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2019年12月23日

イギリスコンテナ死亡事件 日本に来ていたベトナム実習生の死

日曜日の朝日新聞社会面トップで、先月、イギリスで起きたコンテナ内で39人死亡した不法移民のなかに、昨年まで神奈川の食品工場で実習生として働いていたベトナム女性がいたこと、彼女の仲間と一緒に撮った画像と、原稿用紙のマス目のなかに丁寧に書かれた日本語のひらがな、と漢字の文章のが掲載されていました。
狭い、空気が徐々に薄くなり呼吸が苦しくなるなか、家族に送ったメールが残っていたようです。記事を読んでするだけで、私自身が苦しく覚え、目頭が熱くなります。
そして、思い起こしたのは、2週間前の鎌倉の日本語支援のボランティア団体が主催した、クリスマスパーティで出会ったベトナム人実習生の若者の姿です。

12月17日ブログ記事引用

ここ数年、このつどいのパーティに多く見かけるようになったのは、ベトナムから若者です。
主に、藤沢近辺の工場で技術研修の名目で働く3年間限定の実習生の若者です。
私は、退職後何回もベトナムを旅していますので、パーティの会食の時間、大勢のベトナム実習生の皆さんとお話しました。
昔、50年前の日本では、皆さんと同じような年代の日本の若者は、実習生と云う名で、アメリカ・カリフォルニアの苺畑で、メキシコからの労働者として一緒に働いていたこと、そして、まだ経済発展途上だった日本に戻ってきた、日本人実習生の半分は、再び、アメリカ、カナダ
ブラジル・アルゼンチンへ旅だって行ったこと等を彼らに話しました。
彼らも、3年間の期限でいったんベトナムに帰国するけど、再び日本で働きたいと云います。



この席で、私は1960年代後半の日本の若者の話をしました。
東京オリンピックが開かれて1964、昭和39年、当時のドル/円レートは360円、私の高校時代のアルバイトが1日500円(1.3ドル)高卒初級国家公務員の初任給は14,000円(38ドル)と、発展途上国レベルであったことを話し、当時は一般庶民が海外にでることは、今のベトナムよりも難しかった。
海外旅行が自由化されたのも、このオリンピックの年で、一部の超富裕層だけのものだった。
そんな時代でも、アメリカに旅立った多くの若者がいたことを話しました。
今のベトナムの若者が、名目上、先進技術習得の実習生とよばれ今、日本に来て働いているように、60年代後半から派米青年と云われる人たちがいた。

公益社団法人国際農業者交流協会

(英語名 The Japan Agricultural Exchange Council 略称:JAEC)は昭和27年に設立した社団法人国際農友会と昭和41年に発足した社団法人農業研修生派米協会が農業研修生海外派遣事業等の充実強化を図るため解散統合して、昭和63年3月30日に設立されました。
その後、公益法人制度改革により平成24年4月1日公益社団法人へ名称変更を行いました


https://www.jaec.org/summary/intro.htm
元々は、日本の農業を担う若者を海外へ派遣し、最先端の農業技術を学んでもらう為の、政府系の組織ですが、実態はアメリカ・カルフォルニアの日系農場への出稼ぎ斡旋でした。
当時、カルフォルニア日系農場は、白人農家は、高く売れるが、手間、人手がかかるイチゴ栽培を敬遠するのを見てメキシコ労働者を多く雇い入れていました。
そこの農場監督者として、同じ日本の血を引き、休日も夜もいとわない、日本の若者の受け皿となったのです。
当時の時給は1ドルでした。残業すると1日10ドル、1か月250ドル、日本円で90,000円は当時の高卒国家公務員の6.5倍、それも、寝場所も食事も日本・アメリカ間の船賃(JAEC負担)も全て無料、遊びたくても街から離れた農地ですし、まだ人種差別色が濃く残っているアメリカの街中に行く勇気もなく、連日メキシコ人労働者と過ごしているうちに、英語よりもスペイン語が上手くなっていったそうです。

ストロベリーロード
この頃の派米青年や日系人農場を描いた小説があります。
横浜出身の作家石川好の「ストロベリーロード」です。
私と同じ団塊世代、彼は派米青年制度ではなく、幼い頃別れた実兄がアメリカで暮らしているのを頼って渡米し、兄のイチゴ農場では働いていた当時を後に帰国して小説化したものです。
当時、日本の若者が労働者として働いていたのは、アメリカだけでは有りません。
ドイツの炭鉱でも大勢の技術研修と云う名目で日本の若者が働いていたのです。
参考資料:
ドイツの炭鉱で働いていた日本の若者
1950年代から60年代の半ば、東京オリンピック当時の日本は、開発途上国だったのです。

その後、これらのどうなったか?
ドイツの炭鉱で働いていた多くの若者は、政府の思惑どおり帰国してからは、日本の炭鉱の技術者として活躍したようです。
では、地方の農家出の派米青年はどうなったか?
私が彼らの存在を知ったのは、南米、ブエノスアイレスでした。
多くの派米青年は、一旦日本に戻ってきましたが、海外に暮らし、日本の何倍もの給与を手にしてからというもの、経済格差を痛感し、再び自分の将来の人生設計を、海外の地に求めて、旅だっていったのです。

は、日本語ボランティア主催のクリスマスパーティで出会った、ベトナム人実習生に、これらの日本の若者の歴史を話し、君たちの何人かは、かなり高い確率で再び海外にでることを模索するようになる。
何処の国ほ目指すかは分からないが、一度働いたことのある日本に来ることに備えて、お金を貯めることも大切であるが、一番は大切なのは、日本語をマスターすること、次回日本に自力で来日する際、正規の労働ビザを取得するには、企業の面接で重要視されるのが日本語能力であると、話し、併せて、3年間の滞在中に、積極的に日本の友人を造ることを薦めました。

このクリスマスバーティの時、私は、イギリスで起きたこの悲惨なコンテナ事件を知りませんでした。そして、12月22日の朝日新聞で39人の犠牲者のなかに、私の住まいの近くの神奈川県で働いていた、女性実習生がいたことを知りました。
彼女も昔の派米青年と同じく、一度、海外働いてから帰国し、再び海外を目指して、不幸な状況に陥ってしまったのです。

彼女の元同僚日本人の話が掲載されていました。
「もう一度日本に来れば良かったのに、正規労働ビザで」
posted by 西沢 at 08:17| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月21日

ショック! 若者に席を譲られた、俺ってそんな年寄りか?

別府旅行から羽田空港に戻り、京急を乗り継いで横浜駅から自宅に戻る為に、かなり混んでいた東海道線に乗車し、つり革に手をかけると、座っていた若者が席を立ち、席を譲ってくれました。
カミサンと二人、旅行鞄を持っていたからでしょうか?、一瞬躊躇しました。
俺って、そんな年寄りに見えたのか?
確かに団塊世代の71才は、高齢者には違いなく、長旅で疲れていたのは間違いないのですが・・・、カミサンはありがとうございます、と云ってしまったので、二駅13分の距離ですが、座ってしまいました。
しかし、下車駅まで心中穏やかではありませんでした。

これまで、私自身は経験はありませんが、同じような体験を見ています。
数年前、私よりも5才上の友人と一緒に電車に乗った時、目の前の若者が、当時72、3才の友人に席を譲ったのです。
彼は、齢相応の白髪なのですが、元大手広告代理店のアドマンで、服装もかなりカジュアルです。一般的な、お年寄りの部類には入らないと、私も、彼自身もそう思っていたのです。
ここで、断るのも相手に失礼なので、彼は座りました。
そして、二人で鎌倉駅で降りた後、彼は憮然とした表情で無口でした。
俺って、そんな席を譲らなくてはいけない衰えた年寄りに見えるののだろうか、私に云いました。「まあまあ、そんなに怒らないで、相手の好意を素直に受けられる大人なんだから」と60代半ばの私はそう言ったのを覚えています。

