2018年11月30日
旅先の名物料理に全く興味ない、私たち夫婦
博多ラーメン、かしわの水炊き、もつ煮、明太子・・・うーん確かに知ってるけど、私たち夫婦はあまりその土地の名物料理、食べ物にはそんなに、興味がないんです。
理由の一つに、値段が高いということです。
私たちの旅は、特別なイベントではなく、普段の生活の延長と捉えていますので、
二泊三日の食事の
一日目の昼食・夕食
二日目の朝食・昼食・夕食
三日目の朝食・昼食 計7回の食事予算を設定しています。
原則としてですが
朝食は二人で1,000円です。
昼食は二人で2,000円です。
夕食は二人で3,000円です。
その他喫茶・おやつ代として、2,000円で、1日8,000円がマックスとしています。
せっかくの旅行なのだから、そんな制約を設けなくとも・・・と云うご意見はよく聞きますが、毎月、何らの形で出かけている私たちにとって、せっかくとか、特別のイベントではなく普段の生活の一部なので、何らかのストッパー必要なのです。
下関と云えばフグ料理ですが・・・
門司港から関門海底トンネルを歩いて渡った先の下関は、門司港と違って古くから観光開発がされていて、カモンワーフと云うフードセンターや、市場、お土産物屋さんがあります。
生鮮魚介類を使ったお料理がメインで、特に下関ですから、「ふぐ料理」です。
しかし、ランチ時にふぐ刺しや、フグ鍋は値段的に食べれません。
カミサンはこれまでフグを食べたことがありません。私たちサラリーマンは仕事関係で食べる機会はありましたがそれほど、絶対にたべるべきものとも思っていませんでした。
取り敢えず、どんなものかだけお試し的に注文したのが、私たちのランチ予算を少し上回る、「ふくたたき丼」1,280円でした。カミサンの感想は、しこしこしているだけ、特別美味しいとは思わないわ。でした。
夜の博多天神の夕食は
夜、カミサンが愛するブランドが入っているビルがある博多の繁華街、天神にやってきました。
そのブランドショップの若い店員さんと博多の夕食の話になりました。
彼女たちが云うには、博多名物の「水炊き」や「もつ煮」は、美味しいかもしれないけど、私たちは普段は食べない。
一見の観光客相手の店が多く、高い、飲み物をつけると4,000〜5,000円、特別な時しか食べれない。そう、私たち鎌倉市民も同じで、ガイドブックに載るようなお店は行ったこともありません。混む・高い・たいしたことがないが、共通の認識ですから。
このブランドショップの若い店員さんお二人のお薦めが、今一番流行っている「焚き餃子」でした。単品700円、食べ終わったスープを「おじや」にしたり、前菜などもつけて、二人で3,000円程度です。
博多と云えばラーメン・いいえ地元ではうどんです。旅に出る前の日に、持病の胆石の痛みの兆候が表れ始めたので、ランチは軽く、しつこくないものと考えていました。
博多の祇園山笠が展示されている櫛田神社を訪れ、近くの博多工芸館のおねーさんに、近くの手頃なランチを聞いたところ紹介してくれたのが、「博多うどん」のウェストです。
ここの一番のお薦めが「ゴボウ天とかしわうどん」550円です。
地元の有名店でお昼時で混んでいました。
日本人観光客の姿はないと思っていたら、次々にスマホ片手のアジア系外国人観光客でいっぱいになりました。
店員さんもなれた様子で応対に当たっていますので、かなり有名なお店のようです。
結局、今回の旅の3日間で博多ラーメンは食べませんでした。
博多のスイーツと云うば・・・梅ケ枝餅
大宰府の名物でお餅というのは知っていましたが見るのは初めてです。
ふーん、そうなの、厳島神社のもみじ饅頭的に、店頭でつくるところを見せている店ゃ、おばちゃん3人が完全手作りのお店もあったり
して、仲見世通りは、これまたアジア系観光客で大賑わいでした。
梅ケ枝餅って大宰府だけかと思っていましたら、「光の道」で有名な宮地嶽神社の参道も、この梅ケ枝餅でいっぱいでした。
ある一軒は立派な大きな瓦屋根の間口の広いお店です。
この梅ケ枝餅だけで、これだけ立派なお店が建つのだと感心して眺めた次第です。
2018年11月29日
リタイヤシニア夫婦の博多旅行 その2 関門トンネル人道を歩く
門司レトロ地区から、先月のNHK72時間で取り上げられていた、関門人道トンネルを歩くことです。昔、17才の高校二年生の春、当時若者に流行っていた、リュサックを背負ってリーズナブルな旅をする大学生のカニ族に憧れ、少しませていた高校生の私は、昭和39年の春、名古屋発券の九州内二週間乗り降り自由の均一周遊券(当時3,750円)を手に生まれて初めての九州の地は、門司駅でした。
当時まだ寝袋は高価でしたので、毛布一枚をリュックに背負い、初めての夜は、門司駅構内のベンチでした。
その夜、駅員さんと警察官に囲まれました。
何処から来て、何処へ行くのか?
何歳、高校二年生?
