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2021年10月22日

秋の紅葉シーズンとコロナ自粛解禁はどう動くか

令和3年4月に発出された緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置は、 同年9月30日をもって全都道府県で解除されました。
この日を境に、NHKはじめ民放各局の旅情報番組が一気に増えました。
10月17日のNHKBSでは、日本一美しい山岳紅葉の地として、上高地、河童橋から15Km先の、ビギナー登山者でもちょっと厳しい場所にある涸沢を紹介していました。




ちなみに、山岳紅葉ランキングベスト5は、いろいろな評価はあるようですが、以下の5ケ所が妥当な所、全て、甲信越、東北・北海道てす。
1 奥穂高岳 涸沢 長野県・岐阜県
2 大雪山   北海道
3 安達太良山  福島県
4 八甲田山  青森県 
5 八幡平   岩手県・秋田県


定年退職後、秋の紅葉の美しさを改めて、自分は日本人と、感じ入る人は、私も含めて大勢いると思います。
忙しい、現役時代、春の桜だって、自宅近くの公園と通勤電車、あるいは都心の公園でしか見れないのに、秋の紅葉ともなると、東京首都圏に勤務していると、全く無縁の世界でした。
第一、関東南部は暖かくて、紅葉する木々も少なく、せいぜい、銀杏並木の黄色で秋を感じる程度でした。
それが、退職後、夫婦二人で京都に行くようになると、古都京都の寺社・仏閣・庭園の紅葉の美しさを知らされるようになります。
「京都はスゲー」と、関東の古都、鎌倉に住まう、私でもそう思います。

退職後数年は、秋の京都の庭園紅葉に惹かれていくようになると、次第に山岳紅葉にも惹かれるようになってきます。
私も、ここ数年、北海道の旭岳、青森の八甲田山、そして今年は、新潟「苗場のドラゴントラ」、或るいは北関東、那須と次第に自然林、山岳、高原の紅葉に惹かれだしています。
そして、ちょぴり後悔しています。

これから続く、リタイヤシニアの皆様へ
紅葉の美しさに目覚めると思います・・絶対に。
京都の寺社・仏閣・庭園の紅葉美は、70歳を過ぎてもまだ間に合います。
体も動き、新幹線代もまだ十分あるハズです。
紅葉は先ずは、山岳紅葉から攻めて下さい。
先ずは遠くから、そして厳しいロケーションから攻めて下さい。
私は、上高地は明神橋あたりまでの、完全な観光客レベルしか行ってませんが、日本一の山岳紅葉の涸沢は、登山届が必要な場所で、登山経験者と一緒で本格的装備が必要な場所です。
退職後、できるだけ早く、体力・気力・好奇心のある、できれば60代のうちに行かれるのをお勧めします。

急に増えだした、旅行社のパフレット






菅さんが、自民党総裁選に不出馬のニュースあたりから、「H交通社」の各旅行レベル・ランクの冊子が毎日のよう、連続してポストボックスに入るようになりました。
私達は現役時代は国内旅行はしたことがなく、海外はすべて個人自由旅行でしたから、チケット以外で旅行代理店とのお付き合いは有りませんでした。
そして、海外旅行先で出会う、団体旅行客のレベル・ランクも良く解っていました。
特に中高年のシニア参加者の多い「H旅行社」はイメージとしては、「安かろう、早かろう、短かろう」でした。
一番レベルが高く、添乗員の資質も高い、そして旅行費も高いのは「ワールド航空サービス」でした。いまは、この全世界のコロナパンデミックのなかどうなっているのでしようか?

私達は国内旅行の場合、早期退職してまだ二人共公的年金支給前でしたから、旅行先の宿と足がいくらかでも安く確保できれば、後は何もいらない、自分たちで動くという旅の姿勢でしたから、国内旅行各社のなかでダントツに値段が安く、何時でも二人OKの設定の「H交通社」の「JRフリープラン」と「The温泉の旅」は、色々不満はありますが、自力で手配するよりもかなり安いと云うこともあり、利用してきています。

コロナ禍で増えて来ているのが、別ランクの旅のパンフレットです。





私達の旅のスタイルには縁遠い、「5つ星の宿」・「往復新幹線グリーン席」・「旬のカニ・エビ・和牛のお食事」は、全く興味がなく、このような旅に参加する人たちはどんなコース、どんな観光地を行くのかを参考としてみるだけで、ほぼ一日でゴミ箱ゆきです。
カミサンは、このような印刷物をゴミと出す時に、こんなに綺麗な印刷で重いのだから、宣伝広告費や、配達員さんの経費を考えたら、「H交通社」さん、コロナ禍で会社も大変でしようね。と云います。

