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2020年01月10日

定年後の熟年離婚・介護別居夫婦の実態

ネット検索している私のパソコン画面をカミサンが後ろから覗いてみています。
「何に、熟年離婚、熟年別居・・・そんなことに興味があるの?」
「いや、いや、僕の周りに意外と、熟年離婚予備群が多いんだよ、実は今日スポーツに誘った人も、現在別居中なんだよ」と私。

一般的に云うと、現役中に知合い、付き合う自分の廻りの範囲の人々は「同じような社会階層、収入、学歴」の人々でした。
しかし、退職後の住まいの選択として選んだ、地縁も血縁もない新しい老後の住まいの土地では、これまで知りえなかった色々な人と知り合う機会が増えてきます。
鎌倉に越して来て、16年になると付き合いも深くなり、これまで知らなかった個人の内輪話も耳に入ってきます。
そして驚くのは、私自身には全く考えられない「熟年離婚」と云う言葉でした。
それは世間の話、統計上の話、ドラマや映画の世界と思っていたことが、同じ団塊世代、机を並べている隣の人の話、現実の話なのです。

元大企業の部長の場合
会社で退職送別会を終えて深夜タクシーで帰宅したら、奥さんはいなく、家財もなく、机の上に判子が押された「離婚届」があった。
元金融地銀の支店長の場合
退職して3年目、働いていた妻が帰宅しなくなり、別居が始まり、電話もメールも受け付けなく、全て相手の弁護士を介さないと話が出来なくなり、離婚。財産分与で自宅を売り払い、アパート暮らしの生活。

二人とも、同じ団塊世代でボランティアを通じて知り合った方です。
学歴、職歴、収入ともに、かなり平気値よりも高い部類に属する、社会のエリート層に属する人です。
でも、そんなことは家庭内、夫婦間、親子間では全く関係ないことであることは、ここ数年の家庭内暴力、殺人事件で解っています。
元広告屋さんの場合、ご本人は詳しく話しませんでしたが、仕事が忙しく、全く家庭を顧みない生活であっただろう・・・というのはお話していて感じていました。その分、世間一般の人以上の収入を家庭に入れていた・・のに。とご本人は話していました。
初対面でお話していて、元国立大卒、企業の中枢部にずっと席を置いていたエリートらしい話し方が鼻につきました。
全て上から目線の説明、解説的なお話方をされる方なのです。家庭内でも奥さんにこんな話方をしてるのかな?と思ったことがありました。
しばらくして、まわりから退職した日に、奥さんから「三行半」を突き付けられ離婚したと云う話を聞いて、「うん・・男としても解る」と思いました。

元金融地銀の支店長の離婚はまた違っていました。
退職後3年目の離婚です。
同じ世代の彼は、性格も穏やかですし、ボランティア活動でも廻りに気配りの出来る人です。
しかし、趣味の世界の浪費癖があったようです。分不相応、定年後の年金収入に見合わないなヨットにかなりのお金を注ぎこんでいたようです。
奥さんは、自分の仕事を持っていて毎日定時に出勤しており、夕刻に帰ってくるのですが、夫は現役時代と同じ生活スタイル、家事は全くしなく、帰ると、洗濯物は取り込んでなく、キッチンは汚れた食器のまま、自分の趣味のボートと、外面はボランティア活動に精出す自分かってな性格に愛想をつかして出ていきました。

今問題となっているのは最近急増中の定年後別居です。
私の身近のところに、同じ団塊世代の二組が現在別居生活中です。
二人とも、遠距離別居がもう10年近くなります。
夫婦仲も特段悪い訳ではありません。
二人ともに、東証一部上場企業の部長で60才で退職しており、退職金、企業年金は私の倍近くあるので、経済的にも豊かなです。
遠距離別居の原因は、実家の両親の介護なのです。
お二人とも、もう既に10年近い別居生活です。
お一人は奥様の九州の実家の両親の介護です。両親の介護が始まったのは10年前、一昨年父親が亡くなり、現在93才になる母親の介護生活だそうです。既に老人介護施設に入居しているのですが、施設側からは、何時、緊急呼び出しが入ってもすぐに駆け付けると云う
条件があり、奥様だけが一人、実家に暮らしているそうです。
介護費用は、亡くなった父親の遺族年金で何とか賄っているそうですが、奥様の生活費、実家の維持費がかかり、夫からの毎月10数万円の仕送りは欠かせないようです。

もう一人の知人の場合も既に10年の長きに渡っての介護別居が続いているそうです。
この方の場合は、二人息子の次男が母親と一緒に、岐阜県の田舎で同居して実家を支えているようです。
現役時代、定年後の年金生活でこんな、夫婦が離れて暮らす、なんてケースがあることは、夢想だにしなかったことです。
私の場合、昨年、カミサンの母親が倒れた後の半年あまりは、月に何日かの実家サポートがありました。
元々、三姉妹の三女が家を継いでいて、直接的な介護は足りていたのですが、実家の妹の自由な時間を支える為のサポート支援でした。

定年退職し、年金生活に入ったら自由な時間が手に入り、贅沢さえしなければある程度のゆとりのある生活が始まると考えていた方でも、夫婦二人の両親の介護だけでなく、兄弟の介護ケースもあります。
私の廻りでも、カミサンの友人の団塊世代女性は、実家を継いだ独身の兄が何度も脳梗塞で倒れ、唯一の兄弟として、介護を担うことになっています。
幸いにして、実家の土地・家屋を売却した資金で老人介護施設に入居できましたが、これがなもかったら妹の彼女に全て被ってきていたでしょう。
そして、彼女が云うには、兄の介護の次は、最近目に見えて衰えて来た夫の介護生活が始まるのか知れない、とこぼしているそうです。

それに引き換え我が家の場合はどうなっているのか
私の実家の両親二人は、ほぼ介護らしい介護もなく、短時間で亡くなりました。
父は動脈瘤破裂、71才、一晩。母85才、晩年すこし認知症症状はあったものの、寝でたきりとか、下の世話もなく、冬の寒い朝、トイレに座ったまま亡くなり、いずれの場合も、私は実家からの電話で知り、列車で駆けつける程度でした。
妻の父親の場合は、末期がんと分かってから、二度の入退院があったもの、家庭内の闘病、介護生活は短く、病院亡くなりました。72才。
恵まれた環境と云う云い方は不謹慎かも知れませんが、確かに、このように夢を持って定年退職されてから、思ってもみなかった、遠距離介護、介護別居されている方みれば、今のところ恵まれた老後環境かも知れません。

カミサンは、送られてきた旅行社のパンフレツトを見ながら、2月何処へ行こう・・・といってきます。来週の2泊3日、伊豆ジオパーク、吉永小百合のCM撮影地を訪ねる旅から帰って来てからでいいでしょう。と私の返事です。
posted by 西沢 at 08:31| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2020年01月08日

年はじめの福袋、値段に釣られてついつい買ってしまったが・・・

今年のお正月は、日本社会の働き方改革が浸透してきているのでしょう。
元日にお休みしているお店が多かったです。
家から歩いてすぐの地元スーパーは、正月の三が日連休で閉まっていましたし、街中のケンタッキーも大晦日、元日とお休み駅ビルのデパート・ルミネも元日は閉まっていました。

usb0.jpg毎年、元日の新聞折り込み広告のチラシは楽しみにしています。
カミサンは勿論、横浜のデパートの正月の売り出しを楽しみにしています。が、福袋には全く興味がないようです。
中身が解らないものを買うほど、私は買い物中毒ではない・・と云いながら二日の朝から数件のデパートを巡り、三日目は湘南のショッピングモールへと出かけて行きました。
私はと云うと、近隣の量販店「ヤマダ」、「ノジマ」、「ケーズデンキ」、「ビックカメラ」のチラシの特売欄を細かくチェックします。
パソコンも、カメラも、TV、家電も欲しいもの、70才を超えると特段ありません。今のままで十分ですから。
何をチェツクするかと云うと、SDカード、マイクロSDカード、USBメモリーなどの小物の掘り出し価格もののチェックです。
毎年、量販店各社は年初めの目玉として、小物グッズをネット価格よりもかなり安い値段で出すのを知っているからてです。四社のチラシを眺めて、目に留まったのが「ノジマ」の福袋でした。
マイクロSD・クラス10・64G+USB64Gのセットで税込み、2016円と
SDカード・クラス10・256Gが、税込み2,500円 この2つはお買い得です。