先生の名前は?、校長先生の名前は?と立て続けに質問されました。
当時、カニ族が流行り初めていたのですが、丸坊主の高校生だった私は、家で少年と間違われた様子です。
学校はまだ春休みじゃないだろうに。
当時の信州の学校は、夏休みが極端に少なく、冬の寒中休みがあり、春休みは途中、卒業式・終業式に一日でるだけでしたので一か月近い春休みがあったのです。
大都市博多から鹿児島本線快速で1時間20分で鹿児島本線終着駅門司港に着きます。
門司は近年、昭和モダンレトロをテーマにした観光町おこしの真っ最中です。
門司港駅も、昔ながらプラットホームや駅舎に現在改装中です。
今回は目的の一つは、NHK72時間で取り上げられていた、関門人道トンネルを歩き、下関へ渡り、帰りは関門フェリーで戻ってくる
プランです。
NHKの番組を見ていると、多くの人が毎日、散歩がてら健康を兼ねて歩いているように見受けられましたが、トンネル入り口は門司港からはかなり遠くにあり、バスの便は、かの松本清張の小説「時間の習俗」の大きなアリバイに使われる「和布刈神社」ですが、本数は極端に少ないのと、廻りは関門水道が見渡せる、美しい地なので、旅行者は皆さん歩きます、
初めて、じっくりと関門水道を眺めてみると、潮の速さにびっくりします。海峡はまるで川のような速さで流れていました。対岸の下関側に電光掲示板があり、この日9ノットでした。
1ノットは1852メートルですから、この海峡の潮の速さは時速16kmですから、平均的な自転車の速さなのです。
お天気も良く、途中から門司にお住まいで週に一度は歩くと云う同じ団塊世代シニアの方と一緒に、説明を受けながら、トンネルに入りました。
人が歩ける国道ですから、歩いて渡るのは勿論無料です。長さは780m、歩いて15分もかかりません。海底部(780m)は、海面下58mに位置しています。
トンネル内で、九州から本土に入り、エレベーターで上がると下関です。
門司側と違って、下関側は古くから観光開発が進んでいます。
そして、門司側と違って至る所に観光名所が存在しています。
先ず、目に着くのが長州藩の馬関戦争の記念碑です。
1863年、長州藩は、攘夷を実行するため、他藩にさきがけ関門海峡を通る外国の船を2度(第1次・第2次)に渡り、砲撃しました。しかし、翌月、近代的な兵器を備えた列強の反撃にあい、長州藩は、あえなく敗れてしまいました。
さらに、1864年には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ4国の連合艦隊から、17隻の軍艦により下関が大規模な攻撃を受け、長州藩は、関門海峡で戦争を行うこととなりました。
馬関戦争と呼ばれるこの戦いで、長州藩は惨敗してしまいますが、講和後は急速にイギリスに接近し、それまでの素朴な尊王攘夷論を開国尊王倒幕論へと大転換し、幕府との2度にわたる戦争をへて、明治維新へと突き進んでいきました。
これらの幕末の長州の遺跡の他に、歴史を遡って、平家の壇ノ浦があったり、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島があったり、耳なし芳一のお寺があったりして、歴史好きには楽しい所ですが、全くの歴史音痴、大河ドラマ大嫌いのカミサンには、退屈する場所のようでした。
しかし、大観光地なので、お土産もの屋さんが沢山あり、楽しんだ様子でした。
門司港の帰りは、唐戸から対岸まで5分フェリー(400円)で戻りました。
JR門司港から博多への電車時刻表を見ると、直行は少なく、快速は1時間に一本しかないので、小倉まで行くことにして、切符を買うことにすると駅員さんがから小倉で特急ソニックを薦められました。
JR九州の自慢の木をふんだんに使ったデザイン列車です。
しかし、特急料金が発生するので躊躇すると、JR東日本にはない、二枚切符と云う割引率が高い二人で使える回数券なら、快速よりも二人でプラス140円高いだけで、40分も早く博多に着くと説明され、乗ることにしました。
いつも、ネツトで時刻表を調べ、スイカがつかえるかどうかだけの判断でしたが、地方には、お得な切符が沢山あるようです。
3日目は、定番の大宰府と博多市内観光です。
博多の大観光地大宰府は、17才の少年の頃は来ていません。
当時の国鉄均一周遊券ではこれない西鉄路線だからでした。
私たちのイメージでは、博多と云えば大宰府なので、市内とばかり思っていましたが、地下鉄を乗り継ぎ、西鉄天神・二日市乗換です。
3つ乗り換えると云う、公共交通機関に不慣れなシニアが多いなか、大宰府の観光客の半分は、アジア系の観光客でした。
彼らは、一様にスマホ片手に、博多からスムーズに乗換てきているのです。
ガラケーの私たちは普段何不自由ないのですが、やはり、旅先ではスマホは便利なようです。
12月、ガラケーのバッテリーが不調なので、ついにスマホに切り替える予定です。
博多市内の観光って何処へ行く?
博多は食べ物は名物が多いのですが、では観光って大宰府以外何処に行ったら良いの?
