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2019年12月31日

歳をとると、一年が早い、もうお正月がやって来た。

子供の頃、童謡の歌詞に唄われているように、「もういくつ寝るとお正月」と数えたことを思い出します。
貧乏だった、子供四人の町の小さな八百屋だった家の大晦日は、早めにお店を閉めて、男の子三人と父親で町の銭湯にいきました。その日の夕方の銭湯の湯は、いつもよりかなり汚れた色をしていたのを覚えています。
貧しかった我が家の大晦日のご馳走はなんだったのか、あまり覚えていません。
一般的に、大晦日、お正月のお節料理と云えば、三段重です。
一の重に、黒豆、数の子、田作り、紅白かまぼこ、栗きんとん、昆布巻き など
二の重に、焼き物。ブリの照り焼き、エビの鬼殻焼き、鶏肉の松風焼き、紅白なます など
三の重に、煮しめ、筑前煮など
が定番なのでしょうが、私たち4人兄弟が昭和30年代半ばの頃、そんな三段の重箱のお料理なんて、目にしたことは有りませんでした。
その頃、ご馳走と云えば、親戚の結婚式に参加した母親が宴席で出された仕出しを、そのまま、何ら手を付けずに持ち帰ったものが、大のご馳走でした。
芋きんとんや水羊羹、尾頭付きの魚の焼き物などを母は綺麗に四等分にして、各自の皿に盛り付け、必ずミカンを輪切りにしたものが添えられていました。
長女の姉をのぞいた、男の子三人は、三つ皿を見比べて、じゃんけんをして、一番大きな塊が入っている皿の取り合いをしたものでした。

大晦日の定番のご馳走は、父が買ってきた鶏一羽を、小さな台所で絞めて捌き、七輪の大鍋で寄せ鍋風のものを造っていたことです。
私が育ったのは、田舎とは云え、県庁所在市の一番の繁華街ですから、小学生時代高学年の時は、すでに近くにはスーパーマーケットがあり、お惣菜も肉もパックで売られていましたが、貧しい我が家は、日常的には買うことは少なく、鶏一羽の鍋は、一年に一度の大ご馳走でした。

そして、おもちです。
元旦の朝だけは、おもちの数の制限がなく、お腹いっぱい食べられるのが幸せで、男兄弟四人で数を争って食べました。
あの頃、お正月が開けても、家にはカビが生え始めたお餅があったことを覚えています。
そして、おやつと云えば、硬い、白い粉が吹いた干し芋が定番でした。

母の料理の思い出として一番深く、残っているのは、カレーライスです。
私が南米へ行く為に、横浜へ向かう日の朝、「何が食べたい」と聞かれ迷わず、カレーライスをリクエストしました。
豚肉とジャガイモのおおきなゴロっとしたかたまりがたっぷりのカレーが、私の家庭の味でした。

来年の干支は「ねずみ」で、私は年男です。
昭和23年に生まれて、6回目の年男、もう72才になるのです。
これまで、6回自分の干支がありましたが、こんなに意識したのは、前回の還暦60才の時以上です。中学三年生で1か月の入院生活、アルゼンチン滞在中も同じく1か月、50代では3か月の入院と、普通の人の何倍も多く病院のお世話になっている、カミサンに云わせると「こんなに病弱だとは思わなかった」「病気の問屋」と云われるほど一般的な日本人男性よりも病弱なのでしょう。

40代半ばで、早期リタイヤ計画を作成した時に、自分の死亡年齢を当時の平均寿命78才に設定してエクセルを造りました。
造っていても、そこまでは生きていないだろう・・・と半分は思っていました。
子供もない、夫婦二人暮らし、若い現役時代から会社での出世は全く考えず、好き勝手なことをし、現役中から夫婦二人の夢である、世界の秘境巡りを繰り返し、早期退職してからは、海外ロング・ミドルステイごっこをし、資金的にも私が早く逝っても、カミサンは困らないだろうレベルまでは確保してあるので、そんなに憂い、後悔、やり残したこともなくはありませんが、子供も孫もいない私は、ひと様より心残りが少ないのは間違いありません。
2度目の東京オリンピックが決まってから、2020、72才と云うのを強く意識しています。

明石家さんまが、自分の子、女の子に「いまる」と名付けた経過を聞いた時、すごいと感心しました。
「生きているだけでまるもうけ」と、生まれてきたくれた子に感謝の意味でつけたそうです。
私も2020に72才になり、その心境です。「生きているだけでまるもうけ」
もし、もう少し生き延びるとしたら、出来れば、わが人生リタイヤ計画どおりの78才が理想なのですが、そこまで元気なまま、
カミサンに迷惑かけずにいけるかどうか・・・

新しい年、昭和・平成に続く三代目、令和2年を迎えるに当たって、団塊世代のオジサンは考えています。
posted by 西沢 at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月29日

シニアのwin7からwin10買換え、セットアップのお手伝い奮闘記

2020年1月14日に使い勝手の良かったwindows7の延長サポートが終了します。
先月、同じ町内会の81才のシニア男性から買換えの相談を受けました。
日本では、パーソナルパソコンと云えばwin95から、OSはマイクロソフトが当たり前という風潮があり、マイクロソフトの販売戦略に振り回されてきました。
セキュリティの問題や、ソフト・アプリの開発でOSを日々更新しなくてはならない事情は分かりますが、マイクロソフトの言いなりに、引っ掻き回されて来たという気持ちを、大勢の皆さんが持っています。
マイクロソフトのOSは、一つ置きに使いやすく、一つ置きに使い物にならない、というのは、私たちPCハードユーザー共通の認識です。
98は良かったが、2000MEは最低、XPは安定していたが、Vistaは最悪、win7はVistaの欠点を克服してXP並みに安定、Win8はこれまたダメで、現在のwin10ですが、クラウド重視になったので、これまでのOSと比較が難しい・・・が現在、これしかないので(マイクロソフトでは)、仕方なしに使っている、というのが日本のパーソナルコンピューターの現状です。

この81才のシニア知合いにお会いして、今使っているwin7を拝見しました。
CPUセルロン、メモリー4GMのごく一般的なパソコンで、使っているのメール・インターネットとワード・エクセルに、年賀状を書いて印刷し、時々マイピクチャ―にデジカメ画像を落とす程度の、ごく一般的な日本人シニアとしてのパソコンの使い方です。

先ず、このままwin7を使い続ける危険性についてお話しました。
インターネットを接続しなければ、何ら危険性はない旨、お話しました。
メールは受信の際に、htmlメールを拒否し、メールに書かれているリンクをクリックしなければ大丈夫。ワード・エクセルは、何ら問題はないし、写真の収納、印刷も問題ない。
自分の生活上でのPCの使い方に気をつければ新たに、win10に買い替える必要はない。

スマホを持つていますか?の問いに持っているとの返事
インターネットをみるだけなら、スマホで十分事足りる、今の若者はパソコンを持っていない子、使えない子が多いのですから、心配はありませんよ。
そしてパソコンで何をやりたいのですか?の問いに
スポーツクラブの役員や自治会・元会社のOB会の幹事をしているので、ワード・エクセル添付のメールやり取りがあり、これがないと困る、スマホではショートメールしか出来ない・・・
まあ、それは解りますが・・・

それでは、新規買換え購入しましょう。
でも、量販店に一人で行って、買うのは辞めて下さい。
なぜですか?・・・
Sさんのお話で分かりましたが、店員は、Sさんが必要としている以上の高スペックの高いものを薦めます。ハードディスクの1テラなんて必要はありません。
CPUは確かに早いものほど楽ですが、Sさんの使い方からみれば
現在のwin7と同程度のスペックで十分です。
メーカーは国産・中国製、何処も同じで、海外で組み立てられているので、拘ることはありません。国産に拘るなら、セイコーエプソン系列だったマウスコンピューターは信州諏訪で、100%、日本人の手によって組み立て、検査、出荷しているので、一番信頼できますが、パーツは海外製ですし、値段も高いです。
今のwin7はSさんが現役の頃勤めていた会社、T社で使い慣れているので、同じT社の同じくらいの仕様のものが良い。
とのアドバイスし、価格コムで調べると、やや高いけれども68,000円でした。
同じスペックならもっと安いものもあったのですが、元勤めて会社のものを推奨しておけば、後からのクレームをかわせる、という思惑もあったのですが。

