2023年10月31日
銀行へ行く日 暇だからわざわざ月末に行かなくとも良いのに
なんで平日の給料日でもないのに、こんなに混雑しているのと、並んでいる行列を眺めると、かなりの年配者の方々ばかりです。
今日は13日の金曜日・・年金支給日?。
そっか偶数月の15日が日曜日、土日となるので2日前の金曜日の13日に支払われるんだ。
知らなかった・・年金生活には入って15年にもなるのに知らなかった。
と云うよりも、早期退職してからも、我が家の家計の一ヶ月単位は、現役時代の給料日、毎月の25日と決めていましたので、特段、偶数月の15日は意識していませんでした。
特に年金がないと食っていけないと云う状況ではありませんが、かと言ってないと困る、生活のレベルダウンになることには変わりありません。
テレビのワイドショーで頻繁にシニア世代の年金問題を取り上げていますが、何故かインタビューする場所は東京の下町、江東区とか足立区の下町ばかりです。
テレビ局のディレクターとしては、世田谷や品川のスーパーで、日本の普通のホワイトカラーの年金生活者にインタビューしても何も面白くもないのは解っています。
ある程度の金融資産と何とか生活出来るだけの年金をもらい、戸建てに住み、子供や孫と暮らす、一般家庭の話よりも、カツカツの生活で一日でも1時間でも早く年金もらいとりあえずの食料品をスーパーで買いだめし、自分への年金支給日のご褒美として、ショートケーキを食べるのが、二月に一度の楽しみというお話のほうが、受けるに決まっています。
世間では「他人の不幸は蜜の味」
という不謹慎な言葉がありますが、アメリカでも似たような言い回しがあると、聞きました。
アメリカの午前中のラジオ番組で一番人気なのは、日本でもおなじみの「ラジオ人生相談」だそうです。
自分の廻りの不幸を延々と電話で見も知らぬラジオの向こうにいる相手に悩みを相談するのを聞いている視聴者の大半は日本と同じシニアの女性だそうです。
「私の人生もたいしたものではないけど、このラジオで相談する女性よりも少しマシだわ」
と思わせるのが、人気の理由だと教えてくれ、世界中、日本もアメリカも同じだよ、と云ってました。
私の毎月の25日の銀行めぐりの日は、今年の春から変わりました。
1,R銀行の貸金庫の契約をやめました。
これまで、海外旅行やら国内旅行で長期間家を留守にするので、安全の為に貸金庫を借りて、一切合切入れていましたが、長期間留守することもなくなり、
却って貸金庫にものを集中させておくと、土日・祝日・夜間の非営業日に何か起きた時に書類の取り出し、確認が出来なくなります。
家庭内にダイヤル鍵とワイヤロックキーで固定した手提げ金庫に変更しましたので、25日、わざわざ貸金庫のある銀行へは、かみさんの専用口座の通帳記帳だけで済むことになりました。
2, 元F銀行の口座は
年金振込専用と、クレジット決済専用(東京都内支店)がありましたが、私がこの先なにかあった場合、都内の銀行支店まで行かなくて済むようにクレジット決済銀行を地元のY銀に変更し、私個人小遣い専用口座として、諸々の費用は全てこの口座から引きだしして、私名義の口座残高を減らすようにしています。
一番大きな理由は75歳という年齢を意識し、私が逝った後のカミさんの手間を幾らかでも軽減する為です。
今の時代、クレジット口座がないと、何も契約も出来ない時代となっています。
現在、NHKの支払い、二人のスマホ決済、旅行チケットから、ネット経由購入の映画館・アマゾンなど全て、私個人の小遣い口座として利用してきました。
何も利用しなくなってからでも、毎月の生活費引きだしのうちから、最低限NHKの支払い、二人のスマホ決済金額を現金で地元Y銀行の口座に振り込まなくてはならのです。
3, カミさんと私の年金振り込まれ口座は
二人共に元F銀行です。もともとF銀行は日本一支店数が多かった銀行です。
大船には、元F銀行合併前の支店が2つあり、今年の春までATMが稼働していましたが、一つは閉鎖され、残ったF銀行には10数台のATMがあり、年金支給日や給与振り込み日には、銀行の外まで行列が出来ています。
4,地元のY銀行
へも今年の春から月イチに行くようになりました。
元々、鎌倉に越してきてから口座開設した銀行です。一つには、地元NPOの有償ボランティアのお手当が振込なので、鎌倉市指定の銀行だったので新規開設した口座でした。
その後、鎌倉市からの給付金の振込口座して、年に数度の「高額医療医療還付金」の振込み口座として使うようになりました。
今年の春から月イチ必ず行くようになっています。
その理由は、これまで私的なクレジット口座引き落として、昔現役時代に開設した元F銀行の渋谷支店から、地元Y銀行に替えたからです。
5,M銀行へは絶対に行かなくてはいけません。
マンション管理費やら、鎌倉市の国民健康保険は、このM銀行の私名義の口座からの自動引き落としになっています。
いつか、早めにこのマンション管理費と鎌倉市の国民健康保険の引き落とし口座を、現在メインのY銀行にしたいのですが、やはり名義人の変更が必要になるようでまだやっていません。
この日本を代表するようなメガバンクM銀行は、ここ数年どんどんと支店の閉鎖が続いています。
原則一市町村に一支店のようで、大船の支店は閉鎖され、藤沢支店に併合されました。
残ったのはATMだけのお店、それもATMが5台だけの小さな店舗で、年金支給日や、給与支給日・月末には店舗の小路まで長い行列が出来ています。
比較的都会と思われる私の住む町なのに
若い頃、どこでも自由に動き回れる頃、自分が逝った後のことなぞ考えられない頃、身近な金融機関、公共施設のロケーションなぞ考えたこともありませんでしたが最近は気になりだしています。
ちなみに銀行について、田舎に住む79歳のなる夫をなくした姉に聞いてみました。
田舎といっても、県庁所在都市の郊外の大規模住宅開発地区てすが・・・
元々、駅までの距離とか、バス路線は考えたこともなかったそうです。
夫がいて、車がある時は・・・
夫が亡くなり、息子は転勤で海外に、娘は嫁いで他市へ行き現在一人暮らし、車は手放し、バイクはあるものの、怖くなってヤメてる状況
頼るのは、実家の弟(私の兄)のみ、でも何でも頼むのは兄嫁への遠慮もあり、お友達のみが一番の頼りと云います。
銀行など金融機関に関しては、夫が亡くなった後、は全てを近くの郵便局に移したそうです。
元々、銀行は街なかにあり、昔から郵便局をメインにしていたそうです。
それでも郵便局までは徒歩20分ぐらいあり、月に一度、遺族年金を降ろしに行く程度のようです。スーパーなどの買い物は、生協仲間の拠点が近くにあり、用は足りているようです。
考えてみれば、昔は皆んな、何処もそうだった都会以外は
自分が元気で、お金もあり、何でも出来る頃、世界を一人で生きて行けると信じていた頃・・・
でも、実際に人生第四ステージ「遊行期」となって、人間一人きりでは生きてはいけない、社会・友人・家族が必須なのだと・・・
まだ悟った訳でもありません。
煩悩はまだまだ有り、行ってみたい、旅してみたい場所はまだまた限りなくあります。
このフログを書いているのは、風邪をひいたのか、鼻水・くしゃみ・寝不足、喉がいからっぽい、体温を測ると35.6、コロナではなさそう。
近所の行き付けの耳鼻科に行くと小さな医院なのに待合室は満員、待たされて大量の薬、一日3回食後一錠とか、一日一回朝二錠、一日一回夜、二種類とか細かく処方された薬を飲み、一日ボーとしている、体力も気持ちもかなり落ち込んでいる時であることをつけ加えておきます。
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2023年10月29日
老後の住まい、都会のマンションと地方の戸建て
報道記事引用
不動産経済研究所によると、2023年4月から9月の上半期の東京23区の新築マンションの平均価格は1億572万円となり、バブル期を超えて、初めて1億円を突破した。
超高級物件の売り出しや、資材費、人件費の高騰などが要因。
一方、9月の首都圏の新築マンションの平均価格は、6,727万円だった。
前の年の同じ月と比べて、74万円増加し、7カ月連続の上昇となった。
また、東京23区の平均価格は、前の年の同じ月に比べて1.8%上昇し、8,915万円だった。
ニュースを聞いて、20年前55歳で早期退職した頃を思い出していました。
2003年、時はバブル崩壊後、中古マンション価格崩壊の時
世の中では私と同じ世代(この時50代なかば)、最初の買ったマンション・共同住宅を売って戸建てに移ろうとしているしてる人が多くいました。
歳とったら、マンションではなく、郊外の庭付き一戸建てが、地方から東京の大学・良い会社に入り、マンションを買い、最後は首都圏郊外の戸建て。
これが典型的なケース・夢でした。
しかし、この年、郊外の戸建ての資金は現在住んでいるマンションを売って、が資金プランだったのですが、なかなか売れず・・と云うよりも買い手が全くつかず予定していた価格の半分で売れれば、上出来という底値状態でした。
私が住んでいたマンションもバブル真っ盛りの頃は8,000万の値段がついていました。
この数字を見て、一体誰が買うの?、買えるの?と不思議に思いました。
とても普通のサラリーマン・・有名大学卒・一部上場会社社員でも買えるような社会情勢ではありませんでした。
その後の不動産バブル崩壊で買い手が浮かび上がったきました。
「投資・値上がり目的」が大半を占めていたようです。
私のマンションの場合、築20年、駅から徒歩5分、83平米、子供なし二人夫婦生活でほぼリフォームなしの好物件でしたので、20年前購入時の75%値段で売れて現在住む、鎌倉の新しいマンション52戸をさきの売った価格にプライス、1000万で購入しました。
20年間住んでいる、現在の評価価格は、購入時+500万程度です。
しかし、私の住む鎌倉市大船地区の新築マンション、駅から10分、専有面積75平米は現在築3年経過で、6,800万円します。
エー、元工場跡地に立てられたマンションがそんなにするの?、一体誰がそんな高いものが買えるの?、いくら金利がやすくたって、借金は借金なのだから一体月々の返済は幾ら?何歳まで払うの?それまで自分も勤め先の会社も元気・無事でいられるの?
