この自分のベットで眠るように逝きたい。
私のブエノスの友人は、訪問看護、訪問緩和治療下の生活を半年で過ごし、ある日セニョーラがちょっと目を離した時、眠るように逝ったと聞きました。
彼は、大腸がん末期、幸い、アルゼンチン特有の医療体勢、私立大病院の有料登録会員であった為、すべての費用、手術・投薬・訪問介護・終末医療も負担は会費たけですまされ
穏やかに逝ったと聞いています。私の理想も自分の部屋でカミサンに気づかれず、眠るように亡くなっていくのが理想ですが。

いいえと答えた人、その理由は

我が家のカミさんは私がこの自分の部屋で逝くことを望んでいるいるのを知っていますが、本気にとらえていません。
元高度医療関係者のカミサンは「短時間でころっと逝ってくれればいいけど、終末医療專門ベッドだって、3〜4週はかかるのよ」
「家族がそんな患者、24時間付きっきりで診られる訳がないじゃない」
「幸い、我が家はあなたの広い部屋があるからいいけど、家族が多い家は不可能よ」
「第一、マンションだと近所迷惑、ここに20年以上住んでいるけど、いつの間にか、知らないうちに、お隣のご主人が亡くなっているじゃない」
「私は無条件で119番し、入院先で延命治療行為は不必要と言うわ」
「大丈夫よ、市内の葬儀屋さんに会員に登録してあるから、心配しないで」
夫婦二人、50年近く暮らしていると、こんなもんです。

何処で迎えたいですか 

2018年、私の長兄は72才、盲腸癌ステージ4で亡くなりました。
なくなった場所はホスピスです。
双子の兄は若い頃から労働組合活動を中心に動いており、障害独身でした。
そんな兄の都会での老後の生活を心配した老いた母親は、信州に連れ戻し40代後半の兄の仕事捜しアパートに住まわせましたが、なかなか仕事が定着しなかったりしし、影で
資金的な援助をしていたようです。
現在、都会で暮らす戦後昭和20年生まれの、地方から出てきて単身男性の年金生活の様子がワイドショーなどで取り上げられていますが、あのまま、亡くなった母が、強引に信州に引き取らなかったら、同じような状況であったろうと今では思います。
そんな兄は、65才、年金をもらえる年になって「アパート代で年金が消えていく」と実家の姉に嘆いていたそうです。
その兄は71才で盲腸癌ステージ4、残された期間は半年と告げられ、訪問看護による緩和治療になりました。
その間、一度だけ兄のアパートにお見舞いに行き、次兄の発案で兄弟四人で思い出造り一泊温泉旅行にでかけました。
その温泉で判明したのは、兄は軽い認知症を発症しており、大浴場の湯船のなかで、弟の私を認識できませんでした。
ドクターの云った余命数ヶ月の通り、兄はホスピスに入って、三週間が亡くなりました。
ホスピスの個室に入った知らせで、信州に出向きましたが、既に会話がなりたつ状況ではありませんでした。
しかし、ドクターは云います。「聴覚は最後まで残っているので、話しかけて言葉を聞き取っているかもしれませんから、なるたけ話し続けて下さい」と。
ホスピスでのお別れ会は、市内に住む姉だけが参加しました。
姉の話しでは、カトリック系のホスピスで、兄のお別れ会は、院内の空いている看護師、医療従事者全員が教会にあつまり、賛美歌とともに厳かに行われたそうで、姉はこれまで、いろいろんお葬式に出席したけど、こんなに厳かな、涙が止まらなかった通夜は初めてと大感激し、
兄の残したわずかに預貯金のほとんどをこのホスピスに寄付したそうです。
「では僕の時もここで」というと、あんたは出来ないといいます。
理由はここのホスピスの評判が良すぎて、全国から集まってくるので、現在は長野県内からの紹介者のみしか出来ないそうです。

延命など家族と話し合っていますか

これから多死社会にはいる団塊世代子供なし夫婦ですから、延命についてはいつも、半分冗談・本気で「救急車をよぶか呼ばないか」について話しています。
救急車は呼ばないで、自宅内で亡くなると、医師がいない場合不審死となり、警察の介入となりいろいろ面倒になるしね・・・
血管・心臓・脳関係で倒れて場合、やはり救急救命センターとなるけど、延命処置に関しては、やはり、口頭ではなく書類としておかないとね。
特に、二人だけの家庭では。
ネットで「延命に関する処置応拒について」「終末期医療に関する意思確認書」など参考にプリントアウト、署名、捺印しています。

事前指示書は書いてますか

横浜市立脳卒中・神経脊椎センター 例文参照

1.食事が摂れなくなった時の 水分・ 栄養補給 の 対応 について
@末梢 血管 からの点滴
   □希望する □希望しない
A鼻 チューブの使用
  □希望する □希望しない
B中心静脈 の使用
  □希望する □希望しない
C胃瘻 の 造 設
  □希望する □希望しない

2.血圧が下がったとき 、 昇圧剤( 血圧を維持する 薬剤 )の使用
  □希望する □希望しない

3.呼吸状態が悪化した時 、 人工呼吸器の装着( 後に 気管切開 が必要になる可能性があります
  □希望する □希望しない

4.腎臓の 機能が低下した 時 、 人工透析の実施
  □希望する □希望しない

5.呼吸 が 苦 しくなったり 、病気に対する耐え難い不安が 生じた 時 、
  麻薬(呼吸を楽にする薬)、 鎮静剤 気持ちが楽になる薬) の使用
  □希望する □希望しない

6.呼吸器 、尿路など に 感染症 が生じた 時 の 徹底的な治療の希望
  □希望する □希望しない

7.想定外の 心肺停止時 (窒息など に 胸骨圧迫 (心臓マッサージ 、 除細動器
  挿管 (気管にチューブ挿入して換気すること、
後に 気管切開が必要になる可能性があ ります を用いた心肺蘇生術 の施行
  □希望する □希望しない

人生の最後に重視するのは?

さいごのユーモアというのがよくわからない。
残された時間を宣告された時、何かユーモア、冗談を云える余裕があると思えない。
欲しいのはゆっくりと過ごせる空間が欲しい。
よく聞く話だが、病院での豪華な個室を望む男性が多いと言う話。
今、そろそろ、順番が回ってきそうな年齢が近いてくると、決してわがままではないのかも知れないと思うようになってきた。
確かに、四人部屋とかではなく、自由な空間で最後はカミサンとしんみり話して逝きたいものだ

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posted by 西沢 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2024年08月29日

同世代 ストロベリーファームの石川好 逝く

以前、退職世代の先輩お年寄りの70台は、
朝刊紙のお悔やみ欄にどうしても目が行くと云っていた。


何歳なのか、死因は何かが気になると云っていた。
自分と同じ年頃、年齢の有名人の死亡記事はとくに気になるという。
同じ年でも、まだまだ平均余命に数年あるし、とも思うと云っていたことを思い出す。
特に、自分たち戦後ベビーブーム世代、団塊世代は人数も多く、著名人も多いので、死亡記事は比例して多くなっていく、団塊世代、昭和22年~24年生まれ、1947年から49年生まれ、今年76~77歳、そろそろ毎日、同い年の著名人が亡くなるお悔やみ記事が毎日新聞に掲載されてくるようになる。
現在、関東首都圏にすんでいるが、生まれ故郷の地方紙には昔よりもかなり縮小されたというが、現在もお悔やみ欄があるようだ。

2024年8月21日NHKニュースによると〜

ストロベリー・ロード」などのノンフィクション作品や、民放の討論番組への出演で知られる、作家の石川好さんが、19日、心筋梗塞のため東京都内の病院で亡くなった。
77歳でした
石川好さんは1947年、東京の伊豆大島生まれ。
高校卒業後にアメリカのカリフォルニアへ渡り農園で働いたあと、慶應義塾大学に入学し、卒業後に再び渡米して庭園業を営みます。
その後、1983年に「カリフォルニア・ストーリー」で作家としてデビューすると、1989年、自身の経験を元にアメリカのイチゴ農園で働く日々をつづった「ストロベリー・ロード」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、作品は映画化もされた。
石川さんは、日米関係などを専門に民放の討論番組に出演したほか、かつて日本の海運を支えた「北前船」を生かした地域振興に取り組んだりするなど、幅広く活動してきました。
2009年からは山形県の酒田市美術館の館長を務め、美術館にると、最近も業務にあたっていましたが、19日、心筋梗塞のため東京都内の病院で亡くなったということです。
77歳でした。

同世代、団塊世代ということと、青春時代の一時期、南米あるいは北米の何処ですれ違っていたという思いは今もしています。
石川好1965年, 高校卒業後渡米、カリフォルニア州の兄が経営する農園に4年間従事、メキシコから働きにきている、出稼ぎ季節労働者ともは働いた頃の、
日系アジア人のその頃のアメリカでの生活をもとにした後に小説を残している。

ガーデンボーイ、アメリカ青春物語

石川好氏は高校卒業のよく年、東京オリンピックの翌年1965年19歳、単身兄を頼って、横浜から南米へ行く貨客船に乗った思われます。
この頃、日本政府はまだ戦後であり、国内の産業で全国民を養いきれないと海外移住、移民を奨励していました。
東京五輪のあたりではかなり国内産業も人材を必要としだしていましたが、外務省は自らの「省益」を優先させ、海外移住事業団が開発途中のブラジルアマゾンやパラグアイの開拓地に大勢の日本人家族を送り出しており、神戸発横浜経由、ホノルル・ロサンゼルス・最終港ブエノス・アイレスへの商船三井の貨客船は大勢の日本人家族、青年が乗っていました。
19歳の若き石川好青年もこの横浜港からこの船に乗っていたでしょう。

石川好青年が渡米する数年前まで、「派米実習生制度」がありました。

今、日本で盛んにおこなわれて、ベトナム実習生やら、ミャンマーからの介護実習生,期間5年の実習生という名ばかりの短期出稼ぎ労働制と同じことが日本から米国に向けて行われていたのです。
1ドル350円時代、アメリカカルフォルニアの苺畑では時給1ドルだった頃の話です。
日本各地の農協を通じて、アメリカの農業を学ぶという名目で、往復の旅費は日本政府が負担して多くの日本の農家の次男・三男が2年間限定でアメリカの日系農家で働きに出かけていたのです。
これらは、1960年当初、一般日本人が海外へ行くチャンスもない時代、彼らはエリートでした。
一度、海外にでた彼らは、海外で働くこと、海外の農業、特に花栽培・園芸を学んだことにより、日本のコメ作り一辺倒から海外の都市園芸へと、多くが主にその当時まだ、過去の栄光がかすかに残っていた、南米の先進国、アルゼンチンへと向かっていました。