Win10のセットアップはパソコン初心者では難しい。
しかも、今まで使っていたWin7からの引っ越しを81才、パソコン初心者のSさん自力で出来るかどうかは疑わしい。でも、ご近所の知り合いだからと云って、全く無料のボランティアでは、その後の色々な面倒を全て無料でやるハメに陥るのは、これまでの経験から解っているので、引っ越し・win10のセットアップを量販店に依頼したら、幾らかかるかを予め、ご案内しました。

下記がヤマダ電機公式セットアップ、サポート料金です。
https://www.yamada-denki.jp/service/totalsupport/pc-support.html

win7からwin10への引っ越しで、あまりにも沢山やらなくてはいけないことがご本人も理解され、量販店に頼むとどの位費用がかかるかをご理解したようで、Sさんは自宅に来てやっていただきたいとの申し出に、NPOボランティアセンターの登録市民活団体への公式PCサポート料金は1時間、神奈川県の最低賃金1,056円をいただくことを了承されました。

一回目
現在使っているWin7のデーターセイブをしました。
・メールはライブメールで、このアドレス帳をエクスポート。
・メールアカウントのパスワードは知らないというので、パスワードチェッカーで調べました。
・引っ越し先へ持っていくデータを外付けHDDに保存
・現在のプリンターを調べ、ドライバーをダウンロード、HDDに保存
・マクロソフトアカウント取得前の、パスワードの準備
 時間にして、1時間半の作業でした。

メーカーから新しいパソコンが届いたら、箱を開けて、付属品が全て揃っているか確認し、電源は絶対入れず、まず私にお電話下さい。セットアップ日を決めましょう。と伝え。

二回目
Win10のセットアップです。
箱にはwin10のセットアップ手順が書かれたものが入っていますが、81才のパソコン初心者では、言葉じたいが理解出来ないケースが多いのです。特に、win10でオフィスアプリを使うためには、マクロソフトアカウントを登録しないと最終的には使えないのです。
ネットでは、最初オフラインアカウントでも、セットアップが出来るように書かれていますが、オフイスを公式に使用するためには、最初からマイクロソフトアカウントを登録したほうが、早く済みます。

無事に立ち上がり、エクセル・ワードのショートカットアイコンをデスクトップに造りました。
win10の場合、スタートタスクにピン留めはメニューにありますが、デスクトップへのショートカットのメニューはありません。
これは、ある程度のパソコンユーザーなら、簡単に出来ます。
次に、メールソフトの設定です。
Sさんはライブメールを使っていましたが、今現在ライブメールは使えないのでアウトルックを使ってもらいます。予め、Sさんのメールアドレスはひとつだけでプロバイダーメールなので、設定はほぼ自動でアカウントは出来ました。

次に、ライブメールのアドレス帳のインポートです。
今まで、何回も他で同じような作業をしていましたので、5分で終わる予定でしたが、入らないのです。何が違っているのかと、その場でネット検索しても、有効な答えが有りません。
ここで、開始から3時間経過したので打ち切りして、翌日に持ち越しです。
私は、何時間でも最後までやり切る予定でしたが、81才のSさんはお疲れの様子で止めました。
この日は3時間の作業でした。

翌日三回目
前日のアドレス帳のインポートの不具合は、帰宅して調べてみました。
今までの経験は、ライブメールアドレス帳を同じくライブメールへのインポートでしたが、今回はアウトルックへのインポートです。
ネットで詳しく調べると、同じマイクロソフト、拡張子.csvは同じでも文字コードの違いで入らないことが判明、文字コードをANSIに書き換えると、スムーズにアウトルックに入りました。

次にこの日最難関、セキュリティソフトのインストールです。
このT社のパソコンはトレンドマイクロ社のウイルスバスター クラウドがプレインストールされています。
勿論、一定期間後有料、それも結構高い年間料金5,800です。
そしてなによりも、このSさんの家のネット環境では重い、遅いのが嫌で、個人用として何時も推奨しているソースネクストのセキュリティゼロを入れることにしました。

セキュリティゼロを入れるには、既に入っているトレンドマイクロ社のウイルスバスター クラウドをアンインストールしないと、他のセキュリティソフトとバッティングしてしまい、入りませんのは解っていました。
しかし、アンインストールするには、アンインストール用のアプリをダウンロード、解凍、インストールしないと抜くことは出来ないのです。
Sさんのご自宅は、鎌倉の山の中、ネット回線はケーブルテレビの光と聞いていましたが、実際のスピードはADSL並み、或いはもっと遅いようで、アンインストールするだけで、1時間以上かかりました。

続いて、ソースネクストのセキュリティゼロをインストールします。
これは、量販店で買ったのでCDからいれるので、簡単に終わると思っていましたが、最新のセキュリティ定義データのダウンロードでこれまた、1時間かかりました。
次に、プリンタードライバーのインストールと、実機の立ち上げ、印刷のテストです。
ちゃんと動作するのに、印刷文字が擦れています。
これも経験で知ってました。純正でないリサイクルインクが原因です。
毎日、何かしらの印刷をするハードユーザーならよいのですが、数か月に一度の印刷頻度ですと、リサイクルインクは固まってしまい、ノズルに詰りがでるのが原因でした。
午後1時から初めて終わったのが午後5時、4時間かかりました。

まだ、Sさんの要望は残っています。
Win10の使い方、アウトルックの使い方(送信・返信・グループ化)、エクセルが苦手で使い方を習いたいというのですが、今回はここまでにして、1週間か10日、ご自身でトライして、その時に解らなかったこと、質問したいことをメモして、後日ご連絡下さい。
と申し上げて、今回のボランティア(並みの)タスクは終了して、サポート代として10,000円いただきました。

サポート代金の10,000円は安いか、高いか?
ヤマダ電機や、他の量販店の料金は見れば一目瞭然です。
3日間で通算10時間以上、全ての要望を自宅の実機で解決するのですから。
それでも、団塊世代のオジサンの暇な時間を当てているのですから、一万円で十分なんです。
posted by 西沢 at 07:52| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月27日

前立腺がん生検四回目の結果は、前回と同じ疑陽性でセーフ。

12月14日にやった私にとって4回目の前立腺がん生検の結果発表を、10日後の(あまり関係ありませんがクリスマスイブの)24日に聞きに総合病院の泌尿器科に行きました。
予約票の時間は11時30分〜12時00分となっていましたので、11時15分には、泌尿器科の受付に到着しました。
泌尿器科は3階の腎臓内科と一緒のブースにあるのですが、受付前の椅子・ソファーは満席、座る場所がなく、廊下まではみ出していました。何でこんなに混んでいるのか・・・、いつものことなので、持参した厚い文庫本を取り出しました。

ふと前を見ると、同じ日に前立腺がん生検をやった80才の方の姿がありました。
生検の日当日、手術着に着替える部屋で一緒になり、お話を聞いたところ、初めて受ける前立腺がん生検だそうで、PSA検査も初めてで、値は30と云ってました。
初めてのPSA検査で30は相当にヤバく、がんである確率は高いです。
今回の私のPSA値は24ですが、この方の初回30と10年以上PSA値を追いかけている私の24とは、かなり意味が違うのです。

11時半の予約時間ですが、私の番号が受付ボードモニターに表示されたのは12時半。
80才の方もまだ呼ばれていませんで、この方が呼ばれたのは、私の番号の前でした。
診察室へ入ったこの方はなかなか出てきません。
同伴していた奥様と思われる方一緒に、診察室から出てきたのは、20分後でした。
お二人の様子から、かなり深刻な状況であることが想像できました。
受付のスタツフとの会話が聞こえてきました。
年明け早々のMRI検査の日程についてお話しています。
と云う事は、がん細胞が検出され、転移がないかどうか調べるのでしょう。