35年後の日本経済なんて、誰も分からない・・・
マンションと戸建ての維持、経費のテーマ
先日、故郷の中学校同級会に出席しました。
中学校の場合、まだ社会に出る前の分岐・選択がないので、その後行き先、人生は、ある程度進む先、方向が同じくなるような高校のクラス・大学のクラスと違って日本社会の縮図のように多岐に渡っています。
同級会に出る前に送られてきた全員の住所・名簿を見て、どんな所、どんな家に住んでいるのかグーグル・ストリートビューで眺めてみました。
卒業した男子24名のうち亡くなった方3名、住所不明2名、
地元長野にお住まいの方13名、県外は6名、長崎、横浜、柏、あきる野、春日井、そしての鎌倉
女性の場合
亡くなった方2名、住所不明1名、
地元長野市内16名 県内は3名 その他県外は愛知、東京、福岡、島根でした。
同級生はほぼみんな戸建て住宅
住所表記とストリートビューで確認した所、マンション・共同住宅と思われるお住まいは私以外で、民間アパート・公団が2名、恐らく自己所有であろうと思われる方が2名
他の方々は全て、戸建て住宅が確認できました。
昔と違ってグーグル・ストリートビューで、家の表札まで確認できるお宅もありました。
皆さん私同じ同級生75歳ですから、立派なお住いと見受けられます。
私達の世代、あるいは女性の伴侶となる方はもう少し上で、一家を構えるということは庭付き一戸建てが当たり前だった方ばかりです。
恐らく推定ですが自己所有分譲民間マンションは、私を含めて3名
一人は男性、長崎のM重の取締役まで行った技術屋
一人は女性、博多の町のなか
もう一人は私で、ターミナル駅近、全員大きな都市に住んでいます。
三人とも同じ年齢ですから、最初に購入した共同住宅・マンションなら42年経過しています。
私のように退職直後に二軒目の買い替えでも20年経過しています。
今再び持ち上がっているのは、マンションの修繕積立金の問題です。
昔と違って、大規模修繕は10年に一度ということは云われなくなっています。
昔のように、大手建設会社から何年に一度とかの申し入れは少なくなりました。
管理会社も管理組合もここ40年の積み上げ・経験で学習し、建設省の基準も日々変化、対応してきています。
私の場合、二軒目の購入マンションですから、ある程度のこの先に起きる問題は想像できていました。
今、各地で問題になっているのは、大規模修繕積み立て金が不足していることです。
原因の一つは販売デベロッパーが敢えて、入居当初の修繕積立金を安く設定していることです。
都内のマンションを購入する世代は凡そ35歳の共働き夫婦というデータがあります。
金利が最低の今の時代でも、頭金はせい一杯無理しても、親からの借金、贈与があっても1,000万~程度で後はローンとなります。
私が20年前に退職した時、私の部下は35歳、子供は2歳と4歳で、錦糸町あたりのタワマン(40階建て)を購入しました。その時のローン残高は3,000万以上でした。
彼は、今の日本経済と自分の会社の状況なら十分に返せると計算していました考えていました。
しかし、3年後に会った時聞くと、固定資産税・マンション管理費の見積もりが甘かった。
子供が小学校に入ったら、奥さんも働かないとローン返済は厳しくなると話していました。
そうなんです。
マンションの修繕積立は当初、入居者の負担を抑えるために低く、最低限の修理・補修がてきる程度、一年或いは二年程度の短期間の予算を組んでおり、10年単位の大規模修繕には100万ほどの臨時徴収で設計されています。
私の今の住まいも同じでしたが、3年後から積み立て方式に改めた為、一気に倍になりました。
52戸の中規模マンションでもかなりの金額になるのですが、小規模のマンションですと、通常管理費・修繕積立だけで、民間賃貸料金よりも高くなります。
修繕積立は当初安くし、大規模修繕の時に臨時徴収するスタイル
その理由は、昔は新築マンションを買ってある程度たったら、マンションを売却して戸建てに引っ越すのが普通に多かったのです。
売却し、引っ越しても、積み立てした修繕費は当然ながら戻ってきません。
ですから、不動産売買が盛んな時期はマンションの修繕費は安く抑えられていたのです。
しかし、現在は違います。
マンションの戸建て前の一時期の住まいではなく、終の棲家となって来ています。
年老いた、年金生活と入ってからの大規模改修時の臨時費用支出は、管理組合総会で否決されるマンションもででいる状態です。
私の場合、このマンションで一回目は10年で、販売会社の瑕疵責任と合わせた中規模工事と昨年の20年目の大規模工事を終えており存命中に大規模修繕はないと、かってに考えています。
戸建ての家はいいな、管理費・修繕積み立てがなくて
我が家は管理費・修繕積立と固定資産税だけで年間70万と、実家の兄と話すと兄は、特別口座・会計で修繕費を積み立てしている訳ではないけど必要となればやらなくてはならない、屋根も外壁ペンキもキッチンもトイレも、もうこの親から引き継いた家は50年は経っているから、100万単位の金はここ数年、度々でる。と話していました。
でも、いいな戸建ては、多少の修理を我慢して住み続けることは出来るれど、集合住宅の場合、管理費・修繕積立は住み続ける限り生涯続くのだからと云うと
「お前、この家の資産価値は知っているか」
「80坪の我が家は資産価値は土地だけで、上モノは資産価値ゼロ」
「このあたりの坪単価は20万程度で、実際に売り出せば、解体費を差し引かれて2000万を切る」
「都会のしかも鎌倉のお前の家の半分にも満たないのだよ」
「自分たち夫婦がなく逝った後、二人の独身の息子の相続が心配になっている」
確かに、二人の息子は50歳と46歳、弟は実家は兄が相続すると思っているようですから、兄の気苦労は分かります。
兄と兄嫁は78歳となり、これから先の心配をしているようです。
我が家の場合、これから引っ越し、家の住み替えは既に断念しており、かみさんが亡くなるまでは、特段の経済的不安はないでしょう。
死んだら、後のこと「しーらない、このマンションは勝手に処分して」
それにしても、1億円のタワマンの修繕積立って幾らぐらいなんでしょうね。
いったい、年収幾らなら買えて、維持できるんでしょうか。
中国の二の舞いにならないのかな。
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2023年10月27日
最近の電車の優先席廻りが気になる
その理由は
お年寄りと思われ座席を譲られたら、どう対応したら良いのか迷うからです。
65歳前後の頃、写真クラブの友人と一緒に電車に乗った時、優先席付近で吊り革を掴んで立っていた時、目の前若い女性が立って、友人に席を薦めたのです。
友人は困惑した顔で私の顔を見ます。「断ったら彼女に失礼だよな」と云う表情が見え見えでした。
軽く、頭を下げて席に座り、下車駅で降りた後、彼はかなりショックの様子でした。
「俺ってそんな席を譲られるような年寄りに見えるか?」と私に聞きます。
「うーん、若い子からみれば年相応なんだろうな」
彼は元日本を代表するような広告代理店アドマンで、退職後もかなり若々しい服装・格好で若さを自負していたのですが・・・
あの時から10年以上経過しています。
友人は私より6歳上、あの頃は70歳は超えていたでしょう。現在81歳、糖尿が目にきているようで半年に一度、目の手術をしています。
先日の写真クラブの展覧会でも会えませんでしたがフェースブックは毎日更新していて元気そうです。
あの頃から10年、私に後期高齢者宣告通知が
2023年の誕生日月、政府からお年寄りとしてのお墨付き、これのまでの健康保険証と違ってかなり大きい、持ちは歩きにくい「後期高齢者医療保険者証」が送られてきました。
この日を境に意識したのか、下半身の筋力が急速に衰えはじめたのを自覚するようになりました。
特に今年の夏の猛暑・熱暑・日差しのなか、今まで意識もしていなかった駅の階段も、帰路の坂道も「気合をいれて」歩くようになりました。
筋力の低下は今年の春、普段長い間ウオーキングで履いているスニーカーなの足首に痛みを感じて、掛かり付けの整形外科のスポーツドクターのところで診てもらった時に、スニーカーに問題はなく、老化による筋力の衰えと診断され、極力、階段はエスカレーターやエレベーターのある
場所では「見栄や意地」を捨てて、優先して使いないさいと、云われました。
普通、体力・筋力の維持の為に運動しなさいと云うのは、75歳までだと云うのです。
もちろん、軽いウォーキング、散歩は必要ですが、体力・年齢を無視した運動は、却って痛みや消耗を増進する・・とスポーツドクター、整形外科医の意見でした。
私たち夫婦は、はるか昔から車のない生活、運転免許証を60歳の時更新せずに今日に至っています。
お出かけは、電車・バス公共交通機関のみです。
幸いにも私達は関東首都圏の交通事情に恵まれた、自宅はターミナル駅から10分ですから、日常的な外出、移動に何ら不便はない生活です。
20代半ばから、大都市東京首都圏、渋谷・世田谷・横浜市内と暮らし、毎日30年近く電車通勤してきました。
早朝6時横須賀線・東海道線も山手線も既に満員で、座わろうと思ったことはなく、如何に下車駅まで何とか、新聞を広げて読める位置を確保できるかの状態、深夜帰宅する電車は、品川乗り換えの最終電車「大垣行き」でも、勿論空席はなく、車内は帰宅するサラリーマンの宴会・酒気にあふれていました。
そんな生活にピリオドをうち、リタイヤライフに入っても、満員電車に乗らざるを得ないケースがありました。
二人の老後生活のメインの旅に出る時です。
退職直後は頻繁に自宅から成田空港に向かう、横須賀線も早朝から混んでいていて東京まで通勤電車並の混雑ぶりです。
そんな混んだ成田空港快速に乗らなくても「成田エキスプレス」があるのですが、早期退職でまだ年金ももらえない年齢、おまけに頻繁に海外へでるパターンでは快速電車の2倍以上もする交通費の節約の為に使えず、少なくとも自宅最寄り駅から東京まで、或いは帰路は成田空港始発で座っていけるとこれまで、一度も「成田エキスプレス」に乗ったことはありません。
この頃、車内の優先座席はさして意識はしませんでした。
しかし、最近は優先座席はかなり意識します。
その理由は、10年前の友人のことを覚えているからです。
「席を譲られたらどうしよう」・・・とカミさんに云うと。
「堂々と会釈して座るに決まっているじゃない」「若ぶっても、最近の君の歩く姿は立派な高齢者よ」
と云います。
確かに、旅行で新幹線に乗るために20数年ぶりに早朝の東海道線に乗ると、勿論、最寄り駅「大船」で空席があるはずもなく、昔の通勤時代と同じように
なるべく、各駅の乗降のさいに邪魔にならないように意識して、吊り革の場所を探します。
間違って優先座席の前に行っても、通勤サラリーマンの方々は、今にも死にそうなお年寄りでもない限り、高齢者に席を譲ることはありません。
先ずお目にかかることありませんが、通勤ラッシュの時間帯に小さな赤子を抱いて乗車しても、席を譲ることは先ずないでしょうし、
かえってこんな時間帯に乗ってく非常識を疑う目でみることだと思います。
これは仕方ないことなんです。東京で企業戦士として働くサラリーマンにとっては。
しかし、昼間の通常時間帯となる話は別です。