もう一回、似たようなケースがありました。
2年前、ガン末期の長兄と一緒に最後の思い出造り観光旅行に行った先の温泉宿での出来事です。
長兄と双子の次兄と3人で宿の露天風呂に入っていた時、かなり体力が衰えていた長兄が湯舟からあがる時、少しよろめいて湯舟に尻もちをついた時、同じ浴槽にいた男性が、「おじいさん、大丈夫ですか?」と手を差し伸べたのです。
一緒にいた私と、次兄は、「ありがとうございます」とお礼を言った後、双子の同い年の俺も「おじいさん」なのか!とかなりショックな様子でした。

最寄駅で降りる時、カミサンは譲ってくれた若者に「ありがとうございました」と挨拶をしました。私とは云うと、軽い会釈をして下車しました。
まだ混雑している車内で、素直に感謝の言葉が云えない自分がいました。
確かに、旅で疲れていたとは云え、たった二駅の間、71才の体力では今までと同じように、立って電車に乗っているのは、全く普通のことなのに、反って心情的には負担になったのは間違いないことだったのです。

これまででも、JR東日本のシルバーシートに座るのは抵抗がありました。
団塊世代の71才は、確かに行政上では「高齢者」かもしれません。医療保険割合も2割負担ですから、立派な高齢者で、日本の社会保障制度上では若い現役世代からの仕送りで、年金も医療費も賄っているのですから、感謝しなくてはいけないのでしょうが、まだまだ、もつとお年寄りで、シルバーシートを必要としている、社会保障がなくては生活に苦しい方々が沢山いるのに、
とてもでは有りませんが、自分自身若いと思っている団塊世代の私たちは、シルバーシートには座れないのです。

しかし、若い女子高生が混雑した電車内のシルバーシートに座っているのを見ると、わざわざその前に立ってやりたくはなります。
お前ら、学校とは云わないが、家庭内、両親から何を教わっているのだ、とついつい云いたくなります。
今回の大分旅行中では、沢山のローカル路線バスに乗りました。
地方のローカル路線バスは、必ず、その地方の中核病院を廻りますので、多くのお年寄りが必ず乗車してきます。
観光地では、そのような路線バスに、多くの若者観光客が乗ってますが、
西欧系の観光客は、目ざとく、遠くの席を立ち、お年寄りに声をかけ、席を譲るのですが、中華系のアジア人旅行者は、座ってスマホに夢中になっているのか、席を譲っている姿は滅多に見ません。
一方、最近増えている東南アジア系の若者は、日本人以上にお年寄りが乗ってくると、席を立つ姿が多い、というのが印象です。
タイとかイスラム系と、経済発展著しい中国本土との民度の違いなのでしょうか?

2019年12月3日は「老人として席を譲っていただいた記念日」として、忘れないようにしようと思っています。

もう一つ、ある記事を見て考えました。

65才以上の人の呼び方と云うタイトル
・高齢者
・お年寄り
・老人
・おじいさん、おばあさん
・実年
・熟年
・シニア
・シルバー
皆さんはどれが相応しいと思いますか?



大きな意味での世代全体層に対しての言葉と、個人に対しての言葉では違いがあるでしよう。
今のご時世で、72才になろうとしている団塊世代全体にたいしてなら、「シニア」で構いませんが、一個人にたいしてでは、全て、お断りします。
「もしもし、そちらの方」 「そちらの男性」でいいじゃないですか!
posted by 西沢 at 08:42| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月19日

前立腺がんの疑いによる生体検査、二泊三日の検査入院記録

一か月前
15年前(56才の時)、初めての前立腺腫瘍マーカー検査PSA値が基準値4を上回る7で、第1回目の生体検査をしました。
この時は、一泊二日、その時はがん細胞は検出されませんでした。
その後、四ヶ月おきにPSA血液検査を受けてきました。
二年後にPSA値が10を上回り、再び生体検査の為に検査入院し、結果はがんは検出されませんでした。PSAの値は、前立腺肥大でも上昇するのです。

5年前、2014年の定期PSA検査の値が15になり、3回目の検査入院、この時もがん細胞は検出されませんでした。
その後、4ヶ月置きのPSA検査は継続してきてPSA値は13〜15の高値安定で変化しませんでした。
一般的にPSA15と云う値はかなり高く、ヤバイ状況なのですが、前立腺肥大により値が高くなる例もあり、担当ドクターは10数年来のお付き合いもあり、様子を見ましょう、で経過してきました。今年7月、値は20になり、次回の検査で下がっているかもしれないので様子を見ることになりました。
11月のPSAの値は24と続けて上昇していたので、12月に第4回目の検査入院となりました。
今まで、一泊二日だったのが、今回からは二泊三日となりました。
病院側の説明では、「侵襲的手技」による患者の安全・感染の為と説明しています。
この日に、入院前のデータとり、胸部レントゲン・腹部エコー・心電図等

一日前
事前に提出する書類を書く
・検査同意書兼鎮静(麻酔使用)の同意書
・入院申込書
・転倒転落アセスメントシート
事前に用意するもの
・上履き
・T字帯
・生理用ナプキン
・洗面具・着替え
・寝巻(病院側のものを使用しない場合)
食事は前日10時まで

当日一日目
10時に日帰り手術センターで受け付け。
手術着に着替え、T字帯を付けます。
検温・点滴(血管の確保)・ネームバンドの装着(退院まで)
看護師よりの問診。
歩いて手術室へ、笑気と静脈による麻酔であっという間に眠りました。
検査手術は15分で終了、気が付くと元の集中管理室のベッドの上でした。
おしっこをしたいのですが、2時間はベット安静の為、ベット上で尿瓶にするのですが、麻酔の影響で、排尿は困難です。
頑張ってした最初の尿にかなり大きい血のかたまりが見え、看護師に報告しました。

2時に昼食、意外と美味しく食べれました。
4時に、歩いて14階の病室へ、3人部屋(トイレ・バス付)、富士山が見える南西の角部屋です。
この日、前立腺生検を受けたのは、私の他2名いました。
一人は81才、初めての生検で直前のPSAは30とのこと。
もう一人は、61才、初めての生検のようで、PSAの値は聞きませんでした。

30分置きに、強烈な尿意、トイレに入っても麻酔の影響でなかなかおしっこは出ません。
10分、便器の前で踏ん張って出てくるのは、最初は血液で、便器は真っ赤に染まります。
生検が初めての人でしたら、びっくりしてしまうでしょうが、4回目で慣れています、ドクターによると、血尿が停まらなかった人はいないそうです。
20分かけて、何とか排尿、これが朝まで続くので、寝不足になるのは当たり前。。

大きな3人部屋とは云え、ドクター・看護師とのやり取りは全て聞こえてくるのです、どうやら私だけのようで他の二人は、スムーズにでるようで、血尿はほとんどない様子で、何回もトイレに立つ気配が有りませんでした。
私の場合、前の3回も同様で、ちょっと他の二人とは違い、彼らには前立腺肥大の影響でのPSA値上昇ではないのかと考えました。

2日目食事は昔の病院と比べて、朝・昼・晩、一般社会と同じ時間帯に、暖かい食事が出ます。
今回の私の場合、血圧が少し高めでなので低塩食1日5.9グラム塩分、1800kcal、普段から塩分控えめ、野菜多めの食事ですから、人が云うほど味気ない食事でもなく、美味しく食べれましたが、入院前の体重が0.5キロ増えていましたのでご飯は半分残しました。
退院後自宅の体重計に乗ると、3日間の食事で600グラム痩せていていました。

前夜は尿意とトイレの立て籠もりでほとんど寝不足状態。
4年前の鼠径ヘルニア手術入院の際に余っていたテレビカードの残が400分ほど余っており、イヤホンもその時のものを持って来ていたのでテレビを見て過ごそうと思っていましたが、数時間置きの点滴取り換えと尿意でゆっくりとベッドで過ごすのも叶いません。
他の二人には、家族は初日入院時から付き添っており、カーテン越しに会話が聞こえてはます。
我が家の場合、これで4回目の為、カミサンは2日目の午後の面会時間に、甘いものを届けに15分ほど来ただけで帰ります。
専門職で手術室勤務も経験しているので、この程度の検査手術で、行く必要はないと思っているのは確かです。
相変わらず、トイレの便器は真っ赤に染まります。
他の二人と看護師の会話が聞こえてきます。
二人とも肛門に痛みがあるようですが、私は全くなし、何が違うのか?