私の場合、学内がやや騒がしくなり始めていた頃、海外脱出を夢見ていましたが、正面から海外移住でなく一定期間海外に住む手段を模索していた頃、学内の掲示板でスペイン語が必要な
現地アルゼンチンの仕事にが目に入り、応募しした所、正社員の派遣ではなく、現地採用扱いの「片道切符」当然日本・アルゼンチン間の旅費と、とりあえずの支度金がでます。
仕事は現地での新規工場建設の通訳兼下働き程度、会社はアメリカ・日本・ユダヤ資本の合弁会社、最低3年の契約でした。
もちろん、行きます
東京五輪の3年後19歳でした。
この雇用契約では日本・ブエノスの旅費は会社持ちで、指定日までに到着すればルートは自由、旅費は会社持ちでした。空路もかんがえましたが、荷物もありますし、時間もあるのでこの当時の一番的ルート、海路を選びました。
横浜からの乗船では大勢の同じような世代の若者が多く多く乗っていました。
1968年、最初の寄港地ハワイ・ホノルルが私の初めての外国でした。やがて、船はロサンゼルスに到着し、乗客のほぼ七割は下船していきました。ほほ自分とおなじ若い世代でした。
かの、石川好青年もここから下船して、実兄の待つ、いちご農園向かったのでしょう。

船の中は、南米移住の人々です。
圧倒的メインは、ブラジルの大地に三年間契約で就業する農業実習生と、この頃最盛期だったアマゾン川流域の胡椒農園開拓地にいく家族でした。
船はブラジル・サントスに着くと、船内はガラガラ、残るのは、最終寄港地アルゼンチンの大都市ブエノスアイレス近郊の花卉園芸農家への実習生少々と、アルゼンチン経由で奥地のパラグアイの開拓地に向かう家族連れだけでした。
今、アジア各地から実習生としてくる、ベトナム・ミャンマー・インネシアの青年も女性もきっと、全く文化の違う先進国日本の地に足を踏み入れて、これからの自分の人生の夢の設計図
を描いているのでしょう。

あれから半世紀日本の青年、若者の世界感は変わろうとしている
21世紀の今、日本の若者は日本経済の停滞、極端な円安と海外の賃金の差で、「ワーキングホリデー」という名を借りて出稼ぎに出ようとしています。
一定期間、働いて収入を得ても良い滞在ビザで、先進各国間の協定で、若者のの海外進出、経験と視野をひろげる目的です。

現在日本とワーキングホリデー協定を結んでいる国は27ケ国

一番人気の国は「オーストラリア」
人気の原因は、何と言っても時給の違いです。
2024年7月現在、オーストラリアの法定最低時給はA$24.10(約2,410円)で、所得税15%を差し引いたワーキングホリデービザ保有者の実質最低時給(手取り)は約2,049円です。
オーストラリアの最低賃金は世界的に見ても高く設定されており、日本の最低賃金の全国平均(2023年10月以降の時給1,004円)と比較すると約2倍の差があります。
そして、日本と時差がなく、気候もほぼ四季があり温暖、情報量も豊富、アジア系住民も多く、人種的偏見も少ない(?)
しかし、データでは、現地で自分で英文の履歴書を20箇所送ったけど、面接にこぎつけてのは1件だけ、後はなしのつぶて、オーストラリアに入国して三ヶ月、仕事なし、アパート家賃
たけででていき、物価の高いオーストラリアで、即席麺の生活という話が多いと云います。
平成生まれの日本の若者は、私達の世代と違って、世界の最先端・先進国日本生まれ、育ちという思いがあると思います。
オーストラリアにいけば、英語が出来なくとも、周りに日本人も多く、寿司屋の下働きでも日本の倍稼げると思ってきているのです。
雇う側にすれば、專門職ならともかく、英語で接客も出来ない日本の若者は、他のヨーロッパの若者よりも使い物にならないと、敬遠気味だと云います。

なくなった石川好さんも、私も同じ年頃、同じ時代、南米・北米を経験してきています。
石川さんは、晩年、日本海の北前船に興味を持った縁で晩年は秋田の美術館館長として、地域貢献していたようです。
・・・、そう「晩年」というワードがそろそろ、身の回りにでてくるお年頃なったようです。
でも、私が逝っても、お悔やみ欄にも、ましてや地域のコミュニティ紙にも掲載されることはないでしょう。
せいぜい、自分のサイト、ブログに最後のテキストを掲載する準備をしとこうかな。
でも、それをやってくる子供も孫も友人もいない・・・

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posted by 西沢 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2024年08月27日

何処にでもありうる、ある団塊シニア家庭の話 認知症と介護

中学の同級生からラインがきた。

ラインのトーク画面を手入力、トルグかフリックかで迷い、ついに音声入力でいれる方法にたどり着いた話を、ブログで紹介してから、数日経って私のスマホに中学時代の同級生から初めてライントークがきました。
私のブログを読んで、トライしたところ、これなら団塊世代おじさん(76才)もライントーク出来ると試しに私に送ってきたのです。
その後、毎日、毎日彼は今の家庭の事情をライントークで伝えてきました。

5年に一度程度の同級会の席では語っていなかった、現在の彼の家庭の話が徐々に出てきました。
T君は勿論、私と同い年、団塊世代です。
県内有数の名門高校ではなく、次にランクされていた普通科高校を卒業後、一浪して、東京の六大学の一つに入り、卒業後地元にもどり公務員として穏やかな家庭を営んでいるのは、人づてに知っていました。
彼と会うのは、5年ごとの中学同級会だけですが、結婚して二人の息子さんがいること程度は知っていました。

何十年ぶり同級会で家庭内の話がいることはない

数年前の同級会がはけ、二次会の話が出た時、T君は「一緒に行きたいけど、これから母親の介護施設に用事でいくので、ごめん」と云います。
この時、T君と隣近所だったU君にゆると、嫁さんが長年世話していたんだけど、ついに施設に預かってもらってるようだと、聞きました。
もうこの頃から、同級会は自分の健康の話と、親の介護の話は当たり前になっていました。
今回、初めてT君からのラインから、二人の息子さんの現在の事情が伝わってきました。

団塊ジュニア、氷河期就職世代ど真ん中だそうです。

二人の息子のうち、長男はやはり二浪して東京の・・・というより校舎は埼玉の田舎にある、スポーツだけは有名だけど、偏差値45〜48の誰でも入れるレベルと自嘲気味に話ます。
確かに最近「箱根マラソン」の常連校となりつつありますが、正直、東京では「箱根マラソン常連校」では就職の際、彼の父親が卒業した大学と比較すると、何の役目もはたしません。

そして、就職氷河期、東京の大学と行っても場所は埼玉の私鉄ローカル線の駅近く、ろくにアルバイトもせず、友達も少なく四年間ずっと真面目に、アパートと大学キャンパスの間を往復する学生生活だったそうです。
T君は、東京の学生生活では勿論勉強も大切だか、サークルとかアルバイトとかで社会と繋がり、友人つくることも大切だと話したそうてす。
そして、結果は「ねずみ講」に引き込まれたそうです。

田舎からでてきた、人間関係をうまく出来ない、若者がハマる典型的なケースだったようです。
T君は何度も夫婦二人で上京し、アパートを尋ね、生活の面倒をみていたそうです。卒業することにはかなり金銭的な損失はあつたものの、抜け出し、就職試験・面接に望んたようですが、全て失敗し、結果入社したのは「商品先物取引」の会社でした。
もう、誰でも採用して、親戚・縁者に先物取引に引き入れ、破綻させる典型的ないい加減な会社なのですが、新卒の若者には何をアドバイス・忠告しても聞く耳保たなかつたようです、案の定、親戚、友人な迷惑をかけ末、二年保たずに退社して実家に戻ってきて、現在にいたるまで30年、づっと派遣をしているそうです。

そして3つ違いの弟も似たりよったり
弟は3つ年下で、やはり県下一の進学校を目指しましたが叶わず、一浪して「高専」に入ったそうです。
日本中の多くの人があつまる都会の大学とちがった地方の「高専」では入学時の年齢の一歳の差は大きく、やはり五年間の在学中、友人は少なかったようです。
卒業後、やはり同じ就職氷河期時代で、「高専」の若手技術者を育てるよう余裕のある会社は少なく、就職できたのは建設資材を扱う小さな会社だったようですが、正社員として真面目に働いてるとT君は話していました。
次男は会社の事業範囲が上信越である為、会社の寮やらアパート暮らしのため、卒業してからは実家を出ています。

二人共に団塊ジュニアと呼ばれる世代、現在、独身です。

団塊ジュニア世代とは、
1970年代前半に生まれ、2024年時点で50〜53歳になる世代を指します。
1971年〜1974年の第二次ベビーブームに生まれた世代で、団塊の世代の次に人口が多い世代です。
2040年になると団塊ジュニア世代が65歳〜70歳となり、少子高齢化が進展して65歳以上の高齢者の人口がピークを迎えることで「2040年問題」が起こると考えられています。
労働人口が激減して労働力不足が深刻になるだけでなく、年金や医療費などの社会保障費も増大することが予想されています。
また、高齢化率が高まるため社会保障制度が逼迫し、医療・介護制度の維持が困難になり、資金や人材不足が深刻化する恐れもあります。
これにより国や地方自治体は財政的な圧力に直面し、適切な医療・介護サービスの提供が困難になる可能性があります。



同級会ではこのような話は表だってはしません。

みんな同じ団塊世代、特に女子生徒は男子生徒よりも数年早く結婚し、子供を育てているので早く経験しているのです。
確かに、T君たけではなく、私の親族、カミさんの親族をみても全く同じ状況が続いているのを知っています。
T君の長い、二人の息子「ライントーク」は次に思いもしない衝撃的な話題になりました。
T君が私に「今まだNPOボランティをしているの」と聞くので
「72才の春に、全ての公的役職・立場を卒業して、個人的に環境保護団体と認知症グループホームの2つの団体のサポートをしている」と話すと、

