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2020年08月24日

老いへの進行形 め・は・ま

人間の(特に男性の場合)体力、機能の衰える順番は、昔から「め(眼)・は(歯)・ま(生殖機能)」と云われています。確かにその通りにこれまで進行してきました。

先ず眼ですが・・・

おかしい、どうしたんだろうと感じたのは、45歳の時でした。今でもハッキリと覚えています。
イースター島へのフライトのエールフランスの機内で配られたチリへの入国カードを記入の際、読書灯をつけても細かい文字が判別できないのです。
飛行機はどんどんと降下して空港に近づいているのに、書類に記入できないのです。

そんな馬鹿な、何か自分の目に異常が起きたのかと思いましたが、カミサンはその様子を見て、
「老眼が始まったのよ」とあっさりと云います。
「それなら、君が記入しろよ」と云いいますが
「それは、貴方の役目、私は英語もスペイン語も、ましてやフランス語も解らない」
結局諦めて、機内スタッフに「reading glasses」を頼みました。
ちなみにスペイン語では「anteojos para viejo」が一番通じやすい言葉です。

その後、仕事でも頻繁に支障が出てまいりました。
仕事柄、一日中図面台に向かうことが多く、目を酷使し続けていましたから、多少、早いかもしれないが、仕事場近くの眼科を受診して、老眼鏡を造ることになりました。
その時、乱視・近視も少しあるので、仕事上、遠近両用メガネを推奨されました。
何処で造れば良いのか解らないので、眼科に入ってる眼鏡屋さんに聞くと、仕事をしていたビルに入っている眼鏡屋さんを紹介されて行き、値段を聞くと、何と10万円だと云うのです。
すでにその頃、TVコマーシャルでは、多くの眼鏡量販店が登場していた時代で、せいぜい4~5万程度と思っていたのですが・・・

「同じビル内(内幸町の超一流オフィスビル)の会社の方ですから、2割引きで提供します」と云われ、人生初めての眼鏡を購入しました。
後に分かったのは、この眼鏡屋さん、日本で一番高い眼鏡屋さんで、お客さんは場所柄、政治家・経済人が多く、時の総理大臣もこの店の顧客で、業界では定価販売の老舗と知られているお店だったのです。
あれから、30年・・・何本眼鏡を造ってきたことか!
当然ながら、あの超高級店ではなく、庶民的な量販店で作ってきました。

今はどうしているか?
通っている眼科・・・眼圧が高く、緑内障の気があるので、年に2回、視野検査が必要です。
この眼科のドクターはお年寄り先生でしたが、最近引退し、若先生に替わりました。
この若い、大学病院から引き揚げて、親の眼科を引き継いだ若先生に、現在の老眼の進行を相談すると・・・
裸眼で通常の生活にさして支障のあるような視力ではないので、退職、仕事もしていてない70代なら、パソコン用、読書用の老眼鏡なら100円ショップのもので充分だと云うのです。
その都度、架け替える手間は生じるが、老眼の進行に合わせて、買い替える程度で十分です、と言い切りました。
「エライ、まだ開業医の経営的視点、観念に染まっていない若い医師だから、言い切れるのだ」
現在、昔造った高い遠近両用と、パソコン用・読書用・お風呂のなか専用の4つの眼鏡を使い分けており、もう、高い眼鏡を新たに造ることはありません。

そして次に「歯」です。
貧乏な家庭に育った私は子供のころから、朝・晩、歯磨きをするという習慣はありませんでした。
この話を、4歳年上の姉に話したことがあります。
嫁いだ姉に、嫁に行って、旦那の実家と自分の育った家庭環境が違って、困ったことは無かったか。と聞いたことがあります。
私の場合、カミサンから、
「風呂は毎日入るのが当たり前」
「下着は毎日着替えるのが当たり前」
「食事の後に歯磨きするのは当たり前」
「親・兄弟の誕生日祝いをするのは当たり前」
「貴方の常識は、世間の常識ではない」 と云われ続けています。

育った家庭環境により、生活の習慣・常識は違うものと解るようになったのは結婚してからで、姉にも、貧乏所帯に育って困ったのではないかと聞いたのです。
姉は、嫁いで夫の実家に入ってのではなく、最初から夫との二人暮らしだったので、特に困ったことはなかった。
夫も自分も生まれ、育ったのは戦後の混乱期であり、夫の育ったのは、私たちが育った県庁所在地の繁華街の町中ではなく、田舎の農家なので然したる違いはなく、昔はみんな同じような家庭環境だったので何も困らなかった、と云いました。