私は、このような状況のイメージトレーニングを前3回してきています。
4回目とは云え、PSA値24ですから、がん細胞の検出、それに続く、骨に転移していないかどうかのMRI検査、そしてどんな治療、抗がん剤、手術なとの先々については理解しており、特に今回はある程度の心の準備は出来ていました。
そして、待つこと1時間半、私の受付番号がトップに表示され、診察室に呼ばれました。
ドクターは湘南鎌倉総合病院が、前の山崎にあった頃からのお付き合いのある30代後半の若いお医者さんです。

・「先生、今回は年貢の納め時ですか」
・「否、前々回とおなじ、擬陽性です、前立腺肥大からくるPSA値の高さだと考えています」
・「では、このまま、ほっといて良いのですか?」
・「一応、経過観察、4ヶ月に一度の検査は受けて下さい。」
・「全くのセーフではなく、ギリギリセーフと云うところですか?」
・「この擬陽性のまま、いく可能性は高いのですが、やはり、経過観察は必要です」
・「今回の生検では、先生の患者さん3人いましたが、一緒の病室で過ごして、お二人とも全然夜中、日中トイレに行かないのでちょっと私とは違うのではないかとは、思っていましたが。」

たった5分で診察室を後にしました。
この日、会計は異常に混んでいて、一階のロビーで私の番号が表示するまでに30分も待たされました。
自動精算機に、自分のカードを差し込んで本日の医療費をみると、150円でした。
病院に着いたのが、11時15分、玄関を出たのは13時45分、2時間半もいたのです。
最悪のケース、ガン検出、骨に転移のステージ4まで覚悟のイメージトレーニングをし、エンディング詳細計画の準備をスタートする心づもりだったのに、病院の外にでると久しぶりの青空が広がり、ダウンジャケットがいらない陽気です。
太陽の光、青空が如何に、人の心に希望を与えるのか・・・なんて考えてしまいました。

病院から自宅に戻るには、鎌倉で一番大きいショッピングモールを横切って行くのが最短距離です。この日、若し最悪のケースだったら、このモール内にある「くら寿司」で、普段は高くて食べれない高級ネタを、体重を考えないで、おもいきり食べようと考えていましたが、結局、帰り道のコンビニのイートインが軽く済ませて帰宅しました。

帰宅すると、予定よりもかなり遅く帰ってきたのにも関わらず、明るい声で「どうだった」と聞くので、私は、玄関で大きく手を広げて「セーフ」と答えました。
すると、カミサンは「では、来月は旅行に行けるね、何処へ行こうか」でした。
posted by 西沢 at 07:44| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月25日

週刊朝日 上級老人/下級老人 誰も云わなかった「定年後」の正体

年末、年の瀬になると各種週刊誌は、特集を組みます。
そして相変わらずなのは、定年退職を控えた、50代60代に向けて、老後不安を煽る記事特集です。そのなかで、週刊朝日の「上級老人/下級老人 誰も云わなかった「定年後」の正体」と云うキャチコピーに目が留まりました。如何にもセンセーショナルな見出しです。
どうせ、中身は私たちが既に常識として知っているような内容であることは、想像できますが、一つの実験として大新聞がの広告としてだした日に、これらの記事をRSS機能(検索エンジン対応)が充実した、日本財団のブログに考えられるハッシュタグ#をつけて、発信したらどの位のアクセス数があるかの実験をしてみようと思い立ちました。
当然ながら、週刊朝日の宣伝につながることは承知の上なのですが。



夕方のお散歩を兼ねて、コンビニで立ち読みすることにし、近所のローソンに出かけました。
しかし、ローソンの雑誌売り場に、週刊朝日は売っていませんでした。
或るのは若者向けの成人雑誌や、大衆紙ばかりで、新聞系の週刊誌はおいてありません。
このローソンだけなのかも知れないと、少し足を延ばして、別のローソンに行っても見当たりません。
次に、AM・PMに行ってみましたが、此処にも置いてありませんでした。
仕方ないので、駅まで足を延ばし、ファミリーマートに行くと週刊朝日は置いてありましたが、紐かけしてあり、立ち読みは出来ません。そこで駅ビル内にある書店に向かいました。
しかし、かなり大きめな書店なのですが、週刊誌類はいっさい置いてないのです。

最近の書店業界の変化は感じていましたが、週刊誌を置かない書店があるとは、初めて知りました。最終的には自宅から一番近い「セブンイレブン」に紐かけなしで売られていました。
知人のコンビニ経営者の話では、雑誌類の立ち読みは大歓迎だと云うのです。
理由は、店内に人がいることで、防犯に役立つからとのことでした。

430円(税込み)を支払って、自宅で読むと、内容は想像通り、私たちリタイヤ、70代に入った団塊世代には常識のことばかりでした。ここに一部を抜粋して引用します。

社会は持てる者と持たざる者に分類されている。
2019年6月、「平均的な老後資産は2,000万円必要」という報告書が発表された家計調査によると、日本の全世帯の3割は2,000万以上の金融資産を保有している、言い換えれば残りの7割は、年金だけでは老後を生きていけないと、宣告されたことになります。
7割の「持たざる人たち」にとっては、確かに衝撃的なニュースだったでしょうが、一方、残りの3割の人達も驚いていたのです。
「2,000万円ぐらいでは安心出来ないと」


高齢化が差に拍車をかける。
何故定年後に格差がうまれるか一番の大きな理由は高齢化です。
現役時代にの格差は、働いていた時の収入の差ですが、年金生活に入る年金収入の格差は小さくなるのですが、当然ながら年金だけで生活は出来ず、金融資産を取り崩すことになります。


平均寿命が伸びたことによる繰り下げ受給のメリット
給付開始をひと月延ばすごとに、0.7%のプレミアがつき、最大42%も受給額が増えます。
これは元本保証で年率6%で運用するのと同じです。
詳しくは、日本年金機構webサイト


ダブルインカム(共稼ぎ)とシングルインカム(専業主婦)の差
共稼ぎと専業主婦の現役時代の収入の差は、子供を預ける費用や、家庭内家事の手間をお金で補ったり、又、収入に応じて子供の教育費が増えたり、家族サービスの遊興費が増える傾向にあり、専業主婦の家庭のような節約、切りつめが少ないので、思ったよりも格差は小さいのですが、二人とも退職してからに大きな差が生まれます。
正社員だった夫婦二人の年金と第3号主婦の年金の差が大きいのです。
日本政府は、退職高齢者の年金対策として、共稼ぎを推奨する方向です。
少子高齢化の為の施策として、保育園の無償化の裏には、退職後の年金問題が隠れているのです。



この記事を読んでの率直な感想は
今の現役の方々は大変だな・・・です。
私たち団塊世代が老後、退職後について考えだし、老後資金を意識しだすのは、持ち家のローン返済のメドが立ち始める、40代後半から50代にかけてですが、この頃の日本経済はバブル崩壊がありましたが、金利はまだ高く企業の退職金も、企業年金もある程度確保されていましたので、普通に家計のなかから余剰資金を積み立てしていれば良かった時代でした。

私たち夫婦が、本格的に老後資金を考え出した時、先ず、先輩退職者に「70才の時、幾らあったら安心できるか」を聞きまわりました。その時の回答が、ちゃんと年金をもらっていれば70才時、2000万の金融資産という数字が示され、これを目標に、40代初頭から、老後資金造りを始めました。