流石に、町中を見回しても、駅前の一等地にあった「HIS」の店舗も、ショッピングセンター内にあった「JTBショップ」もいつの間にかありません。
JTBは本社ビルの売却を検討する云っているようです。確かに厳しいことは伺えます。
しかし、・・・・そんなに旅行会社も鉄道・航空会社・バス会社も、旅館。ホテルも厳しい時期なのに、旅行会社のパンフレットを見ると、全て以前よりも価格設定が騰っているのです。

私達がよく使う「JRフリープラン」と「The温泉の旅」のか価格設定はあきらかに、コロナ以前よりも高い設定です。
この旅行関係企業すべてが不況、苦しいなか、抜け駆けしてでも、集客しようと考えるところはないようです。
私達の常識、考え方は異常なのでしようか。
先ずはこの苦境を乗り越えるためには、原価を割っても、まずは来ていただく、泊まっていただく、乗っていただく。
そして少しづづ、元の状態に戻していくとは考えないのでしょうか?
それとも、もうそんな余力・体力もなとということなのでしょうか?

一名様一室同料金
初めて、コロナ禍のなかのパンフで、目をひき、意気込みが感じられるものに出会いました。
上野千鶴子さんではありませんが、夫婦二人の旅、中の良いお友達と二人の旅・・・旅行会社の働き盛りの企画マンのなかには、シニアの旅のイメージはそんなものだったのでしょうが、実は一人参加が急激に増えて来ているのです。
アンケート一人旅の理由は



ご主人を先に見送ったご婦人だけでなく、カミサンが元気な我が家でも、最近は旅の方向づけが違ったりしてくることがあります。
カミサンは歴史・遺跡ものは苦手、町中の賑やかな所、買い物ができる所が大好き・・
となると、同じような性格、志向、価値観の二人ですが、40年以上も経つと、一人で好き勝手に過ごしたい時間があるのは確かなんです。

今年の秋の予定では・・・
さて、来週はお天気と紅葉状況を見て、朝一番の新幹線でドラゴンドラを目指す旅に行く予定です。普段、高崎あたりまでしたら、上野・東京ラインの快速で行くこともあるのですが、今回はもちろん、新幹線でいきます。但し予定がたてられないので自由席です。
毎日、ネットで天気と紅葉状況をチェックしています。
一昨日は強風でゴンドラは運行停止、昨日の速報画像をみると、頂上駅付近は積雪です。
今年は、昨年よりも一週間から10日、紅葉は遅れているようなのと、越後湯沢の天候は週7日のうち、晴れるてるのは二日ほどしか有りません。
山岳紅葉は多少がかかっても、自力・個人で行くのがベストなのですが、22日の時点でも天候と
紅葉状況の一致する日が見当たらないのが現況です。

11月は高知仁淀川と徳島、カカシ村を予定しています。
もしかしたら、今年、ドラゴントラを諦めなくてはならないかも・・・
ともかく、来年も紅葉、桜が見れるとは思わないことにしています。

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2021年10月20日

健康寿命と平均寿命の間の10年 男は林住期、女性はヨタへロ期

この頃最近、カミサンの友人の伴侶(男性80代)の長期入院や介護施設への入居の話が頻繁に聞こえてきています。
私もカミサンも前期高齢者なのですから、お友達、知人の多くは後期高齢者、で、これから介護と病気、入院とのお付き合いは当然多くなります。
カミサンは今、かの大ヒットした「お一人様」の生みの親、作家の上野千鶴子氏の本をカミサンが買って来て読んでいます。
帯に書かれているキャッチコピーを見ると、この本を読まなくてもほぼ解るような気になります。

おひとりさまでも、認知症でも大丈夫

サヨナラ、「孤独死」はこれからは「幸せな在宅ひとり死」
慣れ親しんだ自宅で幸せな最後を迎える方法。
施設でもなく、病院でもなく、大好きな自宅で、自分らしい幸せな最後を迎えたい。
その準備と心構えをお伝えします。
「おひとりさまの最後」を支える、医療・介護・看取りの最前線も紹介。
意外とお金もかかりません。
私、ウエノも最後は「在宅ひとり死」でゆくつもりです。
私には家族がいませんので基本、ひとりで暮らしています。
団塊世代、72歳。このまま人生の下り坂下り、要介護認定を受け、ひとり静に死んで。
ある日、亡くなっているのを発見されたら、それを「孤独死」とは呼ばれたくない。
それが、この本の執筆動機です。