最近、頻繁に目にするのは、若い女性、カップル、オバサン世代がこの席に何の疑いもなく座っているのです。
我が家のカミさんは72歳になりますが、絶対にこの優先席には座りません。
自分が見た目、実年齢よりもかからですなり若く見られていると自負しておるのと、もし座ってこの席を必要と思われる方が来た時、慌てて席を起つ自分の姿が嫌だからと云います。
もちろん、このような方々は後期高齢者の私が目の前に立ち、吊り革を掴んでいても席を譲ろうとはしません。
彼ら、かのオバサン達は、見ないようにしているのか、スマホ画面だけを見ています。
外国人観光客の多い路線ですが、英語表記のあるこの席に座っています。
海外の電車にこのような席がないのか、或いはどう伝えれば良いのか分からないのかもしれませんが。
かなり疲れていて座りたいと思っても、私は空いていたら座りますが、特に若い子が座っている前には絶対に立ちません。
あまりの非常識に、自分が何かいいだしかねないからです。
そして結果として、車内で年寄りに怒鳴られたとでも、ツィターにでも書かれるのでしょうから。
年寄りは立たせておいてもよいですが・・・
先日見かけたのは、このマークをカバンにつけていた女性がこの優先席に立っているのに、座っている女性は顔をちらっとみても席を譲ろうとしません。
カバンにつけて「お腹に赤ちゃんがいます」バッジがみえないのか、立っている妊婦女性が細身でそんなにまだお腹が大きくなかったのか、バッジに気が付かずスマホ画面に夢中だったです。
私達二人はドア横で立っていて、その場面に気が付き、座っている女性に注意しようと思ったのですが、カミさんに止められました。
変な年寄にいちゃもんつけられたと思うし、立っている妊婦さんも嫌な思いをするかも知れないから・・・と
別の日、今度は若い鎌倉へ観光にでもきてるカップルが混んだ電車のなか、優先席に座っていました。かなり混んでいる電車のなかでも、この二人は自分たちの世界に没頭しています。
その席の前に、お年寄りではなく中年の女性が吊り革を手に立っています。
胸に、赤い心臓マークのワッペンが見えています。
前に座っている若いカップルにも見えているハズです。
それとも彼らはアジア系外国人観光客でこのような席のことも、マークのことも知らないのかと思いましたが、日本語ての会話が聞こえてましたので日本人です。
この日はカミさんがいないので、流石に黙っていられないと、このカップルに声をかけようとしていましたら、この心臓ワッペンをつけた乗客は次の駅で下車しました。
このような優先席やワッペンがあるのは、日本だけではないと思います。
帰路、成田港から快速で帰る時、多くの外国人観光客と一緒の電車に乗り、彼らがこの席に座ろうとしている時に必ず声をかけるようにしていました。
日本に来た直後だからです。
あえて声をかけて、日本の車両にこのような席があることを外国人旅行者に知って欲しいと思うからです。
100%の外国人旅行者のこの英語併記を見て、納得して席を離れていきました。
しかし、日本人の若者に同じ言葉をかけて時の反応が怖いです。
「クソ爺い」ぐらいの悪たれはてれるかも知れませんし、云われて嫌なも思いをしたくない気持ちもあります。
でも、元気な年寄りは放っといていいけど、妊婦、幼児連れ、赤十字マーク、杖をついたお年寄りには席を譲り、さっさと立て! バカモノ
そして、この席は決して年寄り優先席ではありませんぞ、おのおの方
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2023年10月25日
マイナンバーカードによる医院の倒産
引用 東京新聞
現行の健康保険証を廃止し、マイナンバーカードに一体化させる「マイナ保険証」で、地域住民の健康を見守る小さなかかりつけ医が廃業の危機に立たされている。
マイナ保険証導入で機器が必要になるほか、診療報酬の請求もオンラインが主流になり、医療のデジタル化について行けなくなっている。
小規模開業医では、診療報酬を専用の用紙に手書きで記入し請求しているケースもある。
例としてのケース
「ずっとワンマンオペレーションでね。受け付け、治療、会計、カルテへの記入、診療報酬の請求事務、掃除、機器の消毒まで全部私1人でやってます。患者さんがそんなに多くないのでレセプト(診療報酬明細書)も紙なんです」
Sさんは、地元の私立大歯学部で学生の指導や付属診療所で治療に当たっていたが、2001年に父親の医院を引き継いだ。
患者は月で延べ50人ほど。「4分の3は徒歩か自転車で来院し、ほとんどが私の親の代から通う患者さん、または、その子や孫です。保険証を忘れても10割請求なんて冷たいことはしません。月末に持ってきてもらえばいい」
そんなSさんが昨年10月、政府が「健康保険証の2024年秋廃止」を決めた時は、心穏やかではなかった。
「当時、マイナンバーカードがそんなに普及していなかったので、システムとして成り立つのかなと疑問に思った」
厚生労働省によると、今年1月時点で全国の70%の医療機関はオンライン請求、27%が電子レセプトを光ディスクなどに記録し郵送する。
篠田さんのように紙で請求するのは約7700機関(3.4%)と少数派だ。
今後も「紙」の請求は可能だが、現行の保険証がなくなれば、マイナ保険証を読み取る機器もないため、保険治療ができなくなる。
「レセプト用紙は県歯科医師会が供給していますが、使用する医師の減少で印刷部数も年々減り、いつまで続くか不安。
保険証もレセプトも紙がなくなると、廃業を考えざるを得ない」
国は地域でかかりつけ医を持つことを推奨しながら、Sさんのような医療機関を存続の瀬戸際に追い込む。
後継ぎがいないSさんはこう訴える。「来てくれる患者さんがいるのに、この先どうしようかな、と崖っぷちに立っている時に、マイナ保険証に背中をどーんと押された感じです」
私が現在通う医療機関で同じような現象が起きています。
歯医者さんはJRで二駅先の元現役時代に住んでいた町の掛かり付けの歯医者さんです。
上記引用先のとは違い患者さんも多く、事務・受付2名、歯科衛生士、助手3名の横浜都市部の歯医者さんとしては平均的な医院です。
掛かり付け眼科医院は、徒歩圏の大船の真ん中のビル内で先代のドクターが引退し、大学病院で診察していた息子さんドクターが引き継いでいます。
皮膚科は、隣駅戸塚の小さなビルの一室で高齢のドクター一人と受付の女性の二人だけのこじんまりたした医院です。
この3つの医療機関はカルテは手書きです。
「マイナ保険証lリーダー」もありません。
一方、内科系の掛かり付けクリニックはもちろん、とうの昔に「マイナ保険証」になっています。
カルテも開院当時から電子カルテ、女医のドクターは私がモニターが見えるようにして、キーボードを叩いています。
よくある話の、患者を見てない・・・ということは有りません。
もう一人のかかりつけ医、消化器系で胃カメラ・大腸カメラが専門のクリニックも開業当時から、電子カルテです。
整形外科のかかりつけ医もと云うより、何でも新しいものを取り入れる性格なので、いの一番に「マイナ保険証」になっています。
この三人の医院に共通しているのは、徳洲会旗艦病院である、自宅から徒歩15分の「湘南鎌倉総合病院」の勤務医出なのですから、当たり前なのかも知れませんが・・・
もちろん、本体、私の前立腺を15年以上見ている本部の「湘南鎌倉総合病院」はいの一番に採用していました。
しかし、紙の保険証は見せるだけだったのですが、「マイナ保険証」はその都度、本人認証が必要で、大きな病院では、病院のカードと、マイナ保険証の二重チェックとなり、お年寄り(私も十二分そうだけど)には評判は悪いです。
皮膚科のような引退間際のドクターは、わざわざ高い費用をかけて「マイナ保険証」に対応しない理由は分かります。
でも、眼科の若いバリバリの元大学病院勤めのドクターがカルテも「マイナ保険証」にも対応しないのが不思議で一度聞いてみたことがあります。
ドクターは私が今も現役のITプログラマーの端くれだと知っているので、胸のうちを話してくれました。
カルテの電子化について
入り口受付の棚に名前順に、先代のダクターが積み上げた莫大な紙のカルテが見えます。
受付にはカルテ出し専門とも思われるオバサン女性は、診察券を出してから1分ぐらいで、私のこれまで20年分くらいのカルテを、最初の視力検査スペースに運んでいってます。
その後カルテは次の視野検査、ドクター問診最後に再び受付の医療費会計の女性の手に渡っていきます。
小さな医院ですから、手間や時間のロスは問題ないのでしょう。
40代のバリバリ現役の大学病院眼科から、親元の医院を引き継いだ息子さんのドクターは、いの一番電子化に向かいたいのでしょうが・・・私達思うほどそう簡単ではなさそうです。
なぜ電子カルテが普及しないのか?
を検索するまでもなく以下の問題があるとドクターは説明してくれました。
電子カルテの欠点は何?
電子カルテの補助金はでるのか?
電子カルテ 何年残る?
電子カルテ 義務化 いつ?
紙カルテの電子化の方法、想像とおり、一度スキャンしてPDF化するしかないそうです。
既にそれ専用のカルテスキャナーなるマシンが搭乗しており、パソコン機能もあって、自動的に分類・整理してくれるマシンだそうで、単体で手動だと一台10万円ぐらいからあります。
自分でシコシコ夜中に簡易的にスキャンしてやればいいのだろうけど、そんな時間は勿論なく、既に多くの専門業者が存在しており、かの眼科医では過去からの全てをやってねもらうと、軽く1,000万を超すそうです。
今まで、ドクターの母親がやっていた眼科は、女医さんであり、同じく歳とっていく女性患者と同一目線での診察で評判がよく、いつも待合室に入りきれないほどの患者で溢れていましたが、母親が引退して、大学病院から戻った息子に代わってから、あっという間に患者は減りました。
息子のドクターも大学病院の患者と民間、町の眼科にくるお年寄りオバサンとの対応が出来なかったのでしょう、きっと。
我が家のカミさんも同じ眼科医院に通っていて、評判は最悪でした。
息子ドクターは、新しい検査機器を入れ、古くからいる男性検査技師や、看護師を辞めさせ、人事を一新してのスタートが裏目にでたのでしよう。
でも、私とは相性が良く、結構無駄話もありました。
カルテに電子化についての費用や手順はこのドクターから聞いた話であり、「マイナ保険証」になっていない理由もほぼ同じ資金面だそうです。
補助金はあるものの、新しく専用通信幹線を引く費用は「NTT」の言い値で、一般ネット幹線の数十倍の費用に、工事が追いつかない状態ださうです。
端末の「データ読み取り機」にしても、汎用パソコンよりも高い値段、レンタルではなく買い取りだそうです。
そんな投資をしても、お年寄り相手の町の眼科医では、原資の回収も出来ないのではないか、第一お年寄り患者が「マイナ保険証」で受診するか?
パスワードを覚えているか?換えつて時間がかかるのではないか、?疑っていました。
政府はかかりつけ医制度を奨励しています。
確かに、一般的な日常の診療はかかりつけ医で十分ですが、こと私の住む地域では、掛かり付け医の代表病院による抱え込み、系列化がどんどんと進んでいます。
医療の下請け・系列・資本化が進むとどうなるのか?
