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2024年11月11日

定年後の人生を過ごす場所としての条件は

久しぶりに元鎌倉の写真クラブの先輩のお宅にお邪魔しました。

退職して一番最初に地元の趣味のクラブに参加したのが、写真クラブでした。
当初入会した時はまだフィルムカメラの時代でした。
やがて、デジ一眼の時代になり、私はミノルタ派だったため、ニコン・キャノン派より大幅に出遅れました。
デジになるとやはりパソコンが必須の時代の到来です。
鎌倉の写真クラブのメンバーはこの時、退職直後や数年で年齢は60〜65歳、私は早期55歳退職、メンバーの皆さんとはちょうど10歳違っていました。
何とか、新しい土地に溶け込もうと、デジ時代まパソコンの支援を申し出るようなりました。
あれから21年が過ぎ、メンバーのお宅にお邪魔すると、他に何人かいらして、皆さん全員85・6歳でした。
私が76歳なのですから、そうなんでしょう。いろいろと昔の話しになり、思い出すこともあり、今回、ブログに残すことにしました。

2003年に退職した一年間は、
終の住処探しと、気軽に安く、滞在できる海外ロングステイの地探しに明け暮れ、翌年2004年の3月に、現在の住まいに引っ越してきました。
現役時代の家は、仕事優先で決め購入した大型・大規模マンションでした。

朝早く、夜遅い建設関連の仕事ですし、大型現場担当でも二三年で場所も変わり、本社へは月に一二度の出社、事務処理程度でしたので、住まいは特別、都内でなくても構わなくとにかく駅から徒歩圏、できれば10分以内の大型マンション、近所付き合いとか、子供のいない二人暮らしなので自治会とかiかかわらずに住む新興住宅が理想でした。
どちらにしろ、退職後は、海外か或るいは国内の、便利であるけど静かな環境の地と決めていました。
そして30代半ばで、神奈川県横須賀線新駅駅前開発の大型マンションを購入しました。
ちょうど、日本経済はバブル、不動産好景気の頂点に向かおうとしている時期でした。
ラッキーとしか言いようのない状況で、40代前半でローンを返済し、夫婦ふたりで早期退職、海外ロングステイの夢の実現の為にまっしぐらに走っていました。
退職後の終の棲家探しは、日本国内に二人の人生の最後過ごす家、場所を確保するが先決、と同時に定年後の10年から15年、二人の健康や体力に少しでも陰りがでてきたら、
日本に戻る計画の元、その間の極楽、天国のような場所、国、都市を自分たちの目と足で探し出す一年と仮定していました。

日本の終の棲家を鎌倉市大船と決めた理由は

勿論いろいろな理由や偶然が重なっています。大きくはロレーションと資金面でした
これまで住んでいた駅前マンション築20年、84平米、10階建ての3階、両面バルコニー、縦方向専用ELV、駅から距離徒歩5分、のこれを売ってもあらたな購入するマンションの
との差額、持ち出し資金は上限1,000万とする。と決めていており、この現在の住まいの値段次第でした。
20年前の購入値段が3,450万円、その後のマンションバブル最盛期つけられた価格は8,000万でしたが、バブルは弾け、古い20年前のマンションは幾ら値段をさげても希望売却価格の半値にもならない時代でした、2003年、バブルは弾けのす。
そして、尚悪いことに、私の住むマンションは投棄対象となっていた時期もあり、私の住む棟でも競売物件が現れ、価格はそれに引きづられ、まさに底値の時でした。
新しく買う、鎌倉の新築マンションのとの差額1,000万の目論見はかなり難しい状況でした。

ひとつの光が・・・

新たに購入する予定の鎌倉のマンションは52戸、小さいマンション、住所表記は鎌倉市、最寄り駅は大船、駅から徒歩9分、眼の前が市の児童公園、ほぼ坂道なし、建設前の元の地は某大手企業の社宅アパート跡地、中層建造物指定地域、文教・自然保護地域指定。と理想的な立地でした。
ここ見つけたのは、大船駅東口から徒歩10分にマンション十数棟の超大型開発中現場があり、そこを見に行った時に、駅近くでチラシを配っていました。
この東口の超大型マンションの価格は私の予算+1,000万の差額から大きくはずれていたのと、超大型マンション群と云えば現在すんでいる所と同じで、定年後の暇にな長い時間を過ごす、「終の棲家」としては相応しくないのと、共用部が広すぎてそこの体育館や応接室、訪問客用の客室などの費用が全体の管理費に永久的にかかるのと、決めては住居表示でした。
このマンションは立地は横浜市栄区笠間という地名であったことが一番でした。
湘南でも、鎌倉でもない、栄区笠間という北関東を思い起こすうな田舎のイメージしか湧いてこない地名だったのです。
これは、不動産屋さんもよーくご存知で、私が購入しようとしたマンションの価格が神奈川県標準よりもかなり高いのを指摘すると「場所・地域」です。と即答されました。
この現在のマンションに落ち着いたのは、52戸のうち3戸つまだ売れ残っていた時でした。
3戸とも、売れ残りの理由は明白でした。
購入予定者のキャンセル、ローンが通らないとか、買い替え目的なれど、前のマンションが熟れないなどの理由でのキャンセルでした。
私の場合、現在住んでいる自宅売れなくても現金、キャシュで買えるだけの資金がありました。
ここで、販売会社・建て主とのネゴの結果、ほぼ私の予算計画に近い価格になりました。
勿論、条件はあります。キャシュで販売会社の決算の前日までの支払い。私の持つ現在の現在のマンションをこの販売会社が買い取る価格まで決めました。
この会社は、私の現在住むマンション、でこの価格なら24時間で売れますと、云いきりました。
横須賀線駅前のあの大規模マンション群の一号棟のX階なら、内覧しなくても価格はとなりました。
日本国内の終の棲家はこれで決定し、次は本来の早期サリタイヤ計画である、海外ロング+ミドル+リピートステイ探し、行脚の旅が始まりました