私たちは子供のいないダブルインカムでしたので、持ち家はバブル崩壊前に取得し、ローンは全額返済し終えていました。
55才と52才で退職し、、海外ロングステイを始めてみて、70才時2000万という数字では、平均寿命の延び、健康保険の負担の増加施策などで、きついことが分かり、70才時3,000万円に変更しました。
収入が途絶え、年金収入だけになっていましたので、追加の1,000万は、老後・年金生活の支出の見直しです。
退職直後、一年間の六回の1か月単位の海外ロングステイ生活は、四回のリピートショートステイに切り替えました。

そして、65才の内臓疾患による短期入院を機会に、パスポート更新せず、海外旅行を卒業し、国内旅行に切り替えることにより、老後年間節活費は、縮小した分、70才時の金融資産額は、理想とする余裕のある金額まで上昇しました。

現役世帯、これから定年・老後資金を考える方々へのアドバイス
1,夫婦二人で、共通した人生観、価値観を持って、どんな老後を送りたいか話し合う事。
2,住宅ローンの返済を早め、メドがついて時(40代から50代前半がリミット)から、老後資金計画を始めない遅いです。
3,現役時代の自分生活してきたまわりには、同じような学歴・収入・家庭環境の人に囲まれていますが、退職して、自分の地域に戻ると、様々なひと繋がります。
ここで今まで感じたことのない格差を感じます。
それは、それと割り切り、身の丈にあった生活、老後をエンジョイするする生活を早く見つけて下さい。
posted by 西沢 at 07:42| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月23日

イギリスコンテナ死亡事件 日本に来ていたベトナム実習生の死

日曜日の朝日新聞社会面トップで、先月、イギリスで起きたコンテナ内で39人死亡した不法移民のなかに、昨年まで神奈川の食品工場で実習生として働いていたベトナム女性がいたこと、彼女の仲間と一緒に撮った画像と、原稿用紙のマス目のなかに丁寧に書かれた日本語のひらがな、と漢字の文章のが掲載されていました。
狭い、空気が徐々に薄くなり呼吸が苦しくなるなか、家族に送ったメールが残っていたようです。記事を読んでするだけで、私自身が苦しく覚え、目頭が熱くなります。
そして、思い起こしたのは、2週間前の鎌倉の日本語支援のボランティア団体が主催した、クリスマスパーティで出会ったベトナム人実習生の若者の姿です。

12月17日ブログ記事引用

ここ数年、このつどいのパーティに多く見かけるようになったのは、ベトナムから若者です。
主に、藤沢近辺の工場で技術研修の名目で働く3年間限定の実習生の若者です。
私は、退職後何回もベトナムを旅していますので、パーティの会食の時間、大勢のベトナム実習生の皆さんとお話しました。
昔、50年前の日本では、皆さんと同じような年代の日本の若者は、実習生と云う名で、アメリカ・カリフォルニアの苺畑で、メキシコからの労働者として一緒に働いていたこと、そして、まだ経済発展途上だった日本に戻ってきた、日本人実習生の半分は、再び、アメリカ、カナダ
ブラジル・アルゼンチンへ旅だって行ったこと等を彼らに話しました。
彼らも、3年間の期限でいったんベトナムに帰国するけど、再び日本で働きたいと云います。



この席で、私は1960年代後半の日本の若者の話をしました。
東京オリンピックが開かれて1964、昭和39年、当時のドル/円レートは360円、私の高校時代のアルバイトが1日500円(1.3ドル)高卒初級国家公務員の初任給は14,000円(38ドル)と、発展途上国レベルであったことを話し、当時は一般庶民が海外にでることは、今のベトナムよりも難しかった。
海外旅行が自由化されたのも、このオリンピックの年で、一部の超富裕層だけのものだった。
そんな時代でも、アメリカに旅立った多くの若者がいたことを話しました。
今のベトナムの若者が、名目上、先進技術習得の実習生とよばれ今、日本に来て働いているように、60年代後半から派米青年と云われる人たちがいた。

公益社団法人国際農業者交流協会

(英語名 The Japan Agricultural Exchange Council 略称:JAEC)は昭和27年に設立した社団法人国際農友会と昭和41年に発足した社団法人農業研修生派米協会が農業研修生海外派遣事業等の充実強化を図るため解散統合して、昭和63年3月30日に設立されました。
その後、公益法人制度改革により平成24年4月1日公益社団法人へ名称変更を行いました


https://www.jaec.org/summary/intro.htm
元々は、日本の農業を担う若者を海外へ派遣し、最先端の農業技術を学んでもらう為の、政府系の組織ですが、実態はアメリカ・カルフォルニアの日系農場への出稼ぎ斡旋でした。
当時、カルフォルニア日系農場は、白人農家は、高く売れるが、手間、人手がかかるイチゴ栽培を敬遠するのを見てメキシコ労働者を多く雇い入れていました。
そこの農場監督者として、同じ日本の血を引き、休日も夜もいとわない、日本の若者の受け皿となったのです。
当時の時給は1ドルでした。残業すると1日10ドル、1か月250ドル、日本円で90,000円は当時の高卒国家公務員の6.5倍、それも、寝場所も食事も日本・アメリカ間の船賃(JAEC負担)も全て無料、遊びたくても街から離れた農地ですし、まだ人種差別色が濃く残っているアメリカの街中に行く勇気もなく、連日メキシコ人労働者と過ごしているうちに、英語よりもスペイン語が上手くなっていったそうです。

ストロベリーロード
この頃の派米青年や日系人農場を描いた小説があります。
横浜出身の作家石川好の「ストロベリーロード」です。
私と同じ団塊世代、彼は派米青年制度ではなく、幼い頃別れた実兄がアメリカで暮らしているのを頼って渡米し、兄のイチゴ農場では働いていた当時を後に帰国して小説化したものです。
当時、日本の若者が労働者として働いていたのは、アメリカだけでは有りません。
ドイツの炭鉱でも大勢の技術研修と云う名目で日本の若者が働いていたのです。
参考資料:
ドイツの炭鉱で働いていた日本の若者
1950年代から60年代の半ば、東京オリンピック当時の日本は、開発途上国だったのです。

その後、これらのどうなったか?
ドイツの炭鉱で働いていた多くの若者は、政府の思惑どおり帰国してからは、日本の炭鉱の技術者として活躍したようです。
では、地方の農家出の派米青年はどうなったか?
私が彼らの存在を知ったのは、南米、ブエノスアイレスでした。
多くの派米青年は、一旦日本に戻ってきましたが、海外に暮らし、日本の何倍もの給与を手にしてからというもの、経済格差を痛感し、再び自分の将来の人生設計を、海外の地に求めて、旅だっていったのです。

は、日本語ボランティア主催のクリスマスパーティで出会った、ベトナム人実習生に、これらの日本の若者の歴史を話し、君たちの何人かは、かなり高い確率で再び海外にでることを模索するようになる。
何処の国ほ目指すかは分からないが、一度働いたことのある日本に来ることに備えて、お金を貯めることも大切であるが、一番は大切なのは、日本語をマスターすること、次回日本に自力で来日する際、正規の労働ビザを取得するには、企業の面接で重要視されるのが日本語能力であると、話し、併せて、3年間の滞在中に、積極的に日本の友人を造ることを薦めました。

このクリスマスバーティの時、私は、イギリスで起きたこの悲惨なコンテナ事件を知りませんでした。そして、12月22日の朝日新聞で39人の犠牲者のなかに、私の住まいの近くの神奈川県で働いていた、女性実習生がいたことを知りました。
彼女も昔の派米青年と同じく、一度、海外働いてから帰国し、再び海外を目指して、不幸な状況に陥ってしまったのです。

彼女の元同僚日本人の話が掲載されていました。
「もう一度日本に来れば良かったのに、正規労働ビザで」
posted by 西沢 at 08:17| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月21日

ショック! 若者に席を譲られた、俺ってそんな年寄りか?

