都知事選で都庁のプロジェクションマッピングの話題が上がっています。
あのバブルの摩天楼を背景にしたプロジェクションマッピングは確かに、インバウンド客の夜の観光資源・スポットとしてかなり、有効であろうと思いますが、果たして予算の40億円と、「電通」の癒着は別にして、見に行ってもいいかなと思うようになりました。
自宅から新宿は湘南新宿ラインで49分と近いこと近いです。
新宿は初めて上京したきた時以来、縁のある場所でした。
信州・長野市の少年にとっての都会・東京は、上野駅です。
修学旅行でもその後の高校生のときから始まった、バックパック旅行でも全て、基点は上野駅でした。
新宿・池袋は信州の少年に縁遠い、ちょっと怖い町というイメージがありました。
初めての新宿は1966年、18歳の私が新宿駅西口に降り立つた時、淀橋浄水場の跡地は開発途中で、その当時人気上昇中のボーリング場が沢山あり、何処も二時間待ちの混雑ぶりでした。
この時一緒だった高校の同級生は、初台のアパートに住んでいて泊めてもらいました。
この友人はアパートが近かったのが災いして1968年の「新宿駅騒乱」事件に巻き込まれ。その後就職活動で苦労したそうです。
次に私が新宿とかかわり合いを持つは、づっと後で1980年
ブエノスアイレスから帰国し専門学校・結婚そして、アルゼンチンに戻る事を断念し、日本での生活、就職として職場に近い、京王線・井の頭線沿線に住むようになって新宿が身近な駅となりました。
この頃から、新宿は大変貌していきます。
西口には次々と超高層ビルが次々にされていく時代です。
就職した会社は建設エンジニアリング会社、親会社が米国のENGメジャーとあってほぼ日本の代表的な建造物全てに関わり合ってきました。
1988年、「世紀の大事業」と言われる東京都庁舎の工事が始まりました。
私の親会社が受注し、私の所属する部署が担当することになりました。
今、思い返せば、地獄の2年間が始まるのです。
時はバブルに向かってまっしぐら、「24時間戦えますか」と云われた時代。
部署のメイン社員のほか、協力会社・職人会社ののほとんどをこの都庁の現場に注力しなくは、いけいな時期なのに、仕事は山ほど舞い込んできます。
営業社員に、断れ、受注するなと云っても、あの時代、何度も人がいないと断っても机の上には、営業からの引き継ぎ書類・図面がうず高く溜まっていくのです。
それでも、スーパーゼネコンも、うちの親会社も、面子にかけて、日本一の大工事を工期内に終わらせなくてはならないのです。
都庁担当チームから、毎日、夜になると、現場応援要請の電話が真夜中までかかってきました。
今の都内の建設現場では、夜間の残業は事前申請、計画書がないと出来ないのは常識ですが、あの当時、早朝・深夜、どこの作業場でも、職長・職人が届け出なしにかってに残業していました。ルールはあるのでしょうが、守っていたら、「天下の、世紀の、大工事」は竣工出来ない・・・そんな日の連続でした。
一日だけ夜2時間、都庁の応援現場に行ったことがあります。
それは、当社の社長が自ら作業着をきて、夜の工事現場に応援・・というよりは客先へのポーズとして出向いていった時、同じ部署の責任者として同行しました。
ともかく、普段目にしている高層ビル(30階)とは基本的に違うのです。
地下3階、地上48階のツータワーの大きさです。
周辺の超高層ビル二つ分を同時に仕上げて行かねばならない、かつて経験したことのない仕事。
いま、2024年では、それほど高い、大きさでもないのですが、その当時最大・最高の建造物で、資材・機器・人の移動も一般のビルとし全くちがった様式でした。
現在の都庁は、1990(平成2)年12月に竣工引き渡しを行い、翌年1991年春有楽町から現在の場所に越してきました。
あれから33年、正式に竣工してから一度も都庁に行ったことも、勿論、展望台にも入ったこともありません。
この現場を担当した元同僚も一度も入ったことがない云います。分かります、
その理由は。
現在の都庁のや表玄関から入り、歩き、見上げればあの当時の苦しかった当時がフラッシュバックとし思いだすのでしょう。