男おひとりさま術
上野千鶴子さんの「お一人様の老後」の後、2010年6月出版社「法研」より、「男おひとりさま術」と云う本が出版されて、話題になりました。
著者はジャーナリストであり、上野千鶴子氏のアシスタントもされている、同郷、同世代の「中澤まゆみ」さん、ネット上でお付き合いのある方です。
今回、上野千鶴子氏の「在宅ひとり死のススメ」について、お聞きしようかと思い、メール連絡しましたが、メルアドが変わったようで、返信はありませんでしたが、彼女も、ウエノさんも同じ団塊世代、今までは、少し上の世代のお話だったのが、これからいよいよ、私たちもこの世界に入っていくので、少し予習しておかねばと、今回じっくりと読んでみました。

関連メインwebサイトWebで広がる団塊の輪 男おひとりさま術

上野千鶴子の本書イントロ部からの引用・要約

はじめに
「お一人様の老後」「男おひとりさま道」「おひとりさまの最後」まで続いた三部作、「最後」までくれば完結。
ふつう「最後」の後はないものです。
ですが、私はまだ死にそうな気がしません。
と言っても沢山の高齢者を見てきた経験からは、今から最後までに待ち受けているのは、社会学者の春日キスヨさんのコトバによれば「ヨタヘロ期」こと「ヨタヨタ」⇒「ヘロヘロ」⇒「ドタリ」の要介護期。
「おひとりさまの最後」を書いたあとの、私の次なる目標は「要介護認定高齢者」になることでした。
ホンモノの要介護者になって当事者目線から情報発信してやるぞ、というものでしたが、実際になってみれば、そんな気力・体力・探究心があるかどうかわかりません。
尊敬する大先輩「樋口恵子」さんが近著「老ーい、どん。あなたにも「ヨタヘロ期」がやってくる」について書かれています。
みーんな、当事者になって「介護される知恵」を分かち合う時代がすぐそこまで来ています。


冒頭で書きましたように、ずっと先だと思っていました、介護老人ホームと、高齢者なんたらかんたら施設とか、施設入居一時金だとかは、カミサンのお友達の間では始まっています。
これまで、つい数年前までは、ご主人はこれら施設の送迎運転種バイト、奥様はそれらの施設の賄いや、ヘルパーとして働いていたのが、現実問題として選択を考えなくてはならない時期が目の前に来ている模様です。

ヨタへロ期

私達団塊世代の男性は、前期高齢者から後期高齢者の仲間入りするこれからの時期は、五木寛之の提唱する「林住期」といった、どこか格好いい行き方、過ごし方のの言葉に酔っているのに、私達男性の介護を背負い、見送った後の女性のあいだでは、このような現実的な言葉で、自分たちの置かれる状況を表しているのです。
健康寿命と平均寿命の間のおよそ10年をヨタへロ期と命名
痛い所だらけで「ヨタヨタ・ヘロヘロ」とよろめきながら直進していると、自分の人生・老後を明るく表現しています。
ヨタへロ期をネットで検索すると、この本以外に多くの女性目線での老後の過ごし方について書かれて本がヒットします。

・老いの福袋-あっぱれ! ころばぬ先の知恵88
・しがらみを捨ててこれからを楽しむ 人生のやめどき
・女一生の働き方―貧乏ばあさん(BB)から働くハッピーばあさん(HB)へ
・大介護時代を生きる
女性はすごい、偉いな・・・男はどこかロマンチックな老後を模索しているのに。

これらの本、紹介はタイトルだけにとどめておきます。
実際にはお金をだして買って下さい。
文春新書 在宅ひとり死のススメ 800円+税

そして、今回の本、上野千鶴子さんの本「在宅ひとり死のススメ」の目次は
第1章「おひとりさま」で何が悪いか?
・すごい勢いで「おひとりさま」が増えている。
・「老後はおひとりさまが一番幸せ」のデータ
・二人世帯の満足度は最低
・おひとりさまは、寂しくも不安でもない
・「満足のいく老後」の3条件

第2章 死へのタブーがなくなった
・「多死社会」がやってきた
・死の臨床像が変わった
・「最後は病院で」から「最後は自宅で」へ
・年寄の溶体が急変したら119番すべきか
・子どもには背負える程度の負担を