ガイドブックは、ラーメン・水炊き・もつ鍋の紹介や、若者向けのショッピングセンターの案内ばかりです。
最終日、大宰府に行って帰ってきて、15:30のフライトまでの時間つぶしに私たちが選択したのは、博多名物「博多祇園山笠」を展示している中洲川端の櫛田神社周辺の下町でした。
地図で見ると、地下鉄二駅ほどなのですが、私たち歩く派からすると博多駅から徒歩15程度の距離なのです。
ここの博多博多工芸館のおねーさんに紹介された博多最後のランチは、名物博多うどんでした。
ほとんど観光客の来ない庶民的なお店で値段も安く、味もボリュームも満点でした。
しかし、何故かお客さんは、アジア系の観光客が半分ほどいます。
日本のネットではヒットしないのに・・・・「ウエスト 川端店」☆4つの評判店でした。
帰宅して、18時に鎌倉に着くと、この時間の博多と違って駅周辺は真っ暗、やはり博多は大都会なんです。
2018年11月28日
定年後シニアの旅 53年ぶりの博多 その1
今回は、博多のシティーホテルに2泊して、ここを拠点にしての周辺の旅です。
博多に行くと云うと、何しに?、観光と云ってもせいぜい、太宰府天満宮しかないじゃないの?
確かに、食べるものは沢山あるけど、2泊は必要じゃないのじゃ・・・と云う声がきかれましたが。しかし、一泊二日では、羽田から朝一の飛行機を使っても、翌日はもう帰らなくてはなりませんので、70才と67才のシニアリタイヤ夫婦にとっては、忙しすぎますので、やはり、最低2泊3日は必要です。
今回の費用は、ANAのホテル&フライトパックです。
往復のフライト時間とホテルのカテゴリーにより料金は当然違います。
今回は、行きは8時台、帰りは16時台とし、ホテルは、博多駅に近い、ハイアットリージェンシーを選び、二人で7万円でした。
一日目
一日目のメイン観光は、「嵐」のCMで有名な、光の道の神社「宮地嶽神社」です。
博多駅からJR快速で25分の「福間」にあります。
ここの神社でのメインは、夕方の日没の夕陽ですから、まだ時間がありますので、10時半にホテルに荷物を預け、先ず目指したのは、博多ポート周辺です。
11月25日日曜日、この日は大相撲九州場所の千秋楽の日でした。
首都圏に住んでいるので、大相撲は、国技館にいけば見れるのですが、なかなか行く機会がないので、ちようど時間調整と、福岡と韓国の釜山を結ぶフェリーの発着する、博多港と大相撲が行われている会場が徒歩圏で繋がっているので、時間調整で行くことにしたのです。
博多は予想以上の大都会でびっくりしました。
現役時代は毎日東京都内へ通勤し、仕事柄大都市東京の最先端都市計画に携わったいましたので、地方の大都市へ行ってもさほど驚かなかったのですが、退職して15年、関東首都圏と云っても、神奈川の一都市鎌倉に住んでいますと、大型ビルやショッピングモールもない田舎ですから、九州一の大都市、博多の賑わいにはびっくりしました。
大相撲会場へは、100円バスで15分と近く、イメージどおりの相撲の幟が立ち並び、力士達の姿が見受けられました。
会場の国際展示場の裏が、博多港です。
港には、大型クルーズ船が停泊しており、この周辺のは、アジアの観光客で溢れていました。
特に韓国からの観光客の姿が目につきます。
お店の人の話では、釜山からフェリーで日帰りで遊びに来ているそうです。
時間調整をして、いよいよこの日のメイン、「宮地嶽神社」に向かいます。
「宮地嶽神社」の参道に真っ直ぐに光の道が出来るのは、2月と10月の年2回の日しかないのは解っていました。
真っ直ぐに光の道を見るためには、年に2回、それもお天気次第なのです。
私たちは、真っ直ぐに夕陽が神社の参道を照らさなくても良いから、その雰囲気を味わいたくて来たのです。この博多の3日間お天気を調べ、前日まで、博多の観光予定を変更し、この日夕方は快晴と判断して、やってきました。
3時半にJR福間駅に到着し、駅から神社まで1.8kmをのんびりと歩いて行くことにしました。
私たち夫婦は、二人とも車の免許は60才で更新しませんでしたので、日本中どこでも、公共交通機関を利用するか、ない所は4km前後までは、ひたすら歩くことにしています。
普通、旅先では、1日15,000〜20,000歩は歩いています。
特に、京都の桜や紅葉の季節は、京都市内のバスは渋滞で動かないので、地下鉄から遠い場所は、ひたすら歩いています。
定宿の三条・河原町のホテルから清水寺は、完全に徒歩圏内ですから、京都の場合、日によっては3万歩あることもあります。
この日は、薄曇りの晴天で夕陽は拝めそうでした。
「宮地嶽神社」はネット情報なのでしょう、日本人よりもアジア系の若い観光客が多く見受けられます。そして多かったのは、日曜日なので「七五三」のお祝いの家族連れです。
ここの神社の大注連縄は、出雲神社のしめ縄よりも、大きく日本一の大注連縄なのだそうです。
台湾から若い観光客が手にしているのは、「嵐」のCMの写真集でした。
情報通り、夕陽は参道よりも2,3度ズレており、光の道になりません。
それではと、この参道の先、神の島「沖ノ島」の玄界灘に沈む夕日を撮影しようと、海岸までの一直線を歩きました。
玄界灘に沈む夕日を眺め、帰路につきました。
博多駅に着くと、博多駅前は、光の洪水です。
大がかりのイルミネーションの光と音に溢れて、大勢の若い世代が楽しんでいました。
博多は大都会、東京オリンピック、大坂万博もあるでしょうが、これからは地方の時代なのかも知れないと、感じた1日でした。
2018年11月24日
退職後15年目夫婦の国内旅行、65才で海外旅行を卒業した理由は?
