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2024年07月30日

次のオリンピック4年後LAX大会は見れるだろうか



2024年7月27日、深夜パリ五輪の開会式をほんの少しだけTVをみて直ぐに寝てしまいました。
頻尿・排尿障害で毎日寝不足、この熱暑で体力の衰えを感じており、寝る時間を優先しました。
寝ながら、これまで生きてきた76年間の自分の人生と、このいつも世紀の大イベントと呼ばれるオリンピックについて思い出し、考えてみました。
いつか、ある大病院のベッドで次か、次のオリンピックを見ているかもしれないし、もう次はみていないかもしれない。と。

これまでの夏季オリンピック開催都市を思い出してみました。

第1回  1896年 アテネ(ギリシャ)
近代オリンピックと云われていても、この頃、ここに参加してきたのは、以下の開催地を見ると一目瞭然、ヨーロッパ・白人のための、戦争を一時中断して仲良くしようという、大運動大会だったのは明白です。
それでも、極東のなかでアジア人としては、幾らかでも欧米社会とお近づきになりたいと考えている、どちらかというと、基本的に生活マナー、道徳観の高い唯一のアジア人、日本人だけは
別扱い、お客様扱いして、参加させてあげ、世界一の大運動会にしよう、というのが、フランス人、クーベルタンの思いつきで、その当時は全西欧人は、誰も疑問にお思わなかったのでしょう。
日本が参加したのは、1912年(大正元年)ストックホルム大会が初めてで、日本女性の参加は1928年第9回アムステルダム大会に人見絹枝選手(陸上競技)が初めて参加し,女子800メートルで銀メダルを獲得しました。

このスタジアムのトラックで走ったことがある。
この第一回近代オリンピックが開催された、オリンピックスタジアムは現存しており、ギリシャ・アテネ市内観光では、パルテンノン神殿とともに必ずおとずれる名所となっており観光客だれでもが、この競技場のなかに立てる、人気の場所となっています。1993年、エジプト旅行の途中訪れて、この第一回のスタジアムに立って、この100m直線を走ってみた
思い出があります。31年前、45才の時だった。
今では一般観光客がトラック内にははいれないでしょうが。

第2回  1900年 パリ(フランス)
第3回  1904年 セントルイス(アメリカ)
第4回  1908年 ロンドン(イギリス)
第5回  1912年 ストックホルム(スウェーデン)
第6回  1916年 ベルリン(ドイツ)-中止
第7回  1920年 アントワープ(ベルギー)
第8回  1924年 パリ(フランス)
第9回  1928年 アムステルダム(オランダ)
第10回 1932年 ロサンゼルス(アメリカ)
第11回 1936年 ベルリン(ドイツ)
第12回 1940年 東京(日本)返上、
第13回 1944年 ロンドン(イギリス)中止
第14回 1948年 ロンドン(イギリス)
第15回 1952年 ヘルシンキ(フィンランド)
第16回 1956年 メルボルン(オーストラリア)、ストックホルム馬術のみ(スウェーデン)

第17回 1960年 ローマ(イタリア)
戦後生まれの団塊世代の私達の記憶ある、オリンピックと云えば微かに残っているのは、1960年のローマです。
次のオリンピックがはじめてアジアで開かれる、それもたった15年前に世界を相手に戦争し敗れた、アジアの島国で開催される、当時の話題は、まだ戦後15年、国威高揚だったのでしょう。
1960年私は12才、私の家にはまだテレビがありませんでした。
それでも、アフリカの植民地同様だったエチオピアの選手が旧ローマ帝国の道を走って金メダル、それも裸足でと。
「裸足のあべべ」と知られていますが、アベベは最初から裸足でなく、途中、慣れない靴ずれで脱ぎ捨てたというのが真相のようです。

私の記憶にあるオリンピック開催都市といえば
第18回 1964年 東京(日本)
東京オリンピックの年、昭和39年、記憶はまだ和暦のほうで覚えています。
昭和23年生早生まれの私は、高校2年生16才だした。
いまでもはっきりと覚えているのは、授業中だった午後、私の後ろの陸上部の同級生はラジオでマラソン中継をひそかに聞いていたようで、国立競技場に二着で入ってきた様子を
私の背中をつついて、日本がマラソンで銀メダルと、囁いているうちに、「あーーー」と声を出して、教師にそこの二人と指さされました。
彼は、スイマセン、今、マラソンの円谷選手が二着で国立に戻ってきたのですが、イギリスの選手に抜かれて、三着、銅メダルになりました。と語ると教室はどよめきました。
日本人選手がマラソンでメダル、教室のみんな、授業を忘れて拍手でした。

翌年、私が所属していた文化系クラブの全国大会が東京で開催されので、クラブ豚頭教員引率で4名で東京に行きました。
この時の引率教師は、元々東京の大学卒業だったので、都電に乗ってオリンピック会場を案内してくれたのを覚えています。

後の話しなりますが・・・
ずっと後、私が建設業の大型現場施工管理責任者として働いていた時、ある下請け子会社の社長との打ち上げ会の席で、この東京オリンピック当時の話なりました。
この社長この頃すでに六十代だと思いますが、東京オリンピックは全てテレビで見たというのです。
あの当時忙しかったのではと聞くと、五輪が始まる一週間前に警視庁は都内のチンピラ・ヤクザ・今で言う半グレを一斉に拘束し、留置場に入れられたというのです。
逮捕・勾留の理由はなく、「お願いだから五輪が終わるまでここにいてくれ、当然メシはだす、そして五輪TV中継は見放題」
大親分の部屋では当時めずらしかったカラーテレビだったそうです。
閉会式が終わった翌日、無罪放免となったとそうで、但し、これは当分喋るなと云われたそうです。
1964年昭和39年ってその程度だったようです。

