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2022年12月01日

青春時代とシンクロするワールトカップの思い出

始まる前は圧倒的スターの不在や、シーズン半ば中断による怪我人や調整不良者の続出で、これまでの大会に比べてさほど盛り上がらなかったサッカーワールドカップ・カタール大会ですが、日本初戦のドイツ戦勝利で、ここ数年にない盛り上がりで第二戦コスタリカ戦を迎えました。

前半の0-0をみてから、後半はNHK大河ドラマ「鎌倉殿」に切り替えました。
ドラマのクライマックス「鶴岡八幡宮大階段での実朝暗殺」ですから、見過ごす訳にはいきません。きっとドラマを見ている間に、日本が一点とっているだろうと・・・という訳です。
結局は・・・・
どこの国でも昔から、勝利の要因は選手のちから、負けは監督の戦術というのは常識です。
予定外の独に勝ち、予定外のコスタリカに負け、結局は想定通り、各国とも最終戦に勝ったチームが、予選通過となっただけの話。
12月2日の最終戦は朝の4時、京都のホテルにいますが、この日の予定は9時には大原のバス停にたどり着きたいので、早起きして試合をみる、体力的余裕はないでしょうね。
昔の元気、体力、好奇心は徐々に失われていく・・・・
そして、今年のワールドカップも思い出のいちページと残っていくのでしよう。

コスタリカは思い出深い国です。

現役時代、一時期休職して将来、退職後の住まいの候補地として長期滞在しました。
このことについては私のweb本サイト
コスタリカ滞在記ブログをご参照下さい。

報道メディア面では、中米の小国、理想的な政治体制、軍隊を持たない穏健な国、温暖な自然環境、アメリカ人リタイヤ世代が多く住む国と紹介されています。
確かにそのとおりですが、しかし、あくまでも政情不安な中米のなかであっての、という注釈が必要です。
新聞・TV報道の表面だけを全て、実際と見てはいけません。
コスタリカは基本、白人系混血のラテン国家です。しかし、アフリカからの奴隷船寄港地によるカリブ海沿岸諸国によるアフリカ系と、パナマ運河開発により集められた中国系アジア人も多く住む国で、今回のサッカー代表にも多くのアフリカ系選手が入っています。
治安・経済は「中米諸国のなかでは比較的安定している」程度で、決して日本のような安全、清潔な国でありません。
3ヶ月の滞在中、日本人リタイヤの方や、現地で結婚されてお住まいのお宅を訪問しましたが、いずれのお宅も過去に数度強盗に入られたとお話していますし、市内中心部のバスターミナル周辺の治安について、何度も注意されました。

滞在中、首都サンホセで軽い地震を二度経験しました。
地震国日本で生まれ育っているので、震度3程度に慣れていますが、地震を経験したことのない、欧米の旅行者は驚き、翌日にはホテルを引き払い、出国していました。
首都サンホセの大統領官邸でさえ、屋根は軽くするためトタン屋根というお国柄です。
アジア人、リタイヤ夫婦が老後住みやすい国?と問われると・・・スペイン語ペラペラの私でも、「Si」「Yes」と一概に言えない国です。
長い滞在中、暇な時は市内北西部のラ・サバナ公園を散歩して歩きました。
大きな緑地帯のなかに国立スタジアムがあり、周辺の芝生で多くの若者がボールを蹴っていました日本大使館はこの公園に面した北側にありました。
あの国の若者と日本がワールドカップ本選で戦うようになったのです。

1974年ワールドカップドイツ大会当時26才 ブエノスアイレス青春時代

1974年、日本ではほとんど話題にも上がらない、世界一のプロスポーツ祭典、ワールドカップ(コパ・ムンディアル)が西ドイツで開かれ、ベッケンバウアーが率いる西ドイツが、その頃フットボールの世界界に衝撃を与えた、トータルフットボールのヨハン・クライフとの熱戦に勝ち優勝した。