「認知症グループホームってどう?」と聞きます。
実は私達の経験ではこの質問「認知症グループホームってどう?」は現在身近に認知症で悩んでいるいる人がいらっしゃる、キーワードなのです。

認知症には、家族が必ず通る4つの心理的ステップがあります。
第一ステージは、認めたくない「戸惑い・否定」です。
第二ステージは、認知症の人に振り回されたりして怒ってたりする「怒り・拒絶・混乱」です。
第三ステージは、イライラしてもどうにもならない、「諦め・割り切り」の境地」
第四ステージは、認知症の人をあるがままに受け入れる「受容」に達します。

T君の奥さんは今、第一ステージのようです。

毎日の同じ繰り返しの作業が出来なくなりつつあるようです。
時間の観念がないようです。
今、自分の健康管理とか身の回りことは何ら問題なくできるようです。
私がサポートしている「認知症グループホーム」は18人の方々を受け入れしてます。18人のうち16人は女性方々です。
普通にお話していると全く違和感がなく、身の回りのことはほとんどの方々ができるのですが、それならご家族でどうした、このような施設を頼ってくるか、一つは自分の含めた家族の安寧の為でしょう。自分の母親が日に日にお壊れていく、自分の知る母親ではなくなる、そして彼女自身と同居する家族の安心・安全のために、月20万円の費用を負担してくるのです。
家事、刃物、ガス・電気を扱うのに不安を感じてきます。
子どもたちに、何時までも優しい「オバアチャン」でいて欲しい、私の母が壊れていくのを、子供に見せたくないという気持ちがあるのでしよう。
健康面・身だしなみ・排泄などで困るようになったら、専門家に相談するように伝えました。

T君はどうして彼女が認知症になったのかな、俺がいけなかったかなと云います。
奥さんは自宅に引きこもりがちな50歳になる長男が心配でたまらないといい、眠れないとこぼしていたと云います。
このまま、私と夫がいなくなったら、同じ独身の弟と一緒にのこの家を守ってやっていけるかしら、夫は長男で親戚づきあいも多いし、お墓もあるしと
心配事が、多く「鬱から〜出歩かなくなり〜体力低下〜健康不安〜寝不足〜軽度の認知」はあるのか。と聞いてきました。
実は私がサポートしている専門家集団「認知症グループホーム」ても解らないのです。
参考程度として、私が関連している施設を紹介しておきました。
「花物語かまくら」
認知症グループホーム 花物語かまくら 入居者リクレーション 材木座ビーチウォーク

認知症グループホームとは医療機関ではありません。

認知症の進行をいくらかでも緩和させるかもしれませんが、完治は目指していません。
認知症症そのものも病気ではない、生活の仕方、老化の一種と捉える方向にあります。
何歳もあるグループホームの殆どは、終末医療体勢をとっていないので、深刻な治療が必要な入居者は退去し、大抵はこのグループホームと提携している医療法人病院で最後を迎えますが、ホームの施設長の判断で安らかにこのホームのスタッフで看取れるような入居者の状態であり、スタッフ体勢であればこのグループホームで最後の日々を過ごすことも出来るようようです。
ともかく、介護する周囲のご家族が、認知症を正しく理解することが第一で、例え、妻、夫が認知症を発症しても、外に隠すではなく、一緒に見守る体勢が必要なのです。

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2024年08月25日

ピンチ、カミさんが室内転倒、骨折

リビングでから大きな音、転倒したような気配の音。
行ってみるとカミさんがうずくまっています。


台風7号が関東首都圏に接近してる日、リビングのロッキングチェアで寛いで、読んでいた本を落とし、拾おうと立ち上がった時にスリッパの上で足が滑って転倒し、左足の小指・薬指を変に床にぶつけたようです。
その時のカミさんの行動が素早かった。
私に、自分の部屋の引き出しに入れてある、整形外科医院の診察券を持ってきてと云います。
なんで、と聞くと「今日、何時まで受診出来るか調べるて」
「エー、今から・・この台風が接近しているのに?」
「そうよ、確実に骨折しているから、処置は早いほどいいの」
カミさんは冷蔵庫から保冷剤と出してビニール袋に入れて包帯をし始めました。
「そんなに酷いの、医者にいくほど?」
「そーよ、本人しか解らないの」
そして、「マンション玄関脇のバス停の時刻表を調べて」と云います。
駅の反対側の馴染の整形外科へ行くというのてす。
タクシーより、早いし、安いから。
確かに、自宅玄関から1分でバス停へ、2分待って駅へ行くバスがきました。
210円です。ここに21年住んでいますが、これまでバス停ひとつの先の駅までバスを使ったことは一度もありません。
でも、最近のこの猛暑では歩くよりも、たった2分で駅の入口、エスカレータ前まで連れていってくれるのですから・・・
でも、貧乏性の私、運動不足を毎日痛感している身には、かなり抵抗があるのですが・・・

カミさんは慣れたように、さっさと着替えています

それでも、駅の向こう側の整形外科にいくのですから、ラフな格好ではいけないと、ファッションショーしており、靴はダメなのでサンダルをパンツに合うものを物色していました。
後からの話しですが、帰りは整形外科から薦められたサンダルを買って帰ってきました。

こういう患者がやはり多いようで、当然ながらサンダルは保険適用外です。
そして駅からタクシーで帰ってきました、500円だそうです。
いつもは混む整形外科医院医院ですが、さすが台風が来ている日の夕方、10分待って診察・レントゲン、ギブス処置。
おおよそ3週間から一ヶ月かかるそうです。
週4・5で女性のための運動施設カーブスに行っているに・・・
カーブスの定期検査では「骨粗鬆症予備軍」と云われているといいますが、73才年相応の骨密度と云われそんなに気にしていない様子ですが、この年齢の女性、外観は昔の70代と違って若々しくみえてもやはり確実に骨はもろくなっているのでしょう。

カミさんの足の指小骨骨折で困ったのは毎日の買い物です。

暑いのですが、カミさんの性格として、毎日の食事材料は毎日、街中にでかけて、その日使うものだけ買ってくるという生活が何十年も続いています。
ですから、冷蔵庫のなかは他所様のご家庭に比べると、ほぼ空っぽ状態。
冷凍室も小さい、二人家族用の昭和の時代かと思われるようなワンドア冷蔵庫はいつも空っぽです。
これから一ヶ月、カミさんの足がのギブスがとれるまで、私が買い物にいかねばなりません。
自宅徒歩5分程度には、「生協」「地元小スーパー系」「生鮮品も置いてる大型ドラッグ」そして「セブンイレブン」「ローソン」とありますが、お肉・野菜・魚となると、駅の向こう側の「セイユー」となります。
この暑さ、これから一ヶ月、私が買い物袋を下げて、冷凍食だけでなく、毎日の卵もパンも牛乳もトマトやキウリの買い出しにいかなくてはなりません。
ここに越して来た時56才の時、全く気にならなかった駅からの距離、そして坂を意識するようになってます。
今年の猛暑・熱暑までは2kのお米や1.8リットルのワインボトルの重さは気にならなかったのに、今は途中の木陰で一休みしないと自宅にたどり着きません。
自宅マンションには入っても、二階の自室へは、右足ひざを庇い、必ずエレベーターを使う生活、玄関のドアを開けると同時に、シャワーを浴びるために浴室にまっしぐらとなります。
この暑さでなければ、毎日が適度な良い運動なのでしょうが、この猛暑・陽射し・道路の照り返しは後期高齢者である自分を意識セざるを得ません。
こんな時がくるなんて、予定外でした。

もしかしてこれは私に与えられた試練か

ここ二ヶ月、体重はこれまでの標準体重65.5プラマイ0,5を大幅に上回って、ずっと66K台前半だったのが、この一ヶ月半、以前ならとんでも体重増の67k台になり、危機感をもって少なくとも66K台前半までセイブしていたのが、この暑さ、水太りと、そして何よりも運動不足で体重は67k台前半から全く体重が落ちません。

原因は、一日中、冷房と扇風機に囲まれて机の前のでの作業そして、自分の部屋のなかの移動はキャスター付き椅子のまま移動する、やってはならない生活がここ二ヶ月続いており毎日朝一番、体重計に乗るのが怖くなってきています。
このカミさんの怪我はカミさんならぬ、かみ様が私に与えた試練として受け入れなくてはならない・・・
少なくとも、今日は陽射しがよわくなった5時過ぎには、部屋からでて、外出着に着替えて・・ショトーパンツにサンダルでいいから、駅の向こうまで歩いて、カミさんの買い物リストをクリアしよう。
そして、重かったら駅バスターミナルから停留所ひとつだけど、バスに乗ってかえって来よう。
さすがに、貧乏性の私はタクシーでは帰れない。

男は常に自分が先に逝くものだと信じて疑わない

小谷 みどり シニア生活文化研究所所長。
ちょうど全国紙の「Reoリライフ」つながる。変わる。人生ここからといテーマの「リタイヤライフ」のコラムをよんでいました。
テーマは「妻より先に死ぬ」信じていたのに 老夫婦の理想と現実

部分引用
8年前に妻に先立たれた知り合いの男性(79)は、自宅で妻を介護していたとき、毎日の食事が一番大変だったという。
専業主婦の妻に家事の一切をまかせきりで、料理をしたことがないため、スーパーやデパ地下で毎日おかずを買っていたそうだ。
妻を亡くした今も昼と夜は外食で、朝ごはんは買い置きの食パンにチーズとハムをのせるだけだという。
洋服も下着も自分で買ったことがなく、妻が生前に買い置きしていたものを使い回しているそうだ。
多くの男性が「妻より先に死ぬ」と思い込み、「死後のことは妻が何とかしてくれるに違いない」と丸投げ状態だ。
しかし、これからは妻の介護が先に必要になる、もしくはいざというときに妻に頼れないケースが増えてくるに違いない。
厚生労働省の「国民生活基礎調査」によると、妻が主な介護者である割合は2割に満たない。
介護が必要な時には妻も高齢になっているためだ。私が2014年に60代、70代の夫婦を対象に行った調査では、男女で意識に大きな差があった。
病気などで一時的に寝込んだ場合、配偶者はどの程度頼りになるかと尋ねたところ、「頼りになる」と回答した男性は71.5%もいたが、女性は26.4%に過ぎなかったのだ。