第3章 施設はもういらない
・私が施設に行きたくない理由
・サービス付き高齢者住宅ならよいか
・日本を「収容所列島」にすべきか?
・看取りのコストは「病院」>「施設」>「在宅」

第4章 「孤独死」なんて怖くない
・「孤独死して発見される」のが怖い人へ
・「孤独死」の定義とは
・見守りと監視のあいだ
・死ぬのに「立ち会い人」は必要か?
・看取り立ち会いコンプレックス
・「在宅ひとり死」を広めたい

以降は少し一般的なお話になっています。
第5章 認知症になったら
  省略
第6章 認知症になってよい社会へ
  省略
第7章 死の自己決定は可能か?
  省略
第8章 介護保険が危ない
  省略

ほんの少し、本文内を紹介します。
「老後はおひとりさまが一番幸せ」のデータとは
この本の中で、幸福度を生活満足度と云う言葉、指標に置き換えています。
これまで、一人暮らし、独身者は「かわいそう」「惨め」という枕詞がつきまとってきました。
そこで、上野千鶴子さんは、これからどんどんと増えていく「単身高齢者」を「おひとりさま」と呼び替えて、胸を張って自称することにしました。

世の中には「幸福度」という指標がありますが、「生活満足度」に云う指標に置き換えてみます。調査では同居者一人の場合、二人の場合、三人、四人と区別して調べると、同居者が増えるに連れ、生活満足度は下降し、単身世帯が一番高いとの結果がでました。
そして、二人世帯の満足度は最低でした。
原因はずばり「二人暮らしは妻の一人負け」

調査のあるある事例
「夫はずっとTVとバソコン、話しかけても返事はしない、その上細かいことまで口出しする」
「全くひとの話を聞かない、自分思い通りしか行動しない、反論すると大声をだす」
「夫は退職してから、何処にいくにも付いてくる、うっとおしい」
「夫は家族の病気には関心を示さないが、自分の検診数値には大騒ぎする」
「退職してから家事はいっさいやらず、夫の存在自体に腹がたち、気分が滅入る」

ふたりの老後「これで幸せ」の秘訣七か条
1,それぞれお互いに納得している。
2,しっかり分業出来ている。
3,別々の価値観でも構わない。
4,目の前の不満は些細なことと割り切る。
5,二人のときからひとりの時を想定する。
6,時間的、空間的に距離をあける。
7,自ら自分の世界に入り込む。

手前味噌ですか、私達夫婦は上記七か条を意識せずに、これまで43年間やってきており、現在も「相互不可侵条約」締結中です。
このような、夫婦関係は特に退職後の夫婦のあり方として必要と、三才上の友人に云ったところ、何のため夫婦なんだ・・と云われました。
子どものいない私達夫婦は特に反論もしない、出来ませんが、夫婦・つがいというの大きな役目は子どもを産み、育て、社会に送り出すのが一番大きな「人」として役目であると考えています。
理由は特にこのブロ書きませんが、私達の間に子が成さないと解ってから、私達の早期退職・海外ミドルステイ志向が始まったのです。
これらはDATAではっきり出ています。
複数世帯よりも単独世帯の方が満足度が高いというDATA





人によっては独り者による「勝手な、強がりのデータ」だけを集めた、負け犬の遠吠えと思われるかもしれませんが・・・

満足のいく老後の3条件
おひとり様の上野千鶴子さんが満足のいく老後の姿を追いかけてたどり着いたのは結論は、なんと独居に行き着いのです。
老後の生活満足度を決定づけるものは、慣れ親しんだ土地における、真に信頼の置ける友(親戚)と勝手きままな生活だと。
1,慣れ親しんだ家から離れない
2,金持ちより人持ち
3,他人に遠慮しないですむ、自律した暮らし


私達夫婦もこれを読んで、その通りと云ってますが、カミサンは余計な一言を言い放ちました。
私は貴方の在宅介護はしませんからね。
さっさと介護施設なり病院に入ってもらいますから。


そっか、カミサンは、私が逝ったあとの「在宅ひとり死」を考えて、この本を買ってきたんだ。

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2021年10月18日

富士山路線バスの旅二日目 朝霧高原・白糸の滝・世界遺産センター

富士西側山麓を下って富士宮へ

私達、湘南或いは東京に住む人々が見る富士山は、主に東側からあるいは、東南がわからみる姿です。
今回は、初めて富士山の西側山麓をながめながら半日かけて下っていきます。
朝から天気予報通り良いお天気で、ホテルロビー正面にきれいな富士山が見えます
ここから見る富士山は、ほぼ真北から見てる富士山です。
普段湘南から見慣れている富士山山頂と違い、少しシェープがいくらか尖ってみえます。