その頃の日本はどうだったか?
アジア予選のAゾーン 香港・南ベトナム・日本の組み合わせで、最終的にイスラエルとのゾーン決勝戦に破れ、一次予選敗退、最終的にアジア代表はオーストラリア・韓国の勝者となり、オーストラリアが本大会に出場した。
本大会ではオーストラリアは、東ドイツ0-2、西ドイツ0-3、チリ0-0 勝ち点1、得点Oで一次予選敗退した。
日本はおろかアジア全体にサッカー、フットボールの人気は根付いていなかった時代のお話

ブエノス時代、どちらかと云うと下町のアパートに暮らしていた私は、仕事以外の交友・交際を深めるために、地元のスポーツクラブに出入りしていた。
アルゼンチンのような南米白人社会では、スポーツは学校や企業でするものではなく、個々が地元の総合スポーツクラブに入り、仕事が終わってから、土日の時間を過ごす場所となっており、私は、友人の誘いもあり、プールを使いたくて地元のスポーツクラブに入った。
クラブ会費は微微たるものでだった。
その理由は、クラブの収入はクラブ会費の他は、メインであるプロフットボールの収益から成り立っている。
クラブは当然自前のスタジアムを持っており、その他体育施設・プールなどもあり、地域としてなくてはならないものとなっている。
日本のJリーグ設立も根本はこのようなヨーロツパ的な思想、考え方から成り立っており、1991年のJリーグ設立から20年、各クラブにサッカー以外のスポーツの芽吹きが感じられるようになって来ている。

私が入ったスポーツクラブ「ウラカン」は1974首都圏リーグで優勝する強豪クラブでした。
私をクラブに誘ってくれた友人の父親がこのクラブ組織の事務局長だった関係もあり、良くスタジアムに試合を見に行き、ここで始めてワールドカップ(コパ・ムンディアル)11回目大会がが四年後アルゼンチンで開催されることを知りました。
南米開催では初回のウルグアイ、4回目のブラジルに次ぐ、南米開催国としてこれまで白黒放送であったTV放送を1978年の開催に合わせてカラー放送にするということになりました。

日本が1964の東京オリンピック開催に合わせてカラー化したことに遅れること14年の決定です。
ブエノス滞在も5年になりそろそろ、外国での生活に何からの区切りをつける時が来たようで、このTVのカラー化を一つのビジネスチャンスと捉え、あの日本の1964当時、白黒からカラー化した時に、企業や個人がどんな対応し、どんな仕事が新たに生まれたのか知るために一度日本に帰ろうと考えました。

名将 メノティー監督のナショナルチーム
アルゼンチンナショナルチームは南米予選に勝ち残り、本大会に出場決定していました。
監督は私が所属していたクラブ「ウラカン」のメノティー、そしてメンバーの主力は同じクラブからの選出です。
ナショナルチームの選手団事務局長は私の友人の父親、アミーゴのアミーゴはアミーゴのお国柄、ブエノスからドイツへの便に無料で潜り込む方法を教えてくれ、一緒にワールドカップに行こうと誘ってくれました。
コレ幸いに私も無料でドイツに行き、ワールドカップを見てから、東へ、日本に向かおうと計画しました・・・
しかし、大会本選は6月、それから東に行く手立てもなく、陸路も日本に向かうといつ、日本につくか分からないのと、旅費が不安になったのと、一番の理由は日本に戻って入学する予定の電子専門学校の授業は4月から始まるのに間に合わないので、せっかくのワールドカップ観戦を諦めて、ペルー・タヒチ・グアム・東京経由パリ便という当時世界最長航空機路線のエアー路線、エールフランスに乗って帰国しました。
着いたのは、2月末、冷たい雨の降る羽田空港、5年ぶりに見る日本・東京はこれまで過ごしてきた、青い空と緑あふれる南米とちがって灰色でした。

1978年ワールドカップアルゼンチン大会 30才

この青春時代に住んでいたアルゼンチンが舞台の大会を私は日本で見ていました。

ちょうど決勝戦のアルゼンチン・オランダ戦を二人だけで結婚式を揚げた、軽井沢・星野高原教会のホテルの部屋で深夜、見ました。
ビジネスチャンスを求めて帰国しましたが、白黒からカラー化のプロセスで個人レベルの力では何も出来ないことを悟り、別の道を模索し日本に残りバブル景気目前の建設ラシュに湧く建設エンジニアに身をおくことなったのです。
まだまだ、日本にはプロサッカーリーグの芽生えもない頃でした。

