私とは生まれた年は1年違いますが、早生まれの私(1948年2月)と同学年です。
あの「深夜特急」の旅は何歳だったのか?
その時の年齢は「深夜特急1 香港・マカオ」のなかで書かれています。
""インドのデリーからイギリスのロンドンまで、乗合いバスで行ってみたい――。
ある日そう思い立った26歳の〈私〉は、仕事をすべて投げ出して旅に出た。""
そうか、26歳か、すると1974年の話である。
同じ世代。同学年の彼はどんな生い立ち、そしてどうして26歳で旅立ったのかネットで調べてみました。
Wikipedia参照
東京都大田区生まれ 東京都立南高等学校(当時)を経て、横浜国立大学経済学部卒業。
大学時代のゼミの指導教官は、後に神奈川県知事となる長洲一二だった。
大学卒業後は富士銀行(当時)に入行するも、初出社の日に退社した。
出社途中に信号待ちをしているときに退社を決めたという。
その後、ゼミの指導教官だった長洲から「何か書いてみないか」と誘われたのをきっかけに、文筆活動を始める。
ルポライターとして1970年(昭和45年)、『防人のブルース』[3]でデビューし、1979年(昭和54年)には演説中に刺殺された日本社会党委員長の浅沼稲次郎と、その犯人である少年の交錯を描いた『テロルの決算』で第10回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。以後、スポーツや旅などを題材にし一期た多数のノンフィクション作品、小説、エッセーなどを発表している。
そうだったのか、私のような地方出身からすると、東京大田区(田園調布も下町工場街も含まれるが)生まれ、横浜国大・富士銀行の東京のエリートお坊ちゃんだったのだ。
私の生まれ育った信州の進学高では、東大・京大、そして当時国立一期と呼ばれていた東北・北大、或いは信州人が好きな早稲田を目指すのがエリートコースで、実際に同級生の多くは卒業後、中央官庁、大企業に進んでいきました。
あの当時、経済日本が戦後復興から高度成長への入り口にさしかかっており、60年代から70年代の初め、横浜国大から富士銀行に決まっていて、出社当日にキャンセル、退社するとような同級生は考えらなれませんでした。
地方出の学生は、今のようにアルバイトが何処にでもあり、選択できる時代ではなく、親の仕送りが足りない部分は、肉体労働で稼せぐのが地方出の学生の当たり前の時代であり、学生運動は少し気になったけどスルーし、良い会社に入って、東京に地盤を造り、結婚し家庭を持つのが、目標だった時代です。
出社1日目に立ち止まり、引き返した理由・想いは何か
沢木耕太郎は新刊「旅のつばくろ」のなかで書いています。
「いつでも自由に動ける存在でありたい」との思い。
何処へも一人で行くフットワークの軽さはザック一つで東北を旅した「16歳の時から今に至るまで変わらない」
身軽さはへのこだわりは旅の心得を得て、人生の指針となってきた。
それは、16歳の少年時代の一人旅、乗り放題の均一周遊券で、夜行列車を宿代わりにした12日だったと。
自分に置き換えてみました。
私も彼とと同じような青春時代を歩んできたのです。
16歳の春は、同じように均一周遊券を手にして九州を10日間、夜行列車と野宿での旅、17歳の夏は、2週間北海道を、ザック一つで旅していました。
カニ族と云われた大学生が多く旅していた時代、丸坊主の高校生は、まだまだ珍しい存在でした。そうか、沢木耕太郎氏の「深夜特急」の背景は少年時代の均一周遊券の旅だったのか。
そういう時代、沢木耕太郎は出社第一日目にドロップアウトしたように、私は彼よりも早く、大学一年で日本社会からドロップアウト(逃避?)して海外を目指しました。
その当時お金もなく、伝手もない若者が海外を目指す手段としては、当時設立したばかりの(1965年)「青年海外協力隊」に応募するか、海外移住事業団(現JICA)の募集する研修生として南米に渡るか、あるいはその当時、徐々に海外進出し始めていた企業の社員として渡るかしか手段はなかったのです。