彼がリーダーとして率いたグループの若手は全員、竣工後、まもなくこの業界から去りました。
確かに、給料は他業種と比べると格段に良かったのでしょうが、あのような、工期・予算・会社のサポート体制、上からの圧力、下からの突き上げの現場から、もっと人間らしい生活の出来る仕事へと移っていったのでしょう。
今回、都知事選でこの都庁のプロジェクションマッピングが話題になっているので33年ぶりに行ってみようかなと思いました。
せっかく新宿にいくのなら、プロジェクションマッピングは夜、暗くなってからなので、新宿界隈で行って確認したい場所が幾つかあります。
一つは新宿御苑
1989年2月大喪の礼・昭和天皇大喪儀が新宿御苑で行われました。
国葬で海外164ケ国から国家元首、要人が参加されました。
場所は「新宿御苑」です。
日本政府は1月7日、崩御されてから、2月24日の葬儀の準備をしなくてはならなかったのです。
実質40数日で新宿御苑に仮設ながら、大葬儀場を建設しなければならなかったのです。
そこで呼ばれたのが、つい目と鼻の先で大プロジェクトに携わっているグループです。
一流の職人さんと、身元がしっかりした一流企業社員が沢山いるのです。
特に、電気と水と暖房に関わる技術者が求められました。
建物は仮設ですが、この日本の一番寒い時期です。狭い空間でしたらエアコンが使えますが、大きな空間の暖房として、床温水暖房が採用されました。
となると、私の会社のお得意分野、温度コントロールと、斎場敷地内の温度分布の監視、制御
そして緊急事態に備えてバックアップと手動コントロールを求められました。
都庁の現場からは職員さんは出せないけど、社員は出せると云ってきます。では工事自体は、電気事業者さんでも出来るので、私達は工場の技術スタッフを選んで一ヶ月現場に貼り付けました。
葬儀は混乱も事故もなく、無事に終わったようですが、私は入れませんでした。
あの後、一度も新宿御苑には行っていません、もうそろそろ、トラウマもないので行ってみよう思います。もうあの時痕跡は何もないでしょうが。
もう一箇所は歌舞伎町コジラビル
この昭和から平成になる頃、仕事は新宿から西方面、三多摩方面を担当していて、何か接待とか飲み会となると、新宿が会場でした
そして、歌舞伎町です。会社の同僚の多くは通勤で西武新宿線を使っているのものも多く、歌舞伎町は通勤途中だったようです。
2001年(平成13年)の歌舞伎町ビル火災、雑居ビルで起きた火災。44人が死亡した時、うちの若手社員二人が2日ほど欠勤して騒ぎになりかけました。
この事件とは関わりなかったのですが、歌舞伎町で何あればと問題にするぐらい、身近に場所だったのです。
私は1996年から、部署がリニューアル部門になり新宿界隈から、丸の内・虎門方面担当となり新宿とは無縁になりましたが、退職してから、
あの新宿コマが新宿東宝ビルと生まれ変わり、そのビルの上からゴジラが覗いているコンセプトが、インバウンド観光客の間で人気となっているようで、一目見ておきたいなと考えています。
歌舞伎町とその裏のにある新大久保、もう何年も足を伸ばしたことがありません。
コリアンタウンとして2002のワールドカップ頃から、韓国ドラマにははまった、オバサンや女性が訪れるようになったようですが、私たちにとっては、新大久保は素人のおねーさん方の町でした。かなり変わったのだろうと思いますが、足をのばすか注腸しています。
その理由は、この猛暑、暑さ出かけるにはかなりの気合が必要です。
もちろん、一人で出かけます。カミさんと行くと面倒くさい。
新宿の都庁プロジェクションマッピングを撮影を計画していると伝えてはあります、歌舞伎町は話してありません。
水筒を持って、日傘を持って、スマホは絶対に忘れないでね、76歳のおじいさんなんだから。
全くそんな「年寄」は意識していませんが、連日の猛暑、自宅から駅までも躊躇する暑さです。
取り敢えず、プランだけは造っておいて、曇りか少々小雨の日でも構わないかなと思っています。
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