バブル景気のころ、老夫婦が手をつないで仲良くダンスやスキップをするシーンが印象的な台所用洗剤のコマーシャルがあった。
そのほほ笑ましい姿が大きな話題となり、「将来、チャーミーグリーンみたいな夫婦になろう」というプロポーズの言葉が流行したほどだ。
ちょうど、子どもや孫とは関係なく、老後は夫婦ふたりで暮らす高齢者が増え始めたころ。
これまでの高齢者像とは異なり、夫婦ふたりで支えあって、人生をエンジョイしている姿は当時、これからの時代の理想だった。


確かにこのような老後人生は二人が何時までも健康であることが前提です。
私は若い頃から数ヶ月の入院生活を三度経験しており、いつもでも元気・健康であるとは全く思っていなく、70代半ばからの体力の低下、衰退は織り込み済みでしたが。
反対にかみさんは、至って健康、病気知らずと信じてうたがいませんでしたが、今回のちょっとした足の、それも指先の骨折程度でも、二人の生活にこんなに影響をおよぼすとは・・・

カミさんの怪我は、ギブスが取れるまで四週だそうです。
元医療従事者ですから、今最新のテーピングギブスを面白がっています。
全て、元通りになりましたら、ご報告いたします。

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2024年08月23日

熟年離婚増加中 その理由・原因は 役職定年とモラハラ


家庭に配達される日刊新聞も、テレビニュース・ネット・web上のメデイアも同じような話題を取り上げている。
2022年に離婚した夫婦のうち、同居期間が20年以上だった「熟年離婚」の割合が23.5%に上り、統計のある1947年以降で過去最高になった。
離婚件数自体は減少傾向にある一方で、熟年離婚の件数は高止まりしている。

離婚の原因は夫の役職定年

かつて、熟年離婚のきっかけは夫の定年退職による「家庭内の妻の不満」が大きな要素と云われていたが、近年は定年よりも早い段階で「夫婦の危機」を迎えるケースが目立つという。
大手メーカーに勤めていた55才の夫に、50才の妻が離婚をきりだした。役職きっかけは夫の「役職定年」だった。
現在の大手企業は50代以降のある年齢に達すると管理職の肩書が一律はずれ、給料も下がる「役職定年制度」を多くの企業が採用する。

妻側のl離婚の申し出理由は
夫の年収はほぼ半減、社内の一線から退いたことでモチベーションも下がり、情緒不安定になった。
老後資金を計算し、「貯金がぜんぜん足りない」と妻に激怒。
これまでの家計管理を妻から細かく聞き出し、「俺はこれまですごく稼いだのに」など暴言をはいたり、時にてを上げるようになった。
妻は、夫から渡される生活費をやりくりして暮らしてきたが、学費や住宅ローンの返済、夫の両親の病気などあり、貯蓄は思ったほど出来なかった。
夫は役職定年後も、頻繁に飲み会、ゴルフにでかけ浪費が多かった。
子供たちが独立かることになり、二人だけの生活は耐えられないと家を出た。

熟年夫婦の離婚相談は女性から7~8割、
要因で多いのが「夫のモラハラ」という。


子育てが一段落したことも離婚を決意する要因となる、退職金や年金のなどの財産分与を考える場合、「夫の定年の2~3年前から妻は準備に動き出す」とという。
バブル世代は右肩あがりの年収を前提に消費行動をしてきた。
いざ下がった給与の額をみると驚き、配偶者間の責任の押し付けあいになり、離婚問題に発展しやすい。
我が家の場合、40代後半に不動産・株バブルは崩壊し、建設業界にもその余波は当然波及しました。私のサラリーマン人生としての最高年収は48才の時でした。
我が家は団塊世代、ニューファミリー層、友達型夫婦の典型で二人共に専門職の子供のいない世帯。
家計はいつも一緒の毎月決算で、何時でも我が家の家計・財政が解る状態にしてあったことと、バブル崩壊後の毎月の基本的な給与は変わらず、た年二回だった
決算手当は限りなくゼロに近くなり、ボーナスも半分以下になりました。
前述の御夫婦のように、旦那が一方的に稼ぎ、妻に月々の家計を任せるのは良いですが、子供の将来を含めた、夫婦の一生の生き方、特に老後の生き方、過ごし方については
お金の問題を含めて、共有しておく必要は絶対にあります。

老後ライフのイメージ共有が大切、必須条件

このブログで何度も書いていますが、私達はある理由から38才の時から、子供のいない生活、老後の一定期間を海外で過ごすというイメージにたどり着きゴールとして共有して生活をスタートし、私55才、カミさん52才で完全にリタイヤしました。


その後の生活については、webサイト 定年後の過ごし方とロングステイ・世界遺産の旅に掲載しています。
今回のブログのテーマ「熟年離婚」の危機はなかったか?
小さな諍いは勿論有りましたし、今でもありますが、二人共とても一人では暮らしていけません。
その一番の理由は経済的理由なのかな
私達夫婦の好きなテレビ番組でテレ東の「家についていっていいですか?」があります。
この番組で頻繁に登場するのが、私と同じ団塊世代の「おとうさん」「おじさん」「おじいさん」です。
どこかの1Kのアパートに一人暮らしています。
部屋はまあまあ、一人暮らしに割には片付いているようにみえますが、何処か、かなり殺伐とした、寂しさのある部屋、うら寂しい70代の男の一人暮らし。
話しを聞いていると、結婚していた、まあまあの会社のサラリーマンだつた。子供も二人いた、定年後、奥さんから離婚を切り出され、まだ60代後半、新しい定年後の一人暮らし人生も
いいなと、離婚した。
しかし、かなり予定が狂ったのは、お金の問題だった。
離婚調停でそんな金銭的財産がなかったので、妻の要求通り今まで一緒に住んでいた家を明け渡した。
そして厚生年金は夫婦で築き上げたものと、相手の弁護士の言い分で、自分がもらう厚生年金と妻の国民年金合計の半分の額を妻にわたす契約がなりたった。
実際に暮らしてみると月々のアパート代を払うと、一ヶ月の生活費は10数万のみ、若干の自分名義の預貯金を取り崩して暮らしいいけるが、とても二人一緒に暮らしていた頃のレベルの生活には程遠い、元妻といえば、ずっと住み続けた家、街でパートをしながら、子供・孫・古い友人たちと賑やかに暮らしている。
自分といえば、一人暮らしの自由はほんの一瞬、残されたいたのは、年老いていく男の人生として離婚を悔いている様子。

現実に今、身の回りで一番多いケースは「老後別居生活」

私の現在の鎌倉の色々なスポーツ・NPO・趣味のクラブのなかで目にするのは「老後別居」です。
離婚して一人暮らしをにしているのかなと、密かに尋ねると熟年離婚はしていない、別居しているだけと云います。
この典型的な例は
奥さんが地方出身、田舎の両親が年老いて身近な人の介護が必要となり、都会に夫を残して両親の家で介護生活を続けます。
奥さんの基本的な食費・交通費などは当然、都会の夫の仕送り・・・父親がなくなり、母親一人だけになると、都会の家に残した次男が母親一人では不安だし、自分も都会の競争の生活に疲れたので、母親と一緒に暮らすことを選択、そして、実家の母も遂になくり、妻はその家の相続、後片付けが終わっても、都会の夫の元にも戻ってきません。
都会の戸建てには、夫と長男、田舎の妻の実家に妻と次男が暮らす、別居生活はもう10年以上続いているそうです。
生活費はいままでどおり、都会の夫が負担しているそうです。
このケースは稀ではありません。
現実的に私の周りで団塊世代の3~5才つほど上の世代で三人います。
いずれも奥様り実家は、九州であったり、四国であったりで、そe0 う簡単に新幹線ですぐいけるような距離ではありません。
この話しをカミさんにすると、解る、その奥さん絶対に戻って来ないわよ。
生まれ育った田舎には昔のお友達もいるし、ましてや次男も一緒、毎月最低限、夫からの仕送りもあるし(実際はATMからですが)そう、このケースがこれからの日本の老後夫婦の一番のモデルケースになるやもしれません。

長年連れ添った夫婦の定年後離婚は大変です。
ほとんどのケース、弁護士が登場はます。
奥さんのほうは、旦那の顔を合わすのも、一言会話も拒否します。
弁護士は今独立して営業するのは難しい時代で、離婚調停が一番の稼ぎになるようで、かなり頑張ってきます。
妻と直接電話もメールも出来ず、金だけ払って裁判は終わるのです。
こんな嫌な思いをしたくないなら、退職前からしっかりと会話を保つことでしょう。


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2024年08月21日

テレ東ローカル路線バス乗り継ぎの旅最終回

テレ東の看板番組でもあり、私の大好きなバス旅は2007年にスタート、これまで足かけ10年、25弾まで続いてきました。
太川のコンビの相手の団塊同年代、蛭子能収さんの体力の低下とやや軽度の認知症の気配と診断され、2017年、25弾で打ち切りになり、代わって2017年春に俳優田中要次&芥川賞作家羽田圭介にバトンタッチされ、ローカル路線バス乗り継ぎの旅Zとして19弾まで続きましたが、蛭子・太川のコンビのような魅力に欠けて打ち切り、2023年7月より「ローカル路線バス乗り継ぎの旅W」として女性三人によるバス旅として再始動しました。

これまでに女性メンバー二人はまだ固定されておらず、全3回に登場しているのは三船美佳のみ、2・3回には「たけうちほのか」コンビ、ゲストして五輪スケーターの高木菜那が参加していますが、現在に連敗中です。
三回目のスポーツウーマン高木菜那が意外と良い味をだしており、個人的には三船美佳とコンビ、プラスゲストという形でこれから続いて云ってほしいものです。

ローカル路線バス乗り継ぎ旅はやはりオリジナルコンビがベスト。

最初の太川・蛭子コンビの放送は7年前に終わっていますが、今年8月まで変則ですが、BSテレ東で再放送、再々放送されていました。
最初の第一回は17年前、蛭子さん(1947年生)は60才、太川陽介(1959年生)48才、ちょうどひと回り違う干支は「いのしし」です。
自分の年齢を思い出しながらみていました。
この番組、リーダーシップと計画性の太川と自由すぎる天然ボケ蛭子さんの意外過ぎるコンビが大受けしました。
ついには、このローカル路線バスの旅は日本を飛び出し、マドンナに今、Wの旅として中心となっている三船美佳をゲイトに加えて、台湾偏まで作られたのです。
現在のローカル路線バス乗り継ぎの旅Wのキャスト背景は台湾偏にあつたのです。

ラストの第25弾は・・と言っても私は過去にこれを二回見ていますが、それでも楽しめてみました。
バスが無い!宿が無い!何が起こるかわからない!超絶トラブルの連続!そんな過酷な旅に挑んできた太川陽介&蛭子能収のコンビも25弾がラストとなりました。
番組制作側はそんな2人に敬意を表し、とびきりハードなルートを用意しました。
マドンナには、元おニャン子クラブの新田恵利を迎え、新春恒例の3時間スぺシャルです!