先ず、ネットでSDカード・クラス10・256Gを調べると、4,000円〜が標準価格帯ですから、これは買いです。
でも、安いからって、何につかうの?と考えてしまいます。
今、メインで使っているSSDパソコンのハードは128ですから、これを追加すれば各段に収納スペースは増えますが、そんな必要性はないことは解っています。
現在予備として64GのSDカードを差しっぱなしにしていても、1/3も使っていない状態なのですから。それに、256一枚に頼ってしまうと、クラッシュした時のダメージが大き過ぎます。

そこでもう1点の福袋、マイクロSD・クラス10・64G+USB64Gのセットで税込み、2016円に目がいきました。
大昔の話、デジタルカメラが出始めた時、128M(ギガではなくメガ)のソニーのメモリースティックが欲しくてたまらなかったのですが6,000円ほどして、高くて手が出ず、何とか現場経費で落とす名目を探して、買った思い出があります。
時は、2000年、今から20年前、128メガが高嶺の花の時代だったのに、20年後千倍の容量の64+64Gが、2016円なのですから電子技術の世界のスビートには驚かされるとともに、グローバル社会でにおける日本の電子機器産業の遅れ、シェアを誰が想像していたでしょう。

1月2日の朝、9時半にノジマに行くと、福袋整理券を配っていました。
私は、メモリーパックの福袋を希望すると、並ぶ必要はなくそのままカウンターで渡してくれました。
意外とこれらのものを買う人がいないのに、再びびつくりです。
私の廻りのパソコンハードユーザーや、ビデオクラブのメンバーなら、取り敢えず買っておき、何に遣うかは後から考えるタイプが多いのですから。

さて、買って自宅に戻り、福袋を開け、中身を確認しました。
マイクロSD・クラス10・64Gのメーカーは、「ノジマ」が出資している台湾メーカー。まあこれは予想どおりで許せる。
次のUSB64Gを見て、「エーーー、USB2じゃないか」、まさか今時USB3ではなく、2だとは思いもつきませんでした。
「USB2.0」と「USB3.0」で大きく異なるのは、データの転送速度です。
規格値では「USB2.0」の480Mbpsに対し、「USB3.0」は5Gbps(5000Mbps)。bpsというのは、1秒あたりに転送できるビット数の単位を指しており、理論上「USB3.0」は「USB2.0」に比べて約10倍の速度でデータを転送することが可能です。
しかし、これはあくまでも理論値。実際は「USB2.0」の2倍〜3倍程度の転送速度といわれています。とはいっても、データ転送の待ち時間が1/2になると、体感速度ではかなり早く感じます
これは、DTTAのバックアップ、保存用にしか使えない・・・、とてもでないがビデオカメラからの動画取り出し、には使えない。

仕方ありません。
取り敢えず、一般web-data用にも、動画用にも対応できるように、フォーマット、初期化するようにPCにセットしました。
USBもSDカードもメーカー出荷時のファイルシステムはFAT32になっています。
一般的なユーザーが使うには何ら問題ないのですが、動画やゲームプログラムのファイルは一つで4Gを超えるのはざらにあります。
FAT32は、一つのファイルが4Gを越すと、受け付けてくれませんので、USBのファイルシステムをNTFSに変更しなくてはならないのです。
やり方は簡単です、以下のサイトを参照して下さい。
USBメモリーのフォーマット・ファイルシステムの変更
https://www.pc-master.jp/mainte/usb-format.html

大チョンボ発生
私の通常使うSSDパソコンは128ですから、少々、ハード的には不安なので、常にクラス10・64GのSDカードを差してあります。
※ビデオ編集には使えず、編集はwin8ののスペックの高いものを使っています。
ここに、今回買ったUSB2の64Gを差して、フォーマット・ファイルシステムの変更を行いました。
簡単にUSBのフォーマットは終了し、翌日、この予備用のクラス10・64GのSDカードを開くと全てのDATAが消えているのです。
この追加用のSDカードの名前は追加64としてあり、2019年に撮影した全ての画像や、新しく作ったメモ帳、原稿、パスワードの記録、毎日のアクセスdata、住所録、カミサンへの遺言控えなど、重要なファイルが保存されていたが、全て消えているのです。

64GのSDカードと64Gの新しいUSB2つ差してあったのを間違えて、2019年DATAの入っていたSDカードをフォーマットしてしまったのです。大ショツクです。
もしかして、マイドキにバックアップが残っていないか探しても、2018年までのものは残っていましたが、2019年のものは残っていませんでした。

福袋の2,16円の価格に惹かれて買ったのが、とんでもないことになり、正月早々、莫大な復活作業の始まりの2020年になりました。
超不機嫌の私の態度を見て、カミサンは、
「私に残すものは全て紙媒体にしておいてと云ったじゃない」
「貴方の写真やビデオ、ホームページはどうでも良いけど、お金に関するものは、全て印刷して残してね」

私は、サポートしている、70代後半から80代のシニアオジサンに何時も云っていることが、わが身に降りかかるとは。
posted by 西沢 at 07:43| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2020年01月06日

定年退職10年後に、海外旅行を卒業した理由とは

やっと長かったお正月休みがあけました。
昨日までの夕刻のTVのニュースでは、空港からの海外旅行帰りのファミリーや、カップルへのインタビューが定番です。
現役時代は、毎年12月になると翌年のカレンダーの祝日、並びを調べて、何連休になるかを調べていたことを思い出します。
あの頃、退職したら、こんな混む時期、ホテルも航空券も高い時期を外して、好きな時に好きな期間、何処へでも行ける、早く、そんな身分になりたいと、せつに願っていたのが懐かしいです。

しかし、55才で退職し、65才でパスポートを更新せずに、海外旅行を卒業するとは考えもしませんでした。
ずっと、身体と老後資金が続く限り、自由に何処へでも旅出来ると思っていました。
現役時代、バブル期の建設業界にいた幸運と専門職のカミサンとのダブルインカム、ノーキッズの環境で、休みさえ何とか工面すれば、個人・自由旅行の形態で、行こうとする強い意欲さえあれば、どんな世界の秘境・奥地でも行けました。

イースター島、イランのペルセポリス、ラオスの少数民族の村、北極圏のオーロラ、カリブ海の美しい小島。
まだ、40代の夫婦にとって過酷な移動手段、宿泊環境も旅の一つの醍醐味として、楽しむ余裕もありました。
それでも危険を避ける、最低限以上の良識・常識・語学力プラス資金力があったので、これまで海外で、身の危険を感じることや、病気、ケガ、対処しきれない移動手段トラブルもなく過ごせてきました。

それがあるきっかけから、徐々に忍び寄ってきたのです。
個人差もあるでしょうが、だんだんと海外旅行の煩わしさ・不安・危険を感じはじめたのです。
言葉、コミュニケーション、移動距離、時間、そして費用。
現役時代、退職直後には全く感じなかった、疲れ、孤独感、寂しさが、年齢共に忍び寄ってくるのです。

