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2022年01月22日

人生黄昏時、思い出探しと確認、自分の住んだ町の記録撮影へ

今年は何処へ行こうか
新しい年を迎え、昨年末に考えていた2022年の旅先リストメモを開きました。
リストメモは、2月半ば頃からはコロナ禍も治まり、Gotoトラベルが再開される前提で作成されていたましたが、オミクロンで予定はほぼ全滅、白紙に戻さなくてはならなくなりました。

関東の空は快晴の青空とは云え、まだまだ寒く、花も咲いていなく、特別のお祭りイベントもなく、近場の温泉でのんびり過ごすというほどの「お年寄り」の気分にもなりません。
一昨年に退職後ワークの地域ボランティア、NPOスタッフとしてのサポート講座を閉じ、趣味のクラブをやめた現在、団塊おじさんは毎週、毎日、スケジュールが空白の日々が続いています。
やることがなく、断捨離・終活と云っても、毎日自宅にこもりパソコンに向かう日々にも限度があります。そこで思いついたのが、自分史ならぬ、自分がこれまでに住んだ町の映像記録を残そうと考えました。

人生たそがれの時期、思い出すのは

地方から東京に出て最初に住んだ学生時代の下宿の町「世田谷区用賀」、そして南米から戻って住んだ町「中央区築地」、やがて結婚して住んだ町「台東区池之端」、一度東京を離れて再び戻って住んだ町「世田谷区東松原」、はじめて持ち家となった「横浜市東戸塚」の町を映像として残しておこうと考えました。
あの頃の自分の写真は全く残っていません。残そうとも思っていませんでした。
来年、後期高齢者と呼ばれる年令になり、何かを残そうという人生の黄昏にさしかかる世代が考えることが、少しづづ分かるようになっています。
まずは、今週、終活の一環として本籍の転籍の為に、新婚生活をスタートさせた私達夫婦のスタートの地、東京都台東区にいく用事ができたので上野・根津・池之端の撮影から始めました。

地方出身の私にとっての初めての東京は上野駅です。

長野県の北部長野市(北信)東部上田・小諸(東信)に住む人々にとって、東京とは信越線の終着駅「上野」です。
初めての東京は中学三年の修学旅行の時です。
やがて高校時代は、クラブの全国大会、個人バックパック旅行、入試などで度々上京するようになりますが、東京は何時も上野駅です。
蒸気機関車からジーゼル機関車となり、やがて新幹線となって初めて、東京は「東京駅」と変わっていくのですが、私にとって、東京とは駅構内の一面壁画のある中央改札口であり、駅前の「アメ横」なのです。

東京の北の玄関 上野

20年ぶりに訪れた上野駅前は様変わりしておりモダンなオブジェが並んでいますが、いまだ工事中でした。東京の北の玄関口の上野駅の外観は昔のままですが、学生時代にまだ浮浪者が屯ろしていた、地下通路はキレイになり、地下鉄銀座線、日比谷線への連絡通路となっていました。
高校時代、二週間の北海道バックパック旅行から舞い戻り、食事した上野駅前の食堂や、6年半振りに南米から帰り、信州の実家へ向かう前にどうしてもやりたかった「パチンコ屋」も探すことは出来ませんでした。

上野公園も様変わりしていました。

上野駅から上野公園への出口、「公園改札口」は元あった場所から、かなり変わっており、構内案内看板を頼りに歩かないとたどり着けないほどでした。
上野駅から西郷さんの銅像のある場所へは、JR不忍口を一旦出で、東京土産を売るお店や、軽食食堂のあるビルを抜けた場所ですがビル自体が新築改装されており、あのバブルの時代、イランからの出稼ぎの人たちで溢れていた、西郷像のまわりは、外国人観光客や東京見物の国内観光客の姿もなく、閑散としていました。