カミサンの母親が数か月にわたって、危険な状態でしたから、飛行機を使っての旅行を自粛していました。出かける先は、九州の博多です。
55才で退職して65才までの10年間の旅先は主に、海外でした。
退職後の海外の旅は大きく分けると、2つのパターンに分かれます。
暮らすように旅する、一か所滞在型です。ロングステイとまではいきませんが、私のあみ出した言葉でいうとリピート・ショートステイです。
年に二回から三回は、ホノルルorバリ島orタイのチェンマイに最低7泊から20泊の滞在型スタイルの旅行を10年繰り返してきました。
退職後生活を一年中、海外でとリタイヤ当初し考えていましたが、費用と生活のし易さを考えると、せいぜい2週間の滞在を3〜4か月に一度がちょうど良いと悟るには、3年ほどかかりました。
年金満額受給の65才まで10年あり、働かなくともなんとか生活できる程度の資金ですから
定年退職後は海外三昧といっても、やはり圧倒的に長い日にちは、地元、日本で過ごすことになります。海外を中心とした旅のプランですが、残りは2ケ月に一度程度の国内旅行になります。
国内旅行も、基本的には個人手配の一都市滞在型旅行です。
これまで、日本の大きな都市、県庁所在を中心に、必ずある程度の居心地、立地の良いホテルに2泊して、そこを観光の拠点して、3日間、公共交通機関と自分たちの足だけで観光してきました。
※自動車免許証は二人とも60才、57才で更新しませんでしたので、車は乗れません。
そして、65才年金満額受給になり、パスポートを更新せずに廃棄しました。
もう、海外は十分行きつくした・・・と云うと何か嫌味に聞こえるかもしれませんが、現役時代から、子供のいない互いにある程度の収入・資格・専門職だったもので、ヨーロッパを除くほとんどの地域・国を個人自由旅行で廻ったいましたので、定年後は、二人の興味が共通する、ディープアジアの村々を廻るような旅を繰り返してきました。
65才になった時、日本人の行かないミャンマーの最深部を旅して、帰国後救急車で運ばれるような事態になったのが切っ掛けで海外を卒業することにしたのです。
これまでの海外の旅を思い起こしてみれば、危険な目に数知れずありました。
その時にはさほど危ない、ヤバイとは思わなかったのですが今思えば、ただラッキーだっただけなのでしょう。
リオデジャネイロの豪雨のなかのタクシー・・・今でも事故にならなかったのが不思議です。
パナマからサンプラスへ渡った時のセスナは、豚と一緒の座席でした。後から事情通に聞くと、先月パナマのジャングル地帯に落ちた航空会社で、乗るのは知らない観光客だけと、知らされたりしました。
スリランカの北部ではタミール解放戦線に一時的に拘束もされました。
ウズベキスタンでは、A型肝炎に感染しました。
マダガスカルの地方都市では、何十年に一度のハリケーンが空港に3日間足止めされ、おまけに、この疲労が原因なのかカミサンは首都アンタナナリボのホテルで原因不明の熱でたおれました。
カンボジアのアンコールワット遺跡は、日本のアンタックと同時期で、観光は自動小銃をもった護衛つきで廻りはドクロマークの地雷原でした。
本当にただ、ラッキーだっただけでなのです。
世界各地では、日本のマスコミには公表されていない、個人旅行者の事故・事件・トラブルは毎日のように起きています。
私たちは65才と云う体力的年齢を意識してパスポートを廃棄して、海外旅行を卒業したのです。
九州・博多は二人で行くのは初めてです。
全くの個人手配旅行です。
羽田からのフライトは自由に決められます。少し早めにでて博多には10時台に着き、帰りも少し早めの午後便で、自宅には少し暗くなった18時に着くフライトを選択しました。
宿は、拠点となる博多駅徒歩圏内、ハイアットの食事なしプランです。
金額は二人で70,000円、現地の観光と食事代を30,000〜40,000と見込んでいます。
国内旅行は、2泊3日で10万円と決めていますが、ちょつとオーバーするかもしれません。
12月の暮の温泉宿がかなり安くすみそうなので、トータルで考えることにします。
では、行ってきます。
お天気がちょっと心配なんですが。
2018年11月23日
高齢者ドライバーの事故のニュースを聞かない日はない。
去年1年間に75歳以上のドライバーが起こした死亡事故は全体の13%あまりと増加の一途のようで昔は、こんなニュースはこんなになかったと思うのですが。
私の周りにでも悲惨な事故が数年前にありました。
カミサンの友人ご夫婦の車が、脇道かに本道に出る際、一時停止時の左右の確認を怠り、右側からきたバイクが車の側面に衝突し、75才のお年寄り男性は病院で亡くなりました。
運転者も犠牲者も高齢者の悲惨な事故。
その後はもっと大変でした。
事故を起こしたご本人も当然ながら死亡事故ですから、裁判になり、執行猶予つきの有罪判決がくだされました。
民事では、亡くなられた75才のお年寄りのご家族が、75才の高齢者とはかけ離れた額の損害賠償を求めてき、示談とはならずに裁判となりました。
この事故のゴタゴタが影響したのでしょうか、ご主人は認知症を発症し、みるねるうちに進行していきました。
この事故でご主人は免許停止、同乗していた奥様もショックでしばらく車の運転は出来ませんでした。このご夫婦は、市内から外れた住宅街にお住まいです。
一応、駅から一時間に2本ほどのバスの便はありますが、今まで全て車での生活だったので、かなりご苦労されたご様子、外出する機会もどんどんと少なくなっていきました。
マスコミのニュース特集では
“高齢者ドライバー”が事故を起こさないための対策は?