3日目退院の日
朝、やっと点滴のスタンドから解放されました。
同時に、腕首のネームバンドも切り離されました。
9時に病院は動き出しますので、9時半にはさっさと着替えを済ませ、会計からの連絡を待って退院です。
凡その入院費用は、入院前の説明書に記載されていました。
医療点数は15,820点 158,200円+六食の食事代3,916円 合計162,116円
158,200円の二割負担(70才以上)+食事代3,916円マイナス食事医療費3割 
総合計=34,400の支払いです。
但し、非課税所帯の私の1か月の医療費限度額は8,000円ですから、2ケ月後に差額の26,400は戻ってきます。

病室は広く、清潔で快適な環境であり、読書室もあるのですが、やはり閉鎖空間に間違いありません。
10時過ぎに外に出ると、冬の青空が広がっています。
湘南鎌倉総合病院の目の先には鎌倉で一番大きいショッピングモールがあります。
ここでは、普通の人々、主婦、青年、子供たちが歩いています。
やはり、健康が一番と痛感する瞬間でした。

4日目の自宅でも、まだ血尿は続いています。
生検の結果判定は10日後です。
他のお二人の状況と私の術語の状態はかなり違っており、前立腺肥大による高値も考えられますが、値からしてガン細胞が検出される確率は高いのは間違いありませんが、そうなったらそうなったらで仕方ないと覚悟しています。
後は、ガンが前立腺で留まっており、骨に転移していないのを願うしかありません。
検査結果を聞く日、カミサンは一緒に行く?と聞いてきましたが、いいや一人で聞くと断っています。
なんで・・・、一人にして欲しいのです。
posted by 西沢 at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月17日

外国籍の子供たちに日本語を教える鎌倉のボランティア団体「日本語コスモス」



毎年、12月のこの時期、10数年に亘ってホームページ支援をしている、鎌倉・横浜・湘南にお住まいの女性たちの日本語支援の団体のクリスマスを兼ねた、パーティーにお呼ばれしています。
バーティーの主役は、外国人生徒さんです。
今年は、80名ほどの国籍、年齢様々な生徒さんが、お国の料理を持ち寄って参加していました。
この団体、25年前の1994年に少数の女性有志により設立され、両親と一緒に来日し、まだ日本語がよく理解できない子供たちの日本語課外事業のサポートを支援していました。
そして、日本にくる外国人が増えるつれて、鎌倉・横浜・湘南に暮らす、欧米系の方々への支援と拡大していきました。

この団体が大きく変わったのは、現代表が50代の手習いとして、私が講師を務める「ホームページ講座」を受講して、立ち上げた10年前からです。
ホームページは、英語とこの頃から急速に増えてきた中国からの人達の為に中国語、そして平仮名だけのページを造り、問合せホームも英語に対応したものを造りました。
すると、急激に外国から問合せが増えました。
来日する方々は、事前にボランティア料金で個人的に日本語を教えてくれる団体を探してから、来日するようになっていたのです。

生徒さんが増えるにつれ、日本語を教える先生方も増えてきました。
自然に、団体設立時の女性たちが年齢を重ねていっても、若い会員が増え、やがて、スマホ時代の到来です。
そこで、若い30〜40代の若手女性たちによる、スマホ対応ホームページと、生徒さんたちとのコミュニテイの場としてのフェースブツクを立ち上げしました。
http://nihongocosmos.sakura.ne.jp/
日本に住む、外国人の情報源は、何と云ってもスマホによるものが圧倒的多数です。
このような取り組みは生徒さんに歓迎されています。

日本語コスモスが支援する生徒さんは、年々増え、国籍も変ってきています。
一時期、中国からの引き上げ孤児とそのご家族が多い時期がありました。
ご両親もまたその子供たちも日本語が解らず、住居のトラブルも多数発生したり、子供たちが学校に馴染めず、不登校になったりした時も日本語コスモスの女性たちは、日本語だけでなく、日本社会の習慣、考え方など、きめ細やかに対応しつづけました。
今回のパーティーに、その時の小学生が成長し、まだ日本語に不安な両親と一緒に参加し、大勢の参加者の前でスピーチする姿があり、古くからの先生はそのスピーチを聞いて涙ぐんでいました。

ここ数年、このつどいのパーティに多く見かけるようになったのは、ベトナムから若者です。
主に、藤沢近辺の工場で技術研修の名目で働く3年間限定の実習生の若者です。
私は、退職後何回もベトナムを旅していますので、パーティの会食の時間、大勢のベトナム実習生の皆さんとお話しました。
昔、50年前の日本では、皆さんと同じような年代の日本の若者は、実習生と云う名で、アメリカ・カリフォルニアの苺畑で、メキシコからの労働者として一緒に働いていたこと、そして、まだ経済発展途上だった日本に戻ってきた、日本人実習生の半分は、再び、アメリカ、カナダ
ブラジル・アルゼンチンへ旅だって行ったこと等を彼らに話しました。
彼らも、3年間の期限でいったんベトナムに帰国するけど、再び日本で働きたいと云います。

私は彼らに、日本の会社の面接試験は、どんなに技術や経験があっても、日本語によるコミュニケーション能力を最優先するから、まずはちゃんとした正確な日本語を覚えなさい。
ベトナムと日本の物価格差は5倍と大きいから、貯金するのは当たり前だけど、それだけではなく、日本人の友人を出来るだけ多く作りなさい。
一番良いのは、日本人の恋人をつくれば、直ぐに上達するのだけど、と付け加えました。
又、来年、このパーティーで会おうと約束して今年の「コスモスのつどい」パーテイはお開きになりました。
かれらの日本語がどれだけ上達したか、楽しみです。

パーティーが終わって担当者との間で、来年はスピーチ参加者の国・故郷をパソコン・グーグルマップを使ってプロジェクターで同時にスピーチ者の背景に映す、企画を提案しました。
グーグルマップもしかするとスピーチ者の故郷の街並みだけではなく、住んでいた家も会場の皆さんにご紹介出来るかもしれません。
その為には、言い出しっぺの私は、来年のパーティでも、元気で健康でいなくてはならないようです。
posted by 西沢 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月14日

大分旅行記 別府・杵築・臼杵・湯布院 二泊三日

55才で早期退職して10年間は、海外ロングステイ候補地探し、終の棲家、青い鳥を探す旅に明け暮れいましたが、65才にして
パスポート更新を止め、海外旅行を卒業しました。
それ以降、現在に至るまで国内旅行に切り替え、原則、ひと月に一度、2泊3日二人で予算10万円の旅を続けています。
今年最後の旅は、九州・大分県、別府を拠点に廻ることにしました。

私たちの旅計画では、九州・四国・沖縄はJR列車好きのカミサンですが航空機を使います。
そして、毎年秋から冬にかけての旅は、西日本に向かうことが多い理由は、台風です。
せっかく、旅に出ても雨・風やフライトキャンセルでは、旅が台無しになるからです。
昨年の12月は博多でした。今年は私が昔高校生の時、バツクパツカーとて訪れた大分・別府を54年ぶりに訪れました。

羽田から大分空港へ
今回はANAジャランパックを使いました。
往復のフライトと宿泊ホテル(駅近・デラックスツイーン・素泊まり)を自由に選び、二人で合計72,000円ですが、空港のANAショップで使える
買い物クーポンが4,000円つきますので、実質68,000円です。
羽田発7:50の朝一番のフライトは、関東首都圏でも間に合わない地域があるのかも知れませんが、湘南に住む私たちは、6時台前半の
電車で横浜で京急乗換一本で楽勝間に合います。
大分までの機材は、3プラス3の中型機で、ほぼ満席でした。