別府旅行から羽田空港に戻り、京急を乗り継いで横浜駅から自宅に戻る為に、かなり混んでいた東海道線に乗車し、つり革に手をかけると、座っていた若者が席を立ち、席を譲ってくれました。
カミサンと二人、旅行鞄を持っていたからでしょうか?、一瞬躊躇しました。
俺って、そんな年寄りに見えたのか?
確かに団塊世代の71才は、高齢者には違いなく、長旅で疲れていたのは間違いないのですが・・・、カミサンはありがとうございます、と云ってしまったので、二駅13分の距離ですが、座ってしまいました。
しかし、下車駅まで心中穏やかではありませんでした。

これまで、私自身は経験はありませんが、同じような体験を見ています。
数年前、私よりも5才上の友人と一緒に電車に乗った時、目の前の若者が、当時72、3才の友人に席を譲ったのです。
彼は、齢相応の白髪なのですが、元大手広告代理店のアドマンで、服装もかなりカジュアルです。一般的な、お年寄りの部類には入らないと、私も、彼自身もそう思っていたのです。
ここで、断るのも相手に失礼なので、彼は座りました。
そして、二人で鎌倉駅で降りた後、彼は憮然とした表情で無口でした。
俺って、そんな席を譲らなくてはいけない衰えた年寄りに見えるののだろうか、私に云いました。「まあまあ、そんなに怒らないで、相手の好意を素直に受けられる大人なんだから」と60代半ばの私はそう言ったのを覚えています。

もう一回、似たようなケースがありました。
2年前、ガン末期の長兄と一緒に最後の思い出造り観光旅行に行った先の温泉宿での出来事です。
長兄と双子の次兄と3人で宿の露天風呂に入っていた時、かなり体力が衰えていた長兄が湯舟からあがる時、少しよろめいて湯舟に尻もちをついた時、同じ浴槽にいた男性が、「おじいさん、大丈夫ですか?」と手を差し伸べたのです。
一緒にいた私と、次兄は、「ありがとうございます」とお礼を言った後、双子の同い年の俺も「おじいさん」なのか!とかなりショックな様子でした。

最寄駅で降りる時、カミサンは譲ってくれた若者に「ありがとうございました」と挨拶をしました。私とは云うと、軽い会釈をして下車しました。
まだ混雑している車内で、素直に感謝の言葉が云えない自分がいました。
確かに、旅で疲れていたとは云え、たった二駅の間、71才の体力では今までと同じように、立って電車に乗っているのは、全く普通のことなのに、反って心情的には負担になったのは間違いないことだったのです。

これまででも、JR東日本のシルバーシートに座るのは抵抗がありました。
団塊世代の71才は、確かに行政上では「高齢者」かもしれません。医療保険割合も2割負担ですから、立派な高齢者で、日本の社会保障制度上では若い現役世代からの仕送りで、年金も医療費も賄っているのですから、感謝しなくてはいけないのでしょうが、まだまだ、もつとお年寄りで、シルバーシートを必要としている、社会保障がなくては生活に苦しい方々が沢山いるのに、
とてもでは有りませんが、自分自身若いと思っている団塊世代の私たちは、シルバーシートには座れないのです。

しかし、若い女子高生が混雑した電車内のシルバーシートに座っているのを見ると、わざわざその前に立ってやりたくはなります。
お前ら、学校とは云わないが、家庭内、両親から何を教わっているのだ、とついつい云いたくなります。
今回の大分旅行中では、沢山のローカル路線バスに乗りました。
地方のローカル路線バスは、必ず、その地方の中核病院を廻りますので、多くのお年寄りが必ず乗車してきます。
観光地では、そのような路線バスに、多くの若者観光客が乗ってますが、
西欧系の観光客は、目ざとく、遠くの席を立ち、お年寄りに声をかけ、席を譲るのですが、中華系のアジア人旅行者は、座ってスマホに夢中になっているのか、席を譲っている姿は滅多に見ません。
一方、最近増えている東南アジア系の若者は、日本人以上にお年寄りが乗ってくると、席を立つ姿が多い、というのが印象です。
タイとかイスラム系と、経済発展著しい中国本土との民度の違いなのでしょうか?

2019年12月3日は「老人として席を譲っていただいた記念日」として、忘れないようにしようと思っています。

もう一つ、ある記事を見て考えました。

65才以上の人の呼び方と云うタイトル
・高齢者
・お年寄り
・老人
・おじいさん、おばあさん
・実年
・熟年
・シニア
・シルバー
皆さんはどれが相応しいと思いますか?



大きな意味での世代全体層に対しての言葉と、個人に対しての言葉では違いがあるでしよう。
今のご時世で、72才になろうとしている団塊世代全体にたいしてなら、「シニア」で構いませんが、一個人にたいしてでは、全て、お断りします。
「もしもし、そちらの方」 「そちらの男性」でいいじゃないですか!
posted by 西沢 at 08:42| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月19日

前立腺がんの疑いによる生体検査、二泊三日の検査入院記録

一か月前
15年前(56才の時)、初めての前立腺腫瘍マーカー検査PSA値が基準値4を上回る7で、第1回目の生体検査をしました。
この時は、一泊二日、その時はがん細胞は検出されませんでした。
その後、四ヶ月おきにPSA血液検査を受けてきました。
二年後にPSA値が10を上回り、再び生体検査の為に検査入院し、結果はがんは検出されませんでした。PSAの値は、前立腺肥大でも上昇するのです。

5年前、2014年の定期PSA検査の値が15になり、3回目の検査入院、この時もがん細胞は検出されませんでした。
その後、4ヶ月置きのPSA検査は継続してきてPSA値は13〜15の高値安定で変化しませんでした。
一般的にPSA15と云う値はかなり高く、ヤバイ状況なのですが、前立腺肥大により値が高くなる例もあり、担当ドクターは10数年来のお付き合いもあり、様子を見ましょう、で経過してきました。今年7月、値は20になり、次回の検査で下がっているかもしれないので様子を見ることになりました。
11月のPSAの値は24と続けて上昇していたので、12月に第4回目の検査入院となりました。
今まで、一泊二日だったのが、今回からは二泊三日となりました。
病院側の説明では、「侵襲的手技」による患者の安全・感染の為と説明しています。
この日に、入院前のデータとり、胸部レントゲン・腹部エコー・心電図等

一日前
事前に提出する書類を書く
・検査同意書兼鎮静(麻酔使用)の同意書
・入院申込書
・転倒転落アセスメントシート
事前に用意するもの
・上履き
・T字帯
・生理用ナプキン
・洗面具・着替え
・寝巻(病院側のものを使用しない場合)
食事は前日10時まで

当日一日目
10時に日帰り手術センターで受け付け。
手術着に着替え、T字帯を付けます。
検温・点滴(血管の確保)・ネームバンドの装着(退院まで)
看護師よりの問診。
歩いて手術室へ、笑気と静脈による麻酔であっという間に眠りました。
検査手術は15分で終了、気が付くと元の集中管理室のベッドの上でした。
おしっこをしたいのですが、2時間はベット安静の為、ベット上で尿瓶にするのですが、麻酔の影響で、排尿は困難です。
頑張ってした最初の尿にかなり大きい血のかたまりが見え、看護師に報告しました。

2時に昼食、意外と美味しく食べれました。
4時に、歩いて14階の病室へ、3人部屋(トイレ・バス付)、富士山が見える南西の角部屋です。
この日、前立腺生検を受けたのは、私の他2名いました。
一人は81才、初めての生検で直前のPSAは30とのこと。
もう一人は、61才、初めての生検のようで、PSAの値は聞きませんでした。

30分置きに、強烈な尿意、トイレに入っても麻酔の影響でなかなかおしっこは出ません。
10分、便器の前で踏ん張って出てくるのは、最初は血液で、便器は真っ赤に染まります。
生検が初めての人でしたら、びっくりしてしまうでしょうが、4回目で慣れています、ドクターによると、血尿が停まらなかった人はいないそうです。
20分かけて、何とか排尿、これが朝まで続くので、寝不足になるのは当たり前。。

