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2021年08月17日

8月15日終戦記念日に思う、団塊世代の親のファミリーヒストリー

近年、古希を超え、後期高齢者と云う呼び方が近づいてくると、毎年迎える終戦の日のメディア報道に対する、自分の見方・読み方が変化しているなと、自分で気がつくようになりました。

あの終戦(敗戦)の日
自分の父と母は何処でなにをしていただろう?
私はまだ生まれてはいないが、兄と姉はうまれていた。
父と母は何歳だったのか?
あの日、終戦を知ってどう思ったのだろう。?

父も母もすでに亡くなっています。
若い頃、お盆には帰省していて、終戦の日8月15日は、一緒に食卓を囲んでいましたが、あの頃の事を聞こう、話そうとは全く考えることはありませんでした。
昭和20年の8月、大正5年生まれの父は、30歳、大正10年生まれの母は25歳でした。
この時、姉は昭和19年の4月に生まれており1歳、そして双子の兄二人は、先月昭和20年7月に生まれたばかりだったハズです。
つまり、昭和20年の8月の戦争に負けた日、30歳と25歳の若い夫婦は、年子の双子、3人の乳飲み子をかかえた状態で、長く続いた日本の戦争の敗戦を知ったことになります。
この日、何処に住んでいたのか、一度聞いたことはありません。
父と母は見合いだと聞いていますが、結婚後、一時期東京で暮らしていたことは微かに聞いていますが、何処で何をしていたのか、知りません。
微かな記憶ですと、父の二度目の徴兵の時だったように記憶があり、下関まで母が見送りに行ったような記憶がありますが、定かではありません。

最初の徴兵はいつだったのか

家の古いアルバムに一枚の出征の写真が残されていました。
おそらく、多分、これは父の実家前の画像だと思いますが、この写真に写っている人物は、親戚付き合いが全くなかった私には分かりませんが、多分1930年代なかばのの満州事変・最後の皇帝の「満州国」の少し後ぐらい、1936年、父が二十歳の頃のものではないかと、推測されます。
では、結婚はいつだったのか?
推測される一度めの役の後、太平洋戦争、真珠湾の少し前1941年の前半、父が25歳、母が20歳頃ではない・・・一度もこのような話を両親から聞いたこと一度もないのてすが、今になって思うと、両親が元気なうちにしっかりと聞いておくべきだった後悔しています。

二度目の徴兵というおぼろげながら聞いていたような記憶が

確か、この写真を前にして、父が上等兵の時の写真と聞いたことがあります。
そして、この写真の後に残されていたのは、父が白衣をきている、戦地の入院姿ばかりです。
どうやら、二度目の出征で満州国に入り肋膜炎を発症したようで、半年もしないうちに内地に送り返されたようです。
おぼろげな記憶ですが、結婚した両親は、東京の下町に暮らし、父は小さな「メッキ工場」で働いていたようで、その時の作業環境の悪さで肺を病んだのではないかと、今になってそう思っています。
姉の生まれたのが1944年4月、そして翌年終戦の年7月に双子の兄が生まれているのですから、1943年には両親は日本にはいたのでしょう。

1943年の日本はどんな年だったのか
2月 日本軍,ガダルカナル島の撤退
4月 連合艦隊司令長官山本五十六戦死
5月 アッツ島の日本軍守備隊玉砕
6月 「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定
11月 国民兵役を45歳まで延長
1941年12月に始まった、米英相手の太平洋戦争は、1年ちょっとで敗戦の影色濃くなってきている年でした。
父は27歳、母は22歳の若い二人、例え病魔をかかえていたとしても、社会は戦時体制のなか周囲の目は厳しかったのではないかと思われます。

その頃のカミさんの父親はどうしていたか

カミさんの父親は、私の母と同じ、大正10年生まれです。
あの白骨街道と云われたインパール作戦の数少ない生き残り兵士です。
私の父親が、肋膜炎で戦地で入院生活を送っていた頃に徴兵され、1943年当時は何処にいたのかは何もきかされていませんが、1944年から始まった日本陸軍史上、もっとも過酷な、無謀な作戦に組み込まれたのです。
「米一粒も補給のない」
「持参する食料が尽きたら敵から奪え」
食料・兵器などの補給を軽視した作戦が、精神論をもって推し進められた最悪の例です。
幸いにもカミさんの父親は、約4ヵ月の間に参加兵力の約7割に相当する約4万人が死亡または重傷を負つたと語り継がれている戦いから戻ってきて、昭和24年長女、26年に次女のカミさん、そして28年に三女が生まれているのです。
カミさんの両親の結婚についても、カミさんも私も詳しい経緯や、年などもいっさい聞いたこともありません。

ミャンマーの旅で出会う日本兵慰霊塔

ミャンマーに個人レベルの旅をするようになると、旅の先々の寺院で、四国巡礼のようにお接待に預かります。
上部座仏教の流れなのでしょう、言葉が分からない旅行者でも、お寺の境内に入ると、冷たいお茶と駄菓子ていどのものが振る舞われるのです。
とくに、マンダレーから北、西に向かうお寺さんの多くのに、旧日本軍兵士の慰霊塔があります。
あの名画・小説「ビルマの竪琴」の世界は実際に、今でもミャンマーにあるのです。
カミさんの父親から直接戦争当時の話はいっさい聞いていません。
かの父親から進んで話をするのを待っているうちに、72歳で逝きました。
葬式当日、田舎なもので、私たち遺族は田圃道を旗と位牌を持って行列をして、村まお寺まで歩き、そこで遺族代表として挨拶を頼まれました。
女三兄弟で、古くからのしきたりなのか、男性が挨拶をするのですが、次女の夫の私に回ってきました。
何も考えていなかった私は、ミャンマーを旅して沢山目にしてきた、日本兵ま慰霊塔と、お寺の接待、そしてあの小説・名画「ビルマの竪琴」の話をし、生きているうちにちゃんと話を聞いておくべだったというご挨拶をするうちに、自然に涙が溢れだしました。

両親の歴史、ファミリーヒストリー
私達団塊世代の親の青春時代から結婚に至る時代は、先の大戦の開始と終焉とピッタリ重なる世代なのだと、今更ながら解りました。
そして、積極的に子どもたちに、その当時ことを話さない理由、背景も想像できますが、そろそろ自分たちもという年齢になると、もっと両親の歴史、ファミリーヒストリーを聞いてくべきだったと今は後悔しています。
下記は大変プライベートな映像ですが、亡き母のある日お盆での映像と、母と父の思い出を走馬灯のように思い出させるビデオです。




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posted by 西沢 at 07:20| Comment(1) | TrackBack(0) | シニアライフ