団塊世代に残されたのは最大で10年、先のことを知らないできっと逝くことでしょう。
先週、同じ世代の逝き方について考えさせられました。
先日、スポーツクラブで一緒の同じ団塊世代の女性の夫77歳が亡くなり、49日を済ませて久しぶりに参加してきました。
77歳と比較的若かったので、長い間闘病していたのか、あるいは突然たったのか質問しました。
病名は「るいてんほうそう」どんな字なのかその場でスマホで調べました「類天疱瘡」大人の水ぼうそうのようで、高齢者におおいそうです。
難病指定されているそうです。皮膚の表面が水ぼうそうのようになり爛れる病気なのですが、症状としては全身に、強いかゆみを伴う紅斑や水疱、水疱が破れた後のびらん、びらんが治った後の色素沈着、瘢痕(はんこん=傷などが治った後に残るあと)が多発し、これらの症状が入り混じった状態がみられます。
全身にびらんが多発するため、症状が重いと、体液や血液が体外に出ていって低栄養や貧血を起こします。
それが改善されず徐々に状態が悪化すると、びらんからの細菌感染症による敗血症を起こし、命にかかわることがあります。
また、内臓悪性腫瘍を合併することがあります。
最悪のケースだったのでしようか、3ヶ月の入院、治療で亡くなりました。
亡くなる前日まで意識ははっきりとしていて、会話も出来ていたそうです。
団塊世代の平均寿命は81.5歳だそうですが、自分がどんな病でになくなるのか、どんな状態が続くのか出来るだけ、カミさんの手を煩わせることなく、短い入院治療で、この方のように意識あり、会話が出来る状態で逝くのが理想なのですが
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2023年10月23日
秋の行楽シーズン到来 11月の予定は
8月の猛暑にカミさんの希望で「奥日光」一泊、9月は私の希望で、南三陸の震災の地とウミネコの撮影一泊旅行に行き、10月は南アルプスの紅葉を求めて
「千畳敷カール」の予定でしたが、猛暑による紅葉時期のずれ込みと、中学校の同級会があったので中止しました。
私が中学同級会で長野に行くので、カミさんは軽井沢で下車して、適当にお買い物をし、帰りに軽井沢で一泊し、予てからいってみたかった「世界遺産」の「富岡製糸場跡」に一緒に行こうと誘いましたが、全く興味がないようで、その費用を次回にまわそうという提案で、10月はカミさんは何処にも行けず「つまんない病」が悪化したようです。
11月は年間予定では高知に行く予定です。
私達二人は、65歳で海外旅行を卒業し、国内旅行に専念することにして、早10年です。
国内旅行の行き先は47都道府県の県庁所在都市で全てを下車し観光、できれば一泊以上する云うプランを持っていました。
現在、この条件をクリアしていない県は4つ、4市、あります。
北陸、福井県福井市
山陰、鳥取県鳥取市
九州、佐賀県佐賀市
四国、高知県高知市
福井県福井市
福井県は現役時代の現場の親睦旅行で、東尋坊と永平寺に行った記憶がありますが、福井市は行ったことがありません。
特に拘るのは福井駅前にある動く大型恐竜は見ておきたいのです。
私はわざわざ北海道岩見沢の博物館に巨大アンモナイトを見にいくほどの古生物マニアなので福井は絶対には外せません。
でも、来年4月に北陸新幹線が福井まで延長・完成するので、そう慌てなくても、老化が進んでも無理なく行けるだろうと楽観しています。
鳥取県鳥取市
山陰、鳥取県は大都市米子・境港までは行っています。でも鳥取砂丘は行ってないし、県庁所在の鳥取市には行ってません。
鳥取の自虐ネタ「スタバはないけど砂場はある鳥取県」。
本当は、世界各地で大きな砂丘を見ていて、砂丘にはたいして期待はしていません。
恐らく、見たら「ふーん、可哀想な鳥取砂丘」と思うでしょうが、意地でも全県を制覇したいので行くつもりですが・・・
何処から、どう行ったら良いのか・・・
数年前、吉永小百合が舞台の温泉、湯村温泉のバスターミナルで、鳥取砂丘行きバスを発見たのですが、「路線バス乗り継ぎの旅」と同じく最終バスが出た後でした。
東京首都圏からは結構厳しい条件の都市なのなのです。
どのルートで行けば効率的なのか、思案中です。
自宅湘南からは、新横から新幹線で姫路へ、姫路から「スーパーはくと」(倉吉行き)が最短のよう。それでも凡そ6時間、料金は20,000円です。
後期高齢者にとって、時間もお金もかなりハードルの高い場所であることは間違いないようです。日本で一番行きにくい県であることは間違いないでしよう。
佐賀県佐賀市
九州、佐賀県佐賀市、高校の時バックパックを背負って佐賀県は通過はしています。
福岡から糸島・唐津ときれいな海岸線を通って、長崎の佐世保に行った記憶がありますが、佐賀市はずっと内陸で、何度も九州を旅する機会があっても佐賀市に寄ることはありませんでした。
プランは考えています。
日本国内、首都圏から地方の大都市へは、リーズナプルなホテル・エアーパックがあり、羽田・福岡エアーと比較的良いビジネスホテル2泊チケットは3万~4万円程度で十分ありますから、博多を拠点にして佐賀市に日帰り可能だと思っています。
でも、博多・佐賀間のルートはと検索すると・・・
何だ、簡単じゃないか、博多・佐世保間の特急で39分ではありませんか、ここは即実現可能でしょう。でも、吉野ケ里遺跡しか見るものないかな。
大本命は四国、高知県高知市です。
四国四県、讃岐の香川県高松、阿波の徳島県、伊予の愛媛県は何度も行く機会があったのですが、唯一、土佐の高知県だけは足が伸びす未開の地です。
全国どこへでも鉄路の好きな私は、松山・高松は、新幹線乗り換え出向かつていますし、徳島は帰路は飛行機を使いました。
一番手強いのが、高知県です。
学生時代も含めて何度も計画し、断念しています。
断念の大きな理由は費用とお天気でした。
費用は、海外旅行のマイルがあるので、全日空のマイル二人往復20,000マイルで余裕のですが、高知の難問はお天気なのです。
年間降水量ランキングによると、1位は高知県で3659mm、2位は鹿児島県で2834mm、3位は宮崎県で2732mmでした。
こうして見てみると、西日本が比較的雨が多いように思います。 ちなみに4位は石川県、5位は沖縄県でした。
三年前に見たヒットアニメ映画「竜とソバカスの姫」に刺激され、高知の清流は四万十川だけではなく、高知市内から電車で20分の仁淀川があると知り、沈下橋と仁淀ブルーのにこ淵に行こうと、「いの町観光協」問い合わせしたところ詳細な資料を山ほど送っていただき、計画し、フライトもホテルも予約しました。
3月の最終週、桜の季節でした。
3月に入り、毎日高知の天気予報を見ていたのてすが、連日の雨模様でした。
ホテルのキャンセルチャージぎりぎりで見ると、三日間雨、確率90%。
カミさんは中止を要求します。しかし、ホテルは無料でキャンセルできるものの、ユナイテッドの無料マイルのキャセルは日本円で3万円です。
無料チケットのキャンセルで3万払うか・・・て悩みましたが、低年金シニアは結局20,000マイルを捨てました。
今回は三年越しチャレンジです。
カミさんからは、きついリクエストがありました。
三年前の旅行スケジュールからの大幅変更です。
ここ一年の旅先の私を見ていると、明らかに体力面で落ちている。
三年前の旅程を、現在の後期高齢者の体力に合わせて変更しろ、との要求です。
フライトに関して、朝一番の羽田便は良いとしても帰りは、羽田に5時台に就く便にして、自宅に6時台に着くようにすることホテルは、ビシネスではなく、シティーホテル、はりまやばし近くの繁華街に。
二日目の徳島、奥祖谷へのは現在の体力では無理、かずら橋だけにせよ。
三日目の仁淀川上流のにこ淵は、同じく長距離路線バスになり、帰路のフライトにギリギリになるので中止して、いの町周辺の沈下橋と紙の博物館のみにせよとのお達し、でないと私は行かない。と。
ともかく、年齢と体力に応じた旅程に修正です。
11月半ばの高知は意外と予約がとりにくい
全てのカミさんのリクエストに従って、予約にはいりました。
ANAのフライトは一発で取れて、ホテルの予約に入ると意外や意外、ビジネスホテルは11月2週目も3週目も、何れの予約サイトも満室でした。コロナ明けで大勢の人が動きだしているのでしょう。最後にたどり着いたのは、かなり予算オーバーになりましたが、カミさんの好きな、結婚式場や豪華なエントランス・ロビーのあるシティホテル、繁華街はりまや橋近く、高知城の前の高知一のシティホテルとなりました。
今回の動く範囲は
旅行予算は何とかクリアしました。
それもそのはず、ニ名分のフライトはマイルで足りたのですから。
一番高くついたのが、高知県内の移動交通費です。
首都圏から比べると、列車もバスもとても高いのです。
高知から、徳島のかずら橋へは、JR線で最寄りの「大歩危」へ行くのですが、各駅停車はなく、特急のみしか方法はなく40分の乗車で二人往復10,000円オーバーです。如何に地方のJRは首都圏よりも高いか分かります。
結局、日本国内二人二泊三日での予算、10万円はクリアしているものの、これがこれが間違いなく最後の四国旅行になるでしよう。
でも、そろそろそんなにお金を残してどうするの?という声が聞こえて来そうですが
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2023年10月21日
中学同級会、60年ぶりに会う旧クラスメート75歳
信故郷の中学校の同級会が6年ぶりに開かれ、日帰りで行ってきました。
今まで、生まれ故郷の長野市に行く時、必ず実家の兄の家に顔をだし、一泊はしていたのですが、今回は日帰りです。
ひとつには、兄の配偶者(兄嫁)さんの体の調子があまり良くなさそうという話を聞いていました。
首都圏に住む夫の弟が久しぶりに帰郷し、一泊するとなると、お布団や寝具の準備、簡単でも夕・朝食やら、帰りのお土産を考えるでしょうから、帰郷するけど日帰りで帰る旨、兄だけには伝えました。
ふたつ目は、住まいの鎌倉・大船から実家の長野への移動時間短縮があります。
北陸新幹線の開通で、選択出来る列車は、従来の「あさま」から「はくたか」・「かがやき」と選択肢も増え、最速の「かがやき」ですと、東京発上野には止まらず大宮の次は長野と二駅ので1時間20分と、私達が中学生の頃の最速ジーゼル機関車の6時間半からすると夢のようスピードです。
