昨年5月に盲腸がんが発見された時、すでにステージ4で手術不可能、余命半年と宣告された兄が昨日、朝、静かに 息をひきとり、逝きました。72才。
1月10日に本格的に入院してからちょうど二週間です。
長兄は双子兄弟です。
双子の次兄が全ての手続きを進めて、今日が葬儀で、これから信州に向かいます。
同じ日、同じ時間、同じ母親から生まれた双子の兄は全く違った人生を歩んできました。
昭和20年、終戦の一か月前、戦地で肋膜炎を患い内地に返されていた父親と、女工として関西の繊維工場で 働いていた二人の貧しい信州生まれの夫婦の初めての男の子です。
前年に長女が誕生していたのですから、二年間で三人の 赤子を終戦を挟んで、育ちあげなければならなかった、両親の苦労は、現代の夫婦には想像できないでしょう。
同じ双子ですが、亡くなった長兄と、介護を担い、葬儀を取り仕切る次兄は全く違う人生を歩んできました。 亡くなった長兄は勉強もそこそこに出来、友達も多く、学校ではクラス委員を務める人気者でした。
一方の次兄は、何も目立つことなく、クラスでも存在を忘れられるような大人しい子供でした。
この二人の人生の分岐点を子供ながら、三歳はなれた弟の私は、目撃しています。
昭和30年代、高度成長前、我が家は極端に貧乏でした。
父親は私が小学校に上がる年、肋膜炎から肺結核になり、郊外の隔離療養所に入り、出てきたのは、私が中学校にはいる年 ですから、丸6年、母は父がやっていた小さな青果店を、子供4人抱えて、一人で頑張っていました。
今でも鮮明に覚えているのは、親切なオバサンが毎日やってきて「けして恥でないから」と云う言葉が聞こえたのを覚えています。
今、考えれば民生委員の方だったのでしょう。
その当時のことを後から母に聞くと、「生活保護を受けると、学校の給食費を 払わなくなるけど、クラスに知れて、お前たちが可哀そうと、思った。」と云ってました。
当時の日本はみんな貧しかったのですが、とりわけ我が家は貧しかったのです。
そんな家庭ですから、双子の二人の兄たちには、高校進学と云う道は考えられませんでした。
※一方の姉は、小学校・中学と学年首席で通し、母は親戚の反対を押し切って県下No,1の高校に進学させました。
当時、(今でもありますが)大企業の企業内学校制度というものがありました。
自社内に技術訓練学校のようなものを造り、自前の優秀な熟練工を育てるのが目的の学校です。
若干大人しく目立たない次兄は、市内大手の無線機器メーカーを受験し、合格しました。
成績の良い長兄は、名古屋本社の電力会社の学校を受験しましたが、受からず、一人部屋の隅でふとんのなかで泣いていたのを 当時の私は覚えています。
その後、定時制工業高校に入り、昼は鋳物工場で働いていました。
今、思い返すに、16才の少年が大人に交じってするには辛い仕事だったろうと思います。
次兄は何の不満も、野心もなく、たんたんと企業内学校に通い卒業し、地元で結婚、二人の子供をもうけ、 親の家を引き継ぎ、両親二人を送り、定年に至っています。
長兄は定時制工業高校を卒業後、東京の大手メーカーを数社受験し、失敗。
神奈川の大手下請け工場に就職したものの、2年で辞め、 その後、何度も転職を繰り返してきました。 そんな様子を不安に感じた母親は、この長兄が39才の時、神奈川の大和市から信州に引き上げさせました。
母は上京し、アパートを清掃し、片付け、大家さんにご挨拶をしていったそうです。
この時、長兄は兄の友人と二人で、購入したばかりの私のマンションに来ました。
当時神奈川県でファミリータイプマンションとしては平均価格帯が高い 駅前マンションでした。
兄は友人に向かい、「こういう生活もあるのだな」としみじみ言うのを覚えています、 兄とこの友人は、労働組合活動に熱心で、職場を辞めては沖縄基地闘争や原子力空母反対デモに生き甲斐を見出していた仲間だったのです。
40前に母親に引き取られて、生まれ故郷に越してからの長兄がどんな暮らしをしていたのか、本当の所良く知りません。
次兄の話では、何度も職を変え、パチンコ店に通い、アパート代が払えなくなると、母親が払っていたり、 父が亡くなってからは、母が自分の通帳を 渡していたとの話でした。
そして、60才を過ぎて、何処も雇ってくれない年齢になると、国民年金とほんの少しの昔の厚生年金の受給額を聞き、 「アパート代を払ったら喰っていけない、」とこぼしていたそうです。
若い頃から定年後の人生について考え続けて来た私流に云えば、リセットして田舎に帰った40から70になるまで、 一体何をしていたの?まるでフーテンの寅さんじゃないか、と。
勿論、長兄には云いませんでしたが、母親以外は誰もがそう思っていました。
兄の最後は、立ち会った次兄から電話で聞きました。
直接の死因病名は多臓器不全、もうボロボロだったのでしょう。
でも人生の最後を過ごしたホスピスは、亡くなった兄の髭をそり、髪をすき、 顔にはクリームを塗り、姉によると、これまでに見たことのない爽やかなお顔だったと云っています。
そして、ホスピス内の教会では、お別れミサが行われ、空いている看護婦さん、 の皆様が見送ってくれたそうです。
いい病院だ、近かったら私もこのホスピスで逝きたい、と本気で思います。
今日、信州で行われるお葬式、通夜は家族葬です。
出席者は、姉・兄・私と次兄の伴侶と長男の5人です。
私のカミサンは、北関東の実家で母親の子守中で、出席出来ません。
しんみりと兄弟で兄の思い出話をしようと思います。