第19回 1968年 メキシコシティー(メキシコ)
この東京オリンピックの翌々年に日本脱出を果たした私には、メキシコ、ミュンヘン五輪の記憶は全くありません。
その頃住んでたいたのが、南米アルゼンチン、サッカー大国でしたから、サッカー低開発国の日本が、メキシコに勝って銅メダルというニユースは知りました。
スポーツ紙の論調は、日本にはプロサッカーチームはなく、全員クラブメンバー、でもメキシコはプロが出場していたら、勝負にならなかったろうという記事でした。

第20回 1972年 ミュンヘン(西ドイツ)
これはよく覚えています。
アルゼンチンはユダヤ系が多い国です。世界大戦当時ヨーロッパで暮らしていた富裕ユダヤの多くが当時、先進国だったとアメリカに移り住んで来ていたのです。
ナチス・ドイツのホローコース収容所責任者のアイヒマンも逃れてブエノスアイレスに住んでいたのを探し出したのも、ユダヤ系の人々でした。

日本に帰国してからこれまで、特に意識はしていませんでしたが、全ての開催都市は一度以上は旅しています。
第21回 1976年 モントリオール(カナダ)
第22回 1980年 モスクワ(ソ連).
第23回 1984年 ロサンゼルス(アメリカ)
第24回 1988年 ソウル(韓国)
第25回 1992年 バルセロナ(スペイン)
第26回 1996年 アトランタ(アメリカ)
第27回 2000年 シドニー(オーストラリア)
第28回 2004年 アテネ(ギリシャ)
第29回 2008年 北京(中国)
第30回 2012年 ロンドン(イギリス)
第31回 2016年 リオデジャネイロ(ブラジル)
第32回 2020年 東京(日本)


第33回 2024年 パリ(フランス)

開会式を前に、日本とパリの時差を調べてみました。
パリと東京の時差は通常8時間ですが、これから行われるオリンピックはフランスの夏時間にあたるため時差は7時間となります。
楽しみにしています、サッカー男子の第二戦は日本時間朝の4時ですから、フランス時間の夜の9時というとなります。
簡単な計算方法、日本の放送時間に24を足して7を引くと、フランスの現地時間になるということです。
反対にフランスの午前10時は場合、プラス7を足すと日本の17時となります。

フランスというよりパリは二度訪れています。
最初は二十代、ブエノス時代のこと、
三週間、ユダヤ系老婦人のお供でパリに滞在しました。
元々、パリに住んでいた女性ですが、第二次大戦中、ナチスドイツから逃れる為に、大勢のユダヤ人が南米に逃れてきました、彼女のその一員で戦後70年代半ば、パリに残してきた色々な不動産関連の整理、売却のためにパリに行くのに、フランス語が全く話せない、ましてやフヘブライ語なんか解らない私は、荷物持ち、雑用係、暇つぶしの相手としてうってつけだったのです。

三週間、このあばあちゃんと何していたか、ほとんど毎日、町をぶらつき、映画館に入り、カフェで過ごしていました、このおはあチャンはそれなり、用事を熟していたようです。
私は今思えば、言葉が解らない異国の召使的存在だったのでしようが、三週間の異国、パリはとても刺激でした。
パリ中心部に近い、アバルトメントは、セーヌ川に近く、ちょっと角を曲がるとエッフェル塔かよく見えるところでした。そうお彼女の持つ不動産は、今回のパリ五輪の舞台の都心にあったのです。

二回目は、1990年のお正月、
スペインマドリー・フランスパリ・再びスペインバルセロナをぐっと回る、エアー&ホテルパック10日間のでした。バブルの頂点の年のでした。
あの時のサクラダファミリアはまだ、完成しておらず、2026年に完成するようです。
この時のパリ滞在は、都心・セーヌ川・エッフェル塔・モンマルトルからは遠い郊外、地下鉄で20分程度のホテルでした。
私達夫婦は42才・39才の、今思えば若い、怖いものなし夫婦でした。
この頃から、団体パックツアーに頼らず、二人だけの旅が今でも続いている訳です。
TVてみる限り、さすがパリ、20代と40代の頃、出歩いたパリの町並みはテレビ画面を見ていても思い出す建物が残っていました。

今、このフログを書きながら考えているのは、
過去にオリンピックが終わり、閉会式の時に、次の開催都市を知り、自分の年齢を考えたことはあったろうかということです。
これまでは、偶然でしたが1964年自国開催五輪の後の全ての五輪開催都市に旅して宿泊した経験があります。
次の五輪は2028年のアメリカのロサンゼルス。
団塊世代の私はジャスト80才、これまで十数回降り立つたことのロスアンゼルス、最初は1967年、19才の時、リトル東京と呼ばれた町で「Boy」と呼ばれて、自分はまだ
少年扱いなのだと自覚したことを覚えています。
その後、中米、南米への旅するたびに、LAX・アトランタを経験してきて現在に至っています。

パリ以降の開催地、予定都市は
第34回 2028年 ロサンゼルス(アメリカ)
第35回 2032年 ブリスベン(オーストラリア)
第36回 2036年 招致を目指している国は ポーランド、インドネシア、トルコ、エジプト

2028年はロサンゼルスか、その時80才、ちょうど団塊世代男性の平均寿命の年か

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posted by 西沢 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