自宅大船から東京駅へは41分ですから、乗り換え含めて2時間10で行ける距離となっています。
しかし,年金リタイヤシニア、懐は寂しくても時間はたっぷりあります。
「かがやき」の最速、停車駅の少ない列車を選択すると、大船・長野間片道2時間17分、料金は座席指定で9,110円です。
一方、今回の選択は
大船⇒上野・ラインで大宮乗り換え⇒新幹線「はくたか」自由席で長野です。
料金は所要時間は2時間40分、料金は7,480円、23分遅いですが、片道1,630円も安いのです。
別に、私が乗り鉄マニアでなくても、関東首都圏に住む旅慣れたシニアのほとんどは、仕事でもない限り大宮乗車・自由席を選択します。
今回の同級会で会った、千葉の柏に住む旧友も同じく大宮乗車・自由席でした。
大きな理由があります。
新幹線の東京・大宮間は、東北新幹線・上越新幹線・北陸新幹線の3線が同じ軌道を走っており、速度をかなり抑えており、在来線のとさして変わらぬスピードしかだしていないのです。
その理由は
1,沿線住民に対する騒音対策
2,3路線利用することで、万が一の事故、停車に備えてです。
注意 但し東京・大宮間の利用に各駅停車の京浜東北線は使っていけません。宇都宮線(東北線)或いは高崎線となります。
少し集合時間より早め到着し、懐かしい故郷の街を歩きました。
長野市は善光寺を中心とした門前町なので、メイン大通りは、駅から善光寺まで一本だけです。
長野冬季オリンピック(1998年)で私の知っている長野の街は激変しました。
善光寺までは、駅からひんぱんにバスが出ています。「ぐるりんバス」で大門まで100円、10分です。
歩くとゆっくり歩いて30分、早足で15分程度です。
この大通りに面している・・面していた商店などほとんど小学校・中学校の同級生のお店でしたが、この日歩いてほとんど見かけず、全国に展開しているショップばかりでした。
最終的にたどり着いた、善光寺仲見世どおりも同じですが、幾つか見覚えのあるお店が残っていました。この善光寺さんの仲見世通りは、私が中学生の頃の「信濃毎日新聞」の配達ルートだったのです。
昔、通学で使っていた町は駐車場だらけの街に
1998年の長野オリンピックで、表通りは綺麗になりましたが、一歩裏通りを歩くとそこは、空き地だらけの駐車場にすらなっていない空き地が目立つ・・・
というよりは、家と家の間隔、家の裏が全て空き地のような状態です。
オリンピック開催で、小さな通りに面した家屋・商店は立ち退き、大きな立派な四車線の道路となり、子供頃、ボールを落として探し回った小さな小川や、川、排水路は全て暗渠となり下水道となっていました。
ひとつだけ、高校の校歌に歌われていた、昔川中島合戦で、上杉方が砦を築いた「旭山」だけが、昔、60年前と同じ方向にあり、山容も変っていませんでした。
自分の生まれ育った、信州の一の繁華街、花街を歩いてみました。
私の生まれ育った長野市は、江戸時代から善光寺のある場所から幕府天領でした。
そのせいか、上州のヤクザ・博徒が多くこの地に逃れてきて、街なかには多くの「国定忠次」伝説が残っています。
私の生まれ育った場所は、江戸時代から善光寺参りの客相手の歓楽街・色街だった場所です。
今でも、信州一の飲み屋街となっています。
私の育った家は、この飲み屋街の料亭・飲み屋・バー、水商売を顧客としていた「八百屋」でした。
毎晩、夜に女性の姿や、ヤクザまがいの男たちの姿があり、自宅の先には、長野県で一番大きな交番があるような所でした。
今、自宅跡を尋ねると、バーが集まる雑居ビルになっており、あの交番もなくなり。空き地は花壇になっていました。
この画像のような、通学を歩いて私は、中学校に通っていたのです。
6年ぶりの同級会が開催されました。
これまで中学卒業後40年の間、開催されていませんでしたが、地元に残った同級生により私が早期退職した2003年から、不定期で開催されるようになりました。
55歳のときには、卒業後初めての同級会とあって、半数近くの20数名が参加しました。
その後ほぼ5年おき程度で開催されてきましたが、参加者は年々減り、前回は6年前(69歳の時)、市内の温泉旅館での時は10名でした。
今回、幹事役は同じ75歳、後期高齢者となりこれが最後の同級会になるやもとの、案内(メールではなくお手紙で)で参加者は14名と増えました。
幹事の企画により、集合は今も残っている中学校前正門、ここで昔の木造校舎面影はない校舎です。
土曜日という関係で校舎内には立ち入りできませんでしたが、昔の面影を探しながら、全員で一回りして、メイン食事会場への送迎バスで向かいました。
男性7名の参加者の内訳は
このブログを読まれている方々は想像出来ると思いますが・・・
卒業時24名の男子生徒のうち、既に亡くなられた方は3名
連絡がつかない、不明の方は2名
今回参加した7名のうち、地元長野市在住者は4名
他の3名は、千葉県柏市、愛知県県春日井市、そして私の神奈川県鎌倉市よりの参加です。
特に中学卒業後60年で参加している方々の最終学歴に、60年後の同級会に参加している方々の特徴が見えます。
7名のうち、4名は東京六大学卒業で、特にこの長野の進学校として有名な中学とあって3名は早稲田です。
その他3名のうち、一人は名古屋圏の私立大、一人は私達が卒業した年度に設立された国立高専、一人は都内私立大中退のち、専門学校卒。
当時の昭和22年、23年生まれの団塊世代の平均的学歴レベルよりもかなり上なのです。
そして、75歳になった今、かなり同級会として高級なレストラン会場に参加できるだけの余裕のある方々ばかりで、恐らく、高校や大学の同窓会もそうだと思いますが、かなり現在の生活に余裕がある方々だけの参加となり、参加しない、出来ないない方々の理由も想像できます。
女性7名の参加者の内訳は
卒業時女生徒は26名のうち亡くなられたのは2名、
連絡がつかない、不明の方は1名
今回参加した7名のうち、地元長野市在住者は3名
その他4名は、長野県内、松本市、塩尻市、愛知県半田市、島根県出雲市からの参加です。
あの時代の一般的な女性の最終学歴として、解っている限りでは四年生大学卒業者は毎回参加の女性一人だけです。
特記するのは彼女は同世代の女性として珍しく、米国留学している才女です。
この方と、同級会で会う度に、あの時代、海外に出でいた同士に分かり合う話題で盛り上がりました。
彼女はアメリカの人種差別撤廃の公民権法設立の1964年の4年後のアメリカ南部の大学に留学し、様々な経験をしている女性でした。
この同級会は以前から、善意で住所録を印刷して配ってきています。
そこには、住所詳細番地、電話番号、携帯番号、携帯メール、E-mailアドレスまで明記されています。
限定的な同級会ですから、連絡用にあって当然なのですが、今回話題となったのは、昔と違って今やグーグルマップを使えば住所録から御本人のお住まい、どんな家に住んでいるかが歴然と分かるのです。
ほぼ、皆さん立派な郊外の戸建てにお住まいなのが分かりました。
参加者は総じて、現在もかなり余裕のある生活環境にあるのが分かりますが、参加されていない方々はどう思っているのか、幹事、他の皆様に問いかけしましたが、連絡用として必要でもあるし、特別問題ないとのご意見でした。
しかしも私には危惧がありました。
参加されていた女性ニ名はさる、宗教系の女性部会の幹事をされており、選挙の度に、投票の依頼がくるのです。
ある女性参加者は私達男性クラスメートが全く知らない、女性同級生の家の細かい家庭事情まで把握しており、今回の席で話していました。
これが最後の同級会になるやかも
参加された方々からは、これが最後というのも寂しい。
少なくても、これから先、そう長くはないのだから、毎年でもいいから、前回のような宿泊を伴ったり、今回のような豪華レストラン会食は必要なくお茶会程度で開いて欲しいとの要望が寄せられていました。
例え、余裕のある老後ライフを送っている同級生ばかりでも仕方がないからと。
朝、6時台の電車で自宅を出で、帰りは15時台の新幹線で帰宅しました。
行く時は参加者全員へのお土産として、鎌倉のお土産定番の「鳩サブレ」を持ち、帰りはカミさんからお土産リクエストの、今信州のお土産トレンドの1位の「りんごの小径」を持って帰路につき、自宅の夕飯前に戻れました。
如何に、新幹線のおかげで早くなったかを実感した一日でした。
ちなみに、信州土産のトレンド「りんごの小径」は私の口には入らず、全てカミさんの仲間「鎌倉婦人」グループへとなりました。
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2023年10月19日
退職後の趣味世界 写真クラブ参加の盲点
退職した2003の翌年2004、平成16年横浜から鎌倉の地に引っ越ししてきて初めて入った地元の趣味のクラブ・団体がこの「フォトクラブ・ベアーズ」でした。
まだ55歳、時間はたっぷりありますので、一刻も早く地元コミュニティに溶け込まなければならぬ・・・という脅迫概念がありました。
まるで、都会から地方の田舎に移住するような気持ちでした。
住んでいた横浜市信濃町からここ鎌倉市玉縄へは、電車で2駅9分と近いのですが、それでも全くの未知の場所・世間ですから、自分の暇つぶしと新たな人間関係の構築の為に、自分の趣味や意向に合わなくても元々、まずはお試しと、市の広報誌やら、コミニュティー紙、学習センターやら行政センターの窓口やらカウンターに置いてある各種の趣味・お勉強のお誘いのチラシを持ち帰ってみました。
2004年の春のことです。
もちろんインターネットは普及はしていましたが、今のように、どんな小さな団体・会社・スポーツクラブでもホームページがあったり、会員がブログやらSNSで情報発信するようになるのは、ほんのここ5年程度なのです。
以下の書かれている、退職後の趣味・活動は、私のホームページサイト定年後の男の趣味・ホビー・習い事・ベイストテンからの引用です。
20年前、50代で退職した男性は、何もしないことは「悪」であり「社会と繋がらない恐怖」と思っていたのです。
1,家庭菜園
都会でも、公設の貸農園が増えていますが、水の確保と、翌年度の用地の抽選が問題のようです
2,料理教室
鎌倉には、男の料理教室と云う催しが定期的に、市福祉センターで行われていて、盛況のようです。
3,楽器演奏
70年代に一度は手にした楽器を、余裕が出来たこの時期に再び。と云うケースで多いのでしょうか?