大きな3人部屋とは云え、ドクター・看護師とのやり取りは全て聞こえてくるのです、どうやら私だけのようで他の二人は、スムーズにでるようで、血尿はほとんどない様子で、何回もトイレに立つ気配が有りませんでした。
私の場合、前の3回も同様で、ちょっと他の二人とは違い、彼らには前立腺肥大の影響でのPSA値上昇ではないのかと考えました。

2日目食事は昔の病院と比べて、朝・昼・晩、一般社会と同じ時間帯に、暖かい食事が出ます。
今回の私の場合、血圧が少し高めでなので低塩食1日5.9グラム塩分、1800kcal、普段から塩分控えめ、野菜多めの食事ですから、人が云うほど味気ない食事でもなく、美味しく食べれましたが、入院前の体重が0.5キロ増えていましたのでご飯は半分残しました。
退院後自宅の体重計に乗ると、3日間の食事で600グラム痩せていていました。

前夜は尿意とトイレの立て籠もりでほとんど寝不足状態。
4年前の鼠径ヘルニア手術入院の際に余っていたテレビカードの残が400分ほど余っており、イヤホンもその時のものを持って来ていたのでテレビを見て過ごそうと思っていましたが、数時間置きの点滴取り換えと尿意でゆっくりとベッドで過ごすのも叶いません。
他の二人には、家族は初日入院時から付き添っており、カーテン越しに会話が聞こえてはます。
我が家の場合、これで4回目の為、カミサンは2日目の午後の面会時間に、甘いものを届けに15分ほど来ただけで帰ります。
専門職で手術室勤務も経験しているので、この程度の検査手術で、行く必要はないと思っているのは確かです。
相変わらず、トイレの便器は真っ赤に染まります。
他の二人と看護師の会話が聞こえてきます。
二人とも肛門に痛みがあるようですが、私は全くなし、何が違うのか?

3日目退院の日
朝、やっと点滴のスタンドから解放されました。
同時に、腕首のネームバンドも切り離されました。
9時に病院は動き出しますので、9時半にはさっさと着替えを済ませ、会計からの連絡を待って退院です。
凡その入院費用は、入院前の説明書に記載されていました。
医療点数は15,820点 158,200円+六食の食事代3,916円 合計162,116円
158,200円の二割負担(70才以上)+食事代3,916円マイナス食事医療費3割 
総合計=34,400の支払いです。
但し、非課税所帯の私の1か月の医療費限度額は8,000円ですから、2ケ月後に差額の26,400は戻ってきます。

病室は広く、清潔で快適な環境であり、読書室もあるのですが、やはり閉鎖空間に間違いありません。
10時過ぎに外に出ると、冬の青空が広がっています。
湘南鎌倉総合病院の目の先には鎌倉で一番大きいショッピングモールがあります。
ここでは、普通の人々、主婦、青年、子供たちが歩いています。
やはり、健康が一番と痛感する瞬間でした。

4日目の自宅でも、まだ血尿は続いています。
生検の結果判定は10日後です。
他のお二人の状況と私の術語の状態はかなり違っており、前立腺肥大による高値も考えられますが、値からしてガン細胞が検出される確率は高いのは間違いありませんが、そうなったらそうなったらで仕方ないと覚悟しています。
後は、ガンが前立腺で留まっており、骨に転移していないのを願うしかありません。
検査結果を聞く日、カミサンは一緒に行く?と聞いてきましたが、いいや一人で聞くと断っています。
なんで・・・、一人にして欲しいのです。
posted by 西沢 at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月17日

外国籍の子供たちに日本語を教える鎌倉のボランティア団体「日本語コスモス」



毎年、12月のこの時期、10数年に亘ってホームページ支援をしている、鎌倉・横浜・湘南にお住まいの女性たちの日本語支援の団体のクリスマスを兼ねた、パーティーにお呼ばれしています。
バーティーの主役は、外国人生徒さんです。
今年は、80名ほどの国籍、年齢様々な生徒さんが、お国の料理を持ち寄って参加していました。
この団体、25年前の1994年に少数の女性有志により設立され、両親と一緒に来日し、まだ日本語がよく理解できない子供たちの日本語課外事業のサポートを支援していました。
そして、日本にくる外国人が増えるつれて、鎌倉・横浜・湘南に暮らす、欧米系の方々への支援と拡大していきました。

この団体が大きく変わったのは、現代表が50代の手習いとして、私が講師を務める「ホームページ講座」を受講して、立ち上げた10年前からです。
ホームページは、英語とこの頃から急速に増えてきた中国からの人達の為に中国語、そして平仮名だけのページを造り、問合せホームも英語に対応したものを造りました。
すると、急激に外国から問合せが増えました。
来日する方々は、事前にボランティア料金で個人的に日本語を教えてくれる団体を探してから、来日するようになっていたのです。

生徒さんが増えるにつれ、日本語を教える先生方も増えてきました。
自然に、団体設立時の女性たちが年齢を重ねていっても、若い会員が増え、やがて、スマホ時代の到来です。
そこで、若い30〜40代の若手女性たちによる、スマホ対応ホームページと、生徒さんたちとのコミュニテイの場としてのフェースブツクを立ち上げしました。
http://nihongocosmos.sakura.ne.jp/
日本に住む、外国人の情報源は、何と云ってもスマホによるものが圧倒的多数です。
このような取り組みは生徒さんに歓迎されています。

日本語コスモスが支援する生徒さんは、年々増え、国籍も変ってきています。
一時期、中国からの引き上げ孤児とそのご家族が多い時期がありました。
ご両親もまたその子供たちも日本語が解らず、住居のトラブルも多数発生したり、子供たちが学校に馴染めず、不登校になったりした時も日本語コスモスの女性たちは、日本語だけでなく、日本社会の習慣、考え方など、きめ細やかに対応しつづけました。
今回のパーティーに、その時の小学生が成長し、まだ日本語に不安な両親と一緒に参加し、大勢の参加者の前でスピーチする姿があり、古くからの先生はそのスピーチを聞いて涙ぐんでいました。

ここ数年、このつどいのパーティに多く見かけるようになったのは、ベトナムから若者です。
主に、藤沢近辺の工場で技術研修の名目で働く3年間限定の実習生の若者です。
私は、退職後何回もベトナムを旅していますので、パーティの会食の時間、大勢のベトナム実習生の皆さんとお話しました。
昔、50年前の日本では、皆さんと同じような年代の日本の若者は、実習生と云う名で、アメリカ・カリフォルニアの苺畑で、メキシコからの労働者として一緒に働いていたこと、そして、まだ経済発展途上だった日本に戻ってきた、日本人実習生の半分は、再び、アメリカ、カナダ
ブラジル・アルゼンチンへ旅だって行ったこと等を彼らに話しました。
彼らも、3年間の期限でいったんベトナムに帰国するけど、再び日本で働きたいと云います。

私は彼らに、日本の会社の面接試験は、どんなに技術や経験があっても、日本語によるコミュニケーション能力を最優先するから、まずはちゃんとした正確な日本語を覚えなさい。
ベトナムと日本の物価格差は5倍と大きいから、貯金するのは当たり前だけど、それだけではなく、日本人の友人を出来るだけ多く作りなさい。
一番良いのは、日本人の恋人をつくれば、直ぐに上達するのだけど、と付け加えました。
又、来年、このパーティーで会おうと約束して今年の「コスモスのつどい」パーテイはお開きになりました。
かれらの日本語がどれだけ上達したか、楽しみです。

パーティーが終わって担当者との間で、来年はスピーチ参加者の国・故郷をパソコン・グーグルマップを使ってプロジェクターで同時にスピーチ者の背景に映す、企画を提案しました。
グーグルマップもしかするとスピーチ者の故郷の街並みだけではなく、住んでいた家も会場の皆さんにご紹介出来るかもしれません。
その為には、言い出しっぺの私は、来年のパーティでも、元気で健康でいなくてはならないようです。
posted by 西沢 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月14日