決定的な要因は、アジア奥地から帰国直後、内臓疾患で救急搬送された時からです。
それが、退職後10年目、65才の時でした。
ミャンマーのかなり奥地、日本人観光客が滅多に行かない、ミャンマー南部、タイ国境地帯、ようやく少数民族カレン族との内線講和が成り立ち、外国人の観光が再開されたような土地でした。
日本語ガイドと専用車付の大名旅行でしたから特にに、なんら危険も感じ旅を楽しみました。
しかし、ヤンゴンに戻る途中立ち寄ったレストランで飲んだ、生ジュースがどうやら当たったようで下痢をしました。が、そのまま、体力が回復して翌日、ヤンゴンから日本に戻ってきて、忘れていたのですが、2日後の夜みぞうちに強烈な痛みを感じました。
とても、我慢できるような痛みではなく、カミサンは徒歩10分に日本を代表するような総合病院があるのですが、この時は躊躇なく救急車を呼びました。

救急外来での診断は、胆管結石の疑い・・・と云うのです。今まで、尿管結石はやったことがありますが、胆石とは初めてです。
数日前まで、ミャンマーの奥地にいて、下痢をしたことを伝えると、直接の因果関係はないものの、きっかけになったかもしれない、と云われました。
胆石発作で、肝機能にダメージがあり、おしっこは濃い黄色、完全なる肝機能障害です。
肝機能障害については、ウズベキスタンでA型肝炎に感染したことがあるので、知識は豊富です。
結局、救急外来の仮設ベッドで朝まで点滴、安静となりました。
翌日のMRI検査では石は見つからず、念の為、膵臓まで調べるので、3日間の検査入院となりました。最終的には、胆管に胆汁を流れやすくなる薬を毎日、一生のみ続けることなり、現在に至っています。

これが、私が海外旅行をやめ、パスポートを更新しなかつた最大の理由です
日本にいるなら、自宅でなくても国内の旅先でしたら、常時携帯している国民健康保険が効くし、言葉も通じますが、例え、医療施設が日本並み、言葉も日本人医師のいるワイキキであっても、不安です。特に、医療の専門家であるカミサンは、この騒ぎからは絶対に海外へは行かないと宣言しました。

あれから6年、新聞・雑誌・TVの海外旅のチラシを見ても、全く行きたいと云う意欲は湧かず、旅する煩わしさが先に思い浮かびます。
あんな、無茶な日程、怪しげなホテル、豪雨のなかの高速道路をぶっ飛ばすタクシー、真っ暗な夜中のモスクワの裏通り、黒い目が光るリオの下町。今思い返すと、何事もなく無事に日本に帰れたは奇跡のようです。
若いって素晴らしい、と本気で思います。
年を重ねるにつれ、経験からか、余計なものが見えてきたり、予測したりしてしまうのです。
定年後の海外ロングステイの情報サイトを立ち上げた私たちですが、72才を迎えようとしている今、云えることは、海外ロングステイは60代まではないかということです。
決して、経済的、資金的な理由で定年後ライフは日本は捨て、海外に求めてないことです。

今年、干支のねずみ年、72才と68才は「鎌倉にお住まいのゆとりのある老夫婦」を演じようと思っても、なかなか現役時代の自由・奔放な旅のスタイルを崩せません。
特にカミサンは、大手旅行社のグループツァー、バスツァーに拒否反応を示します。
多少、高くついても、バスや電車で長時間待たされても、自分たちのペース、二人だけで旅に拘るのです。

1年12回、毎月一回、二泊三日、予算10万円の国内旅行は、年3~4回の海外旅行よりもづっとリーズナブルな上、毎月の暇な二人の生活に一つのリズムが生まれ、ちょうど良いペースで国内旅行が楽しめます。
この先、づっとこのペースで国内旅行がいけるとは思っていません。
費用的に確保はしていますが、これからどんどんと二人は年老いて行き、二人の旅行経費が医療費、介護費に変化していくでしょうから。
posted by 西沢 at 07:49| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2020年01月04日

定年後、お正月三日間の過ごし方 終活で年賀状をやめたのですが・・・

団塊世代にとっては記念の年となる2020年の関東首都圏のお正月は、天気は3日間とも、澄み切った青空と暖かい陽ざし降り注ぐ穏やかな3日間です。

2020年がどうして、団塊世代の区切り、記念の年なのかと云うと、
1,団塊世代の真ん中、昭和23年1948の干支はネズミ、今年人生で6回目の年男、次の干支は12年
後は84才・・・半分の団塊仲間はいないのではないかも。

2,2度目の東京オリンピックの年、64の東京オリンピックは高校生の時でした。もう一度生で
オリンピックが見れるとは思っていませんでした。
東京五輪が決定した時、多くの団塊世代オジサン達は、2020年の時の自分の年齢を考えました。
72才、先ずその年に生きている可能性は大、ただどの程度健康でいられているかをきっと考えて
いたでしょう。

1月1日、共同住宅のメールボックスを開けると、薄い年賀状の束が入っていました。
やっぱり・・・一昨年、70才を迎える年のお正月から終活の一つとして年賀状をご遠慮する旨を
お伝えしていたのですが、昨年は30枚ほどの年賀はがきが届いていました。
届いた年賀状はほぼ全てが、定番の年賀文字と干支の画像だけで、手書きのないものです。
理由を考えてみました。
1,ほとんど年賀状の中身を読んでいない。
2,自動的に前年のあて名印刷をしている。
3,終活で勝手に年賀状をだすことを辞めても、私は貴方と繋がっていたいから、1年に一度の年賀のご挨拶をしたい、と書いて来た旅仲間の友人女性がいました。でも、その友人も今年はきませんでした。


何で、終活で年賀状を書くこと、出すことを辞めるのか?
私は、55才で退職するまで、年賀状はだしたことはありませんでした。
なんで1週間後の正月明けに会う同じ社内の同僚や上司、或いは仕事の客先に白々しい年賀状を書くのか?若くして、日本を離れていたので田舎の学校時代の友人との交流も有りませんでした。

そして、最も大きな年賀状を出さない理由は
住宅ローンを返済した38才から退職した55才まで17年間、お正月に日本国内に居たことがないからです。幾ら出世を考えないマイペース・不良社員の私でも、10日から2週間の海外旅行休みを摂るには、ゴールデンウイーク、夏の盆休みと年末年始しかないので、お正月は必ず海外、それも世界の僻地と云われる場所で過ごしていました。

私たちは、このようなあまり知られていないような土地から、旅の友人と両親と自宅宛てに絵葉書をだしていました。(※自宅へは、届くかどうかの確認です。)
一番多く現地から出したのは、1992年のアンコールワットからで、30通ほど、海外旅行大好き友人宛てに出した記憶があります。
1992年、日本初のPKO派遣の年、ぺノンペンもシェムリアツプも外国兵で溢れていました。
この年は、カンボジア内戦後初めて海外観光客に対して門戸を開いた年でした。
絵葉書一枚が50円ほどと、当時の現地の物価から考えられない外国人向け値段ですが、仕方ない、他に売っていないのですから。
30枚全て、当然ながら手書きです。
毎晩、観光後の暗いホテルのなかで一番明るい、トイレでせっせと3日間かかって書きました。
次に一番苦労するのが、切手です。
シェムリアップの街中では、海外向け航空便に貼る高額切手が売っていないのです。
国内用の切手では、10枚以上、下地が見えなくなるほど貼らなくてはならないのです。
中東・南米・アジアで良く耳にする、ホテルや現地ガイドにお願いすると云う方法は、50%の確率でお金だけ受け取って、だしてくれないことがあります。
開発途上国で確実にハガキが届けるには、首都の郵便本局に行って、切手を買いだすしかなかったのです。
これは、昔の話で、今やシェムリアップは大観光都市ですから、そんなことはあり得ません。

退職後は、お正月は絶対に日本で過ごしています。
理由は簡単、こんな航空チケットが高い時期に海外にいかなくも良いのですから。
その分、海外から絵葉書をだしていた旅で知り合った友人と、元職場、元仕事仲間にたいして、正統な年賀状を一昨年前までだしていました。
理由のひとつとして、早期、50代半ばで退職した団塊オジサン達の生き様、生存確認をお知らせするのが目的でした。