家族や子どもたちができることは?
解決策をとことん探っていく。とやっています。
かなりのご批判、パッシングを受ける覚悟で書きます。
一番有効なの手段は、免許を返納することです。
私たち夫婦は共に60才の更新時期に、更新しませんでした。
車は元々持たない主義のペーパードライバーでした。
首都圏に住むシニア定年後の生活費・コストで一番の贅沢、金食い虫は「車」です。
先ず、駐車場代がかかります。乗らなくとも、税金、車検代がかかります。
そして、昨今のガソリンの高騰、実際に持ちも乗りもしない私たちには、どの位かかっているのか知りません。
駅から10分、全てが揃っている都会の便利な所に住んでいるから、云える理屈である、地方では一家に2台、3台は当たり前、車のない生活は成り立たない、と必ず反論があります。
勿論、解ります。
車のない生活がどんなに大変なのか。
私の実家、妻の実家も地方都市の郊外に住んでいます。各家庭に一人一台の車があります。
でも、本当に車がないと生活が成り立たないのか?
10分も歩いて県道にでれば、一時間に一本のバスは走っています。
自転車で10〜15分行けば、コンビニもスーパーもあります。
成り立たないのではなく、車よりもちょっと不便なだけです。
車がないと、自由に動けない・・・と特にシニア男性は云います。
車イコール自由な世界観・・・歩きなさい、自転車に乗りなさい、バス、電車に乗りなさい。
もっと極端な云い方をするならば・・・・
定年後の自分たちがイメージした、コストがかからず、便利に、何時も何らかの文化的刺激があり、いざと云う時に全てが身近にある、そんな生活環境に引っ越せば良いのです。
車を手放す、運転しない生活の第一歩は先ず、免許証更新しない。
免許証を持っていると、何かの拍子に運転してしまいます。
その時、事故を起こす確率は格段に上がっているはずです。
私は、オートマは怖くて運転できません。
過去に、海外を含めて3度事故をおこしています。
幸い人身事故ではないですが・・・
この先、一生、自動車事故はないのです。
2018年11月22日
中米からの難民キャラバンが国境の町「ティファナ」に到着、集結
昔、70年代前半、カリフォルニアのサンディエゴの友人を訪ねた時、メキシコ国境のティフナに一緒に行こうと誘ったが彼は、一緒に行けないと云った。
理由は、その時の彼の滞在ビザは、留学生ビザが切れる直前で、働いている会社に労働ビザの申請をしている最中であった余計なリスクを負いたくない、と云うのだ。
私は、その時は90日の観光ビザだったのだが、「無理をするな」と云われました。
70年代前半と云えば、アメリカはベトナム戦争がまだ終わってない時代です。
1964年に公民権法が施行されたとは云え、1968年にキング牧師が暗殺され、日本人はまだアメリカでは、黄色人種、アジア人と見なされていた時代でした。
当時、アメリカに正式ビザで滞在していた日本人でも、いつ何時滞在証明が出来るように、パスポートを携行して時代なのです。ですから、敢えて面倒を起こしそうな国境の町には近づかないのです。
時代は90年代に入り、経済大国となった日本国民は「赤いパスポート」で、ほとんどの国をノービザで旅行出来るようになった時代、私たち夫婦は、世界中を旅するようになりました。
アジア人のなかの特権「赤いパスポート」は何処でも通用すると思っていました。
ある時、中米旅行の帰り、ロサンゼルスの入管でストップされました。
英語よりも、スペイン語の達者の私は、入国管理官の質問に流暢なスペイン語で答えたのが原因のようです。
すると、入国管理官は私のパスポートの履歴を調べだしました。
乗って来た飛行機は、エルサルバドル発グァテマラ経由ロサンゼルス行だったのです。
確かに、この便には一般観光客風よりも、一般中南米ラテンの乗客が多く、移民便とも呼ばれているようです。
「アメリカの入国目的は?」
「日本に帰る乗り継ぎのため」
「今晩のホテルは」
「空港ターミナルのシヒルトンェラトン」
「日本への帰りのチケットは?」
「あれ、カミサンが持っているはず」
その時、カミサンは私より先に入管を通過していたのです。
慌てて、カミサンを探しましたが、ゲートを通過してその先まで行っていて、見当たらないのです。私は、そのまま別室に連れていかれました。
パスポートの入国スタンプにはここ数年行った国が沢山押されています。
キューバ・ベネズェラ・ボリビア・ホンジュラス・ニカラグアそしてイラン、パキスタン、旧ソ連等々。いちいち、何をしに行った、その旅行代金はどこから工面した、日本での職業は?と聞かれるのです。
私は、先ずうちのカミサンを探して連れて来てくれ、と頼むのですが・・・?