大分旅行記 別府・杵築・臼杵・湯布院 二泊三日

55才で早期退職して10年間は、海外ロングステイ候補地探し、終の棲家、青い鳥を探す旅に明け暮れいましたが、65才にして
パスポート更新を止め、海外旅行を卒業しました。
それ以降、現在に至るまで国内旅行に切り替え、原則、ひと月に一度、2泊3日二人で予算10万円の旅を続けています。
今年最後の旅は、九州・大分県、別府を拠点に廻ることにしました。

私たちの旅計画では、九州・四国・沖縄はJR列車好きのカミサンですが航空機を使います。
そして、毎年秋から冬にかけての旅は、西日本に向かうことが多い理由は、台風です。
せっかく、旅に出ても雨・風やフライトキャンセルでは、旅が台無しになるからです。
昨年の12月は博多でした。今年は私が昔高校生の時、バツクパツカーとて訪れた大分・別府を54年ぶりに訪れました。

羽田から大分空港へ
今回はANAジャランパックを使いました。
往復のフライトと宿泊ホテル(駅近・デラックスツイーン・素泊まり)を自由に選び、二人で合計72,000円ですが、空港のANAショップで使える
買い物クーポンが4,000円つきますので、実質68,000円です。
羽田発7:50の朝一番のフライトは、関東首都圏でも間に合わない地域があるのかも知れませんが、湘南に住む私たちは、6時台前半の
電車で横浜で京急乗換一本で楽勝間に合います。
大分までの機材は、3プラス3の中型機で、ほぼ満席でした。

大分空港は、意外と別府・大分からは距離があり、高速バスで1時間、1,500円と結構遠いです。
私たちは、直接、今回のホテルのある別府には向かわず、最初の目的地「日本一着物が似合う城下町 杵築」に路線バスで
向かいます。今回、日曜日と平日のバス時刻表を読み間違いてしまい、空港で40分以上の暇な時間が出来てしまいましたが、
何と、空港内に温泉県らしく、足湯があったのでそこで過ごしました。

城下町 杵築を歩く
杵築は国東半島の南、別府湾に面した、譜代32,000石、松平氏の城下町です。
大分空港から路線パスで40分の小さな町です。
大分空港からこの路線バスに乗ったのは、東京から来た一人旅の男性と私たち夫婦二人だけでした。
この男性とは、今回の旅の先々で出会うことになりました。彼は元大手旅行会社の添乗員をやっていたようで、旅行好きの私たち
話が尽きませんでした。
杵築は大きな谷間が町の中心にあり、坂の多い町です。
至る所に、趣のある坂が多く、この坂の風景と着物が似合う城下町として、古い街並みや城下町ファンの間では有名な町なのです。

名物料理に興味がない私たち夫婦
小さな町ですから、1時間もあれば主な坂や屋敷は回れます。
ここから別府に向かう路線バスは本数が少なく、観光が終わってもまだ1時間近く残りましたので、ここでお昼にしました。
観光地の食事は「高い」「名物料理にうまいものなし」は常識で、大観光地「鎌倉」に住む私たちは痛感しています。
今回の旅から戻ってきた時、カミサンの友人の鎌倉婦人から、この季節の大分なら「関アジ、関サバ、ふぐよ、食べてこなかったの」と
云われたそうです。毎月毎月、日本中を旅している私たちは、そんな贅沢な食事が出来るほどの予算もなく、ましてや元来、食に興味が
ないのです。バスターミナルの近くに、定食屋さんがあつたので入ってみました。
メニューをみると安いのです。頼んだのが「ころ鯛の煮付定食」税込み700円です。
ころ鯛がどういう魚なのかも知らない、値段で注文したので期待は全くしませんでしたが、でてきたお料理にびつくり大きなタイの煮付でした。
今回の旅は幸先良い、鎌倉をはじめ日本の観光地の食堂、レストランも見習えよ、と思いました。

別府で行きたい所は「湯けむり展望台」
別府は私も、カミサンも二度目です。
駅から徒歩10分のシティホテルにチェックインした後、向かったのは地獄めぐりではなく、2000年にNHKが視聴者からアンケート募集した
21世紀に残したい日本の風景の第2位にランキングされた、湯の町に立ち昇る湯けむりが一望できる風景の地です。
事前に、ネットでこの住宅街の真ん中にある小さな公園への行き方を調べておきました。
ネットでの情報を持つて、駅前観光案内で確かめると、確かにこのルートで行けるけど、最寄バス停に行くバスの本数が極端に少なく、
おまけに、展望台までは登りの急坂を20分登ることになるから、こちらのルートと勧められたのか、別府の大観光地、地獄めぐりの拠点鉄輪
から歩くルートでした。
ネット情報よりも、現地の観光案内所を学びました。

2日目 城下町 「臼杵」へ
臼杵は別府から大分先、JR各駅停車で一時間の城下町まです。
昔、高校2年の春、バックパックを担いで、この石仏を見に来た思い出の地を、今回カミサンと訪れました。
天気は予報と違ってかなり怪しくなり、傘を持参の旅となりました。
各駅停車車内は平日の朝なので、通勤客、学生で大分までは東京の電車並みに混んでいましたが、大分を過ぎると、2両編成になり
乗客は私たちを含め、3人でした。その一人は、大分空港で杵築行きの路線バスを待っていた、あの男性でした。
臼杵駅に到着し、臼杵石仏群まで行くバスまで90分ありますので、城下町「臼杵」を歩くことにしました。
臼杵藩は春日野局につながる稲葉氏が藩主の65,000石の小さな外様の藩です。
天守閣は残っていませんが、広大な城跡の石垣が見事なのと、古い街並み、美しい三重塔が残されています。
ちょうどこの日、臼杵市内のお寺さんによる、托鉢が行われていました。
少し雨が降ってきて、観光客は私たち夫婦と、ヨーロッパ系白人老ご夫婦の二人だけでした。
後から知ったのですが、臼杵の見所の一つとして、隣駅「上臼杵」は日本最古の木造駅舎だそうで、寄るべきだった後悔してます。

臼杵石仏群へ
臼杵石仏群へは1時間に一本の路線バスで20分ほどです。
このバスの乗客も先ほど街中で知り合ったヨーロッパ系白人老ご夫婦だけでした。


古園石仏大臼杵石仏とは
日如来像に代表される臼杵石仏(磨崖仏)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたと言われています。
その規模と、数量において、また彫刻の質の高さにおいて、わが国を代表する石仏群であり、平成7年6月15日には磨崖仏では全国初、
彫刻としても九州初の国宝に指定されました。その数は、60余体にもおよび、このうち59体が国宝となりました。
石仏群は4群に分かれ、地名によって、ホキ石仏第1群(堂ヶ迫石仏)、同第2群、山王山石仏、古園石仏と名づけられました。
それぞれに、傑作秀作ぞろいであり、表情豊かな御仏の姿は、みる者の心にやすらぎをあたえてくれます。
また、平成29年3月には古園石仏郡の手前右側の岩壁に刻まれた2体の「金剛力士立像」が、国宝に追加指定されるという内定が出されました。
これにより、臼杵石仏(磨崖仏)は合計で61体が国宝となりました。


ここまで、杵築城町、湯けむり展望台、臼杵城下町と観光地を歩いているいましたと思っていましたが、観光客の姿はまばらだったのに、この石仏
入口駐車場には何台もの団体観光バスで停車していました。クラブツーリズム・阪急の旗が見えました。
昔、高校生の時に来た時は、野づらの崖に彫られたままの石仏は、今や屋根に覆われ、道も階段も整備された大観光地と化していました。