何で、終活、70才を機に年賀状を辞めたか?
毎年いただいていた最大100通の年賀状の大半は、一度だけお会いしただけの海外絵葉書で繋がっている人であったり、仕事関係、地元の趣味のクラブ、遠い親戚だったりの義理の年賀状でした。退職した人は、私を忘れて欲しくない・・・という意味で年賀状を書くとも云われています。しかし、2020年の今、個人で情報を発信いるツール・メディアは私が退職した17年前に比べると、各段に広がっており手書き文字による情報伝達も一つのツールとして残して置きたい気持ちもありますが、過去にいただいたハガキ、お便り一度整理した時、ミカン段ボール箱、4つにもなりました。
私としては、本当に外に出歩くことも少なくなったら、自分の部屋でこれらの思い出の手紙、ハガキを読み返そうかとも考えたこともありましたが、しかし、私が逝った後、カミサンの処分の手間を考えると、徐々に自分自身で整理しなくては思っています。

2020年のお正月3日目
元旦にとどいた年賀状に続いて、また、3通ほど届きました。
何れも、一昨年に年賀状を自主的に、ご遠慮しますと、お知らせしている相手ですが、印刷に手書きの文章が書いてある上、田舎の同級生、元会社の直属の部下で現社長(あいつ、こんな偉くなって会社大丈夫かな)、元仕事仲間と、ほっておけないので、またまた街中にでて、正月用インクジェット年賀はがきを買ってこなくては。
どうせなら、一度にだしてよ。

余談
箱根駅伝を見ながらこのブログ原稿を書いています。

箱根駅伝も現役時代、全く興味が有りませんでした。
だって読売巨人軍が嫌いだし、お正月に日本にいた事もなかったので、しかし、退職1年目の正月、前横浜自宅の最寄駅に大勢のスポーツ系の若者が集まりゾロゾロと歩いて行くので、行ってみると、箱根駅伝の難所「権太坂」です。
次に鎌倉に越してきて家の前を通るバス車内を見ると、あのスポーツ系の若者の姿、そう、藤沢「遊行寺坂」へ向かうスタッフです。関西、西日本圏ではさほど人気ではない、箱根駅伝の魅力は、自分の住んでいる所、自分が勤めている会社の前をリアルに映し出し、この年になると、終わった後から、必ず、廻りで私の甥っ子が走った、という話を聞かされるのです。
来週からNPOセンターが始まり、神奈川県青学OB会会長と顔を合します、
ああ大変だ話が長くなる
posted by 西沢 at 07:53| Comment(1) | TrackBack(0) | シニアライフ

2020年01月02日

子供も孫いない団塊世代、高齢者夫婦のお正月の過ごし方は?

二人だけの大晦日の夜は、特にご馳走を造るでもなく、何時もとはちょっと奮発・豪華なデパ地下のお惣菜が中心の夕食を済ませ、早々とお互いの自室に引き籠もりです。
カミサンは歌手の名前なのか、曲名なのか解らないNHKの紅白をつまらない、と云いながら見ているようです。
私は、これも林立して価値の下がりっぱなしのボクシングタイトルマッチを見るしかないので、これを見て、引き続き「SASUKE」を見ていたのですが、途中から眠くなり、結局10時過ぎには早々と寝てしまいました。

各地の除夜の鐘も、ご近所のお寺の鐘も耳にせずまま、何時も通りの時間に起きると、外は雲一つない、青空です。
カミサンと新年の恒例のご挨拶「新年あけまして、ムニャムニャムニャ」「本年もよろしくムニャムニャムニャ」。
お葬式の時の挨拶と同じで良く、語尾はムニャムニャムニャと判明不明の言葉でいうのが日本の常識と信じている二人です。
それでも今年の干支はネズミ年、団塊世代72才、年末の前立腺不安もあったので、「少なくとも東京オリンピックまでは元気でいます。」とカミサンにご挨拶申し上げました。

カーテンを開けると、外は雲一つない真っ青な青空です。
こんな日は、カミサンの持病「つまんない病」が発症しない訳がありません。
明日2日からは、デパートの初荷が始まりますが、今日はご近所のデパートはおろか、コンビニ・吉野家・ケンタッキーまでお正月1日は閉まっています。
「何処か、初詣にいこう」と云います。
鎌倉鶴岡八幡宮は論外、こんな日には行きたくなく、沿線の川崎大師も同じく混むし、茅ヶ崎の寒川神社はすいているけど、境内参道にお土産物商店の少ない田舎でつまんない、大船観音はアジアの若者が多く集まってくるので面白いのですが、
何時もはシニアパスで無料だけど今日は有料300円で莫迦らしい。
鶴見の総持寺は広く、静かで、趣きがあるのだけど、少し飽き気味。

そうだ、寅さん映画リメイクで盛り上がっているだろう、柴又帝釈天へ久しぶりに行こう。
あまり混んでいるのも嫌だけど、人出がまったくない観光地はもっとつまらない・・・と云う訳ででかけることにしました。
地元間より駅からJR・地下鉄・京成を2回乗り継いで、1時間15分で、京成柴又駅に到着しました。
この町は、南米から帰って来てから再入学した電子専門学校の同級生のアパートがある町で、20代の頃よく遊びに来た町です。その頃、すでに寅さん映画は人気でしたが、今のような大観光地ではありませんでした。

柴又駅前には、寅さんの銅像はあったのですが、今日行ったら寅さんの振り返る目の先の離れた場所に「さくら」の銅像があるではないですか、すかさず記念写真をパチリ。
柴又帝釈天の参道、お土産物通りは、狭く短いのですが、正月1日は民放テレビ局、2社のカメラが、お団子屋さんや境内に大きなカメラを据えていますので、混雑に拍車がかかつていました。
本堂は、江戸時代の木造彫り物が圧巻です。
帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面が著名なのですがこの日は、初詣参拝客があまりにも多く、パスしました。
とりあえず、お賽銭を投げ入れ、お願い事は「今年一年健康でありますよう」それしかありません。
5円(ご縁)玉で、神様、仏様が願い事に耳を傾けてくれると思わないのですが、カミサンはかなり真剣に、長い時間拝んでいました。


初詣を済ませ、次はお寺の裏手にある江戸川河川敷に向かいます。
ここは、寅さん映画のオープニング定番の土手がある場所であるとともに、演歌に歌われる「矢切の渡し」があるのです。
矢切の渡しが本当の目的ではなく、実は前に一度来て知っていたのは、この河川敷に簡易トイレがあるのを知っていたからです。
京成柴又駅のトイレからは、参道・帝釈天にいてるまで、公衆トイレが全くないのです。
退職後、日本の各地の観光地を旅して驚くのは、トイレの充実です。
ほんの少し歩いただけで、公共のトイレの案内板がある自治体が多いなか、世界遺産を目指した鎌倉は、駅から八幡宮境内のあいだにトイレが一つもないのです。
ついでに云うと、喫煙所も駅を初め公共施設のなかから全て撤去されて、喫煙者から大クレームが発生しています。
青空と云っても、冬の河川敷ではトイレが近いので、先ずはトイレを目指し、「矢切の渡し」を画像に納めてから、柴又名物のうなぎです。
うな重税込み、3,630円、二人で7,260円は、年金シニアにはかなり痛い金額です。
前に二人で来た時は食べれませんでした。が、今回、カミサンは
「あと数年の寿命かもしれないから」
「今回は私が奢る」というので、ご馳走になりました。どうせなら「上うな重」4,290円にして欲しかった・・・
しかし、しみじみ、こんな時は消費税10%って大きいと云うのを実感しました。


柴又から真っ直ぐに自宅に帰る予定でしたが、カミサンの一言
「帰りの電車はスカイツリーを通る?」
なんで・・・と私
「柴又ではお買い物が出来なかったから、何処かで今日のお土産物を買いたい」
スポーツ仲間の鎌倉婦人の間では、例え、近場の箱根・熱海でも、何かしら買って来るのが常識のようなのです。
それが楽しみにで生きているのですから、仕方ありません。と帰りはスカイツリーで途中下車のお正月の一日でした。
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2019年12月31日