帰りのチケットだけでは信用しないと云うのです。
理由を聞くと、最近アメリカ国内に不法滞在するアジア人が急増している。
極東からアメリカ経由中米行の通過チケットで入国して、そのまま不法滞在いる手口が横行している、と云うのです。
私は、今夜のヒルトンのリザベーションコピーがあることを、係官に伝え、電話で確認してくれ、と伝えました。
係官は、笑って「通過偽装でヒルトンに泊まる人間はまずいない、念のために確認してみる」と確認して、ようやく解放されました。ここまで1時間。カミサンはゲート先で半べそかいて待っていました。これいらい、私たちは南米へ行くには絶対にアメリカ経由便を使っていません。
カナダ便或いは、ヨーロッパ廻りにしています。
日本人はアメリカにビザなしで90日滞在出来ます。
よく、TVの旅行番組でハワイに住んでいます。ニューヨークに住んでいますと云う方がいますが、何時も不思議に思うのはこの方たちはどんなビザを持っているのでしょう?
ノービザは一回の滞在で90日です。それでは一度メキシコ国境のティフナに出て、再入国を繰り返せば、ずっとアメリカで暮らせるか?と思う方がいると思いますが、ノービザでの再入国はあいだ90日が必要になります。
退職シニアの間で、年に数か月のハワイ・ホノルル滞在を夢見ている方が沢山いらつしゃいます。ノービザでは3か月過ごしたら一度帰国し、3ヵ月後、再度3ヵ月が原則となるのです。
かように、資金的・時間的に余裕のある日本人でさえも、アメリカに正規に住まうことは難しいのですから、経済的な理由が濃い、今回の難民キャラバンの行く末は難しいものになるでしょう。
2018年11月21日
日産会長、カルロス・ゴーン氏の逮捕
天声人語の執筆は、毎日同じ人物によって書かれていると推測していますが、365日、1年を通じて欠かさずに掲載するには予め、コラム記事のストックがあると思われます。
私たち素人が、ネットでブログ記事を欠かさず更新するのと同じで、ある程度のストックを用意しているのと同じだと私は勝手に想像していますが、前日の夜の10時過ぎの記者会見の後に、これだけの大新聞のコラムを書くのですから、新聞、TVのマスコミは事前にある程度の情報を入手していたのではないのか、と想像するしています。
11月20日朝日新聞朝刊の天声人語抜粋引用
高額の報酬の多寡を問われたゴーン氏は、”グローバル企業のトップの報酬基準は、グローバル市場の基準で、報酬を支払う、必要がある。”と答えている。
「スイカ2つを片手では持ていない」。ゴーン氏の出身の中東のことわざがある。
かの地のスイカは巨大で2つを両手が運ぶのも難しい。欲を戒める言葉だ。
彼の手腕をもってすれば、法にかなうやり方で、望みのままに2倍のスイカを手に入れられただろうに。
日本企業のトップに対するする報酬の多寡については、欧米と日本では意識が違うと思う。
今回の事件?で、私たち団塊世代で思い浮かべたのは、元東芝会長で、経団連での代表でもあった「土光 敏夫」さんである。「ミスター合理化」として、東芝の立て直しに辣腕を振るった。
ひん死の状態にあつた、日産自動車を立て直したゴーン氏と似ている。日産も東芝も立て直しの折には、コストカット、工場閉鎖、リストラなど数々の試練があり、社員・家族・協力下請け会社のなかには、恨み・つらみもあっただろう。
しかし、日本資本主義のトップ経団連会長の「土光敏夫」さんに対する悪評はほとんど聞かれない。それは、ご本人の質素な生活スタイルが日本人の美意識にあるからだろう。
以下はウイキペディアより引用
穴とつぎはぎだらけの帽子。
戦前から50年以上使用しているブラシ。
妻に「汚いから捨てたらどう?」と言われた使い古しの歯磨き用コップ。
農作業用のズボンのベルト代わりに使えなくなったネクタイ。
とりわけインパクトが大きかったのは、妻と2人きりで摂る夕食の風景であった。
メニューはメザシに菜っ葉・味噌汁と軟らかく炊いた玄米。これが「メザシの土光さん」のイメージを定着させた。
経団連会長になってからも通勤には公共のバス・電車を利用していた。石川島播磨社長時代の疑獄事件で土光の捜査を担当した検事によれば、初聴取のため早朝土光宅を訪ね夫人に敏夫の所在を確認したところ、もう出社したという。こんな朝早くにといぶかしむと、「今出たところなのでバス停にいるはずです。呼んできましょうか?」とのこと。
すぐさまバス停に向かうと果たして土光はバス停でバスを待っていた。この時に検事は土光の無罪を確信したと後に述べている。
経団連会長就任後、それまで会長出張の慣例だった「前泊し2泊3日の日程」を全て日帰り出張に変更、地方側からの接待を一切断った。経団連会館のエレベーターも来客用の1基だけを稼動させ残りは停止。高齢ながらも自ら階段を利用して経費削減に努めた。
また、夜の会合を廃止する代わりに朝食会を頻繁に開いたため、朝に弱い財界首脳は困り果てたという。
コストカッターとして、あれだけ大ナタを振るっての日産再建は評価に値する。