旅の三日目 初めての湯布院へ
今回の大分の旅のなかでカミサンが一番期待していたのが、湯布院でした。
アジア系の観光客や、日本の若い女性で大人気の観光地であり、カミサンの大好きなお土産物購入の楽しみの地なのです。
私と云えば、大分旅行の1週間前から毎日、ネツトの天気予報を眺めており、今回の3日目は確実に晴天と期待していたののですが、確かに出発
地点の朝の別府駅前は晴れ模様なのに、バスが湯布院高原に近づくにつれ、怪しくなり遂に、湯布院に到着した時は、みぞれ模様の天気となりました。
湯布院は、関東で云えば、軽井沢のようなところです。
湯布院の街中は、軽井沢で云うと旧軽通り、湯布院の見所の一つ「金鱗湖」は軽井沢で云うと「雲場池」です。
しかし、12月第一週、雨みぞれ模様の高原、湯布院ではマフラー・手袋・厚手のダウンジャケットでも寒く、観光どころではありません。
観光案内所では、ストーブが焚かれていました。

九州の軽井沢的なところです。
それでも、アジア系外国人観光客、特に女性はめげずに食べ歩いています。
ここでも、湯布院行きのバスの出発地別府駅西口で、私にバスのことを訪ねてきたシンガホールの二人連れの女性たちと会いました。
湯布院の街中は、アジア系外国人女性をターゲットとしたお店もが多く、このトトロをテーマにしたお店では、写真撮影待ちの行列が出来ていました。
彼女らに、ちゃんと冬支度してきているけど、シンガボールで不要でしょ、どうするの?と聞くと、毎年、日本の冬に来ることを楽しみにしているので
全然無駄ではないとの返事でした。
彼女によると、この街を歩いている一見中国人と思える人の大半は、台湾・香港・シンガポールだそうです。
分かるの?と聞くと、だいたい雰囲気と、服装、お化粧で解るそうです。
日本人と韓国人は違いは解る?と聞くと、全く解らないそうでした。

別府の公衆浴場にお試し入浴
あまりも寒いので、二本早めのバスで別府に戻りました。別府はピーカンの晴天でした。
後は空港に行って帰るだけなのですが、まだ時間が3時間も余ってしまいました。
そこで、来た時から気になっていました宿泊しているホテル前にある、市営温泉・いわゆる大湯、銭湯に行って見ることにしました。
料金は100円、シャンプーも石鹸もタオルもなく全て自分でもっていかなくてはなりませんが、ものは試し、話題作りと時間つぶしに入ってみました。
別府の湯は無色透明・匂いもなく、普通の銭湯とおなじです。
湯舟はぬる湯と熱湯に分かれていました。試しに熱湯にチャレンジしましたが、熱いのが好きな私でも、足をいれただけで降参です。
湯上りに、冷たいコーヒー牛乳を片手を腰に当てて、ぐいっと飲んで、今回の大分の旅は終わりです。
posted by 西沢 at 08:10| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月12日

今、ここにある危機は、8050ではなく「7040問題」 自立しない息子、戻り娘

元エリートトップ官僚による、わが子刺殺事件の公判ニュースが1日TVニュースを賑わかせていました。ワイドショーではこの事件を「8050問題」に紐付けて話題にしていました。が・・・
ちょっと「8050問題」とは違うのでは・・・
「8050問題」は、80代の両親の年金をあてにする同居の50代の子供との生活、どちらかと云うと主眼は経済問題・介護問題であり、定年退職半ば或いは、これから定年後の生活設計をする世代からみれば、もうちょつと先の話かもしれませんが、私たち団塊世代及び、退職直前・直後の世代が今、直面しているのは「7040問題」、自立しない息子、出戻り娘と孫の問題です。

8050a.jpgよそのお宅の内情は良く解りません。
私の親族の実際をみると、兄74才は伴侶と44才になる長男と一緒に暮らしています。
地元の高校を出て、二浪して埼玉の名前だけは箱根駅伝で知っている、三流大学を出ました。
ちょうど就職氷河期でした、二浪で同級生と2歳の差があったのが原因かもしれませんが、学生時代アルバイトをするでも、サークル活動するでもなく、一人でいることが多い子供のようでした。

私は子供がいないので、兄の家の教育や子育てについて、何かや云える立場ではありませんが、二浪はよくないと反対したことがあります。
その受験する大学が二浪する価値、ブランドがあるなら別ですが、名前は箱根駅伝で知られるだけの大学で就職時に苦労すると云いました。
そして、18才時の年齢差についても話しました。成長してからの年齢差さして大きな障害にならないが、大学入学時の18才と20才の差、違いは大きく、友人関係に大きく影響するということを兄に話しました。
兄はまじめな性格で、高卒で地元の中堅企業に就職して、一度も生まれ故郷から離れたことも、一人暮らししたこともない人です。
息子の高校の成績がどの程度のものなのか、良く理解していないようで、息子の云う「井の頭線沿線のアパートに住み、東京六大学の大学に通う」夢を信じ続けていました。

3年生の夏、その子を自宅に呼んで、日本の会社、組織、職場、職種、経済構造等について彼に説明しました。そして、私はこの子に、
・お前は営業職には向いていない
・実業、つまりモノづくりのメーカーへ行け
・メーカーも直接、消費者と対応する品物ではなく、プロ同志の品物が良い
・絶対に、物体のないものを扱う業種、所謂「虚業」へは行くな
と話したのですが、結局この子は、十社以上受けてすべて不採用、で入ったのは、誰でも採用する、商品先物を扱う会社でした。
この甥っ子の性格からして続くはずもなく、1年で辞めて実家に戻り、それ以降は派遣の生活です。
近所に住む同級生が次々に結婚し、家庭を持つ生活を始めるようになってからは、付き合いもなく、派遣切りから、正社員を目指すもあるのは、名前ばかり居酒屋店長のような仕事ばかり、少しづづ生活はネットのなかだけの引き籠もりの生活になっていきました。

兄も、義姉も心配して、一度実家を追い出し一人生活をさせたのですが、最終的にはアパートの家賃延滞で実家に引き取り現在に至っています。
性格的に両親に暴力をふるうような子ではないのですが、義姉の母親は、自分たちが亡くなった後のこの子の将来が不安で、夜も眠れず、痩せ、体調を崩した生活になっています。

カミサンの甥っ子も3人います、3人とも未婚で両親と一緒に暮らしています。。
カミサンに云わせると、少なくとも3人とも、正確は温和で、一人は一部上場機企業、一人は小規模企業、一人は派遣で働いているだけ安心と云っています。

私の同世代の廻りには、このような自立しない息子が沢山存在しています。
同時に多いのは、離婚して孫と一緒に出戻った娘さんと一緒にくらしている家庭です。
今は私たちの世代70代前半は、健康面も経済面も安定しているうちは良いのですが、恵まれているという年金生活でも、夫が亡くなった後の年金収入が減った時の経済的な問題を真剣に考えている家庭が良くないのには、ビツクリします。
そして、やがてやってくる介護時代には今云われている「8050問題」は、確実にやってくるのは間違いない事実なのです。

neg02.jpg私は、7040問題、8050問題の対処・対応の一つ大きな鍵は、経済力だと云ってきました。
お金で幸せは買えない・・・は当たり前の事実です。
でもお金は少なくとも、不幸せ、嫌な事、不安の一部を軽減することは出来るのです。
今回の元官僚トップの家庭では、この経済的な問題はないでしょう。
では何か、親の教育、子供の育て方が間違っていた・・・のか。
子供のいない、私たちが他所の子の教育について云える立場ではありませんが、あまりにも子供の自主性に期待、頼っていたのではと、自分の廻りの自立しない息子、出戻り娘の家庭を見て思っています。

TVのコメンテーターは、家庭内の問題ではなく、社会全体の問題として対処すべき、と答えています。それは、必要かもしれませんが・・・民間のNPOと云うと何でも無償で対処、対応、解決出来ると思っていませんか?
NPOと云っても、ただ税制面で優遇されているだけです。
問題を民間のボランティアを基本としたNPOに丸投げしているだけでは解決できません。
古い考えかもしれませんが、学校教育・家庭内教育・地元コミュニテイの果たす責任が一番大きいと私は考えています。
posted by 西沢 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