最終回の舞台は冬の東北

今回のルートは福島県会津若松市〜秋田県由利本荘市!太平洋側を進むのか?日本海側を進むのか?ルート選びが運命を分ける!?
今回も路線バスだけを乗り継いで3泊4日でゴールを目指します。
過去に何度も苦しんできた冬の北国ルート…バスが無い!宿が無い!ハプニング続出!
これまでの通算成績は17勝7敗…果たして、有終の美を飾ることはできるのか!? ハラハラドキドキ…アポ無しガチンコ旅の結末は!

太川・蛭子コンビで25回、Zコンビ田中・羽田コンビで19回合わせて、44回、それも再放送、再々放送をみているのと、実際に同じルートのバス旅を経験しているのでなんでこっちのルートを選択しないのかと焦れったく思うほど、入れ込んで見ていました。
私たち夫婦の個人自由・格安旅行でもよく使った超距離バスルートは
■仙台・山形ルート
■仙台・平泉ルート
■熊本・別府ルート
■札幌・室蘭ルート
■高山・松本ルート
■網走・知床ルート
■釧路・根室ルート 
■四国四県の長距離路線バスルート
■紀伊半島南部へのルートなど、いつもこの番組を見る旅に思い出しています。

太川・蛭子コンビの最終回、会津若松から秋田県由利本荘は失敗に終わっています。
もし、これが事前にわかっていたら・・・という旅解析サイトがあります。
「タビリス」です。
いつものことですが、以下はネタバレ100パーセントですと断って解説しています。
また、結果論100パーセントです。
行ってない筆者が机上で語っているだけです。ご理解のうえ、お読みください。としています。
タビリスのサイトへのリンクです。

タビリスの解説は以下の通りです。

第25弾の目標は、福島県会津若松市の飯盛山から秋田県の由利本荘市まで、路線バスを乗り継いで3泊4日で到達する、というものです。
例によって、この正解ルートを検証してみましょう。

いつものことですが、以下はネタバレ100パーセントです。また、結果論100パーセントです。行ってない筆者が机上で語っているだけです。
会津若松から路線バスで脱出するルートとしては
東の郡山、北の米沢、西の新潟ですが、長距離歩きを回避して動くには郡山しかない。
しかし、正解は「正解」は新発田ルート?

話を初日の会津若松に戻しましょう。初日、太川一行が新潟方面を目指したらどうなっていたでしょうか。
▽1日目
飯盛山下08:46→08:55若松駅前09:40→10:25坂下営業所13:20→14:00野沢駅前→徒歩12.8km→八ツ田17:45→18:04津川営業所
▽2日目
津川営業所11:45→12:25三川駅14:47→15:06新谷15:32→16:30新発田駅 17:46→18:35胎内市役所
▽3日目
胎内市役所→徒歩7.4km→坂町病院08:59→09:25下関09:50→10:33村上営業所12:03→13:02寒川13:05→13:23府屋駅前14:21→14:31伊呉野16:53→17:16温海営業所
▽4日目
温海営業所07:20→08:10庄内観光博物館(鶴岡)10:45→13:13本荘営業所

なんと最終日午後2時には到着出来るのです。
徒歩でつないだ距離は初日の12.8kmと三日目の7.4kmと全体的に大きな峠越えをともなう徒歩がなく、比較的無理のないルートです。
何よりも、4日間でゴールできるルートはほかに見当たらないので、「正解ルート」をあげるとすれば、この、新発田を経由するルートしかありません。
しかし、実際に現地の雪と寒さとルートが見いだせない焦りと、宿の確保を考えたら、仕方ないことなのでしよう。



■青字は出発・目的及び主要都市
■赤字は宿泊地
しかし、タビリスは初日の12.8kmと三日目の7.4kmと簡単にいいますが、今蛭子さんと同じ団塊世代の私ですが、70才の時、12.8kmは歩けません。順調に歩いても200分、3時間半、それも冬の国道雪道を・・・自宅から13kmの地点と云えば、横浜市弘明寺あたりになります。
とても歩こうと思う距離ではないのです。・・・
25回で路線バスの旅卒業した蛭子さんは団塊世代、この25回の時は70才、現在77才です。
今年のこの暑さを考えると、このような過酷な日程、歩きがあるなら確実に沈没・リタイヤ・投げ出して、入院騒ぎとなっているでしょう。

蛭子さんと同級生の私は、この暑さのなか、たった路線バス停留所ひとつ先のターミナル駅まで歩くのに、60才の頃なら、駅まで徒歩9分、少しの坂道の距離なのに、この猛暑に尻込みして
冷房の効く部屋に閉じこもっています。
相棒の太川陽介は、今も路線バス旅のプロとして頑張っていますが、今年ひとまわり下の亥年ですから66才、そろそろ来る時期です。後5年頑張れるかどうかです。
私の大好きな、路線バス乗り継ぎの旅Wの、四回目を期待して待っています。

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2024年08月19日

何年ぶりだろう、マニュアル本を手にするのは

マニュアル本、テキスト本を買って手にするのは何年ぶりでしようか?
大昔、Windows98の頃、先輩からはマニュアル本は止せ、まずは徹底的に自分でトライして、わからないことを整理してから周りに聞いて、それからでも遅くない。
自分は何が理解できずにいるのかを知れば、自ずと解決の道は開ける・・と教わったものです。
現役時代はいわゆるパソコン関連がらみのマニュアル本は購入したことはありませんでした。

初めて購入したのは退職後、鎌倉NPO組織のなかで一般シニア会員が生徒のパソコンやら、写真・ビデオなどの講座講師を務めるようになってからでした。
昔の私達の徒弟制度のように、
「見て、盗んで覚えろ」とか
「自分でどこまでトライしてやったのか」とか
「その先出来ない、解らない原因を考えたか」とかは

云えない環境もあり、人に教えるとどういうことかと、マニュアル本を資料として買ったことがあます。
今書店ではそんなマニュアル本は昔のように多くはありません。
今はネットのYouTubeにいくらでも、tutorial(チュートリアル)が無料である時代です。
チュートリアル、それさえも解らない人が、ペーパーレベルのノウハウ・マニュアル本を手にする時代です。

そんな私が手に取ったのはカミさんが使っていた「LINE」の本です。

私のスマホにも最初から「line」が入っていますが、使ったことはありません。
ラインを使う理由、メリットが分からなかったのです。
なんで、折角、音声電話機能のあるスマートフォンなのに、わざわざ、テキストで会話するの

LINEをしない人の4つの特徴
1.連絡が得意ではない
2.人付き合いが苦手
3.気にしい
4.一人の時間が好き


なぜみんなLINEを使うのか?なぜLINEを使っているかという問いには
「みんなLINEを使っている」
「部活で使っている」
「グループを作って連絡を取り合えたりと使い勝手がいい」
「いろいろなファイルや画像、位置情報などが送れて便利」

といった回答が寄せられています。

ラインの会話内容が漏れている?危険か
私のかってな判断は、この通信システムは韓国企業が造ったもので、下請けサーバーなどは中国本土の中小現場が関わっており、絶対に内部情報が漏れるということない、はあり得ません。
これまで、いろいろのサーバー管理業務をしてきており、資格と地位・権限があれば覗き見するすることは、理論上可能です。
芸能人のスキャンダルでの相互の通信内容が世に漏れているのは、通信の脆弱性ではなく、スマホの盗み見によるスクリーンショットによるものです。
おそらく、当人の周辺の誰の仕業でしよう。
これを防ぐには、スマホ本体と週刊誌などにトーク画面が流出している原因のほとんどは、スクリーンショットを何者かに撮られているからです。

もし、当事者同士にその記憶がなければ、近しい誰かがスマートフォンを勝手に触っているのでしょう。
一般人である私たちが、個人情報の流出に気をつけるのなら、まずは勝手にスマホを操作されないようにロックをかけるのが一番の対処方法です。
スマートフォン自体にはもちろん、LINEアプリにもパスコードロックをかけることができますので設定しましょう。

私あのスタンプが生理的にキライなんです。

団塊世代のオジサンたちは、パソコンが普及し始めたときから、メールやホームページ制作に関わってきました。
その時の情報の重さ・大きさはキロバイトの時代でした。
今のような時代、メガバイトなんて、夢の世界の話しです。
そして、ネット回線は電話回線と共用の時代でした。
ネット回線は公共のもの、みんなが使うもの、できるだけ軽く、素早く行き来しなくてはならない。
画像は送れるが最大100KBまでつい最近の私達の常識でした。
メールにしても、挨拶は不要、いきなり本題にはいり、できるだけ簡潔に、電報文が理想という環境に育った私達団塊世代にとって、あのスタンプは絶対ゆるせないのです。
「了解しました」がなんで画像なんだ、テキストの「OK」で十分。
世の中のみんなの財産である、ネット回線容量の無駄遣いなのだ

ライン嫌いの私がカミさんの持つラインのマニュアル本を手にする理由は

アルゼンチンに住む、団塊世代の旧友「N君」と連絡を取るためです。
私の6年間に及ぶブエノス・アイレス生活で一番頼りになった友人、同学年でもかれはイノシシなので今年「喜寿」です。
当時の日本人花卉栽培農家の後継者育成の為に、郊外の農場に実習生として渡ってきて、その後、大都会ブエノスアイレスで苦労して、整体師として現在でも現役でやっています。
日本には伝わるアルゼンチンのニュースは経済・政治不況ばかりですが、彼はいわゆるアルゼンチンの上流階級・富裕層のみを相手にの整体師として相手のお宅に云っての仕事をもう40年以上続けています。
今も77才でも現役としてやっているようです。
アルゼンチン南部の日系コロニアの家庭に育ったセニョーラと結婚し、娘さんをもうけ、ブエノス・アイレスターミナル駅近くのアパルタメントに賃貸ですんでいます。
4~5年に一度、家族と一緒に日本に来ています。
あのアルゼンチンの経済状態で家族三人でこの頻度で日本にこれるのですから、経済的には大丈夫の様子です。
私達夫婦も4~5年に一度の割合でブエノスの旧友やらカミさんのお友達の住んでいた、アンデス地方や、パタゴニア氷河・イグアス大瀑布を旅してきてその費用の大きさはわかっています。
日本に住む、一般的なサラリーマン夫婦で、フリースタイルで南米パタゴニアを旅するのは大変な費用必要です。
辛うじて私達夫婦は子供もなく、二人共に専門職として働き、英語・スペイン語も出来、旅の知識もあるので、比較的安く旅できるのですが、N君の財布の中身は知りませんが彼の国から日本へ3人分の旅費、そして実家は関西圏ですが、東京や湘南の我が家にくるのだってそれ相応の費用がかかっているのでしょうから。