歯を磨く習慣のない二十歳そこそこの青年が初めて社会に出たのは、外国の大都市アルゼンチン、ブエノスアイレスです。
当然ながら、肉食中心の生活で、歯は日本食より酷使します。
ある日、左奥歯が痛み出し、職場近くの歯医者に行きました。
日本の歯医者さんには一度行ったことがなく、人生初めての歯医者です。
ドクターは有無を云わせず、もうこの歯は虫歯治療の限界を過ぎているので、抜くと云うのです。
私は何の反論も出来ず、まあ、そんなものだろうと、承諾し、ちょっと麻酔して、ペンチのようなもので引っこ抜きました。
あの時の、ギリギリと云う抜歯する音は今でも覚えています。
ちょうど、その日、友人から特級品の生ハムの塊をいただいた日で、食べれなかったのを覚えています。

帰国してからも、まだ頻繫に歯磨きや歯石の手入れなどをしないまま、歯が痛くなるとその都度、会社の近くや、担当していた現場の近くの歯医者さんに飛び込んでいました。
歯医者の主治医というものが出来るようになったのは、40代の半ば、当時住んでいた横浜のマンション群のなかにある開業医の医院で、退職後現在に至るまで、鎌倉に超してきても、変わらず二駅電車に乗って、この医院に通っています。
私の歯は、それまでの、痛くなってから場当たり的に飛び込む歯医者さんのせいと、喫煙者ゆえのヤニの歯で恥ずかしくてこの担当ドクター以外には行けない状態が続いてきたのです。
結果、ボロボロ、ついには数年前には左の奥歯は、耐え切れずに部分入歯なりました。
その後も、前歯、右下奥歯も応急処置、接着剤で固定などが続いていましたが、先週、右下奥歯が限界に達しました。
ドクターは、まだ何とか持ちこたえること出来ますが、どうしますか?と問うてきたので、私はもう限界、諦めました。抜いて部分入歯にしましょう。と提案しました。

これが、までアルゼンチンの歯医者さんや、一度旅先であまりの歯の痛みがひどかった時に飛び込んだ、パキスタンの歯医者なら患者の意向は聞かず、有無を云わせず、抜歯していたのでしょう、とドクターに話すと、日本の歯医者は先ず、抜くのはの最終判断、それも患者の意思で出来るだけ残すにと云うのが医者としてのポリシーです。
でも、今回は「付き合いも長く、づっと見てきているので、抜きますか」となりました。
そして、来月の旅行の予定は?と聞いてきました。
来月の第一週に愛知方面に行きます。Gotoトラベルで。
旅先までこの奥歯が持つ保障はないので、今抜くと、今月には差し歯が出来上がるので、さっそく始めましょうとなりました。

右下奥歯3本の抜歯です。
麻酔をかけて、ほんの数秒で、「終りました、見ますか」となりました。
あまりにのも早業、そして痛みもありません。
念年の為と、抗生剤とロキソニンを処方されましたが、その日夜、抗生剤だけはのみましたが、痛み止めは必要ありませんでした。
翌日、二日目はもう、差し歯の型取りです。
一日置いた三日目、差し歯が出来上がっきての調整。
あいだ二日おいて、四日目に最終調整で、私の口のなかは、左下奥歯、右下奥歯が部分入歯となりました。

部分入歯にして気が付いたのは、食事の時に、こぼさなくなった事です。
よく、介護施設で老人が食べている時に「こぼす」姿を映像などで見かけました。
齢をとって、箸の使い方や動作が鈍くなったせい、と思っていました。
私もカミサンから、最近、食事のをこぼすことを指摘されていました。自分もあの老人ホームのお年寄りに近づいてきている・・・
しかし、原因は分かりました。
歯の調子が悪く、口を大きく開けて食べていなかったのです。
部分入歯にしてからは、意識しているせいかこぼさなくなりました。


団塊世代の老いへの進行形の「め・は・ま」の「め・は」はこうやって着実に衰えていってるのです。「ま」に関しては、今のところ「め・は」ほどではではないことだけお伝えしておきます。

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posted by 西沢 at 08:39| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