大分空港は、意外と別府・大分からは距離があり、高速バスで1時間、1,500円と結構遠いです。
私たちは、直接、今回のホテルのある別府には向かわず、最初の目的地「日本一着物が似合う城下町 杵築」に路線バスで
向かいます。今回、日曜日と平日のバス時刻表を読み間違いてしまい、空港で40分以上の暇な時間が出来てしまいましたが、
何と、空港内に温泉県らしく、足湯があったのでそこで過ごしました。

城下町 杵築を歩く
杵築は国東半島の南、別府湾に面した、譜代32,000石、松平氏の城下町です。
大分空港から路線パスで40分の小さな町です。
大分空港からこの路線バスに乗ったのは、東京から来た一人旅の男性と私たち夫婦二人だけでした。
この男性とは、今回の旅の先々で出会うことになりました。彼は元大手旅行会社の添乗員をやっていたようで、旅行好きの私たち
話が尽きませんでした。
杵築は大きな谷間が町の中心にあり、坂の多い町です。
至る所に、趣のある坂が多く、この坂の風景と着物が似合う城下町として、古い街並みや城下町ファンの間では有名な町なのです。

名物料理に興味がない私たち夫婦
小さな町ですから、1時間もあれば主な坂や屋敷は回れます。
ここから別府に向かう路線バスは本数が少なく、観光が終わってもまだ1時間近く残りましたので、ここでお昼にしました。
観光地の食事は「高い」「名物料理にうまいものなし」は常識で、大観光地「鎌倉」に住む私たちは痛感しています。
今回の旅から戻ってきた時、カミサンの友人の鎌倉婦人から、この季節の大分なら「関アジ、関サバ、ふぐよ、食べてこなかったの」と
云われたそうです。毎月毎月、日本中を旅している私たちは、そんな贅沢な食事が出来るほどの予算もなく、ましてや元来、食に興味が
ないのです。バスターミナルの近くに、定食屋さんがあつたので入ってみました。
メニューをみると安いのです。頼んだのが「ころ鯛の煮付定食」税込み700円です。
ころ鯛がどういう魚なのかも知らない、値段で注文したので期待は全くしませんでしたが、でてきたお料理にびつくり大きなタイの煮付でした。
今回の旅は幸先良い、鎌倉をはじめ日本の観光地の食堂、レストランも見習えよ、と思いました。

別府で行きたい所は「湯けむり展望台」
別府は私も、カミサンも二度目です。
駅から徒歩10分のシティホテルにチェックインした後、向かったのは地獄めぐりではなく、2000年にNHKが視聴者からアンケート募集した
21世紀に残したい日本の風景の第2位にランキングされた、湯の町に立ち昇る湯けむりが一望できる風景の地です。
事前に、ネットでこの住宅街の真ん中にある小さな公園への行き方を調べておきました。
ネットでの情報を持つて、駅前観光案内で確かめると、確かにこのルートで行けるけど、最寄バス停に行くバスの本数が極端に少なく、
おまけに、展望台までは登りの急坂を20分登ることになるから、こちらのルートと勧められたのか、別府の大観光地、地獄めぐりの拠点鉄輪
から歩くルートでした。
ネット情報よりも、現地の観光案内所を学びました。

2日目 城下町 「臼杵」へ
臼杵は別府から大分先、JR各駅停車で一時間の城下町まです。
昔、高校2年の春、バックパックを担いで、この石仏を見に来た思い出の地を、今回カミサンと訪れました。
天気は予報と違ってかなり怪しくなり、傘を持参の旅となりました。
各駅停車車内は平日の朝なので、通勤客、学生で大分までは東京の電車並みに混んでいましたが、大分を過ぎると、2両編成になり
乗客は私たちを含め、3人でした。その一人は、大分空港で杵築行きの路線バスを待っていた、あの男性でした。
臼杵駅に到着し、臼杵石仏群まで行くバスまで90分ありますので、城下町「臼杵」を歩くことにしました。
臼杵藩は春日野局につながる稲葉氏が藩主の65,000石の小さな外様の藩です。
天守閣は残っていませんが、広大な城跡の石垣が見事なのと、古い街並み、美しい三重塔が残されています。
ちょうどこの日、臼杵市内のお寺さんによる、托鉢が行われていました。
少し雨が降ってきて、観光客は私たち夫婦と、ヨーロッパ系白人老ご夫婦の二人だけでした。
後から知ったのですが、臼杵の見所の一つとして、隣駅「上臼杵」は日本最古の木造駅舎だそうで、寄るべきだった後悔してます。

臼杵石仏群へ
臼杵石仏群へは1時間に一本の路線バスで20分ほどです。
このバスの乗客も先ほど街中で知り合ったヨーロッパ系白人老ご夫婦だけでした。


古園石仏大臼杵石仏とは
日如来像に代表される臼杵石仏(磨崖仏)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたと言われています。
その規模と、数量において、また彫刻の質の高さにおいて、わが国を代表する石仏群であり、平成7年6月15日には磨崖仏では全国初、
彫刻としても九州初の国宝に指定されました。その数は、60余体にもおよび、このうち59体が国宝となりました。
石仏群は4群に分かれ、地名によって、ホキ石仏第1群(堂ヶ迫石仏)、同第2群、山王山石仏、古園石仏と名づけられました。
それぞれに、傑作秀作ぞろいであり、表情豊かな御仏の姿は、みる者の心にやすらぎをあたえてくれます。
また、平成29年3月には古園石仏郡の手前右側の岩壁に刻まれた2体の「金剛力士立像」が、国宝に追加指定されるという内定が出されました。
これにより、臼杵石仏(磨崖仏)は合計で61体が国宝となりました。


ここまで、杵築城町、湯けむり展望台、臼杵城下町と観光地を歩いているいましたと思っていましたが、観光客の姿はまばらだったのに、この石仏
入口駐車場には何台もの団体観光バスで停車していました。クラブツーリズム・阪急の旗が見えました。
昔、高校生の時に来た時は、野づらの崖に彫られたままの石仏は、今や屋根に覆われ、道も階段も整備された大観光地と化していました。

旅の三日目 初めての湯布院へ
今回の大分の旅のなかでカミサンが一番期待していたのが、湯布院でした。
アジア系の観光客や、日本の若い女性で大人気の観光地であり、カミサンの大好きなお土産物購入の楽しみの地なのです。
私と云えば、大分旅行の1週間前から毎日、ネツトの天気予報を眺めており、今回の3日目は確実に晴天と期待していたののですが、確かに出発
地点の朝の別府駅前は晴れ模様なのに、バスが湯布院高原に近づくにつれ、怪しくなり遂に、湯布院に到着した時は、みぞれ模様の天気となりました。
湯布院は、関東で云えば、軽井沢のようなところです。
湯布院の街中は、軽井沢で云うと旧軽通り、湯布院の見所の一つ「金鱗湖」は軽井沢で云うと「雲場池」です。
しかし、12月第一週、雨みぞれ模様の高原、湯布院ではマフラー・手袋・厚手のダウンジャケットでも寒く、観光どころではありません。
観光案内所では、ストーブが焚かれていました。

九州の軽井沢的なところです。
それでも、アジア系外国人観光客、特に女性はめげずに食べ歩いています。
ここでも、湯布院行きのバスの出発地別府駅西口で、私にバスのことを訪ねてきたシンガホールの二人連れの女性たちと会いました。
湯布院の街中は、アジア系外国人女性をターゲットとしたお店もが多く、このトトロをテーマにしたお店では、写真撮影待ちの行列が出来ていました。
彼女らに、ちゃんと冬支度してきているけど、シンガボールで不要でしょ、どうするの?と聞くと、毎年、日本の冬に来ることを楽しみにしているので
全然無駄ではないとの返事でした。
彼女によると、この街を歩いている一見中国人と思える人の大半は、台湾・香港・シンガポールだそうです。
分かるの?と聞くと、だいたい雰囲気と、服装、お化粧で解るそうです。
日本人と韓国人は違いは解る?と聞くと、全く解らないそうでした。