4,外国語レッスン
公共施設の英語教室は8〜9割が中年女性で、後の1〜2割がリタイヤ、定年退職した男性です
5,登山・ウォーキング
鎌倉あるけあるけ協会に代表されるように、今、一番人気のある、誰にも邪魔されない「男の趣味」NO,1
6,写真・ビデオ
昔は男の王道でしたが、デジの普及で女性カメラマンが、増えています
7,そば打ち
「それでいいのか蕎麦打ち男」と残間江里子に茶化されても、依然人気のようです
8,絵画・イラスト
私も一応「水彩スケッチ」教室に属していますが・・・・どうやら才能はないようです。
9,囲碁
昔は、ひまな時間を碁会所で過ごしていたのが、今やオンラインでWeb上の相手とうっているようです
10,盆栽・園芸
2011のデーターとして、盆栽・園芸が10位にいるのは、団塊世代として首をかしげますが・・・
11,スポーツ
定年後のシニアのスポーツとして一番人気はテニス、次はバドミントンや卓球が人気です。
ゴルフは相手と費用でなかなか続かないようです。
12,地域ボランティア
地域とのつながりを求めて色々な場所に出向くのが一番の近道になりますが、なかなか地域の諸先輩の壁は厚ついようです。
20年前最初に入った趣味のクラブは写真クラブでした。
2003年当時、コンパクトデジカメは既に一般的に登場していましたが、一眼レフデジはまだ一般的なものではありませんでした。
当時の素人写真クラブのカメラは勿論、「一眼レフ」フィルムカメラです。
そしてフィルムは「リバーサルフィルム」が必須でした。普通の記念写真やら家族写真は「ネガフィルム」で十分ですが、写真を趣味とする同好会・クラブでは、画質重視ですから、このようなクラブに入るには、カメラ(ボデー本体)と別にレンズが必要です。
それも、標準レンズ、望遠レンズ、マクロレンズの3種類は最低欲しいとなると、結構な金額になります。
やがて、徐々に一眼デジが普及するのですが、私のカメラはミノルタで、CANON、Nikonに大幅に遅れをとり、発売された当時、「エイヤ」と購入した時、ボデーのみで20万しました。
あの頃のデジカメに必要なものは・・・
パソコン、プリンター、PhotoShop、高解像度モニターが必要でした。
まだ街なかに簡単にデジカメ写真印刷をするショップが少なく、撮ってきた画像を一刻も早く自家プリントするには、それらが必要でした。
入った写真クラブのなかで私は最年少でカメラは初心者ですが、パソコン・画像処理に長けていましたので、とても重宝がられました。
おかげで、この写真クラブを通じて、退職世代の方々とお知り合いになれ、それを通じて鎌倉の地に少しつづ根を張ることが出来ました。
でも、ほぼ5年で写真クラブは退会しました。理由は・・・
負担になって来たのです。
例会は月に一度、例会には四ツ切サイズ(305X254)の作品を5点出さなくてはならないのです。
四ツ切はA4サイズよりもやや大きいサイズです。
作品・・・です。ただのスナップや、植物図鑑のような写真ではなく、それも月に5枚。
私は退職後5年で、趣味やお付き合いの範囲を広げすぎていたのと、3ヶ月に一度ペースで海外に出かけていましたので、ただの写真なら何とかなりますが、作品として提出し、評価、点数をつけられるようなものは、月に5点は大はばな負担となってしました。
他に、写真クラブの為にと、ホームペーシを立ち上げ少なくとも、鎌倉で一番有名な(※ネット上では)写真クラブにした責任者でもあったのです。
退職後に地元の写真クラブに入る方への老婆心ながらのアドバイス
1,かなりのお金の負担がかかります。
同じ退職世代の方々なか・・・いいカメラ、いいレンズ、そして金銭的余裕がある方が多く、良い被写体を求めて自由に出歩るける方々が多いのです。
とても、一ヶ月、写真の為に時間とお金をかけられない、外から来た初心者は、数ヶ月に一度程度しか、入選するような画像は出せませんでした
2,鎌倉の寺社・行事の画像は地元には敵わない
これらの方々は、元々鎌倉の住民ですから、街のすみずみの四季の風景や光の加減を知り尽くし、お祭りの撮影スポットに通じていますから、鎌倉をテーマにした写真は彼らに敵わないのです。
3,デジタルカメラの自家プリントは高くつきます。
フィルムと違って、撮ってきた写真を自分の家のなかで印刷出来る・・素晴らしい時代が到来したのは良いのですが
プリンターは次々に良いものが欲しくなります。
今までなら、RGBとKの四色で十分だったのが、次々に6色・7色と買い替えます。
大きさも、出来るだけ写真展に出せる大きさ、A3延びサイズが欲しくなり、部屋中に飾りたくなります。
プリンターのインク代だけで、月に一万円以上かかるメンバーは沢山います。
でも、最近は例会あるいは、写真展に出す作品は自家プリントではなく、専門の写真スタジオに出す方が多くなっています。当然高額になります。
このような写真クラブでは街なかにある「55」のようなデジカメ印刷ショップには出しません。
理由は、このようなデジカメ印刷ショップのマシンでは、自動レベル補正を無条件でしてしまい、撮影者の意図した色調を無視してしまいますから。
つまり、単純に見た目が綺麗な画像になってしまうので、「作品」として出典するさいは、細かい注文を聞いてくれるスタジオに頼まないと出来ません。
参考サイト紹介カメラの趣味にかかる費用をコントロールするための3つのポイント
先週、元の写真クラブの年に一度写真展を見に行きました。
ほとんど、私がいた当時メンバーはおらず、かなり女性か増えた印象です。
写真クラブの募集のさい、コンパクトデジカメでもOKですよ、と謳っていますが、さんな言葉に簡単に誘われて入った方は次々に辞めていきます。
残ったのは、退職後の余暇を、この写真にかけているような超ベテランのオジサマ方が多くなります。
そして、このような年配の方々と争ったり、反発すると自分が傷つくので、自然に辞めていくことになります。
今回の写真展の名簿に掲載されていたのが男性〇〇プロ、女性の〇〇プロのニ名の名です。
写真クラブで多い例が、月に一度の例会に講師・指導者・先生に謝金を払い、評価してもらうクラブです。
全ての趣味、ほんの少し芸術的要素・評価のある場合、自分とその先生・講師プロの感性がズレることがあります。
そんな時はさっさと辞めほうが良いです。
全ての分野、風景・人物・スポーツ・お祭り・スナップに精通するプロなんていないのですから。
スマホの普及でだれでもカメラマン時代の到来です。
しかも、スマホの自動レベル補正と、モニターの綺麗さです。
今や、そんな写真を印刷して持っている人は少数派です。
誰でもが、自分だ撮った渾身のイチ枚を持ち歩き、人に見せられる時代なのです。
昔は、定年退職後の男性の趣味の上位に入っていた、写真クラブは徐々に昭和の時代の遺産・異物となりつつあるでしょう。
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2023年10月17日
映画 波瑠と二宮の映画「アナログ」を見てきた
同じ団塊世代の「ビートたけし」の小説の映画化です。
私達の昭和の世代が描いていた「純愛もの」、あの頃ヒットしていた「愛としを見つめて」を思い起こさせるようなストーリーで、文句なく泣けます。
タイトルのアナログは、主人公の男性が恋した相手の女性が、スマホを持っていなかったことです。
毎日、会えないのならせめて、声だけでも聞きたい・・・
私達団塊世代の青春時代、相手の家にも、自分の家にも電話がなかった時代。
10円玉を沢山もって公衆電話に籠もった時代。
ドキドキしてダイヤルを回していた時代。
タイトルのイメージ画像は、そんなことを思い出させるように、主人公の男女は海岸で拾ったコップで糸電話を造り、今まで面と向かって云えなかった
告白をする、そんな映画です。
主演は二宮和也
日曜日、11時半上映、何時もの自宅から二駅、辻堂駅前の湘南モール109シネマの200余名のスクリーンの入りは、7分ほどです。
何時もの席、途中トイレに立つかもしれないので、入り口通路に一直線、観客の前を横切らない席から、会場を見渡すと、先月の吉永小百合の映画「かあさん」とは全く違った客層です。
前回は喜寿(77)を迎えてる、小百合世代の女性が多かったのですが、推しの「波瑠」か目的で来る男性ファンは見当たらず、強いて観客の客層を特定するとなると40代の女性が多い・・・解ったジャニーズ「嵐」の二宮ファンかと納得しました。
「嵐」はグループとしての活動を一時中止して、メンバー各人は単独に俳優・タレントとして活躍しています。
特に二宮和也は今年春の「ラーゲリーより愛を込めて」のヒットと好演を評価され、この世代の撮ってみたい俳優、使いたい、俳優として、監督・プロデューサーの評判が良いのと、根強い「嵐」人気で、観客数の見込める俳優なのです。
今回の役は、都会で働く、大手、店舗内装デザイン会社の有望若手社員です。
同僚に「桐谷健太」が登場し、映画のメイン舞台の喫茶店のオーナーに「リリー・フランキー」となれば、ある程度の映画の質・内容が想像出来ます。
女優は波瑠
二宮が恋い焦がれる謎の女性は、現在の日本女優陣でもっとも「透明感」「清潔感」がある女優、私のイチ押しの「波瑠」が演じます。
ここ数年、「波瑠」が主演する映画をみてきました。
「弥生、三月 -君を愛した30年-」
「ホテルローヤル」
「路〜台湾エクスプレス」
全て、演じる役と彼女の外観、滲み出る雰囲気とマッチした名作で、今回の「アラログ」でその役柄を演じる最高の女優と、私はかってに評価しています。
ほとんどの演じる女性の役柄は、遠くから見つめていても、自分から積極的に動けない女性、待っている女性です。
現代の若い女性からすると、あり得ないと云うかもしれませんが、私達団塊世代男性が憧れるような役柄を演じています。
ほとんどの映画のなかでは、キスシーンさえなく、抱き合うシーンましてや、ベッドシーンはありません。
「ホテルローヤル」では、北海道の釧路の郊外の両親が経営していたラブホテルを引き継いでいく女性を演じ廃業を期に、一度少し憧れていた男性に自分が経営するホテルの一室で心惹かれていた出入り業者の男性(松山ケンイチ)にお願いするラストシーンがありましたが、かれは途中で手をとめて去っていくシーンがありましたが、波瑠のラブシーンとしてはそれが、最初で最後でした。
今回の映画「アナログ」では、男性(二宮)が抱擁と誤解する場面がありました。
この映画のひとつの謎解きの鍵となったシーンなので、ここでの解説はしませんが・・
ネタバレにならない程度のストーリーは
手作り模型や手描きのイラストにこだわる男性デザイナーの(二宮)。
携帯を持たない謎めいた女性、みゆき(波瑠)。
誰もが携帯電話で連絡を取りたい相手と、気軽に連絡が取れる現代。
そんなデジタル化が進む現代の中で、“アナログ”な価値観を持つ二人が偶然にも出会い、運命的な恋に落ちる。
偶然に出会った喫茶店”ピアノ”のマスターは、ここ何回も来店する彼女が、この店の雰囲気、デザインを気にいっているのを知ってます。
そこに、内装デザインをした男性が現れ、女性に紹介します。
彼女はこの店のデザインで気に入った点を2つ説明します。
ひとつは窓枠の取っ手が「トーン記号」を模したデザインであったこと、もう一つがトイレのトイレットボックスが素敵だったと褒めます。
この店の内装デザインをやって来た男性は、人知れず拘った工夫、した箇所を初めて指摘、褒められびっくりし、まじまじと眼の前の美しい女性を見つめます。
そして、男性は彼女の持っているバッグに目が止まり、「美しいバッグですね」と褒める。
彼女もまた、初めてこの「母の形見古いバッグ」を褒められ、男性を意識します。
お互いに価値観が同じと感じ、惹きつけられる。
しかし、連絡先を聞こうにも彼女はスマホを持たない主義のようで、交換せずに、“週に一度、が同じ場所で会う”ことを大切に関係性を深めていく男女の姿を通して「大切な人にただ会える喜び」を、感動的に描き出すストーリー。
意外なストーリー展開
順調に進んていく二人の関係、やがて木曜日以外にも会いたい気持ちになる。
母をなくし、大阪への転勤を控えた男性デザイナー悟は、みゆきの素性を何も知らぬまま、プロポーズする事を決意する。