歳をとると、一年が早い、もうお正月がやって来た。

子供の頃、童謡の歌詞に唄われているように、「もういくつ寝るとお正月」と数えたことを思い出します。
貧乏だった、子供四人の町の小さな八百屋だった家の大晦日は、早めにお店を閉めて、男の子三人と父親で町の銭湯にいきました。その日の夕方の銭湯の湯は、いつもよりかなり汚れた色をしていたのを覚えています。
貧しかった我が家の大晦日のご馳走はなんだったのか、あまり覚えていません。
一般的に、大晦日、お正月のお節料理と云えば、三段重です。
一の重に、黒豆、数の子、田作り、紅白かまぼこ、栗きんとん、昆布巻き など
二の重に、焼き物。ブリの照り焼き、エビの鬼殻焼き、鶏肉の松風焼き、紅白なます など
三の重に、煮しめ、筑前煮など
が定番なのでしょうが、私たち4人兄弟が昭和30年代半ばの頃、そんな三段の重箱のお料理なんて、目にしたことは有りませんでした。
その頃、ご馳走と云えば、親戚の結婚式に参加した母親が宴席で出された仕出しを、そのまま、何ら手を付けずに持ち帰ったものが、大のご馳走でした。
芋きんとんや水羊羹、尾頭付きの魚の焼き物などを母は綺麗に四等分にして、各自の皿に盛り付け、必ずミカンを輪切りにしたものが添えられていました。
長女の姉をのぞいた、男の子三人は、三つ皿を見比べて、じゃんけんをして、一番大きな塊が入っている皿の取り合いをしたものでした。

大晦日の定番のご馳走は、父が買ってきた鶏一羽を、小さな台所で絞めて捌き、七輪の大鍋で寄せ鍋風のものを造っていたことです。
私が育ったのは、田舎とは云え、県庁所在市の一番の繁華街ですから、小学生時代高学年の時は、すでに近くにはスーパーマーケットがあり、お惣菜も肉もパックで売られていましたが、貧しい我が家は、日常的には買うことは少なく、鶏一羽の鍋は、一年に一度の大ご馳走でした。

そして、おもちです。
元旦の朝だけは、おもちの数の制限がなく、お腹いっぱい食べられるのが幸せで、男兄弟四人で数を争って食べました。
あの頃、お正月が開けても、家にはカビが生え始めたお餅があったことを覚えています。
そして、おやつと云えば、硬い、白い粉が吹いた干し芋が定番でした。

母の料理の思い出として一番深く、残っているのは、カレーライスです。
私が南米へ行く為に、横浜へ向かう日の朝、「何が食べたい」と聞かれ迷わず、カレーライスをリクエストしました。
豚肉とジャガイモのおおきなゴロっとしたかたまりがたっぷりのカレーが、私の家庭の味でした。

来年の干支は「ねずみ」で、私は年男です。
昭和23年に生まれて、6回目の年男、もう72才になるのです。
これまで、6回自分の干支がありましたが、こんなに意識したのは、前回の還暦60才の時以上です。中学三年生で1か月の入院生活、アルゼンチン滞在中も同じく1か月、50代では3か月の入院と、普通の人の何倍も多く病院のお世話になっている、カミサンに云わせると「こんなに病弱だとは思わなかった」「病気の問屋」と云われるほど一般的な日本人男性よりも病弱なのでしょう。

40代半ばで、早期リタイヤ計画を作成した時に、自分の死亡年齢を当時の平均寿命78才に設定してエクセルを造りました。
造っていても、そこまでは生きていないだろう・・・と半分は思っていました。
子供もない、夫婦二人暮らし、若い現役時代から会社での出世は全く考えず、好き勝手なことをし、現役中から夫婦二人の夢である、世界の秘境巡りを繰り返し、早期退職してからは、海外ロング・ミドルステイごっこをし、資金的にも私が早く逝っても、カミサンは困らないだろうレベルまでは確保してあるので、そんなに憂い、後悔、やり残したこともなくはありませんが、子供も孫もいない私は、ひと様より心残りが少ないのは間違いありません。
2度目の東京オリンピックが決まってから、2020、72才と云うのを強く意識しています。

明石家さんまが、自分の子、女の子に「いまる」と名付けた経過を聞いた時、すごいと感心しました。
「生きているだけでまるもうけ」と、生まれてきたくれた子に感謝の意味でつけたそうです。
私も2020に72才になり、その心境です。「生きているだけでまるもうけ」
もし、もう少し生き延びるとしたら、出来れば、わが人生リタイヤ計画どおりの78才が理想なのですが、そこまで元気なまま、
カミサンに迷惑かけずにいけるかどうか・・・

新しい年、昭和・平成に続く三代目、令和2年を迎えるに当たって、団塊世代のオジサンは考えています。
posted by 西沢 at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月29日

シニアのwin7からwin10買換え、セットアップのお手伝い奮闘記

2020年1月14日に使い勝手の良かったwindows7の延長サポートが終了します。
先月、同じ町内会の81才のシニア男性から買換えの相談を受けました。
日本では、パーソナルパソコンと云えばwin95から、OSはマイクロソフトが当たり前という風潮があり、マイクロソフトの販売戦略に振り回されてきました。
セキュリティの問題や、ソフト・アプリの開発でOSを日々更新しなくてはならない事情は分かりますが、マイクロソフトの言いなりに、引っ掻き回されて来たという気持ちを、大勢の皆さんが持っています。
マイクロソフトのOSは、一つ置きに使いやすく、一つ置きに使い物にならない、というのは、私たちPCハードユーザー共通の認識です。
98は良かったが、2000MEは最低、XPは安定していたが、Vistaは最悪、win7はVistaの欠点を克服してXP並みに安定、Win8はこれまたダメで、現在のwin10ですが、クラウド重視になったので、これまでのOSと比較が難しい・・・が現在、これしかないので(マイクロソフトでは)、仕方なしに使っている、というのが日本のパーソナルコンピューターの現状です。

この81才のシニア知合いにお会いして、今使っているwin7を拝見しました。
CPUセルロン、メモリー4GMのごく一般的なパソコンで、使っているのメール・インターネットとワード・エクセルに、年賀状を書いて印刷し、時々マイピクチャ―にデジカメ画像を落とす程度の、ごく一般的な日本人シニアとしてのパソコンの使い方です。

先ず、このままwin7を使い続ける危険性についてお話しました。
インターネットを接続しなければ、何ら危険性はない旨、お話しました。
メールは受信の際に、htmlメールを拒否し、メールに書かれているリンクをクリックしなければ大丈夫。ワード・エクセルは、何ら問題はないし、写真の収納、印刷も問題ない。
自分の生活上でのPCの使い方に気をつければ新たに、win10に買い替える必要はない。

スマホを持つていますか?の問いに持っているとの返事
インターネットをみるだけなら、スマホで十分事足りる、今の若者はパソコンを持っていない子、使えない子が多いのですから、心配はありませんよ。
そしてパソコンで何をやりたいのですか?の問いに
スポーツクラブの役員や自治会・元会社のOB会の幹事をしているので、ワード・エクセル添付のメールやり取りがあり、これがないと困る、スマホではショートメールしか出来ない・・・
まあ、それは解りますが・・・