N君とはラインのテキストトークでやり取りしています。
日本とアルゼンチンでは時差が12時間、日本より半日遅れています。
日本の日曜日の朝8時は、土曜日の夜の20時です。
直接のスマホの電話やビデオ通話ですと、夜ふかし住民である在宅時間や生活習慣が違うので、時間調整が必要のない、ラインのテキストトークにしています。
N君がスマホになった頃、彼のスマホには日本語が入っていないかったので、すべてローマ字の日本語でやり取りしていましたが、数年前から彼のスマホにも日本語が使えるようになり、それ以降は日本語なのですが・・・
私は根っからのパソコンユーザーなので、スマホの日本語入力「 フリック入力」「トグル入力」が大嫌いですが、小さなスマホでキーボート表示させれば、もっと面倒なので
昔のガラケーのようなに、「トグル入力」にしているのですが、長文ですと何度も間違えたりして、いらつく事しばしばです。

そこで、ラインのテキスト入力を音声入力出来るか?試してみました。

ラインのテキスト入力画面から入ると、以前使っていた「トグル入力」画面になり、右上のマイクをタップすると、音声入力画面になり。
「タップして音声入力開始」
「なんでも話してみてください」

となります。
かなり以前と違って話し言葉でも正しい日本語になりますが、ちょっと面倒なのが、改行とかカッコ、句読点、記号など、漢字の修正は、従来の「トグル入力」でしなくてはならないことです。それでも、古くからライントークの友人との間でしたら、改行なしの長文になってもまあ良いかで、「トグル入力」のイライラからは、かなり開放されました。

平日の昼10時に送ったラインは直ぐに「既読」がつき一安心。
そして11時にはやはり長文の返信がきました。
ブエノスの友人たちは皆さん元気のようです。
アルゼンチンは今、冬、時間は夜の10時ですが、この時間なら確実にファミリアはリビングで寛いでいる時間と推察したのはやはり正解でした。
一番知りたい、お世話になったセニョーラは今年80才を越しているハズ、このセニョーラの息子さんは以前、日本に出稼ぎ来た時、知り合いの会社を紹介しかなり大金を稼いで帰っており、ブエノスに行く度にお世話になっています。
この長男のメルアドは解っているので、メールしてママのスマホのライン設定UPを頼みました。
私たち夫婦は既にパスポートを持っていませんし、あったとしてもこのドル高、体力の衰え、とても34時間のロングフライト、エコノミークラスの旅はしたくないので、これからの連絡は、すべてラインで、頻繁にとろうときめています。
※固定電話はもちろん通じますが、日本から地球の裏側のアルゼンチンへは、KDDIを通しての電話となり、ちょと長電話になると、数千円から万円となり気軽には出来ず。緊急連絡用となっています。

N君から聞いたセニョーラの携帯の電話番号

N君の話しでは、アルゼンチン国内では「whatsapp 」というラインと同じような機能のアプリが主流でラインを使うのは、メインは海外との連絡が必要な人たけのようです。
WhatsAppとは現在Meta社が運営するメッセージングアプリです。
世界180カ国以上で利用されており、ユーザー数は20億人を超えます。
無料で利用できるだけでなく、機能も充実しているため、ビジネスからプライベートまで、さまざまなシーンで利用されています。
日本語にも基本的には対応しており、普段使いで困るといったことはないでしょう。
世界中で20億人ものユーザーがいるということは、世界人口の30%以上が日常的に使用していることになりますので、海外に旅行をしに行く時には「WhatsAppやってる?」と必ず聞かれるのも納得ですね。
海外の方達にはシンプルな使い勝手が評価されているようです。

セニョーラは日本人なので、ラインも入っているとのことでした。
初めて、セニョーラの電話番号を聞いて、自分のラインに「お友達登録」をしました。
これまで、ラインにお友達登録したことはなく、私の電話帳に入っている人は自動的にお友達登録されるので、後から不必要な人の登録を抹消しているだけで、新規に手動でお友達登録したことがないので、電話帳に登録しましたが、ラインは反応してくれません。
もちろん、ラインの自動登録はONにしたままです。
何度やってもダメ、国番語を二桁にしてみたり、ハイフォンを消したりしましたがダメでした。
考えてみると、今アルゼンチンのN君とラインで通じていますが、ラインにN君を登録した覚えもありませんし、私の電話帳のN君の電話番号は彼の云えの固定電話なんですから。となる日本在住者のラインで海外携帯電話番号でお友達登録はできず、
海外の相手先から登録してもらわないと、どうやら出来ない状況です。
N君のラインでは、それではセニョーラからほうから、私にのラインに入れてみるとのことで、現在待機中です。

結果、翌日の朝9時,先方の夜9時着信あり

やはり、想像どおり日本のラインでは海外の電話番号での登録は出来ないようですが、相手から友達設定では出来るようです。
このセニョーラは今年83才になったようですが、元気な様子です。
毎日、2km先のお友達の家に歩いてでかけ、半日麻雀の生活の様子。
そして、83才になってもまだまだ日本へのフライトのマイル、それもビジネスクラスのマイルが残っているので来る予定のようです。
ご主人は10年以上前になくなっており、息子二人は家庭をもって独立していますが、日系二世の嫁さん二人は、このセニョーラの強烈な個性が災いしてかあまり寄り付かないようです。
一度ラインが通じたので、きっと毎日何かしらの連絡、トーク、そのうちビデオ通話がくるかもしれません。
私達夫婦も何度もこのセニョーラの高級マンションを宿代わりにしていたので、鎌倉の我が家を使ってと云いいますが、同い年の従兄弟の家(田園調布)が一番過ごしやすいとそちらをきっと使うでしょう。
やれやれ、ラインとの格闘がやっとおわりました。


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2024年08月17日

身元保証が必要な入院・手術・医療とは

医療行為への同意の権利。
本来はその本人のみに認められているものだとされる。一方で、医療機関では、さまざまな場面で、本人に代わって「身元保証人」が求められるのが現実です。

これまで「1人で何でもできた」はずが・・・

ある例、カミさんの友人女性(73)は、「人に頼らず生きてきた」と話す。
14年前に母を見送ってからは、一人暮らし。結婚はしていない。「ピンと来る人」に出会わなかったからだ。世の中は結婚にこだわりすぎだ、と感じていた。
大学卒業後は、高校の教師に。30代半ばに体調を崩して退職してからは、通訳などの仕事をした。海外旅行が趣味で、留学も複数回経験した。
1人で何でもできた。
でも昨年6月、初めて「一人はしんどい」と思った。
引っ越したばかりのアパートで、壁紙を貼っていたところ、踏み台にしていた空気清浄機から転落した。
激痛が走り、立ち上がれない。そばにあったカバンをたぐり寄せ、携帯電話を取り出して、なんとか救急車を呼んだ。
左足のひざを陥没骨折して、車いす生活に。約2週間後には手術をすることになった。
入院時に求められた連絡先は、10歳ほど年上の友人に頼んだ。
困ったのは、「身元保証人」だ。
両親も兄もすでに亡くしており、頼めそうな親族はいとこだけ。
しかもそのいとこはステージ4のがんで入院中。
足の手術くらいなら、連絡が行くことはないだろう……。そう思って、いとこの名前を書いた。
病床のいとこに事前に連絡するのもためらわれ、連絡はしなかった。
入院費用の心配はなく、病院にも事情を話して「連絡はしないでください」と伝えていた。
しかし、病院側はステージ4のガンで入院中のいとこは、身元保証の条件としては的確でないと、拒否された。
そこで、紹介されたのが、民間の身元保証会社だった。

高齢者の身元保証などのサポート事業 政府 ガイドライン策定へ

高齢者の身元保証などを行うサポート事業について、現在、所管する省庁がないことから、政府は今年度内にもガイドラインを策定するなどして、適正な事業者の育成を進めるほか、身寄りのない高齢者をめぐる問題に横断的に対応していくことにしています。

身寄りのない高齢者などが入院や施設への入所をする際に身元保証などを行う民間のサポート事業をめぐっては、単身の高齢者の増加などで需要が高まっている一方で、所管する省庁や法律がありません。
全国の消費生活センターなどには契約をめぐるトラブルの相談が年間100件程度寄せられているということで、事業の健全性の確保やルール作りをどう進めるかが課題となっています。

こうした状況を受け、高齢化に伴う課題を議論してきた政府と有識者の会合は去年12月、高齢者などが安心して利用できるようサービスの質を確保する必要があるという考えをとりまとめています。
今後は厚生労働省が進めている身元保証問題などの実態調査の結果を踏まえ、契約手続きや事業者が開示すべき事項などを定めたガイドラインを年度内に策定し、適正な事業者の育成を進めることにしています。
そのうえで法的な対応が必要な論点の整理を進めるなどして、増加が見込まれる単身世帯や身寄りのない高齢者の問題に横断的に対応していくことにしています

ある会社のプランを紹介します
■ 日常生活サービス
・お買い物や受診時の付き添い、
・福祉施設入居時の立ち会い、
・難しい介護認定の申請に関する相談など、日常生活において不安に感じる時に寄り添うサービスです
■ 入院時サービス
・ケガや病気などで万が一入院することになった場合の身元保証から入退院時の手続き代行、手術の立会いなども行います
■ 介護時サービス
介護サービスを利用するときや、介護施設へ入居するときの身元保証や手続きの代行、福祉関係者や病院関係者との協議など、介護で不安になることに対して寄り添います
■ 緊急時サービス
・緊急対応は、24時間365日可能です。
・自宅にいるときや出かけ先など、どこからでも対応可能です。
・緊急時には、事前指示書の開示等を行い、家族以上に心強いサービスを提供します。
■ 連絡代行サービス
・事前指示書をもとに、家族や知人への緊急時の連絡やもしもの時の連絡を代行します。