別府の公衆浴場にお試し入浴
あまりも寒いので、二本早めのバスで別府に戻りました。別府はピーカンの晴天でした。
後は空港に行って帰るだけなのですが、まだ時間が3時間も余ってしまいました。
そこで、来た時から気になっていました宿泊しているホテル前にある、市営温泉・いわゆる大湯、銭湯に行って見ることにしました。
料金は100円、シャンプーも石鹸もタオルもなく全て自分でもっていかなくてはなりませんが、ものは試し、話題作りと時間つぶしに入ってみました。
別府の湯は無色透明・匂いもなく、普通の銭湯とおなじです。
湯舟はぬる湯と熱湯に分かれていました。試しに熱湯にチャレンジしましたが、熱いのが好きな私でも、足をいれただけで降参です。
湯上りに、冷たいコーヒー牛乳を片手を腰に当てて、ぐいっと飲んで、今回の大分の旅は終わりです。
posted by 西沢 at 08:10| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月12日

今、ここにある危機は、8050ではなく「7040問題」 自立しない息子、戻り娘

元エリートトップ官僚による、わが子刺殺事件の公判ニュースが1日TVニュースを賑わかせていました。ワイドショーではこの事件を「8050問題」に紐付けて話題にしていました。が・・・
ちょっと「8050問題」とは違うのでは・・・
「8050問題」は、80代の両親の年金をあてにする同居の50代の子供との生活、どちらかと云うと主眼は経済問題・介護問題であり、定年退職半ば或いは、これから定年後の生活設計をする世代からみれば、もうちょつと先の話かもしれませんが、私たち団塊世代及び、退職直前・直後の世代が今、直面しているのは「7040問題」、自立しない息子、出戻り娘と孫の問題です。

8050a.jpgよそのお宅の内情は良く解りません。
私の親族の実際をみると、兄74才は伴侶と44才になる長男と一緒に暮らしています。
地元の高校を出て、二浪して埼玉の名前だけは箱根駅伝で知っている、三流大学を出ました。
ちょうど就職氷河期でした、二浪で同級生と2歳の差があったのが原因かもしれませんが、学生時代アルバイトをするでも、サークル活動するでもなく、一人でいることが多い子供のようでした。

私は子供がいないので、兄の家の教育や子育てについて、何かや云える立場ではありませんが、二浪はよくないと反対したことがあります。
その受験する大学が二浪する価値、ブランドがあるなら別ですが、名前は箱根駅伝で知られるだけの大学で就職時に苦労すると云いました。
そして、18才時の年齢差についても話しました。成長してからの年齢差さして大きな障害にならないが、大学入学時の18才と20才の差、違いは大きく、友人関係に大きく影響するということを兄に話しました。
兄はまじめな性格で、高卒で地元の中堅企業に就職して、一度も生まれ故郷から離れたことも、一人暮らししたこともない人です。
息子の高校の成績がどの程度のものなのか、良く理解していないようで、息子の云う「井の頭線沿線のアパートに住み、東京六大学の大学に通う」夢を信じ続けていました。

3年生の夏、その子を自宅に呼んで、日本の会社、組織、職場、職種、経済構造等について彼に説明しました。そして、私はこの子に、
・お前は営業職には向いていない
・実業、つまりモノづくりのメーカーへ行け
・メーカーも直接、消費者と対応する品物ではなく、プロ同志の品物が良い
・絶対に、物体のないものを扱う業種、所謂「虚業」へは行くな
と話したのですが、結局この子は、十社以上受けてすべて不採用、で入ったのは、誰でも採用する、商品先物を扱う会社でした。
この甥っ子の性格からして続くはずもなく、1年で辞めて実家に戻り、それ以降は派遣の生活です。
近所に住む同級生が次々に結婚し、家庭を持つ生活を始めるようになってからは、付き合いもなく、派遣切りから、正社員を目指すもあるのは、名前ばかり居酒屋店長のような仕事ばかり、少しづづ生活はネットのなかだけの引き籠もりの生活になっていきました。

兄も、義姉も心配して、一度実家を追い出し一人生活をさせたのですが、最終的にはアパートの家賃延滞で実家に引き取り現在に至っています。
性格的に両親に暴力をふるうような子ではないのですが、義姉の母親は、自分たちが亡くなった後のこの子の将来が不安で、夜も眠れず、痩せ、体調を崩した生活になっています。

カミサンの甥っ子も3人います、3人とも未婚で両親と一緒に暮らしています。。
カミサンに云わせると、少なくとも3人とも、正確は温和で、一人は一部上場機企業、一人は小規模企業、一人は派遣で働いているだけ安心と云っています。

私の同世代の廻りには、このような自立しない息子が沢山存在しています。
同時に多いのは、離婚して孫と一緒に出戻った娘さんと一緒にくらしている家庭です。
今は私たちの世代70代前半は、健康面も経済面も安定しているうちは良いのですが、恵まれているという年金生活でも、夫が亡くなった後の年金収入が減った時の経済的な問題を真剣に考えている家庭が良くないのには、ビツクリします。
そして、やがてやってくる介護時代には今云われている「8050問題」は、確実にやってくるのは間違いない事実なのです。

neg02.jpg私は、7040問題、8050問題の対処・対応の一つ大きな鍵は、経済力だと云ってきました。
お金で幸せは買えない・・・は当たり前の事実です。
でもお金は少なくとも、不幸せ、嫌な事、不安の一部を軽減することは出来るのです。
今回の元官僚トップの家庭では、この経済的な問題はないでしょう。
では何か、親の教育、子供の育て方が間違っていた・・・のか。
子供のいない、私たちが他所の子の教育について云える立場ではありませんが、あまりにも子供の自主性に期待、頼っていたのではと、自分の廻りの自立しない息子、出戻り娘の家庭を見て思っています。

TVのコメンテーターは、家庭内の問題ではなく、社会全体の問題として対処すべき、と答えています。それは、必要かもしれませんが・・・民間のNPOと云うと何でも無償で対処、対応、解決出来ると思っていませんか?
NPOと云っても、ただ税制面で優遇されているだけです。
問題を民間のボランティアを基本としたNPOに丸投げしているだけでは解決できません。
古い考えかもしれませんが、学校教育・家庭内教育・地元コミュニテイの果たす責任が一番大きいと私は考えています。
posted by 西沢 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月10日

12月8日の太平洋戦争開戦の日、真珠湾トラトラトラの日

今時の世、「12月8日」、「トラトラトラ」の文字を目にして日米開戦、真珠湾を思い起こすのは私たちの世代まででしょうか?
「トラトラトラ」は映画のタイトルです。
『トラ・トラ・トラ!』(Tora! Tora! Tora!)は、1970年に公開されたアメリカの戦争映画です。
1941年12月の大日本帝国海軍による真珠湾攻撃をめぐる両国の動きを題材に据え、日本との合同スタッフ・キャストで制作され1970年のアカデミー視覚効果賞を獲得した名作です。
ハリウッドの戦争映画としては、珍しく、この世界大戦の発端を日米両国の視点で描いています。
1970年のこの映画を、私は、当時住んでいましたブエノスアレスの映画館でみました。
スクリーンでゼロ戦がアメリカ戦艦アリゾナを撃沈するシーンなどで観客は固唾をのんでシーンとしてみているのですが、アメリカ側の飛行隊が、ゼロ戦を撃墜すると、映画館内に拍手があがったのを、今も鮮明覚えています。
「トラトラトラ」とは、真珠湾攻撃隊が連合艦隊へ送った暗号通信で「我奇襲に成功セリ」の意味でした。

2019年、12月8日朝日新聞の「天声人語」コラムでは、この日に合わせ、文豪であり、非戦論者・平和主義者である「武者小路実篤の開戦前の日米戦争にいだく危惧と、開戦後に発表した高揚した気持ちの言葉について書いていました。
時代に流される・・・、マスメディアの迎合に警鐘をならしています。