それでは、新規買換え購入しましょう。
でも、量販店に一人で行って、買うのは辞めて下さい。
なぜですか?・・・
Sさんのお話で分かりましたが、店員は、Sさんが必要としている以上の高スペックの高いものを薦めます。ハードディスクの1テラなんて必要はありません。
CPUは確かに早いものほど楽ですが、Sさんの使い方からみれば
現在のwin7と同程度のスペックで十分です。
メーカーは国産・中国製、何処も同じで、海外で組み立てられているので、拘ることはありません。国産に拘るなら、セイコーエプソン系列だったマウスコンピューターは信州諏訪で、100%、日本人の手によって組み立て、検査、出荷しているので、一番信頼できますが、パーツは海外製ですし、値段も高いです。
今のwin7はSさんが現役の頃勤めていた会社、T社で使い慣れているので、同じT社の同じくらいの仕様のものが良い。
とのアドバイスし、価格コムで調べると、やや高いけれども68,000円でした。
同じスペックならもっと安いものもあったのですが、元勤めて会社のものを推奨しておけば、後からのクレームをかわせる、という思惑もあったのですが。

Win10のセットアップはパソコン初心者では難しい。
しかも、今まで使っていたWin7からの引っ越しを81才、パソコン初心者のSさん自力で出来るかどうかは疑わしい。でも、ご近所の知り合いだからと云って、全く無料のボランティアでは、その後の色々な面倒を全て無料でやるハメに陥るのは、これまでの経験から解っているので、引っ越し・win10のセットアップを量販店に依頼したら、幾らかかるかを予め、ご案内しました。

下記がヤマダ電機公式セットアップ、サポート料金です。
https://www.yamada-denki.jp/service/totalsupport/pc-support.html

win7からwin10への引っ越しで、あまりにも沢山やらなくてはいけないことがご本人も理解され、量販店に頼むとどの位費用がかかるかをご理解したようで、Sさんは自宅に来てやっていただきたいとの申し出に、NPOボランティアセンターの登録市民活団体への公式PCサポート料金は1時間、神奈川県の最低賃金1,056円をいただくことを了承されました。

一回目
現在使っているWin7のデーターセイブをしました。
・メールはライブメールで、このアドレス帳をエクスポート。
・メールアカウントのパスワードは知らないというので、パスワードチェッカーで調べました。
・引っ越し先へ持っていくデータを外付けHDDに保存
・現在のプリンターを調べ、ドライバーをダウンロード、HDDに保存
・マクロソフトアカウント取得前の、パスワードの準備
 時間にして、1時間半の作業でした。

メーカーから新しいパソコンが届いたら、箱を開けて、付属品が全て揃っているか確認し、電源は絶対入れず、まず私にお電話下さい。セットアップ日を決めましょう。と伝え。

二回目
Win10のセットアップです。
箱にはwin10のセットアップ手順が書かれたものが入っていますが、81才のパソコン初心者では、言葉じたいが理解出来ないケースが多いのです。特に、win10でオフィスアプリを使うためには、マクロソフトアカウントを登録しないと最終的には使えないのです。
ネットでは、最初オフラインアカウントでも、セットアップが出来るように書かれていますが、オフイスを公式に使用するためには、最初からマイクロソフトアカウントを登録したほうが、早く済みます。

無事に立ち上がり、エクセル・ワードのショートカットアイコンをデスクトップに造りました。
win10の場合、スタートタスクにピン留めはメニューにありますが、デスクトップへのショートカットのメニューはありません。
これは、ある程度のパソコンユーザーなら、簡単に出来ます。
次に、メールソフトの設定です。
Sさんはライブメールを使っていましたが、今現在ライブメールは使えないのでアウトルックを使ってもらいます。予め、Sさんのメールアドレスはひとつだけでプロバイダーメールなので、設定はほぼ自動でアカウントは出来ました。

次に、ライブメールのアドレス帳のインポートです。
今まで、何回も他で同じような作業をしていましたので、5分で終わる予定でしたが、入らないのです。何が違っているのかと、その場でネット検索しても、有効な答えが有りません。
ここで、開始から3時間経過したので打ち切りして、翌日に持ち越しです。
私は、何時間でも最後までやり切る予定でしたが、81才のSさんはお疲れの様子で止めました。
この日は3時間の作業でした。

翌日三回目
前日のアドレス帳のインポートの不具合は、帰宅して調べてみました。
今までの経験は、ライブメールアドレス帳を同じくライブメールへのインポートでしたが、今回はアウトルックへのインポートです。
ネットで詳しく調べると、同じマイクロソフト、拡張子.csvは同じでも文字コードの違いで入らないことが判明、文字コードをANSIに書き換えると、スムーズにアウトルックに入りました。

次にこの日最難関、セキュリティソフトのインストールです。
このT社のパソコンはトレンドマイクロ社のウイルスバスター クラウドがプレインストールされています。
勿論、一定期間後有料、それも結構高い年間料金5,800です。
そしてなによりも、このSさんの家のネット環境では重い、遅いのが嫌で、個人用として何時も推奨しているソースネクストのセキュリティゼロを入れることにしました。

セキュリティゼロを入れるには、既に入っているトレンドマイクロ社のウイルスバスター クラウドをアンインストールしないと、他のセキュリティソフトとバッティングしてしまい、入りませんのは解っていました。
しかし、アンインストールするには、アンインストール用のアプリをダウンロード、解凍、インストールしないと抜くことは出来ないのです。
Sさんのご自宅は、鎌倉の山の中、ネット回線はケーブルテレビの光と聞いていましたが、実際のスピードはADSL並み、或いはもっと遅いようで、アンインストールするだけで、1時間以上かかりました。

続いて、ソースネクストのセキュリティゼロをインストールします。
これは、量販店で買ったのでCDからいれるので、簡単に終わると思っていましたが、最新のセキュリティ定義データのダウンロードでこれまた、1時間かかりました。
次に、プリンタードライバーのインストールと、実機の立ち上げ、印刷のテストです。
ちゃんと動作するのに、印刷文字が擦れています。
これも経験で知ってました。純正でないリサイクルインクが原因です。
毎日、何かしらの印刷をするハードユーザーならよいのですが、数か月に一度の印刷頻度ですと、リサイクルインクは固まってしまい、ノズルに詰りがでるのが原因でした。
午後1時から初めて終わったのが午後5時、4時間かかりました。

まだ、Sさんの要望は残っています。
Win10の使い方、アウトルックの使い方(送信・返信・グループ化)、エクセルが苦手で使い方を習いたいというのですが、今回はここまでにして、1週間か10日、ご自身でトライして、その時に解らなかったこと、質問したいことをメモして、後日ご連絡下さい。
と申し上げて、今回のボランティア(並みの)タスクは終了して、サポート代として10,000円いただきました。

サポート代金の10,000円は安いか、高いか?
ヤマダ電機や、他の量販店の料金は見れば一目瞭然です。
3日間で通算10時間以上、全ての要望を自宅の実機で解決するのですから。
それでも、団塊世代のオジサンの暇な時間を当てているのですから、一万円で十分なんです。
posted by 西沢 at 07:52| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月27日

前立腺がん生検四回目の結果は、前回と同じ疑陽性でセーフ。

12月14日にやった私にとって4回目の前立腺がん生検の結果発表を、10日後の(あまり関係ありませんがクリスマスイブの)24日に聞きに総合病院の泌尿器科に行きました。
予約票の時間は11時30分〜12時00分となっていましたので、11時15分には、泌尿器科の受付に到着しました。
泌尿器科は3階の腎臓内科と一緒のブースにあるのですが、受付前の椅子・ソファーは満席、座る場所がなく、廊下まではみ出していました。何でこんなに混んでいるのか・・・、いつものことなので、持参した厚い文庫本を取り出しました。

ふと前を見ると、同じ日に前立腺がん生検をやった80才の方の姿がありました。
生検の日当日、手術着に着替える部屋で一緒になり、お話を聞いたところ、初めて受ける前立腺がん生検だそうで、PSA検査も初めてで、値は30と云ってました。
初めてのPSA検査で30は相当にヤバく、がんである確率は高いです。
今回の私のPSA値は24ですが、この方の初回30と10年以上PSA値を追いかけている私の24とは、かなり意味が違うのです。