あれだけ廻りに、コストカットを要求した裏で巨万の報酬を得て、しかも隠していたとは、日本人的な感情からすれば、知っていた法人としての日産も含め、されない。と云うのは仕方ないことでしょう。
一方、海外で多くの外国人と接してきた経験から、建前を大切にする日本人と違って、本音で生きる、中国・ラテン・アラブ人種からすれば、当然の報酬と考えるのは理解出来ます。
簡単な安易な言い方をすれば、カルロス・ゴーンは日本・日産をなめていたのでしょう。
2018年11月20日
子供いない私たち夫婦は、延命治療について、お互いに話してます。
医療技術の発展で命を延ばすことが可能になった今、救急医療の現場では、かつてタブー視されていた延命治療の中止を実践され始めている。回復の見込みがなくなったとき、家族や患者、医師は生と死のはざまでどのような選択をすべきなのか。長寿社会のあるべき医療について考える。
昨夜のNHKのドキュメントのなかで一番印象的だったのは、100才になる認知症を発症した男性がつぶやく姿です。
「何も自分は特別悪いことをしてきた訳でもないのに、何で神様は、私を100才まで生かすのか」男性は、自分が100才で、世間に迷惑をかけて生きているのが申し訳ないと、言っているのです。いつから日本の世間はこんな、長寿を祝福出来ない雰囲気になってきたのでしょうか?
延命治療をやめる。
具体的現在の病院での延命治療といわれるもの代表は
・人工呼吸器
・人工透析
・胃ろう の3つをあげています。
医師は今、命を失いかけている人間を目の前にして、精いっぱいの処置をする義務は当然あります。しかし、医療技術で、意識のない人間の生命を引き延ばしていくのが、ご本人の為、或いは家族の為になるのか、と云う判断は出来ません。でも、アドバイス、助言、現状及びその先の予測説明は出来ます。
昨夜の番組のなかで、これまで刑事事件として検察の訴追対象だった「患者家族の要請による、医師の延命処置の中止による死亡」について司法の判例では、「犯罪とはみなさい・訴追されない」となったことは、幾らか前進で、従事する医師たちの負荷は幾らかは軽減されたのではないでしょうか?。
確かに、10年前、私の母親(85才中程度の認知症)が冬の寒いトイレで倒れて、救急車で運ばれ救命処置で、何本もの管で繋がれている姿を見て、医師に高齢でもあるし、これ以上の積極的な延延命処置は不要なので、あれらの管・装を止めることが出来るかと聞いた時は、「訴追される恐れがあるので出来ない、ご本人の生命力のある限り生きてもらう。」との回答でした。
あの日から10日ほどで母は意識のないままなくなりました。
今の司法判断では、上記のような医師の躊躇は軽減されていると思いますが、しかし、やはり何らかの形で本人の意思を証明できるものが、必要となってきています。
現在、私たち夫婦はお互いの保険証入れに、意思表示カードを常時携帯しています。
そして、自宅の受けたい医療を家族に伝える「私の生き方連絡ノート」を誰でもが解る場所に置いてあります。
でも、これは60代最後の年2017年、古稀をまえの元気なうちに書いたものです。
実際に自分が倒れ、苦しい時はきっと救急車を呼んでくれと懇願するでしょうし、病院に運ばれた時は出来るだけのことをして
命を救ってくれと、私自身あるいはカミサンが願うのを半分心配し、半分そうなるのではと思っているのが、現状です。
2018年11月19日
かつての私の戦場、桜木町近辺、東横線高架下とみなとみらいを歩く
そして、そのなかの一枚戦後の桜木町駅を良く知っています。私のなかではついこの間までの、渋谷から の東横線の終着駅の桜木町駅の写真です。
横浜博覧会を覚えていますか?
1989年(平成元年)に神奈川県横浜市の現在のみなとみらい21地区で、横浜市制100周年、横浜港開港130周年を 記念して開催された博覧会です。当時私は41才、横浜駅から横須賀線二駅の駅前大開発マンション群の第一号棟に住んでいました。
東京勤務でしたが、世の中、バブルは弾けておらず、今では考えられないのですが、東京の超大型現場を担当しながら 自宅が近いだけの理由で片手間で横浜万博パビリオンを数多く手がけ、終った後は跡地には、雨後の筍のごとく、 オフィスビルが建設されていくのです。
東京の現場をひと回りし、渋谷から東横線急行で向かうのがこの桜木町駅でした。 この国道旧16号線、上を東横線が走る高架下の通路は、当時落書きだらけでした。そしていつしかここは、 グラフィティアートのメッカとも云われるようなっていくのです。
消しても、消しても書かれていく、落書き。
しかし、それも東急東横線の地下鉄化で、この高架は取り壊されるか、保存するかとなり、何時しかこの 桜木町名所も落書きは消され綺麗になりました。・・・と思っていたら、高架下の道路に名残りが残って いました。
写真を撮った後に気が付いたのですが、あれ、この踏切は何なんだろう?