上野公園から新婚時代を過ごした池之端へ

私達が新婚時代を過ごした台東区池之端は、上野公園を下った不忍池近く、最寄り駅は地下鉄千代田線ですが、JRの最寄り駅は「上野」です。
よく二人で散歩がてら、不忍池から上野公園内を歩いたものです。
驚いたのは、あの散歩ルートだった上野寛永寺から下った先に、上野動物園の「弁天門」が出来ていたことです。
昔、動物園正門からモノレールが通じていた、上野公園の「水族館」へは、直接入れるゲートが出来ていました。

不忍池の向こうにはタワマンが・・・

不忍池にある弁天堂は、上野寛永寺のもので、この一帯は寛永寺の寺領です。
この池の向こうに私達が暮らしていた当時はなかった高層マンションが何本も見えます。
そして、このマンションの裏側がちようど東京大学本郷キャンパスになります。
東京の下町情緒が漂う、根津・谷中に住み、お散歩にちょうどいい距離に上野公園がある環境が気に入っていました。

不忍通りから言問通りへ

上野駅公園改札を出て、上野公園の桜並木、博物館、不忍池などを抜ける、「不忍通り」にでます。
この不忍通り一帯は、大きなショッピングセンターも、オフィスビルもなく、昔ながらの、昭和の良き時代の面影が濃く残っている、文教地区なのです。
「不忍通り」は地下鉄日比谷線「根津」駅で浅草方面からくる「言問通り」と交差します。
交差点の角にはあの当時そのままに、地元スーパー「赤札堂」が今も残っていました。
その前の商店街の小さな小路のおくには、「神田川」の世界、二人で行った「銭湯」がありましたが、残念ながらお風呂屋さんは残っていませんでした。
この交差点を右に行くと、上野桜木、東京芸大前にでます、交差点を左に曲がると東京大学農学部にでます。
この不忍通りをまっすぐ直進すると、数年前、インバウンドで賑わった谷中商店街(ほんの小さな小路です)にでます。
谷中には私達が住み始めた頃から、外国人旅館の草分けとなりました「澤の家」さんがあり、1970年代、あの当時として珍しく、大勢の外国籍観光客の姿がみうけられました。
私達二人は二十代、二人でこれからの人生、海外にでて暮すことを夢見ていた頃です。

1978年、私達二人が暮らした木造アパートが残っていました。

18年前、退職直後に二人で昔暮らした町を散策しに来た時にも、奇跡的に残っていました。
2階建ての4部屋のアパート、大家さんは大工さんでした。
一階の玄関を急階段を上がると、右手に年老いたお年寄りの男性、向かいの部屋にはお年寄りの女性が住んでいました。
私達の部屋の前は、この大工さんの従業員の若い職人さんが住んでいました。
私達の部屋、四畳半と三畳、入り口にはガスコンロ一つの小さな台所、風呂なし、トイレ共同の、昭和50年代といえども、本当に小さな昔のアパートでした。
いつかは、「ハイツ」とか「コーポ」と呼ばれるようなアパートに引っ越すことを夢見ていました。
でも、何も苦しくも、嫌でもありませんでした。
しっかりと二人で貯金して、いつかは海外で暮らそうと夢見ていました。

何も変わっていない
この表通り「不忍通り」から一歩入った小さな通りはあの当時と全く変わっていませんでした。
床屋さんも、お寿司屋さんも、お寺も昔のまま残っていました。
違っていたのは、アパートには電話がなく、何処かに電話する時は、10円玉を沢山用意して通った、小さな公園前にあった公衆電話が失くなっていたことぐらいで、まるであの当時、昭和50年前に戻ったようなでした。
二人がここで暮らすようになってから、今年で44年なります。
アパートの入り口には鍵がかかっており、今は誰も住んでいないようでした。
再び、このアパートの様子を見に来ることは、まずないでしょうが・・・しかしいつまでも残っていて欲しいと思います。

思い出探しの小さなトリップを終えて
もとの住まいの池之端から、昔、よくそうしたように、不忍池沿いを歩いて、上野広小路に抜け上野駅から「東海道線東京上野ライン」の熱海行の電車で帰路につきました。
高崎始発の熱海行、昔は考えられないような電車です。
上野からたったの46分で自宅最寄り駅の大船に着きました。
こんなに近くなったなんて・・・

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posted by 西沢 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