この日の天声人語を書き写しながら、私は別の想いでいました。
改めて、昭和16年、1941年、自分の両親はこの時、何歳だったのか、気になったのです。
それは、私が71才、父が亡くなった年齢になったからが大きな要因なのは間違いありません。
何時かは、自分史ではなく記憶の整理しておかねばならないと、常々いたのですが、このコラムを機会に、先ずは単純な年齢年表原稿を造り始めました。

両親の誕生年
父 大正05年 1916年 誕生
母 大正10年 1921年 誕生

昭和16年 1941年 太平洋戦争勃発 父は25才 母20才でした。
父は日中戦争当時から召集され、肋膜炎を病んで、開戦当時はどうやら国内に居たようです。

昭和18年 1943年 両親の結婚 父27才 母22才
第二次世界大戦真っ最中の結婚のようで、結婚式の写真は何も残っていませんでした。
代わりに、軍帽をかぶったまま白衣姿の病院内の写真が残っていました。

姉誕生 昭和19年 1944 4月生 父28才 母23才
姉は戦中派と云う言葉を嫌います。この年、アメリカ軍はサイパンに上陸してきています。
続いて、グアム、レイテに上陸、本土空襲が始まった年です。

兄誕生 昭和20年 1945 7月生 父29才 母24才
終戦の前月に双子の兄がうまれています。

終戦 昭和20年8月 1945  父29才 母24才
終戦の年、父29才。今の私たちの感覚では、まだ青年盛の年齢

私誕生 昭和23年 1948  父32才 母27才の時でした。
終戦の混乱、食糧不足が続く中、4才、3才の双子、0才の4人の子供と病弱な夫を抱えた母の窮状を察します。

父、結核療養所入院 1954 父38才 母33才 私6才
父はどうやら病弱のようで、戦中に患った肋膜炎が当時まだ不治の病と云われた、肺結核に発展したようです。
私の微か記憶のなかで、まだ小学校に上がる前に、父が結核専門療養所に入ったのを覚えており、町のはずれにある松林に囲まれた国立療養所に、母と父と幼い私が映った写真が残されていました。改めて、こうやって年表にしてみた時、父は38才から44才、男盛りの時代を結核療養所で過ごしていたのです。
33才と云う女ざかりの妻と、4人の子供を残しての療養所生活の無念さ、やるせなさ、焦り、嫉妬、妄想は今となって解ります。

父結核療養所退院 1960 父44才 母39才 私12才
退所してからの我が家の家庭は、毎日夫婦喧嘩が絶えない日が続いていました。
家業の青果業は父のいない間に、母親は車の免許を取り、子供4人を養うために一生懸命に働いていました。
療養所を退所した父の居場所はもうなかったのです。 あの当時母はまだ30代だったとは。

東京オリンピック開催 1964 父48才 母43才 私16才
私は高校二年生、近所の美容院のカラーテレビで開会式を見たのを覚えています。

高校卒業 1966 父50才 母45才 私18才
当時の地方の大学進学率10%、10人の一人程度でした。
私の家の経済的環境から大学進学は無理でしたが、さるカトリック系の神父さんに誘われて、スペイン語系大学にはいりましたが、1年後中退します。

横浜港出航 1968 父52 母47 私20
幼いころからの夢だった海外、南米ブエノスアイレスに旅立ちました。
港には、父・母・兄・姉が見送りにきていました。
船が岸壁を離れても長い五色のテープが手元に残っていたのを覚えています。
不思議に悲しみはなく、やっと日本を出発出来るという嬉しさだけでした。

日本帰国 1975 父59 母54 私27
27才の春、電子系の専門学校で学び直すのを目的に帰国しました。

結婚 1978 父62 母57 私30
結局、結婚によりアルゼンチンへの帰国を断念し、日本での生活の道を選びました。
結婚式当時、父62 母57と若かったのです。

父亡くなる 1987  父71 母66 私39
父は、動脈瘤破裂で一晩でなくなっています。71才、今の私と同じ年齢です。
葬式のお棺を閉める時、母は棺に抱き着いて号泣していました。
私の知っている母は、肝っ玉母さんで、子供頃から、お前たちが成長したら父と父別れる、常々言っていた子供から見れば、夫婦仲が険悪だったはずなのに・・・、
子供には解らない、夫婦の絆というものをこの時初めて知りました。

母を偲んでビデオ映像 1991 母70才
父が亡くなって4年後の母の姿が動画で残っています。この時の母はな、まだ70才だったとは。


母亡くなる 2007 母86才  私59才
多少認知症の軽い症状が見受けましたが、寝たきりにはならず、信州の寒い冬の朝、トイレに座ったまま母は逝きました。

12月8日の開戦の日を機会に今まであやふやだった、両親の年齢と71才になる自分の年齢を重ねた記録です。こんなものを記録しようとしている自分は、今週末に予定している検査入院のせいかもしれません。
posted by 西沢 at 07:45| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月08日

定年後の夫婦二人の人生、どう生きるか 小説「55歳からのハローライフ」

村上龍の5作品からなる短編集、旅先での車内で読む本をブックオフで求めて、タイトルに惹かれて買って、旅にでました。
旅先で読むと思っても、初めてみる車窓の風景のなかではなかなか読めないのですが、個人自由旅行では次の列車、バスを待つ時間は、団体パック旅行と違ってかなりあります。
今回の別府・大分の旅では、ローカルバス・JRの本数は少なく、一時間待ちもざらにあり、この待ち時間に読みました。
事前にネットで読んだ書評は以下のとおり

人生の折り返し点を過ぎた男女が、これまでを振り返り、再出発しようと足掻く生き様を描いている。
主人公達はどこにでもいる中高年で、決してこれまでの人生でもただ怠けていた訳ではない。
なのに社会から、家族から疎まれ、自身が想い描いていた55歳以降の「老後」の夢からさえも見放されていく。無力、悲哀、諦め、不安、そんなマイナスの渦に巻き込まれながらも生ききる道を模索していく。身に詰まされる。若者には自身の親を、中年には心構えを、当該者には道標を指し示してくれる作品としてお勧めできる名作だった。




内容は短編5編で
・結婚相談所
・空飛ぶ夢をもう一度
・キャンピングカー
・ペットロス
・トラベルヘルパー


「結婚相談所」は、定年退職した夫を持つ妻を描いたものです。
再就職を望んだ夫は、60才を過ぎた何の資格も、際立ったスキルもない、高卒、中堅メーカーの営業職。現実の退職者の就職事情に直面し、毎日テレビに向かって一人、不満を呟く夫の生活に耐え切れず、離婚に踏み切ります。
しかし、経済的な不安は的中、現実のものとなり、パートにでますが、アパート代を払って残るのは僅か。離婚前に貯めたへそくりと、僅かばかりの慰謝料の残金は減っていくばかり、そこで、再婚を望んで結婚相談所に通うことになり、50代後半のバツ1の女性の現実を知る姿を描いています。

「空飛ぶ夢をもう一度」は、誰でもがホームレスに陥るという日本の現在のサラリーマン人生のお話です。
団塊世代の一斉退職を機に、小説やレポート或いは、ブログなどで、退職後のハローライフものが、世の中に溢れだしました。
その書き手や、主人公はステレオタイプまがいが多いと感じるのは、私だけでしょうか?
ほとんどが、大卒で、ある一定以上の大企業に勤めていた企業戦士なのです。
団塊世代の大学進学率は全国で15〜17%、これは首都圏・大都市を含んでいるので、地方に限れば10人に一人しか大学教育を受けていないのが、団塊世代なのです。
そんな、地方出身高卒の男性が主人公のお話です。
中堅不動屋さんに勤めて、結婚し、バブル期は世間並の収入があったが会社は倒産、それを機に離婚し、みるみるうちに生活は荒れ、世間一般が定年を迎える頃には、下町のアパート暮らし、仕事と云えば、炎天下の交通整理員、駐輪場の整理、高校生のバイト並みの給与となり、病気になれば収入が途絶え、ついにはアパートを追い出され、路上生活、ホームレスへと転落していく姿を描いています。