利用料金 一度だけの支払いこれからの老後が安心
■ 安心プラン
「入院、介護施設入居に伴う身元保証(身元引受け)連帯保証」※日常生活サービスが含まれます
 税込み385,000円+入会金10,000+月額&年会費 0円

よくある質問
Q1 資産開示をしたくないです、可能でしょうか?
  可能です。
Q2 生活保護を受けています。契約可能でしょうか?
  可能です。
Q3 身元保証の範囲を教えてください
  入院時、施設入居時、サービス付き高齢者住宅等です。
  就職、一般賃貸住宅、ローンは含まれません。
Q4 医療機関受診の付き添いはしていただけますか?
  可能です。
Q5 決済方法は何がありますか?
  原則、ゆうちょ銀行へのお振込みとなります。

これらの福祉?事業を扱う会社組織を管轄する政府組織が今現在なく、野放し状態なのが現状とNHKが伝えていました。

申し込みメールの項目を見ると、如何にも高齢者一人暮らしの不安を掻き立てる、チェックボックスが並んでいました。
□ 一人で倒れたら不安
□ 入院が不安
□ 認知症が心配
□ 介護費用が不安
□ 延命について不安
□ 相続は誰が行うのか心配
□ お墓の費用が心配
□ 死後整理は誰が行うのか心配
□ 将来、身体的にできないことがありそうで不安
今現在の団塊世代夫婦・家庭ではまだ必要ないでしょうが

団塊世代・・・現在75・76・77才が中心でしょう。

真ん中の昭和23年早生まれの私は来年春、節目の喜寿77才になります。
喜寿といって思い出すのは、母親の喜寿のお祝いをした時の母親の姿です。
母が喜寿を迎える11年前に父親はなくなっています。母親は長男夫婦・孫と暮らしていました。
信州で暮らす長女の姉の企画で、善光寺境内の見晴らしの良い高級料亭で母の喜寿のお祝いをし、地元を離れていた私共夫婦も参加しました。
母77才、子供・孫がに囲まれ高級料亭の食事をもったいなさそうに食べ、姉が用意した記念品(置き時計)前に、涙していた姿を今でも思い出します。
来年、あの時の母と同じ年齢77才・喜寿を迎えます。
私の喜寿を祝う会はありません。カミさん一人だけですから。
私達、夫婦はこれまでお互いの誕生日のお祝いをしたことは一度もありません。
夫婦というよりも、友達・旅仲間、或いは人生を一緒に過ごす戦友といってほうが当てはまるかもしれません。

今回の保証人の問題はまだ二人で話し合ったことはありません。
来年の喜寿の日に現在の遺言状の書き直しを進める予定にしています。
カミさんは私が逝った後、一人ぼっちになることは解っています。
カミさんのランチ相手の鎌倉婦人は、ひとりぼっちになったら私達がいるからと、励ましてくれていますが、カミさんは全然信用していません。ひとつにはみんなカミさんよりも年上の「団塊世代から80代の女性」ばかりですからです。
埼玉・北関東に姉・妹がいますが、家庭内にいろいろあり宛にならず、たった一人の仲の良い「姪っ子」に遺産をちらつかせる戦法を考えているようですが
いさ、その時となったら判りません。

最近のカミさんの口癖
鎌倉に最後の斎場はなく、お隣の逗子市の斎場となるけど
「あんな不便なやまのなかで、私一人でお骨になっていく時間を過ごすのは耐えきれない」
「市内の便利屋さんがそんな時に女性を派遣してくれると聞いてるけどそこに頼むは」と云っています。
子供のいない夫婦、或いは女性はいつも、そんなことを考えているのです。

幻冬舎新書新刊「老後ひとり難民」発売
このブログの原稿を書いていた翌日、新聞紙面広告欄に同じ問題についての新書文庫の宣伝広告がありました。
宣伝文惹句は
・入院できない
・施設にはいれない
・死後は無縁仏に
配偶者に先立たれ頼る子供がいなければいずれ「老後ひとり難民」に。
本の内容はおおよそ、今回のブログを書くにあたって調べたネット情報とほぼ同じです。
●病気や怪我したとき初めて気がづく残酷な現実
●「老後ひとり難民」か直面する病院や施設での保証人の壁
●入院して亡くなった「老後ひとり難民」はどうなるか
●身元保証や死後の後始末をする「民間サービス」とは
●「民間サービス」の8割は従業員10人未満、継続年数も5年以下が大半
●後悔しないために老後の為に今からできること
●準備不足な”おひとりさま”の悲惨な末路

大きな文字で「どうすればそれを回避できるか」!
とかく、出版不況のなか、確実に売れるのは高齢者世代の不安に関するお金・健康に関する本は確実に売れるのです。
私もこのブログを書き上げてから、ついつい、アマゾンを「ポチ」しました。
この暑さのなか数少ない本屋さんにいかないで住みますし、映画よりも安い値段ポイント使って500円弱、ですから。
私の為といようよりも、残されたカミさんの為なのです。

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2024年08月15日

龍舌蘭の開花を野次馬見物気分で見に行ってみた

テレビニュースで日本の各地で龍舌蘭の開花が取り上げられていました。

龍舌蘭とは
リュウゼツランはセンチュリープラント(和訳すると100年草)とも呼ばれる非常に成長が遅い植物です。
とは言っても、実際に種から花が咲くまで100年かかる訳ではなく、早ければ十数年で咲いてしまうそうです。
温暖な沖縄では成長が早く、開花株も比較的よく見られます。
テレビニュースのなかで、横浜市市営地下鉄上永谷駅近くの国道環状2号線の緩衝緑地帯の龍舌蘭が春先からぐんぐんと花芯が伸び始めたため、環状二号線というメイン道路でもあることで、伸びていく花芯の茎を支える、そして人が立ち入らないように柵をしたとの報道が伝わってきました。

場所は横浜市上永谷

上永谷駅は私の住む鎌倉からはすぐ隣の、横浜市市営地下鉄ブルーラインの駅でJRで一駅、戸塚で地下鉄に乗り換え3駅目と近いのです。
というよりも、横浜市営地下鉄の駅舎や、車両センターのビル・設備設計にこれまで多く関わってきており、昔から良くしっている地域なのです。
東京都のお台場ゆりかもめの駅舎・ビルの設備設計をやっていた関係で、横浜市営地下鉄の建設にもチョコチョコ関わってきました。
私の場合、図面上の取り合いサポート、指示で済むのですが、いざ本系本建築に関わると、一番大変なのは、現場までの足、ルートがないことです。
ゆりかもめの時は、全く何もない場所に新交通システムを造るですから、大変でした。
同じく、地下鉄路線もかろうじて陸地ですが、ほとんどバス便もないような場所に新駅を造るののてすから、車の運転が好きでない、そして会社として原則社用車を保たない主義でしたから、大変な時期もありました。

何十年ぶり、30年は経っているでしょう、上永谷駅周辺は大都会でした。
この日、東戸塚の歯医者さんを11時15分の予約が入っていました。
上永谷の龍舌蘭の開花状況は地元のコミュニティ紙に掲載されており、どんどん花芯が伸びていて大分、黄色い花が膨らみ始めているようで、
そろそろ歯医者さんに
いく日に寄って見ようと考えていました。しかしこの二週間以上も続く、強烈な暑さ、よる年波で熱中症も人ごとではない年齢にさしかかっていますし。
朝、東の空はいつものカーテン越しにも強烈な陽射しを感じるのに、今日はいくら曇天のようです。
電車でいくとにしても、ある程度の距離を炎天下、歩かなくてはいけませんが、そろそろ、撮影にいかないと、散ってしまう、その先100年とまで云わずとも、次の開花は絶対に見れないので
エイヤと気合を入れて出かけることにしました。

龍舌蘭の位置は事前に調べておきました。

グーグル・マップでもはっきりと写っている場所なので、全くも迷わずというより、遠目からみても大勢のシニアカメラマンや、スマホ片手の叔母様が龍舌蘭を見上げてカメラを構えてるのが見えました。
環状2号線の中央緑地帯に何歳かの大きい龍舌蘭が植えられており、今年、その一本が春先から花芯というのか、茎というのがぐんぐん伸びてきて、ちょうどその頃、日本各地の龍舌蘭が一斉に開花か?
とういうニュースが流れてようです。
識者の解説によると、今から50年ほど前から、日本でサボテンブームが到来し、手入れが簡単なサボテン各種が南九州で栽培され、それが全国にひろがり、今ちょうど50~60年目にあたり、龍舌蘭開花ブームとなっているようです。
龍舌蘭は昔、メキシコの古代遺跡がすきでカミさんと二人でよく旅しました。
私達が始めて購入したマンションのローンを3年で返済した年、それまで封印していた二人の趣味の海外旅行の最初が、メキシコでした。
それから、毎年、年に一度は、メキシコ・ガテマラ・ホンジュラス・コスタリカ・バナマの中米の国々を旅するうになるのです。
始めてのメキシコで、龍舌蘭のみを専門に栽培する農場を見学しました。
メキシコの地酒、テキーラはこの龍舌蘭を蒸留してつくる、お酒であることも知りました。

荒野、砂漠のサボテンではなく、都会のマンションを背景とした龍舌蘭

どんなカメラアングルでも、全体を描写出来ないのは解ったいたので、ビデオ撮影のみとし、次の東戸塚の歯医者の予約時間があるので、現場撮影は15分で切り上げました。
駅に戻る途中、バスターミナルを見かけ、ここからこれから向かいたい、「東戸塚東口」行のバスが10分後にあるの発見しました。
しかし、このバス・ミニバスのようで、私の知らない、〇〇台とか、バツバツ谷とかの住宅地を回っていくようで、上永谷から東戸塚まで25分、220円かかるようです。
朝来たルートでは地下鉄ブルーラインとJR横須賀線で行くと乗り換え含めて14分、420円です。
退職シニアの原則 「早い&高い」と「ゆっくり&安い」を比べてたら、通常の場合、後者を選びます。