ここから路線バスは、鳴沢氷穴、精進湖、上九一色村、本栖湖と富士山の西側を下った行き、最初に下車するのは朝霧高原道の駅です。

ふもとっぱキャンプ場

このブログの「富士山ぐるっと バスと電車の旅一日目」の冒頭でも書きましたように、今回の旅のきっかけとなったのは「NHK72時間 ふもとっぱらキャンプ場」を見てからです。私達見慣れている富士山はどちらかと見上げている富士山なのに、この番組でみる富士山は、目の高さにあるのです。
そして前面は、広々とした緑のキャンプ場と色とりどり、カラフルなテントが続いててる風景、ぜひ一度見てみたいと計画をはじめたのが、今回の旅のきっかけでした。
では、車を持たない、免許を更新しなかったシニア夫婦はどうやってここにたどり着けるのか?
ネット時代・・・ちゃんと私同じような人間がいて、書いていました。
それが今回、乗ったバス路線です。
富士急富士山駅始発⇒河口湖駅⇒JR身延線富士宮駅⇒新幹線新富士駅への普通路線バス 一日3便、往復6便でています。
通しの料金は2,250円です。

当初行きたかったふもとっぱキャンプ場へのバス停は、私達が降りた「朝霧高原道の駅」から2つ先の「朝霧グリーンパーク」で下車して東大農場方面へ約2.2km徒歩25分です。
でも、一日片道3便・往復6便ですから、上手に組まないと、帰りのバスまで5時間待つことにもなります。
当初、カミサンに地図で説明し、片道30分歩き、「ふもとっぱら」滞在45分、帰りも30分歩きバス停で15分待つと伝えました。
カミサンの答えは、「歩くのは問題ない、でも寒かったり、風が強かったり、雨だったら、手前の道の駅にしよう、だって綺麗な富士山を撮るのが目的なんでしょ。」と。

朝霧高原道の駅・あさぎりフードパーク

そして、本番当日、バスは快適に国道139号線を南下していきます。
全くなにもない、緑の林を抜けると、一面すすきが広がる高原の一本道です、もちろんお店も日陰もありません。
河口湖駅を出で1時間、バスは朝霧高原道の駅に到着、この暑さを予測していませんでした。このなにもない道から野原を30分歩くの・・・
水は持っていても・・・
トイレが近いいし・・
カミサンは不機嫌・・・急遽この道の駅で下車しました。
この道の駅は大きく、お隣には富士山の"味のさんぽ道"「あさぎりフードパーク」も併設されているのです。
予め、お天気が悪るかったりした時に備えて、調べてはおきました。

カミサンのワンダーランド

お買物大好き、お土産物やりとり、プレゼントをもらうのも差し上げるのも大好きのカミサンには、何時間でもいられる場所です。
ここでは、次の目的地、白糸の滝へ行くバスは2時間後です。
私達夫婦の旅先でのパターン、1時間自由行動、私は映像の撮影、カミサンはお買い物巡りの一時間です。
後の1時間はブッフェレストランでゆっくりと食事、時間つぶしです。

ランチブッフェの専門レストランの他に1,850円のブッフェレストランがあることは予め調べてありました。
今回の一泊二日の旅行、ホテルの食事をつけてなく、昨日の昼間は吉田うどん、今朝は河口湖駅で慌ただしくコーヒーとバナナという食生活、今日の夜は「富士宮ヤキソバ」の確率が高いので、お昼ぐらいしっかり食べよう、それに1,850円でゆっくり座って、デザート・コーヒーまで
いられるのだから・・・と思ったのですが。
客はガラガラ、私達夫婦の他一組しかいません。これではブッフェはやってないのではないか、心配になり一応入り口でやっているか聞いた後、お料理の内容を見せていただけますか?とカミサンの定番の質問です。
私達夫婦は日本ではもちろん、海外のブッフェでも必ず同じ質問をします。
値段が極端に安いブッフェは要注意です。炭水化物だらけ、カレー・ヤキソバ・スパゲッテイと揚げ物だらけ。
もう若くない私達です。特に海外では注文にも困る時があるので、ブッフェは楽なのですが、最近の中国系旅行者の多い街のブッフェは要注意です。
まであまあの内容でゆったりと過ごし、2時間後のバスに乗車して次の白糸の滝を目指します。