三十代後半から思い描いていた、定年後の人生を過ごす場所としての条件


・温かく寒くない 温暖な気候 台風など災害の少ない国 
・物価の安い   年金だけで生活出来るレベル物価、為替が安定してる国
・日本から近い  直行便がとんでいる国・都市
・言葉文字表示  アルファベット又は漢字表記の国
・安全な     少なくとも銃が規制されている国 

これらの消去法から選んで、実際に何度も最低一週間以上の滞在を繰り返してみました。

先ず消えたのは、オーストラリアでした
直行便で時差もなく、比較的近いと感じましたが、2000年のシドニー五輪以降の不動産価格の高騰で高値止まりしていて、とても私達の予算、懐勘定では
ロングステイは出来ず、単発の観光の場所と判断しました。

次に消えたのは、ハワイ・ホノルルでした
何度も通っているうちに、定宿も決まり、リピート・ミドルステイ、せいぜい一滞在二週間程度を年に2、3回過ごすには絶好の地ですが、ここも年々の
物価、ホテル代の高騰、何よりも「テルミークラブ」の破綻で格安航空券の道が途絶えのが、消えた大きな原因でした。
本格的な、数週間のロングステイは諦めましたが、7泊9日ていどでしたら、日本人なとって最適な場所と思っていましたが、ここ数年のワイキキのホテル代と物価の高騰
と行き過ぎた円安では、とても70代のシニア夫婦で過ごす場所ではなくなっています。
私達が一番ひんぱんにワイキキに通っていた頃はドル最安値の78〜90円前半の時代でした。

タイのチェンマイとバンコク
現役時代にタイ語教室に通っていたころから、薄々とタイ語の発音の難しさと、タイ文字の複雑さに、とてもかなりのサポート体制がないとタイでの長期滞在は出来ないにと
悟りました。そして、今は大勢のタイの人々が日本の秋・冬を楽しみに大勢押し寄せて来る時代です。
以前のように、バンコク市内の大型ショッピングモールのフードコートで二人で100バーツで食事が出来る時代ではなくなりました。

マレーシアのクアラルンプールとペナン
ここはかなりはじめから消去、対象外でした。
一番は気候です。ペナンの海岸は決して日本人が描くような美しい、済んだエメラルドグリーンの海岸ではなく、どちらかと云うと湘南の海岸に近く、天候も湿度が高く
からっととしていません。当時の物価はそれほど気にもなりませんでしたが、やはり基本は宗教、イスラム圏にはいるので、やや、仏教国の日本人としてちょっと違うと
いう感じを持ちましたし、食事面でも観光滞在でしたらさほど気にならい程度でしたが、決定的だったのが、ペナンのリゾート地、バトゥー・フンギリに連泊した時、街にでで、
美味しいパン屋さんを探しのですが、普通の甘い菓子パン程度のものしかなかったのです。
私たちの食事、食べ物の基準は一般的な街かどに、普通のパン屋さんがあるか、ないかだったのです。
そして、もう一つ、残念ながらマレーシアでは未だに、熱帯性の風土病があり、日本人もある一定割合で感染していることを知りました。

残ったのが、台湾とバリ島でした。
退職後一番長く滞在した日数や回数が大きかったのがバリ島でした。
温かい・物価が安く・日本から直行便がとんでる、独特の文化は、映像クリエーターを目指す私にちょうどいい、言葉もなんとかなりそう・・・
問題は、私達が何度も滞在を繰り返していた、バリ島ウブドにはまだ一軒もスーパー・コンビニがなく、食事面で苦労しました。
短期・観光客なら毎日もナシゴレン的な食事で構わないでしょうが、長期滞在でキッチン付きの部屋をレンタルとなると、ある程度の食品が揃う店が身近に必要となりますが、
私達が滞在していた2004,5,6年頃はまだウブドに欧米・中華・日本の食品を扱う、スーパー・コンビニは有りませんでした。

パリ島も随分変わったことでしょうね
いつも滞在していた「ファミリーゲストハウス」はどうなっているでしょう。




最後に残ったのは、台湾・台中でした。
ここは私達夫婦が考える条件が全て整っていました。特に日本から一ヶ月単位で受け入れてくれる組織・団体があり、ここを定宿とする日本人リピーターとも
ネットで連絡が取れ合う環境になり、最後はここかなと思っていました。がいつの間にか年齢を重ね、パスポートは失効し、来年は喜寿、もう十分、世界は行き尽くしたかな
というのが、現在の心境でしょう。

私達団塊世代もいつしか、この鎌倉の写真クラブの先輩と同じ80代になります、いつかではなく、もうすぐそこでしょう。
今年の秋、何時もなら旅行計画シートが沢山あり、予算を組んでいるのに、このお天気と変化と体調を考えると、計画は前に進めません。
今、同じシニアの皆さんに伝えたいのは、自由に行きたい所に、行けるのは、70代半ばまでなのかな。ということですしょう。
体力とか資金力の違いはあるでしょうが少なくととも海外のフリー長期滞在は75歳までだろうということを、定年後海外移住を目指す後輩の皆さんにお伝えします。


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posted by 西沢 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