このミニバスに乗って、かなり考えさせられました。

バスは環状2号を外れて、高台のほうには入っていきます。
そう横浜市に多い「〇〇台」という丘陵地帯に大規模開発された、戸建てや集合住宅地です。
バスはミニバスでこれら登り下りの多い坂道を先へ先へ進みます。
このバス1時間に2本のようで,各バス停には多大勢の高齢者とおもわれる人々炎天下の下、バスを待つています。
バスに乗って車窓から各地区の団地をみまてますと、おおよそ40年から50年経過したような建物のつくり、商店も医院も見当たりません。
勿論、コンビニ・銀行も見当たらず、かろうじて郵便局があった程度です。
一見、車窓からの風景は、横浜のちょっと山の手のちょっと古い、住宅街とみうけますが・・・
夫婦二人、子育てしている頃は、そんなに不便とは感じず、かえって、横浜の「〇〇台」に住むというプライドさえ、あったのかも知れませんが、足・交通の便が1時間に2本のミニバス、
子供も孫も離れ、自家用車を維持いる経費、高齢者となっての運転の不安もあるでしょうし、つくづく、今、都会に近い郊外の大型団地の抱える問題を見た思いがしました。

21年暮らした東戸塚駅前開発は今

42年前この駅前は野っ原でした、建物は何もなく駅前開発を行うもゼネコン事務所のプレハブが建っていただけでした。
この横浜から二駅の新駅開発の第一号区画の最も駅に近い街区の二号棟を購入したのは私達夫婦が35・32才の時でした。
全く日々の買い物をするお店はなく、日常の買い物はお互いの勤め先で買って帰る日々が二年ほど続き、少しづづ街の姿が出来上がっていくのを21年眺めてきた街です。
そして、早期退職と同時にここを売却して鎌倉に移り住み20年が過ぎました。
ですから、今見ている東戸塚駅前は40年過ぎているのです。
上永谷からミニバスで東戸塚に来るあいだ、車窓から眺めた「〇〇台とか、バツバツ谷」の住宅街はこの東戸塚よりも数十年前に開発された場所です。
帰りのバス停にならんでいた高齢者は私よりちょうどひと回り上とおみうけした方々です。
都会の住宅地の過疎化は思ったよりも進んでいるの目の当たりにしました。
この日の新聞紙面で神戸市内の超高層マンションの建設計画の中止の記事を読みました。
神戸市は50年後、この超高層マンションがどうなるのか見越して、中止を決めたそうです。
今日、このミニバスからみた現実から、出来るなら人の生きる環境・人生は、
「学ぶ時期、稼ぐ時期、子育てする時期、そして老後を夫婦二人過ごし逝こうとする時期、」
各々適した住環境は違うのだと、しみじみ感じました。

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2024年08月13日

玉村豊男(78才)、僕が「終活」をしない訳


ここ数ヶ月、カミさんのお友達、鎌倉夫人のご主人が立て続けに四人ほどなくなって行きます。
カミさんの食事会の仲間、ほぼカミさんよりお年上で年齢は私と同じ団塊世代で76〜78才ですから、伴侶、ご主人は概ねプラス3〜5才年上で80、2,3才でしょう。
まあ、今の平均的な亡くなる型の年齢なのでしょう。
年齢を正確に知らないのは、四人ともなくなってお葬式を済ませてから、カミさんは知ることになるからです。
四人とも、いずれも死因は「多機能臓器不全」つまり、ガンが原因のなくなり方です。
四人の方のうち、数年介護系施設に入り、なくる時だけ病院でというケースが二人、二人で「ステージ4」と宣告されてから自宅で数年すごし、最後の二週間は訪問介護派遣先の病院でなくなっています。

カミさんはこのような話しは、全て亡くなってから聞く話と云います。

田舎や地元と違って、ここ鎌倉でも、葬儀は近親者のみで行われ、ご主人の兄弟・近い親戚程度での葬儀、奥さんのお友達への連絡、通知はまったくありません。
今回、7月22日カミさんが知ったのは、カミさんのほうから何か連絡したくてLINEして知ったそうで、亡くなったのは7月5日、でも斎場が混んでいて全て済んだのは2週間後だったそうです。
ご主人は地元生まれ、育ちの長男で、親の代からの土地・建物は両親が亡くなった時に相続しており、今度は奥さんと二人の子供への相続が始まります。
大変でしょうと、カミさんが声をかけると、「全て、プロに任せるからそうでもないわ」と話しているそうです。
かなり余裕のある方のようですが、他の三名のうち二名は、ご主人がなくなってからまだ三ヶ月程度で、いろいろな書類申請、整理に追われているようです。

カミさんは我が家はどうなるの?と尋ねます。
我が家は簡単・・・財産は現金とこのマンションだけ。
子供はいないので、僕の兄弟に遺留分が発生するかもしれないが、預貯金もマンション名義も50:50だし、その50の3/4は伴侶に行くのだから、ほぼゼロに近いし、遺言状に全ての財産を妻にと書いているから、まあ、お金の問題はそう心配しなくても良いと思うよ。
ただ、名義書き換えとか、僕の身の回りの後始末はしなくてはいけないかもしれないね。
それもあって、ネット上とか、書類申請手続きについては、ヤマダに勤めているPC・ネットに精通している「甥っ子」を頼ってと話しています。

そんな時、週間現代の記事の「僕が「終活」をしない訳」に出会いました。

玉村豊男、エッセイイスト、1945年(昭和20年)10月、東京都杉並区生まれ 現在78才、10月で79才、私の兄と同い年.
1971年東京大学仏文科を卒業。在学中にパリ大学言語学研究所に2年間留学。通訳、翻訳業をへて、文筆業へ
東大争闘の後、大学を卒業しパリに留学、ヒッチハイクなどで世界中をまわり帰国後、エッセイストとして活躍、60才を前に長野県でぶどう畑とワイナリーを始めた。

41才の時、大量吐血して輸血を受け、慢性肝炎に感染。
その頃の医学書には「慢性肝炎を10年やると肝硬変にになり、さらに10年経つと肝癌になって10年で死に至る」と必ず書いてあった。
だから、自分は30年後、72才で死ぬのだと思ってきた。
でも、それから10年経っても、20年経っても肝硬変にならない。
でこのまま30年経つのかと思っていたら、今度は慢性肝炎を治す特効薬ができて2015年に肝炎が治ってしまい、肝機能数値は完璧に若い頃のレベルに戻ったとおもっていたら、その1年後70才の時、肝がんが発見された。
余命宣告を受けたわけでもないが、昔から72才で死ぬと考えていたから、「俺の余命はあと2年か、30年前の想定とぴったり計算が合うな」思った。
厳しいような、でもけっこうスッキリしたような気持ち、この2年は好きに物を食べて、健康にも気を使わなくていいから、気楽なもんだと。
しかし、それからも意外に長生きしている。
〜中略〜
今は、70才の時に感じた「2年先」を一応想定しながら、具体的に2ヶ月先までどうするかをかんがえている。
3,4m先をみながら歩いているイメージ。
でも、僕はもともと長いスパンで計画をたてず、眼の前にでてきたものに、半ば受け身で対応していく生き方をしてきた。
特に70才を越えたらいつ事故や病気があるか解らない、問題がおきたら起きたで、何とか対応していけばいい。
そういう姿勢はけっこう性にあっていた楽なんです。

かならずやり残しはある

東京の原稿を書く仕事から、農業を始めて、時間の感覚は大きく変わった。
農業は「暗くなったら終わり」書き物は夜おそくまでできるけど、農業は暗くなったら出来ない
そうすると必ず翌日に仕事残るんです。
夕暮れには仕事が打ち切られ「あとは風呂入ってメシ食ってねるだけ」となる。
それで翌日にはやることがあるから、またがんばろうとエネルギーが湧く。
東京にいた時はは締切があるから間に合わないと挫折感を覚えるし、逆に何かを完成させてしまうと燃え尽きるひとさえあった。
それに引き換え農業は「持続することが目的」だかに挫折感がない。
〜中略〜
農業では畑や木こそが主役で、それに関わっていることは脇役です。
ぶどう作りでも自分はいまたまたま関わっているだけで、後の人にひきついでいくものと考えている。
こういうのを「農業的価値観けとよんでいて「達観」というところまで行かないけど、農業を始めてから、こうした価値観を体感するようになった。

終活には積極的なれないと玉村は云う
一度試みたもののなかなか整理しきれなくて、なかば諦めていると。
でも、持ち物を綺麗に整理してしまわず残しておいたほうがいいことも多い思っている。
お葬式など細かい指示する気にはなれない、お葬式は残された人たちの気持ちの整理のためにやるものであって、故人のためのものではない。
最近、東京から地方に移り住んで悠々と生活する「理想の生き方おじさん」みたいにメディアであつかわれるようになって、そんなんでいいのかなと思いもあります。
良く考えたら若い頃から、予定調和が嫌いで、世界を流浪しているときも、当たり前のルートは面白くないから、わざわざ裏道を選んで歩いてきた面もあり、
出来るところまでやって、出来なかったらそこてやめればいい、成り行きまかせと計画の間の生き方のままでいいと思っている。

私の当初のリタイヤライフプランでは

私達、似た者夫婦か最初のマンションのローン返済を終えた38才・35才の時、
次の人生プランンとして、早期リタイヤ、海外移住計画(後にロングステイに変更になりますが)に向けて動き出しました。

その時、最終的、終の棲家は日本でにとしていました。※一度でも長い海外生活をした経験のある日本人はほぼ同じで、最後は日本になるのです。

このエッセイスト玉村豊男氏と同じような人生を歩み、若い二十代半ばまで海外で自由に過ごし、そして40代で中央アジアでA型肝炎に感染し、結果幼い頃の輸血でC型肝炎キャリアであることが判明し、その時に、この玉村氏と同じ運命、肝臓がんでの死をたどることになるだろうと思いましたが、医療の進歩でC型肝炎を克服しました。この時49才でした。
そんな事もあり、私達二人は一定目標金額をクリアしたら、早期退職して、自由に暮らそうと計画した時、基準となるのは、自分が何歳で逝くのか、そして残されたカミさんは何歳までと、おおよその日本のインフレ率の想定でした。
私のサヨナラする年齢は78才としました。
その当時の団塊世代の平均寿命です。
普通ですと、平均寿命よりは平均余命なのでしょうが、今年の夏の日の暑さと、日々衰えていく体力・脚力を考えると、当初のライフプランの78才で終活を進めていきそれそれ以上は余った人生と思うようにしたいと思ってこれから暮らすことにしましょう。

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