「キャンピングカー」は
この主人公は、私が住む鎌倉で多く見かける、地方の進学校から首都圏の有名私大卒、日本の有名大企業を60才で定年退職したサラリーマンのお話です。
退職金も、企業年金も世間並み以上貰い、東京郊外の持ち家のローンも完済し、二人の子供たちもある程度の生活をしているご夫婦のお話です。
主人公は、退職を機にキャンピングカーを購入し、夫婦二人で日本全国を、自由に旅するのが夢です。奥さんを喜ばせるために、内緒で1,000万近いキャンピングカーを購入する為に頭金を払い、妻に退職後の計画を話します。
しかし、喜ぶかと思いきや、妻は「私の時間」と云う言葉を連発します。
退職後の「貴方の時間」があるように、私には「私の時間」がある。
それに、幾ら退職金の一部とは云え1,000万近いキャンピングカーは、今後の長い人生を考えると、分不相応と云います。
結局、頭金と主人公の定年後の夢は潰えます。
book552.jpg「それでは俺は何をしたらいいのか」と云う主人公
「そんなに暇なら働いたら、まだ若いんだから」と妻の言葉。
主人公は、現役時代に随分世話をしたと思っている元取引先に電話します。
「お宅の会社で、顧問でも良いから面倒を見てくれないかな」と話すと「そんな立派な方を雇う余裕がない」と断られます。
もう一社は「電話でお話するような内容ではありません、先ずはうちの人事に話を通して、履歴書を持って参上していただくのが先決」と断られます。
ここで、定年退職した60代のサラリーマンの現実を知ることになるのです。
ハローワークに行ってみると、紹介されるのは、単純作業の倉庫係員や、ビル清掃の仕事、老人介護施設の送迎運転手、等自分の今までのスキル・キャリアは全く必要としない仕事ばかりです。
ここで、営業畑を歩んできた人間は、会社と云う後ろ盾を失うと、全く世間では通用しないことを悟るのです。

退職後の人生で履歴書を書くという事は?
55才で早期退職した私は、71才に至るまで就職したことは有りません。
しかし、たった一回だけですが、履歴書を要求されたことがあります。
それは、退職した年の暮、郵便局長をしていた学生時代の友人と会った時、暇があるんだったら、暮れのあいだだけ郵便局でアルバイトをしないかと誘われました。年賀状の仕分けの内勤と云う条件でも良いよ、との話でした。
「まあ、暇だから年末・年始の1週間から10日間ならいいよ」と返事すると、「履歴書を持って来てくれ」と云うのです。
「何に、時給900のアルバイトで、履歴書が必要なの?」
「まあ、形式的なことだから」「日本の常識だから」と云います。
私は、即座に断りました。
私が属していた建設エンジニアリングの業界では、非正規のエンジニアを雇用することは良くありました。
特に、海外の現場では、スキル・経験豊富な人材を多く採用していました。
このようなケースでは、履歴書よりも「業務経歴書」を最重要視していました。
海外の場合、勤務地によりますが、住居・食事付で最低月給換算で60万程度でした。
私たちのような建設エンジニアの正規見積もり段階では、時給1万円は常識だったのです。

そんな私が、時給900円の郵便局の年賀状の仕分け作業の為に、わざわざ履歴書を書くことは出来ません。特にお金が欲しい訳でもなく、友人の郵便局が年末年始、人手が足りなく困っているので、手伝ってやろうかと、好意で考えたのに、日本の退職者の厳しい現実を思い知らされました。

「ペットロス」は長年連れ添ってきた夫婦の退職後の普段の生活のお話です。
夫と定年後の日々の生活のなかで、今まで子供中心に営んでいた生活が、少しづつ人生に対する考え方の相違が現れ妻はペットの犬に想いを傾斜していきます。そして、ペットの死による喪失感、無常。いったい、夫婦とは何か、家庭とは何かを考えさせられるストーリーです。

「トラベルヘルパー」は、やはり離婚した老齢長距離ドライバーのお話です。
この小説を読むまでもなく、離婚した男は、女性に比べて生物学的にも「弱い」ものです。

結局、大分・別府旅行中にこの本一冊を読み切りました。読み切った後、
カミサンは「どうだった、私がどんなに大切なのか分かったでしょう」と云います。
「何に、君はこの本を読んだことがあるの?」と私。
「貴方が読む前に、内容を話したらつまらないと思って云わなかっただけよ」とカミサン。
40年間暮らし、世界中を旅し、海外旅行を卒業し、老後の人生を一緒に九州の城下町を訪ね歩く旅をしている、仲良し夫婦でも、夫婦は所詮は他人、全く違う人格の二人の共同生活なんです。
posted by 西沢 at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月06日

「21世紀に残したい日本の風景」って知ってますか?

今回の大分・別府の旅のなかで、別府温泉街を紹介する画像で、温泉街全体に立ち昇る湯けむりの映像って何処で撮ったら良いのか調べていくうちに、この場所は鉄輪の「湯けむり展望台」と云う場所であることを知りました。
そして、この「湯けむり展望台」が「21世紀に残したい日本の風景」の第2位にランクされるいるのに、びっくり。日本の観光地はいろいろなランキングでありますが、何なんだ「21世紀に残したい日本の風景」って?

yu01.jpg

「21世紀に残したい日本の風景」は2000年、次世代へ残したい美しい日本の風景を視聴者からの投稿をもとに選び、シリーズ「21世紀に残したい日本の風景」としてNHKが放送したものです。
約20年経っており、選出基準に賛否両論ありますが、早期退職し、5年前に海外旅行を卒業して以来、カミサンと二人、毎月2泊3日の国内自由旅行と云うスタイルで旅しており、現役時代から旅を含めると、ほとんどの有名観光地を歩いているので次は何処に行こうかと、考えるいる所で、このランキングリストの登場です。
次の旅先を決める、一つの目安にはなることでしょう。

※印はこれまでに行ったことのない場所或いは、目にしているがじっくりとカメラ・ビデオの映像として撮影したことのない場所です。






1  富士山
2  別府湯けむり
3  函館の夜景
4  飛騨高山の街並み
5  虹の松原 唐津市浜玉町浜崎 
6  志摩半島英虞湾 
7  奈良 室生寺 
8  宮城 松島
9  蔵王
10 上高地・穂高

11 白石城
12 立山連峰
13 阿蘇山
14 舞鶴湾
15 錦帯橋
16 十和田湖
17 日光・華厳の滝
18 洞爺湖・有珠山
19 尾瀬
20 天橋立







21 安芸の宮島
22 サンゴ礁の海 沖縄県宮古島市 
23 神戸の夜景
24 出雲大社
25 奥入瀬
26 しまなみ海道
27 秋吉台・秋芳洞
28 長崎の夜景
29 足摺岬 
30 桜島

31 東大寺
32 昇仙峡 山梨県甲府市 
33 三隈川 大分県日田市 
34 琵琶湖
35 美瑛の丘
36 八ヶ岳
37 富良野
38 嵐山
39 黒部峡谷
40 東京タワー







41 鴨川
42 関門海峡
43 兼六園
44 瀬戸内海
45 横浜港
46 日南海岸
47 霧島山
48 摩周湖
49 佐賀バルーンフェスティバル 
50 九十九島

51 岩手山
52 高千穂峡
53 有明海 
54 京都の町並み
55 知床半島
56 大山
57 帝釈峡
58 岩木山
59 白川郷
60 屋久島 







61 磐梯高原・五色沼  
62 雲仙
63 箱根・芦ノ湖
64 清水寺
65 大雪山系
66 函館の町並
67 鳥取砂丘 
68 常盤公園 山口県宇部市野中 
69 浜名湖
70 金閣寺舎利殿

71 弘前公園
72 浅間山
73 白神山地
74 四万十川 
75 日光・東照宮
76 釧路湿原
77 明石海峡大橋
78 宍道湖
79 三陸海岸・浄土ヶ浜
80 大阪城







81 姫路城
82 江ノ島
83 鳥海山
84 天草
85 東京ディズニランド  千葉県  
86 伊勢神宮
87 赤城山
88 由布院
89 名古屋城
90 熊本城