男は何時もの木曜日に会った時、来週の木曜日、どうしても大切なお話があると云うと、彼女もまた、私も同じく、どうしても伝えたいことがあります。という。
しかし当日、彼女は現れなかった。その翌週も、翌月も……。なぜみゆきは突然姿を消したのか。
彼女が隠していた過去、そして秘められた想いとは。ふたりだけの“特別な木曜日”は、再び訪れるのか……。
結末、最後はハッピエンドで終わるかどうかはこのブログでは書きません。
映画ネダバレサイトを見ても、やはり作者の意図を尊重してバラシはありません。
劇場で最後まで見て下さい。
間違いなく泣ける映画そしてラストの感動
会場のあちこちから、すすり泣きが聞こえてきます。
団塊世代の知っている「愛としを見つめて」にかなり近いのは、原作者がビートたけしだからでしょう。
あの映画は1964年、吉永小百合・浜田光夫コンビの全盛期でした。
私は高校2年生、地方の県庁所在の町には沢山の映画館がありました。
各映画会社の直営「松竹」「東宝」「日活」「大映」「洋画専門館」が3か所、そしてピンク映画専門館も2つありました。
中学性までは、映画館に行くのは不良扱いされましたが、高校生になると、自由にいけるようになりました。
私の自宅は、今、全国一のレトロ映画館と評判、「長野相生座」の前と云う、繁華街のど真ん中、というより「花街」育ちで、同じ同級生よりもかなりマセていたのかも知れません。
何故か、若い頃見た映画が次々に思い出してくる年齢になっています。
それに引き換え、どんどんと街なかから映画館が消えていきます。
メディアで取り上げられ、海外の映画祭で受賞した映画でも、商業ベースで採算が取れそうもない映画は、首都圏の数少ない小劇場や名画座でも上映しません。
首都圏のこのような状態ですから、地方にお住まいの映画好きの方々の無念さは分かります。
首都圏の映画館でも、私の行く109シネマは大型ショピングモールの大きな場所を専有しているせいもあり、上映するのは、子供・若者向けアニメ映画と
ハリウッド製のFX、荒唐無稽の映画ばかりです。
そして、1,000円だったシニア料金は、100円づつ3回値上げして、現在1,300円です。
でも、1,300円で足腰が弱くなりつつある団塊オジサンは自宅から出るキッカケになり、電車に乗る機会や、外でランチすることも少なくなった今、半日3~4時間
一人楽しめる、良い趣味だと思っております。
昔、出会った頃のカミさんは、「波瑠」に似ていたのに・・・
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2023年10月15日
認知症グループホーム みんなでビーチを歩こう
テーマは共生社会実現の為、共に歩くことから始めましょう
Webサポートしている、認知症グループホーム「花物語かまくら」ではコロナ開けから、今まで中止していました、入居者の皆さんの外出リクレーションを再会し、今月は普段の公園ではなく、鎌倉の海辺を一緒に皆で歩きましょうという、企画が協賛企業の資金援助で実行に移されました。
身体障害があっても、認知症があっても地域の人々と共に歩くことから始め、共に生きることを1歩づつはじめることを目的と致します。
材木座海岸の波打ち際を徒歩や車いすで歩きます。
海水でぬれた砂はバリアフリーとなり助け合いながら歩くことで共に生きることを感じるイベントです。
認知症の方が発信し、地域と共にビーチ・ウォークを実現することで共生社会実現へ1歩近づきます。
いろいろな方々の生きるモチベーションが上がり、明日への希望となっていけるよう皆で準備を 進めるプロセスにおいてもお互いを分かり合えるチャンスになります
そもそも認知症グループホームとは
正式な名称は認知症対応型共同生活介護(認知症グループホーム)と云います。
認知症(急性を除く)の高齢者に対して、共同生活住居で、家庭的な環境と地域住民との交流の下、入浴・排せつ・食事等の介護などの日常生活上の世話と機能訓練を行い、能力に応じ自立した日常生活を営めるようにするもの。
一般的には、一人で生活するには援助・介護が必要な、軽度から重度の認知症患者さんが一緒の空間で暮らす施設です。
平均的には1ユニット(9人単位)の共同生活、個室・食堂・台所・浴室、消火設備その他非常災害に際して必要な設備を持ち、
○介護従業者は
日中:利用者3人に1人(常勤換算)
夜間:ユニットごとに1人いることが義務づけられています。
私が広報業務の責任者をしていた鎌倉NPOセンターでは、市内の市民活動団体、NPO、NGO、一般社団法人らに対して、ネット時代に対応し、外部業者を頼らずに自らの組織のなかからWeb情報発信する人材づくりのお手伝いをしてきました。
70歳を機会に、「老兵は去るのみ」「70歳がリーダーであってはいけない」とNPOを辞めましたが、私自身が自組織内部の人材育成が出来ていなかったことと、どうしても高度なweb技術を扱う人材がいない団体からのサポートを受けて、ほぼ無償の形でサポートを続けてきています。
そのうちの一つが「クループホーム花物語かまくら」です。
この施設の運営は「株式会社ニホンアメニティライフ協会」という大きな介護組織が運営しています。
沢山ある介護施設のうちの一つが「クループホーム花物語かまくら」で平均的に規模の2ユニット18名の認知症のお年寄りが共同で暮らしています。
介護施設というと閉鎖的な病院のようなものを想像するかもしれませんが、認知証は「病気ではなく、老化の課程、誰でも通る通過点」と捉え、一般家庭では危険、手の届かないお手伝いを、専門家、資格者で家族とて一緒に暮らす・・という施設です。
18人の入居者・要支援者の認知症の程度は様々ですし、日々、一日のうちでも変わります。
1ユニット9名、各人の居室(個室)はありますが、出来るだけ日中は共同のリビング・食堂で一緒に生活するようにしています。
私がサポートしています「クループホーム花物語かまくら」は西鎌倉の住宅街のなかにある、ニ階建てのちょっと大きめの住宅です。
認知症のなかには、「徘徊」も含まれ、勝手に外出し、迷子になるケースが多く、各階、外部とは完全に遮断しています。
でも、それって、介護する側からみると、可哀想・・・一声につきます。
出来るだけ、入居者・要支援者さん(患者さんではありません)を外部へ連れ出して行って上げたい、春の小さな花を探しながら歩いたり、鎌倉なんだから観光客の集まる大仏様を一緒に見に連れて行きたい・・・
別に外出は、厚生労働省からの認可義務ではなく、介護に携わる人達の思いなのです。
18人全員を近くの公園や、緑地、或い街中に散歩で連れ出すには大変な準備や、人材の手配、そしてお金がかかります。
ほとんどの同じような規模の認知症グループホームでは行っていません。
「ビーチウォーキング」とは
歩くということは、昔から認知症の進行を抑えたり、防ぐ、予防するという効果は知られています。今回は街なかの公園ではなく、鎌倉の海岸、遠くから見るのではなく、一緒に歩こうという試みです。
これを企画したのは、この「クループホーム花物語かまくら」の施設長(女性)です。
コロナが開けたのに、だだ、施設内から一歩も外に連れ出さないのは、却って認知症の進行や、年老いた体じたいにも良くない、みんなでやろうと声をあげたのは、令和5年5月8日(月曜日)から、新型コロナウイルス感染症は、季節性インフルエンザと同じ「5類感染症」になった時期でした。
この「クループホーム花物語かまくら」を運営している親会社は、各施設毎独自の取り組みを応援しています。
人的な問題、移動車両の問題も、応援援助してくれますが、このような大規模、鎌倉市やメディア、多くのボランティアを巻き込むイベントに十分な資金は足りず「クループホーム花物語かまくら」内に施設で働く介護メンバーと一緒に立ち上げた「テヘペロ花かまくら」と云う任意団体(鎌倉NPOセンター登録団体)が主催し、色々な企業、団体からの「支援金・助成金」と無償のボランティの行為・好意で行われました。
18名全員を連れて、鎌倉の海岸を歩くという試みを聞かされた時、
私達外部の人間は反対しました。
「施設長、それは無理、だって砂地の上を車椅子を押して歩けないよ」
「場所の理想は砂浜、江ノ島、その先に富士山だって、由比ヶ浜海岸か」
「あそこは、国道から砂浜に出る車椅子ルートはないよ」
「どうしても、やりたいなら、材木座しかないかな」
「たしか、公衆トイレがあつたよな」
「光明寺さんにお願いすれば、着替えや、マイクロバスの駐車もできるはず」
「なんとか、市長を来賓と引っ張りだせば上手くいきそう」
※実は昨年、同じ「テヘペロ花かまくら」のイベントとして、鎌倉プリンスホテル宴会場を借りて「認知症カアフェ」をやったのです。
これも全て、施設長とその心意気に賛同するスタッフの力でした。
参考動画ユーチューブテヘペロ花かまくら認知症カァフェ
10月10日 ビーチウォク当日 天気予報は曇後晴れ
前日の10月9日、鳥島沖の地震で関東南部の海岸は津波注意報が発令されていました。
会場は、鎌倉材木座海岸、
多くの入居者さんに、ボランティアの一般市民、何よりも鎌倉市から市長も参加するイベント、当日の朝の関係者の第一声は「昨日でなくて良かったね、お天気もあの猛暑でもなく、雨でもなく、適度の曇空で良かったね」、でした。
当日の朝、少し雨が残っていましたが、イベント開催の午後1時には晴れ上がり、日差しも強くない、本当に毎日施設内に閉じこもっていた皆さんには
格好の湘南の海に接し、砂の海岸を歩くには絶好の日和となりました。
鎌倉市内に住んでいても、この逗子よりの海岸、材木座にはめったに来ることはないのです。
一般的に都内あるいは近郊の埼玉・千葉から鎌倉・湘南に海水浴にくる観光客が行くのは、由比ヶ浜から七里ヶ浜そして江ノ島の片瀬海岸です。
そちらほうが賑やかですし、何よりも江ノ島・富士山が見えるので、外出リクレーションとして、入居者をつれての海岸散歩の第一案は考えたのですが、いろいろな問題がありました。
1,道路から海岸までの車椅子ルートが確保出来ない
2,入居者を連れていく大型バス駐車場から海岸まで距離がある
3,トイレやその他テントの設営に問題がある
その他、いろいろ海岸を管理する色々なお役所の許可の問題とか・・・
全員手作りのTシャツを着て
全て、「クループホーム花物語かまくら」の施設長と介護スタッフ全員の、やろう、お年寄りを安全に海岸につ連れ出そうと意欲が実りました。
当日、全員がホームで造った「Tシャツ」を着ました。
後ろの「幸せ」の文字は、入居者一人ひとりがお習字で書いた文字を印刷しました。
スタッフ全員で、自分のSNSやインスタを使って参加を呼びかけ、私も「クループホーム花物語かまくら」内に作られた認知症を知ってもらうためのホームページ「てへぺろ 花物語かまくら」等で協力しました。
他にも、前回の「注文を間違えるカフェ」でご参加いただいた、鎌倉市長、このイベントに協賛いただいた、「キリンビバレッジ株式会社」さんからの飲み物の提供やら有償・無償の皆様の善意で開催され、参加者は凡そ100名でした。
皆んなで鎌倉の材木座海岸を歩きました。
杖をつく人、抱えられる、車椅子の人、一人でスタスタ歩ける人、様々です。
皆さんに共通しているのは、施設のなかにいる時と違って皆さん、笑顔なのです。
確かに、グループホームという安全な場所なのですが、特に、コロナ禍では外の空気、潮風、緑の匂いなど感じるひとの出来ない環境、いつも同じ顔ばかりのなか今回のように多少、体の負担は増すかもしれませんが、自然のなかを、普段触れ合うことのない人たちと一緒の時間、場所を共有することはとても大切なことなのでしょう。
今回のイベントのアンケートを50人の方からいただきました。
全て、このような催しを来年も続けて欲しい、是非参加したい、友人・家族も誘ってくる。というお答えをいただいた、主催者は喜んでいました。
今回のイベントは動画で撮影しており、編集終了後、限定公開する予定てす。
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2023年10月13日
終の棲家は こんなに坂道がきつかったけ?