この大会では、ブラジルと地元アルゼンチンが決勝進出をかけた試合でアルゼンチン・ペルー戦が疑惑の目でみられました。
アルゼンチンが決勝進出には競合する相手ブラジルとの勝ち負け差を抜くには、ペルーに4点差をつけて勝つのが条件となり、結果アルゼンチンが6-0で勝ち談合試合になったと噂が流れた。さもあらんことは、南米に暮らしたことがある人間なら誰もが解ることだった。

この大会では、ケンペスがヒーローとなった。ケンペスは首都圏リーグではなく、ロサリオという地方都市のクラブチームのエースで、髭面の悪ガキという印象があったが、決勝で2得点、全体で6得点を上げて、一躍ヒーローとなりました。

1998年ワールドカップフランス大会 40才

1991年に日本初のプロフットボールリーグ、「Jリーグ」が誕生した。
ようやく日本もワールドカップを目指す意識が国家として芽生え始め、1994年のアメリカ大会を目指し、この試合に勝てば初のワールドカップ本選出場までこぎつけ4戦終了時点で日本は勝ち点・勝率においてグループ1位となり、初のワールドカップ本戦出場に王手をかけており、ほぼ確定的と思われていた。

最終試合はイラク戦で、場所は現在本大会が行われているカタールのドーハ。
試合終了間際まで2-1でリードしていながらロスタイムにイラク代表に同点ゴールを入れられ失点したこと、引き分けでありながら勝点が同じ韓国に得失点差で敗れて「グループ3位」となって予選敗退してしまったことから、日本サッカー史において伝説的な出来事として扱われるようになった。

そして次のフランス大会へ「ジョホールバルの歓喜」へと続く。
この試合は私は病院の病棟休憩室で深夜、一人で見ていました。
1997年の夏、ウズベキスタンに旅した際にA型肝炎に感染したもようで、帰国後体調不良、通勤の駅の階段も上がれなくった状態で病院に搬送されると見たこともない驚くべき肝機能数値でそく入院、絶対安静を宣告され、翌日は別の医者が現れ、A型肝炎であるが、C型ウィルスも発見されたので、このまま最低3ヶ月の入院治療が必要と云われました。

もうこの時、本社から出向先スーパーゼネコンのリニューアル部署にいましたので、後のことはお任せと、都合4ケ月に渡る治療でC型はインターフェロン治療で完治しました。
この年から日本は四年おきのワールドカップに出場し続けていることになります。
あのシンガポールの隣、大規模都市開発が進むジョホールバルの名を目にする度に、あの病院のベッドを思い出しています。

2002年ワールドカップ日韓大会 54才

日本で初のサッカーワールドカップの開催は、隣国、韓国の面目をたてる意味もあり、世界で初めて2カ国共催の開催となりました。
この時日本チームは初めて、予選リーグを勝ち抜き二次リーグに進出しました。
第一戦 ベルギー2-2で初めて勝点1を記録
第二戦 ロシア 1-0で勝点3 
第三戦 チェニジア 2-0勝点3 で決勝トーナメント初出場

私はこの予選リーグの後半は見ていません
この時私は、北朝鮮を旅していました。
南の韓国が世界的イベントワールトカップ開催にこぎ着けたのを北朝鮮として面白くなく、大規模なマスゲーム「アリラン祭」を催して、世界各国人を集めていたのです。
この頃、まだ拉致問題は表面化していませんでした。
決勝戦の前日、平壌・ウラジオストック経由新潟便で戻ってきました。
新潟では聞いてニュースでは、仁川沖の黄海海上で韓国と北朝鮮の船舶同士の砲撃事件が起きていた模様でした。
そんなことも知らず、ひたすら新潟から新幹線に飛び乗り、その夜の決勝戦ドイツ・ブラジルを見るために自宅に急いでいました。
この大会、ドイツはブラジルに0-2で破れました。

ドイツもブラジルもワールドカップの優勝経験国です。
今回、その、あのドイツに初戦で日本は勝ったのだから、幾らでも誇っていいのでは。


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posted by 西沢 at 05:00| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