91 小樽
92 山寺
93 筑波山
94 瀬戸大橋・鷲羽山
95 甲斐駒ケ岳・南アルプス
96 青島
97 駒ヶ岳 北海道
98 白山   
99 八甲田山 
100 安曇野


湯けむり展望台への行き方(バス&徒歩)

ネット上では、別府駅からバスで湯の川バス停下車、徒歩20分のルートがヒットします。
私たちもこのルートを考えていましたが、観光案内所では、別のもっと簡単なルートを紹介してくれました。
別府駅西口から鉄輪行きのバスは沢山でているので、取り敢えず鉄輪へ行きます。
ここに、バス会社の案内所があり、ここで湯けむり展望台への行き方を教えてくれます。
鉄輪から停留所2つ先の貴船城入口バス停で下車、徒歩10分、住宅街を抜けた先に小さな展望台がありすぐに見つかります。
バス停2つですから、本数の少ないバスを待つよりも、鉄輪から歩いても20分ですから、こちらをお勧めします。

72才を迎える2020年以降の旅の目標地が出来た。
学生時代から国内を旅し、青春時代から海外に出て、帰国後も世界の辺境の地、世界遺産の地を廻り、退職後も存分に海外を旅し、65才を機会に海外旅行を卒業し、国内旅行に専念してきた私たちですが、最近、何処へ行く・・・?が多くなっています。
今回のこの「21世紀に残したい日本の風景」リストを知って、またまだ日本には絶景、見たい所は沢山あるし、見たい、撮影として残したいお祭りも沢山あるのだと、この先数年は楽しみが残りました。
posted by 西沢 at 08:26| Comment(0) | TrackBack(0) | (カテゴリーなし)

2019年12月04日

テレビ東京の旅バラ、太川・蛭子の「路線バス乗り継ぎの旅」番組終了残念

最近の関東首都圏のTVは、お笑い芸人をMCにした楽屋落ち、おふざけバラェテイやクイズ番組ばかりでシニア世代の私たちが見るような、情報番組が少なくなっており、私たち夫婦の間では、夜のTV番組欄をみて、二人一緒に見るような番組がないと、「今晩も早めにお風呂に入って、本でも読もうか」となる日が多くなってなってきています。

それでも、関東の地方局と云われていたテレビ東京の番組を見る日は多いです。
民放在京キー局とは一線を画した、独自の「テレ東なら許されるだろう」的感覚で作られる・・・と云うより番組制作会社がユニークな発想であることなのでしょうが・・・番組がお気に入りです。
一番のお気に入りの「家、ついていって良いですか」は海外のTV番組プロデューサーブの間でユニーク・クレージー日本だから成り立つ番組と、大好評を博しているとの報道を目にします。
確かに、見ず知らずのいきなりのTVカメラが自宅に受け入れるのは、日本ならでは、安全・信頼があるのでしょうが、何時も見ていて、カメラマン兼ディレクター一人、(音声も照明もアシスタントもなし)の取材能力・レベルの高さに感嘆しています。
よく、あれだけの内容を取材側に語らせる、引き出せる、話術・コミュニケーション能力に脱帽。
bustabi01.jpg
そして、楽しみにしていた太川・蛭子の珍コンビの「路線バスの旅」が終了するのは残念です。
番組終了のもっと大きな原因は、私と同じ団塊世代、72才の蛭子さんの体力の限界と云うコメントです。確かに、4kmまでなら何とか歩けるでしょうが、6Km・10kmは、普段歩き慣れている元気な団塊シニアにとってもキツイ距離なのは解ります。
私たち夫婦の旅を振り返っても、歩ける範囲は4kmまでです。

自動車の運転免許を60才の時、更新しなかつた私たち二人の国内自由旅行は、公共交通が頼りです。2泊3日の目的地を決めた時、先ず関東から目的地の都市までの交通手段を考え、その都市の中心部の宿泊先を決め、ネットで宿泊ホテルと其処までの交通手段(JRなのか飛行機なのか)のセット料金を調べます。
カミサンの希望は出来るだけ列車JRの旅で、ホテルはその都市のJR駅そば、ツインの最低20〜30平米のお部屋と云う条件で検索しています。
私の最近の希望は、出来れば大浴場のあるホテルがプラスされます。

12月は、別府・湯布院へ
原則、毎月一度の2泊3日、予算10万円の国内旅行の12月の行先は別府です。
2回、行っている別府への交通手段は飛行機以外は考えられませんので、後は私たちの予算に納まるホテルを決定探すだけで、今回はJR別府駅から徒歩5分の、カミサンの要望通りの部屋が抑えられました。
ホテルは地元別府のバス会社が運営するある程度のレベルのシティーホテルです。
ANAのエアー&ホテルパック、勿論自由旅行の食事なしプランで、二人で74,000円、ANAショップで使える4,000円クーポン付ですから、実質70,000円です。
羽田発一番の大分空港行、帰りは大分空港を17:30発と3日間フルに別府を拠点にして動けます。

ここまで、決定しましたら、3日間の観光の計画をネット上で検索して立てます。
東京首都圏に住む私たちは、移動は先ずは列車をメインに考えますが、これだけ毎月地方を旅していますと、大都市近郊以外の列車の運行スケジュール・間隔の少なさを見にしてみて解っていますので、必然的にバスが多くなります。
近年、ネットの発達で、自宅のパソコンの前で、かなり田舎の小さなバス停の時刻表まで分かるので、予定は格段に立てやすくなってきています。
特に、一昨年ガラケーからスマホに切り替えてからは、私たちのようなバス旅派は、太川・蛭子コンビと違って楽になりました。

bustabi02.jpgしかし、時には彼らと同じく路線バスがない場所、最寄バス停からかなり歩かねばならない場所も存在します。今回の旅でもそれは、あります。
別府のビデオを作成するにどうしても欲しい映像の一つが、TVの旅番組に登場する、別府温泉の街に昇る温泉の湯けむりの風景です。
ネットでこのような映像が撮れる場所はすぐに判明しました。
最寄のバス停の名前も時刻表も解りました。
さて問題は、最寄バス停から目的地の「別府湯けむり展望台」までのルートと距離です。
ここで活躍するのが、
https://japonyol.net/distance.html 地図蔵 ≫ 地図で距離測定アプリです。
最寄バス停「湯の川」から展望台までの距離は900メートル、徒歩12分と云う結果がでました。
しかし、坂道なので多少の健脚の二人ですが、20分と見積もりました。

このバス停へのバスは1時間に一本しかありませんから、往復徒歩40分、現地展望台の滞在時間20分、時間的に夕方になるので、帰りのバスの16:46が私たちの最終バスとなると計算して動く予定です。
ちなみに、別府駅から湯けむり展望台までタクシーで行くと、幾らかかるかも調べてみました。
ネット時代はすごい、一発で解ります。
https://www.navitime.co.jp/taxi/
予想料金片道、1,810 円 距離5.5km、所要時間 約13分。
往復及び現地で待たせる時間を考慮すると、往復4,000円はかかるでしょう。
バス+徒歩ですと、二人で1,160円です。

つくづく、同じ世代の蛭子さんのご苦労が分かります。
スマホ・ネット禁止での路線バスの旅も、そろそろ、時代ともに、スマホ解禁にしたら、番組も変ってくるのではないでしょうか?

ちなみに、12月の別府滞在2泊3日の二人の現地での交通費は17,000円ほどかかります。
大分空港から最初の目的地、古い街並みの残る杵築、そこから別府へ、当然路線バスです。
2日目、国東半島の臼杵へLR、駅から国宝・臼杵石仏群へ路線バス、再び別府に戻って、鉄輪温泉地獄めぐりこれも路線バス、3日目、別府駅から湯布院往復もバス、最後は別府駅から大分空港へ。

これを見ると、同じ旅程なら、食事付で団体旅行で行っても、一人40,000円を切るのではと思われるでしょうが、私たちは、無駄な時間を過ごすのも、歩くのも、旅の一つだと考えているので、これで良いのです。
posted by 西沢 at 09:35| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