2003年、ちょうど20年前に55歳で早期退職を果たし、終の棲家となる場所・住まいを一年間かけて探し歩きました。
ここに至るまで、生まれ故郷の実家を後にしてから様々な土地に移り住んで来ました。
最初に一人暮らしをした海外、アルゼンチンのブエノスアイレスや、帰国後に再入学の為と、アルバイトの為に住んだ、東京の築地は住宅環境は全く無視して、職場との距離や家賃の安さだけでえらんできました。
初めての住まいは1LDKのアパート
やがて卒業し再就職、現在のカミさんと知り合い、同棲・結婚して住んだのは、彼女のアパート、つまり結婚して私が転がり込んだという形です。
やがて住まいは世田谷区の新築アパート1LDKに移しました。
渋谷と吉祥寺を結ぶ井の頭線の「東松原」という小さな商店街がある、東京の山の手らしい街です。
若者の街「下北沢」へは徒歩圏、渋谷にも新宿にも15分で行ける便利さで気に入り3年間住みました。
帰国後の生活も安定し、34歳と31歳の二人、自分たちの家を持てるレベルの収入と頭金も十分に貯まったのを機会に、新築マンションを購入しました。
場所は勤務先まで1時間30分と、遠い、横浜市横須賀線の新駅駅前大開発の第一区画、駅の真ん前、徒歩3分の高層マンションでした。
団塊世代は35歳、ちょうど住宅を購入する時期
4棟同時に発売されたものの、全て抽選倍率は15~30倍の大人気でした。
白いタイルの12階の中高層マンション、共通廊下はなく両側にベランダがあり、向かい合う2つの住戸で一つのエレベーターという、他にない仕様と全世帯84平米という、広さと何よりもこれから発展する街の第一号棟、そして交通の便の良さ、横浜へは二駅、鎌倉へも、湘南エリアにも近いとあっての大人気でした。
当然ながら、私はこの高倍率の抽選に外れました。
しかし、この抽選があった一週間後、販売デベロッパーから電話があり、当選された方が辞退されたので、この部屋を申し込まれた方次点からお電話しています。
と云うのです。私は「次点」でなくかなり低い順位であったハズですが、まあ色々売る方ににも事情があるのでしょうと、次の日曜日に販売事務所に伺いました。
理由は簡単、本当に買いたい、買える人を見極めて、電話してきているのです。
私の場合、頭金の金額の大きさでした。
このマンション当時の住宅金融公庫融資物件で、私達の場合、一般銀行融資は必要ないほどの頭金を用意していたので、販売側は抽選補欠順番は無視してきたのでしょう。
私達二人はその当時の流行り言葉「DINKS」(ダブル・インカム・ノー・キッズ)の上、バブル期で湧いた建設業界でしたから、金融公庫の最短前納期限5年で完済することが出来、その後は、夫婦二人の夢、早期退職して、老後は世界中を旅をしようの資金作りに邁進しました。
やがて、目標金額が貯まり、老後の収入・支出計画、自分たちがもらえる年金・個人年金を計算し、これ以上働くと将来の年金による収入が非課税枠を超えるという年、私は55歳、カミさん52歳で退職しました。
退職後の住まい、終の棲家探しに一年かけました。
ここ、現在の住まいは20年でどんどんと大きくなり、大型スーパーもでき、廻りには高層マンションが次々に建てられていきました。
しかし、バブル時に投機対象となっていた、私の住む棟は、バブルが弾けて投機に失敗した、競売物件が続発している時期でした。
本来なら、20年前に購入した時と同じ値段と売れればと、密かに目論んでいたのですが、当時、都内の一等地でも半値でも売れ残る、バブル期後の最低相場続いていた時期でした。そんな時期、ゆっくり慌てず探そうと、退職直後から、海外を含め探し歩きました。
予算は現在の住まいを購入した時の8割で売り、手数料と引っ越し費用を差し引いた金額、としました。
最初に行ったは、沖縄・石垣島でした。
一種の老後ライフの憧れです。青い海と温かい気候、半分外国のような土地柄、きっと内地よりも格段に安いハズ・・・
しかし、夢幻でした。
私達が石垣に行った2003年、世の中「海外ロングステイブーム」で、私達よりも一回り上の、年金が豊かな世代が一斉に、海外・沖縄を目指していたのです。
内地よりも高く、そして老後、頻繁に海外へ出るさいの交通費の高さ・不便さに一回の下見、一週間で諦めました。
その後の、オーストラリアも、チェンマイも、バリ島も、ホノルルも実際に住む、生活するという観点で眺めると厳しい現実が目にはいりました。
一年後、現在住む大船駅徒歩圏に超大型マンション、まるで大きな街ひとつが建設されはじめ、見に行きました。
かなり、人気で、値段も超強気で、私達の予算とは合わないし、ここに住むのなら、現在住んでいる「東戸塚」と同じ。或いはそれ以下と戻ろうとすると、別ののデベロッパーがチラシを配っており、「是非、一度見て下さい、ここと違って静かに住宅街の中層マンションです。
駅から徒歩9分、そして何よりも住所は鎌倉市です」と。
以前鎌倉市内の物件を見に行ったカミさんは、鎌倉駅・北鎌倉駅周辺は、買い物も不便、観光客向けには良いかね知れないが、ずっとむ場所ではないと云っていたのですが、時間がありましたので、行ってみることにしました。
確かにチラシのとおり、大船の東口は、湘南のアメ横といわれるような庶民的商店街、スーパーも多く、現在すんでいる駅前大開発の街とは違い、昔、新婚当時住んでいた、東京の下町、根津・千駄木と共通する雰囲気もあります。
何より、旧鎌倉と違って観光用に気取っていない街の雰囲気が地方出身の夫婦に合う。
実際にモデルルームではなく、本体を確かめると、確かに駅から徒歩9分です。
マンションの眼の前は、鎌倉市の児童公園、小さなスーバー、コンビニ、交番、図書館、行政センター、マンションの裏は、進学高で有名な「栄光学園」とお嬢様学校「清泉女学校」と緑あふれる環境で気に入りましたが、さて肝心のお値段です。
私達の予算は「今の住まいを購入時の8割で売り、手数料と引っ越し費用を引いた金額にプラス1,00万」は絶對譲れぬ条件でした。
この、まあまあ心動かされたマンションの値段は私達の予算よりも500万高かったので、丁寧にお断りいたしました。
その後、私たち二人は、海外ロングステイ候補地の一つを旅して、10日後に自宅に戻ると、先の鎌倉の販売店から封書が届いていました。
開けると、[いろいろご相談に上がりたいので、ご連絡いただけますか]との内容です。
私達が海外に出ている間、何度か電話したのでしょう。
電話で断るのも失礼と、二日後に訪ねたところ
「金額の問題でけでしょうか、金額はご予算に合わせます、社内の稟議は通っています」
「ただし、ひとつだけ条件があります、現金で今月3月末日までに振り込んでいただけますか」
一日だけ猶予下さいと、事務所を出た後カミさんは、「私、ここなら住めるは、一年間いろいろみてきたけどここが一番フィットする」
「この街なら、そんなに方肘張っていなくても生きていけるわ」
「それに、自宅前の公園の桜が自分の部屋から見れるなんて素敵じゃない」
と云い、決定しました。
あれから20年経ちました。
私は後期高齢者75歳になり、下半身筋力の衰えを日に日に感じています。
一方の3歳年下のカミさんは週5のカーブスが効いているのは、すこぶる元気です。
今年、右膝に違和感を感じ、階段の上りでいつもではないのですか、たまたま痛みを感じる時があり、掛かり付けつの整形外科で診ていただきました。
ドクターは
「加齢による損傷、痛み、特別の処置、治療は必要なし」
「エレベーター、エスカレーターは見栄をはらず、積極的に使いなさい、歳なんだから」
エー、俺って歳なの?
で、20年間住んでいる自宅マンション2階まで、他の住民が並んでいないのを家確認して乗ってます。
JR駅でも、必ず「エレベーター」「エスカレーター」を使うようにしています。
しかし、最近頻繁に通っている歯医者はビルの3階にあり、エレベーターがないのてす。
そして、今年の夏、初めて感じたのは・・・
駅から自宅まで、不動産広告では徒歩9分・・・確かに昨年あたりまで9~10分でしたが、今年の夏は違います。
この熱暑・猛暑、そして今年初めて、自宅まで道路が坂であることを思い知らさせれました。
人気、便利の標高を調べる地図によると、駅出口から坂り頂点まで200メートルで標高差は6.5メートルと、車の人はほでとんど坂とは感じない傾斜たったのてすがが・・・
カミさんからの要望でこれまで「重い荷物・かさばる荷物」は私の役目とばかり、せっせと買って歩いて戻りましたが、以前は全く坂道と意識せずに歩いた道路が「お米2kとワイン一品、冷凍食品多少」の荷物がとても重く感じられ、坂の途中の日陰で一休みが必要となっています。
朝、手ぶらで駅に向かう時、後ろからパンプスを履いた女性が、「カッカッ」と靴音を鳴らして私を追い抜いて行きます。なにくそ、こっちはスニーカーと追いつこうとしますが、距離は離れるばかりです。
なんで・・・もう半分諦めています。
「ショピングカート」のお年頃
カミさんに「ショピングカート」を買おうか、問うと、いらない、そんな歳じゃないと云います。
重いお米や、ワインボトルはわざわざ、駅の向こうの「セイユー」で安いからと買わなくとも、近所の地元スーパーや、コンビニで買えばいいのよ。
75歳の「おじいさん」がショピングバックを引っ張って歩くなんて、みっともないことしないでと云われました。
それよりも、毎日うちの中でスクワットをして、一日一回は5,000歩以上は歩いてきてよと云われています。
なんで、急ににこんなに足腰が弱くなってしまったのか?
もう絶対に、団体バスツァーはいけない。
同じバスでも、路線バスのように自分の目と足で選んでの旅なら長時間は大丈夫のよう。
少なくとも、後3年は自由に旅をしたい・・・
後3年、78歳は当初のリタイヤライフ設計計画での私の寿命の年だから。
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