11時半の予約時間ですが、私の番号が受付ボードモニターに表示されたのは12時半。
80才の方もまだ呼ばれていませんで、この方が呼ばれたのは、私の番号の前でした。
診察室へ入ったこの方はなかなか出てきません。
同伴していた奥様と思われる方一緒に、診察室から出てきたのは、20分後でした。
お二人の様子から、かなり深刻な状況であることが想像できました。
受付のスタツフとの会話が聞こえてきました。
年明け早々のMRI検査の日程についてお話しています。
と云う事は、がん細胞が検出され、転移がないかどうか調べるのでしょう。

私は、このような状況のイメージトレーニングを前3回してきています。
4回目とは云え、PSA値24ですから、がん細胞の検出、それに続く、骨に転移していないかどうかのMRI検査、そしてどんな治療、抗がん剤、手術なとの先々については理解しており、特に今回はある程度の心の準備は出来ていました。
そして、待つこと1時間半、私の受付番号がトップに表示され、診察室に呼ばれました。
ドクターは湘南鎌倉総合病院が、前の山崎にあった頃からのお付き合いのある30代後半の若いお医者さんです。

・「先生、今回は年貢の納め時ですか」
・「否、前々回とおなじ、擬陽性です、前立腺肥大からくるPSA値の高さだと考えています」
・「では、このまま、ほっといて良いのですか?」
・「一応、経過観察、4ヶ月に一度の検査は受けて下さい。」
・「全くのセーフではなく、ギリギリセーフと云うところですか?」
・「この擬陽性のまま、いく可能性は高いのですが、やはり、経過観察は必要です」
・「今回の生検では、先生の患者さん3人いましたが、一緒の病室で過ごして、お二人とも全然夜中、日中トイレに行かないのでちょっと私とは違うのではないかとは、思っていましたが。」

たった5分で診察室を後にしました。
この日、会計は異常に混んでいて、一階のロビーで私の番号が表示するまでに30分も待たされました。
自動精算機に、自分のカードを差し込んで本日の医療費をみると、150円でした。
病院に着いたのが、11時15分、玄関を出たのは13時45分、2時間半もいたのです。
最悪のケース、ガン検出、骨に転移のステージ4まで覚悟のイメージトレーニングをし、エンディング詳細計画の準備をスタートする心づもりだったのに、病院の外にでると久しぶりの青空が広がり、ダウンジャケットがいらない陽気です。
太陽の光、青空が如何に、人の心に希望を与えるのか・・・なんて考えてしまいました。

病院から自宅に戻るには、鎌倉で一番大きいショッピングモールを横切って行くのが最短距離です。この日、若し最悪のケースだったら、このモール内にある「くら寿司」で、普段は高くて食べれない高級ネタを、体重を考えないで、おもいきり食べようと考えていましたが、結局、帰り道のコンビニのイートインが軽く済ませて帰宅しました。

帰宅すると、予定よりもかなり遅く帰ってきたのにも関わらず、明るい声で「どうだった」と聞くので、私は、玄関で大きく手を広げて「セーフ」と答えました。
すると、カミサンは「では、来月は旅行に行けるね、何処へ行こうか」でした。
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2019年12月25日

週刊朝日 上級老人/下級老人 誰も云わなかった「定年後」の正体

年末、年の瀬になると各種週刊誌は、特集を組みます。
そして相変わらずなのは、定年退職を控えた、50代60代に向けて、老後不安を煽る記事特集です。そのなかで、週刊朝日の「上級老人/下級老人 誰も云わなかった「定年後」の正体」と云うキャチコピーに目が留まりました。如何にもセンセーショナルな見出しです。
どうせ、中身は私たちが既に常識として知っているような内容であることは、想像できますが、一つの実験として大新聞がの広告としてだした日に、これらの記事をRSS機能(検索エンジン対応)が充実した、日本財団のブログに考えられるハッシュタグ#をつけて、発信したらどの位のアクセス数があるかの実験をしてみようと思い立ちました。
当然ながら、週刊朝日の宣伝につながることは承知の上なのですが。



夕方のお散歩を兼ねて、コンビニで立ち読みすることにし、近所のローソンに出かけました。
しかし、ローソンの雑誌売り場に、週刊朝日は売っていませんでした。
或るのは若者向けの成人雑誌や、大衆紙ばかりで、新聞系の週刊誌はおいてありません。
このローソンだけなのかも知れないと、少し足を延ばして、別のローソンに行っても見当たりません。
次に、AM・PMに行ってみましたが、此処にも置いてありませんでした。
仕方ないので、駅まで足を延ばし、ファミリーマートに行くと週刊朝日は置いてありましたが、紐かけしてあり、立ち読みは出来ません。そこで駅ビル内にある書店に向かいました。
しかし、かなり大きめな書店なのですが、週刊誌類はいっさい置いてないのです。

最近の書店業界の変化は感じていましたが、週刊誌を置かない書店があるとは、初めて知りました。最終的には自宅から一番近い「セブンイレブン」に紐かけなしで売られていました。
知人のコンビニ経営者の話では、雑誌類の立ち読みは大歓迎だと云うのです。
理由は、店内に人がいることで、防犯に役立つからとのことでした。

430円(税込み)を支払って、自宅で読むと、内容は想像通り、私たちリタイヤ、70代に入った団塊世代には常識のことばかりでした。ここに一部を抜粋して引用します。

社会は持てる者と持たざる者に分類されている。
2019年6月、「平均的な老後資産は2,000万円必要」という報告書が発表された家計調査によると、日本の全世帯の3割は2,000万以上の金融資産を保有している、言い換えれば残りの7割は、年金だけでは老後を生きていけないと、宣告されたことになります。
7割の「持たざる人たち」にとっては、確かに衝撃的なニュースだったでしょうが、一方、残りの3割の人達も驚いていたのです。
「2,000万円ぐらいでは安心出来ないと」


高齢化が差に拍車をかける。
何故定年後に格差がうまれるか一番の大きな理由は高齢化です。
現役時代にの格差は、働いていた時の収入の差ですが、年金生活に入る年金収入の格差は小さくなるのですが、当然ながら年金だけで生活は出来ず、金融資産を取り崩すことになります。


平均寿命が伸びたことによる繰り下げ受給のメリット
給付開始をひと月延ばすごとに、0.7%のプレミアがつき、最大42%も受給額が増えます。
これは元本保証で年率6%で運用するのと同じです。
詳しくは、日本年金機構webサイト


ダブルインカム(共稼ぎ)とシングルインカム(専業主婦)の差
共稼ぎと専業主婦の現役時代の収入の差は、子供を預ける費用や、家庭内家事の手間をお金で補ったり、又、収入に応じて子供の教育費が増えたり、家族サービスの遊興費が増える傾向にあり、専業主婦の家庭のような節約、切りつめが少ないので、思ったよりも格差は小さいのですが、二人とも退職してからに大きな差が生まれます。
正社員だった夫婦二人の年金と第3号主婦の年金の差が大きいのです。
日本政府は、退職高齢者の年金対策として、共稼ぎを推奨する方向です。
少子高齢化の為の施策として、保育園の無償化の裏には、退職後の年金問題が隠れているのです。



この記事を読んでの率直な感想は
今の現役の方々は大変だな・・・です。
私たち団塊世代が老後、退職後について考えだし、老後資金を意識しだすのは、持ち家のローン返済のメドが立ち始める、40代後半から50代にかけてですが、この頃の日本経済はバブル崩壊がありましたが、金利はまだ高く企業の退職金も、企業年金もある程度確保されていましたので、普通に家計のなかから余剰資金を積み立てしていれば良かった時代でした。

私たち夫婦が、本格的に老後資金を考え出した時、先ず、先輩退職者に「70才の時、幾らあったら安心できるか」を聞きまわりました。その時の回答が、ちゃんと年金をもらっていれば70才時、2000万の金融資産という数字が示され、これを目標に、40代初頭から、老後資金造りを始めました。