こんなところに、電車は走っていないし、この場所は元の高島町駅あたり、東横線高架前のな残りなのか? それとも、三菱造船の引き込み線の跡なのだろうか?
映画を見に行こうと出かけた朝の朝刊で、この東横線高架下の活用・開発を巡る記事がありました。 横浜市は創造都市構想を打ち出し、アート・芸術での町づくりを進めています。
東横線高架の上は遊歩道として 残し、高架下を若い芸術家たちのシェアスタジオとするプランのテストケースとして、今、先進的な若い 芸術家に、この高架下にブースを貸し出しています。
見学に訪れて若い芸術家に話を聞きました。
何と有料だと云うのです。幾らなのかは聞きませんでしたが、利用価値が決まっていない、ガード下、高架下なんだから ただで貸せばよいものを。
建設エンジニアにとって「横浜みなとみらい地区」は、古戦場なのです。
団塊世代の40代の半ばから50代にかけての働き盛り、日本はバブル景気に沸いていました。
工事部署の責任者として、バブルの象徴と云われた「東京都都庁舎」を側面サポートしながら、 部内のメンバーをこの「みなとみらい地区」のオフィスビルに宛てていたのですが、私より上の年代は次々に、内臓系が原因で 倒れ、入院したり、若手は仕事量のストレスで出勤できないような状況になり、全て責任が私の元に押し寄せて来たのです。 今思い出しても、仕事人生で一番苦しい時期でした。
ストレス退社・病気原因で退社・最悪のケース自死までありました。
あれから20数年、再び横浜駅・桜木町から眺める、みなとみらい地区のビル群は、かつての戦場に散って行った、建設 エンジニアの墓標に見えます。
私自身も、未だに絶対に近寄りたくない高層建築が横浜西口にあります。
あの当時の苦しみ、辛さ、不安感を思い出すので嫌だからです。
でも、あの辛い、嫌な現場があったからこそ、55才早期退職を決意できて、私の今の老後があるのですから、 何時かは、あの建物に入り、最上階のレストランで食事して、この辛い・苦い思い出を消し去りたいと思っています。
2018年11月18日
マイケル・ムーア映画「華氏119」を見に横浜・桜木町へ
関内は、毎月一度は各種サポートがあるので出かけますが、桜木町はなかなか下車しない駅です。 昔、南米に向かう船に乗る為の故郷から出てくる時さいの最寄り駅でした。当時は現在桜木町のシンボルとして 建つ、ランドマークタワーは、三菱の造船所・ドックがあり、懐かしい思い出が詰まっている駅です。
まずは、桜木町のブルグ13で、マイケルムーアの「華氏119」です。 8:50分。一日一回の上映に間に合わせて朝早くからきましたが、観客は20人もいませんでした。
マイケルムーアは確かに、商用・娯楽映画ではなく、メッセージ性の強いドキュメンタリーなのですが、 日一回上映で、観客は十数人とは。それでも上映してくれるだけで感謝しなくては。
私が定期的に映画を見に行く109シネマ湘南は、このようなマイナーな映画は全くやらず、子供向けアニメ・ 荒唐無稽のハリウッド映画、宣伝広告費を何十億と使った超大作ばかりです。
最近、伊勢佐木町の良心的な作品を多く上映してきた小さな名画座も姿を消したばかりです。 自宅から30分以内の場所で、上映していいだけるだけで感謝しなくては。
マイケル・ムーア映画「華氏119」の内容
タイトルの「華氏119(原題:Fahrenheit 11/9)」は、トランプの大統領当選が確定し、勝利宣言をした 2016年11月9日に由来しています。
ムーア監督の代表作であり、当時のジョージ・W・ブッシュ政権を痛烈に批判した「華氏911(Fahrenheit 9/11)」に 呼応するものになっており。16年の大統領選の最中からトランプ当選の警告を発していたムーア監督は、 トランプ大統領を取材するうちに、どんなスキャンダルが起こってもトランプが大統領の座から降りなくても すむように仕組まれているということを確信し、トランプ大統領を「悪の天才」と称する。
今作では、トランプ・ファミリー崩壊につながるというネタも暴露しながら、 トランプを当選させたアメリカ社会にメスを入れています。
アメリカは私たちが思い描く、誰でもが平等にアメリカンドリームを掴むことができる国ではなく、同じ 自由主義・資本主義国家のなかで最も、貧富の格差、人種による不平等がまかり通っている国、国民皆保険がなく 、国民の健康は全て、大資本の保険会社、製薬会社、そしてそれらの企業から莫大な資金援助をうけている 共和党・民主党の政治家たちの手に委ねられていると告発しています。
それでも、アメリカは偉大なのかも知れません。
このような政府・大統領を告発し、莫迦にする映画を撮る監督でいて、それを上映できる資本・国民が 存在するのですから。 見終わって・・・「日本にそんな映画監督がいるか?、製作費を出す企業家はいるか?」