私の場合、ある日本の電機メーカーが南米でアメリカ・現地資本と手を組んで、先ずはその当時日本がお得意としていた最先端の電池を現地生産する計画がスタートしており、スペイン語が堪能な若い派遣社員を募集しているのを知り、応募しました。
条件は「現地採用」「片道切符」「給与は日本並み」です。
「片道切符」だろうが、行ってしまえば、日本から出れれば、こちらのものと、二十歳の誕生日前に横浜から船に乗ったのです。
そして、日本・羽田空港に降り立ち戻ってきたが1975年26歳の時でした。
今、振り返ると「沢木耕太郎」氏はすでに香港・マカオへと旅立っています。
この頃、20代の若者の多くが海外に出ていた時代です。
ひとつの切っ掛けは、五木寛之の一連の北欧・シベリア鉄道ものの小説です。
私は退職後に「団塊世代の退職後の過ごし方」なるサイトを立ち上げると、多くの同世代の方々とのつながりが出来、かなり方が、大学卒業旅行でシベリア鉄道を使ってヨーロッパに旅したのを聞いています。1971年~72年頃の話です。
私が26歳で、日本に戻ろうかなと考え始めていた頃
地球の裏側、アルゼンチンにも日本からの多くのバックパッカーがくるようになり、当時インターネットもない時代、何処からの伝手なのか、私のアパートにも来るようになりました。
話を聞くと、彼らはアメリカ本土、カリフォルニアの日系農場で働き資金を造り、陸路・メキシコ・グアテマラ・パナマ軽油で南米を南下してくるのです。
そして、旅の資金が尽き始めると、再びアメリカの農場に戻り、資金を造り、アフリカ・ヨーロッパを廻り、アジア経由で日本に帰ると云うのです。
そんな彼らに接していると、そして4~5歳しか違わない私たちの世代との経済格差、人生の考え方の違いを知りました。
今の状況に満足し、日本から持ち込まれてくる「電卓」の小ささ、機能に驚嘆し、カラーTVが当たり前の社会と、この地球の端っこの、超ラテン白人社会の尊大さに少しづづ、嫌気がさしてきていた頃です。
他の南米各地を回ってきた日本の若者はおしなべて云う言葉があります。
・アルゼンチンに入ると、物価が急激に上がる
・ブラジルでは感じたことのない、人種偏見を感じる
・サンパウロの都心部はオフィス街だけど、ブエノスの中心街は住宅アパートばかり
・緑も多く、美人がばかり、でも自分たちはブラジルやボリビアのほうが居心地が良い
・なんで、こんな国に住んでいるのですか?と聞いた女性バックパッカーもいました。
そろそろ潮時か、一度日本を見てみようと思い立って帰国したのが26歳の時です。
あの頃、一度ドロップアウトしても戻れる社会的余裕があった
私は、40代後半の頃、社内の部下によく云っていた言葉があります。
「今の日本社会なら、26~28歳まで、自由にやりたいことをやって生きてきて、実業に社会に戻ってこれる」
「30歳少し前なら、何度でもやり直し、挑戦が出来る」
「社会とは、そうあらないと、成長できないと思う」
「大学を出て、就職して、結婚し、会社で出世するという人生でも、20代なら一度立ち止まって考え、やり直しが出来る」
これは、30年前の話ですが、今、この話を甥っ子にすると、
「今の日本の社会体制では、一度社会の主流を外れると、社会の中枢どころか、ごく平凡、平均的な家庭も築けない」
「すでにおじさんたちの世代と違って、中流階層にも戻れない、そんな社会なんですよ」
貴方たちの世代が作ったのですよ・・と云いいたいような。
青年は荒野を目指せないのか?
そう、荒野を目指した「五木寛之」も、深夜特急に乗った「沢木耕太郎」も、早稲田・横浜国大の高学歴エリートだった、自分では気づいてはいないでしょうが・・
あの時代、俺たちの時代、一度ドロップアウトしても元の社会に戻れる余裕があった。
特に彼らには高学歴があった。
私にしても、会社とぶつかり、今でいう鬱病状態のなか、3か月も現場放棄してカリブ海で遊んで戻ってきても、受け容れる余裕が会社にあり、そんな私を必要としていた建設業界の好況があった。そして今は・・・
古稀を超えた団塊世代には、若者に対して何の手助けも出来ない。
ただ、ただ、自由人作家のごとく、「自分の思う道をゆけ」、としか言えない。
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