私たちは子供のいないダブルインカムでしたので、持ち家はバブル崩壊前に取得し、ローンは全額返済し終えていました。
55才と52才で退職し、、海外ロングステイを始めてみて、70才時2000万という数字では、平均寿命の延び、健康保険の負担の増加施策などで、きついことが分かり、70才時3,000万円に変更しました。
収入が途絶え、年金収入だけになっていましたので、追加の1,000万は、老後・年金生活の支出の見直しです。
退職直後、一年間の六回の1か月単位の海外ロングステイ生活は、四回のリピートショートステイに切り替えました。

そして、65才の内臓疾患による短期入院を機会に、パスポート更新せず、海外旅行を卒業し、国内旅行に切り替えることにより、老後年間節活費は、縮小した分、70才時の金融資産額は、理想とする余裕のある金額まで上昇しました。

現役世帯、これから定年・老後資金を考える方々へのアドバイス
1,夫婦二人で、共通した人生観、価値観を持って、どんな老後を送りたいか話し合う事。
2,住宅ローンの返済を早め、メドがついて時(40代から50代前半がリミット)から、老後資金計画を始めない遅いです。
3,現役時代の自分生活してきたまわりには、同じような学歴・収入・家庭環境の人に囲まれていますが、退職して、自分の地域に戻ると、様々なひと繋がります。
ここで今まで感じたことのない格差を感じます。
それは、それと割り切り、身の丈にあった生活、老後をエンジョイするする生活を早く見つけて下さい。
posted by 西沢 at 07:42| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年12月23日

イギリスコンテナ死亡事件 日本に来ていたベトナム実習生の死

日曜日の朝日新聞社会面トップで、先月、イギリスで起きたコンテナ内で39人死亡した不法移民のなかに、昨年まで神奈川の食品工場で実習生として働いていたベトナム女性がいたこと、彼女の仲間と一緒に撮った画像と、原稿用紙のマス目のなかに丁寧に書かれた日本語のひらがな、と漢字の文章のが掲載されていました。
狭い、空気が徐々に薄くなり呼吸が苦しくなるなか、家族に送ったメールが残っていたようです。記事を読んでするだけで、私自身が苦しく覚え、目頭が熱くなります。
そして、思い起こしたのは、2週間前の鎌倉の日本語支援のボランティア団体が主催した、クリスマスパーティで出会ったベトナム人実習生の若者の姿です。

12月17日ブログ記事引用

ここ数年、このつどいのパーティに多く見かけるようになったのは、ベトナムから若者です。
主に、藤沢近辺の工場で技術研修の名目で働く3年間限定の実習生の若者です。
私は、退職後何回もベトナムを旅していますので、パーティの会食の時間、大勢のベトナム実習生の皆さんとお話しました。
昔、50年前の日本では、皆さんと同じような年代の日本の若者は、実習生と云う名で、アメリカ・カリフォルニアの苺畑で、メキシコからの労働者として一緒に働いていたこと、そして、まだ経済発展途上だった日本に戻ってきた、日本人実習生の半分は、再び、アメリカ、カナダ
ブラジル・アルゼンチンへ旅だって行ったこと等を彼らに話しました。
彼らも、3年間の期限でいったんベトナムに帰国するけど、再び日本で働きたいと云います。



この席で、私は1960年代後半の日本の若者の話をしました。
東京オリンピックが開かれて1964、昭和39年、当時のドル/円レートは360円、私の高校時代のアルバイトが1日500円(1.3ドル)高卒初級国家公務員の初任給は14,000円(38ドル)と、発展途上国レベルであったことを話し、当時は一般庶民が海外にでることは、今のベトナムよりも難しかった。
海外旅行が自由化されたのも、このオリンピックの年で、一部の超富裕層だけのものだった。
そんな時代でも、アメリカに旅立った多くの若者がいたことを話しました。
今のベトナムの若者が、名目上、先進技術習得の実習生とよばれ今、日本に来て働いているように、60年代後半から派米青年と云われる人たちがいた。

公益社団法人国際農業者交流協会

(英語名 The Japan Agricultural Exchange Council 略称:JAEC)は昭和27年に設立した社団法人国際農友会と昭和41年に発足した社団法人農業研修生派米協会が農業研修生海外派遣事業等の充実強化を図るため解散統合して、昭和63年3月30日に設立されました。
その後、公益法人制度改革により平成24年4月1日公益社団法人へ名称変更を行いました


https://www.jaec.org/summary/intro.htm
元々は、日本の農業を担う若者を海外へ派遣し、最先端の農業技術を学んでもらう為の、政府系の組織ですが、実態はアメリカ・カルフォルニアの日系農場への出稼ぎ斡旋でした。
当時、カルフォルニア日系農場は、白人農家は、高く売れるが、手間、人手がかかるイチゴ栽培を敬遠するのを見てメキシコ労働者を多く雇い入れていました。
そこの農場監督者として、同じ日本の血を引き、休日も夜もいとわない、日本の若者の受け皿となったのです。
当時の時給は1ドルでした。残業すると1日10ドル、1か月250ドル、日本円で90,000円は当時の高卒国家公務員の6.5倍、それも、寝場所も食事も日本・アメリカ間の船賃(JAEC負担)も全て無料、遊びたくても街から離れた農地ですし、まだ人種差別色が濃く残っているアメリカの街中に行く勇気もなく、連日メキシコ人労働者と過ごしているうちに、英語よりもスペイン語が上手くなっていったそうです。

ストロベリーロード
この頃の派米青年や日系人農場を描いた小説があります。
横浜出身の作家石川好の「ストロベリーロード」です。
私と同じ団塊世代、彼は派米青年制度ではなく、幼い頃別れた実兄がアメリカで暮らしているのを頼って渡米し、兄のイチゴ農場では働いていた当時を後に帰国して小説化したものです。
当時、日本の若者が労働者として働いていたのは、アメリカだけでは有りません。
ドイツの炭鉱でも大勢の技術研修と云う名目で日本の若者が働いていたのです。
参考資料:
ドイツの炭鉱で働いていた日本の若者
1950年代から60年代の半ば、東京オリンピック当時の日本は、開発途上国だったのです。

その後、これらのどうなったか?
ドイツの炭鉱で働いていた多くの若者は、政府の思惑どおり帰国してからは、日本の炭鉱の技術者として活躍したようです。
では、地方の農家出の派米青年はどうなったか?
私が彼らの存在を知ったのは、南米、ブエノスアイレスでした。
多くの派米青年は、一旦日本に戻ってきましたが、海外に暮らし、日本の何倍もの給与を手にしてからというもの、経済格差を痛感し、再び自分の将来の人生設計を、海外の地に求めて、旅だっていったのです。

は、日本語ボランティア主催のクリスマスパーティで出会った、ベトナム人実習生に、これらの日本の若者の歴史を話し、君たちの何人かは、かなり高い確率で再び海外にでることを模索するようになる。
何処の国ほ目指すかは分からないが、一度働いたことのある日本に来ることに備えて、お金を貯めることも大切であるが、一番は大切なのは、日本語をマスターすること、次回日本に自力で来日する際、正規の労働ビザを取得するには、企業の面接で重要視されるのが日本語能力であると、話し、併せて、3年間の滞在中に、積極的に日本の友人を造ることを薦めました。

このクリスマスバーティの時、私は、イギリスで起きたこの悲惨なコンテナ事件を知りませんでした。そして、12月22日の朝日新聞で39人の犠牲者のなかに、私の住まいの近くの神奈川県で働いていた、女性実習生がいたことを知りました。
彼女も昔の派米青年と同じく、一度、海外働いてから帰国し、再び海外を目指して、不幸な状況に陥ってしまったのです。

彼女の元同僚日本人の話が掲載されていました。
「もう一度日本に来れば良かったのに、正規労働ビザで」
posted by 西沢 at 08:17| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