白糸の滝へ

私、自称「滝マニア」です。
もちろん、世界各地の名瀑は回ってきており、南米イグアスは3回行ってますし、ギアナ高地のエンジェル・フォール、もちろん北米のナイヤガラとか、インドシナ半島の各地の名瀑、日本の名瀑も行った先に滝があると知ればどんな小さな滝でも、時間が許す限り見にいっております。


今回の旅の初日、「田原ノ滝」についで「白糸の滝入り口」をこのバスが通るのを知り三回目の「白糸の滝」です。
初回は学生時代、夏休みに一人富士山登山に来た時。54年前、半世紀か!
二回目は、退職して鎌倉の写真クラブに入ってすぐの撮影会でした。
そして今回の三回目、あまりにも周りが綺麗に整備されているのにびっくりしました。
白糸の滝は昭和の昔の典型的な観光地のように、滝まで道にはいろいろなお土産物屋さん、食事処が並び、声をかけてきて、帰りにはちゃんと顔を覚え得ていてお店のなかにで冷たいお茶の接待などと、待ち構えいるのが、アジア的なのです。
しかし、そんなお店は少しはありますが、今や入り口周辺は小綺麗な統一されたデザインのお店が、こざっぱりと並ぶ観光地となっていました。

今回初めて知った白糸の滝の秘密
滝とは上流からの河の流れが、大きな断崖・絶壁をながれ落ちるもの思っていましたが、白糸の滝は違うのです。
川ではなく、富士の伏流水が断崖の岩の間から大量に染み出ているのです。知らなかった。

終着点 富士宮・富士山世界遺産センターへ

白糸の滝から今度は、市内を走る路線バスで帰路の最終駅JR富士宮を目指します。
まずは、富士宮駅にて、帰路の時刻表を確認後、今回の富士山と並ぶフォトジェニックな対象物、世界遺産センターへ徒歩8分です。
何と素晴らしい、富士山世界遺産センターとして似つかわしい素晴らしいデザイン・フォルムの建物なのでしょ。
そもそも、富士山の世界遺産登録は自然遺産ではなく文化遺産なのです。
世界中の火山国を旅していますと、富士山のような円錐形の単独峰は各地にあるのを知っていましたので、自然遺産は難しいのでは思っていました。世界遺産登録は意外と難しいのです。
鎌倉の場合、文化遺産としてテーマは「日本発の武家文化」だったのですが、それを証明する、現存する遺跡・建築物が残っていないのがて致命的な問題で落選でした。
ここの施設は静岡県の富士山世界遺産センターで、富士吉田には忍野八海近くに山梨県世界遺産センターがそろそろオープンの予定です。
特に、これといって見るようなものはありません。が70歳以上入場料300円が無料なのではいりました。
時刻は3を過ぎていて、朝あれほど綺麗に見えていた富士山の全景は、富士宮では雲に覆われてみえませんでした。

帰路と旅の決算

富士宮15:26⇒富士乗換⇒熱海乗換⇒大船着17:49  1,980円
自宅には6時、結構つかれました。
今日一日で24,000歩あるいたのですから。そろそろ齢を感じるようです。

二人一泊二日の費用
交通費合計  17,000円  
食事 2日分  8,000円
宿泊     16,000円
喫茶・お土産  4,000円  総合計 45,000円+予備費5,000円

旅の二日目の動画



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2021年10月16日

BSテレ東 マネーの学び 老後資金2000万が55万に?

衆議院選・投票者の関心は「コロナ」と「所得の再分配

衆議院選が始まり、投票者の関心は「コロナ」と「所得の再分配」に絞られようとしてると全国紙は一面で報じています。
いっぽう、昨日の夜、BSテレ東、夜の10時の番組ですから視聴者は極端に少ないと思いますが、事前のテレビCMと地上波の予告宣伝で
「老後2,000万円問題が55万円に」
と謳っているのを見て、何んなのその金額は、2,000万円でも足りないと思っている現役・シニア年金生活者の私達が思っているのに、55万円とは何なんだ、と眠い目をこすりながら、見ました。

老後2,000万円問題とは

2019年6月に、金融庁の金融審議会「市場ワーキング・グループ」の報告書によって、「老後の30年間で約2,000万円が不足する」と発表されたことが話題になった問題のことです。
試算によると
夫が65歳以上、妻が60歳の夫婦のみの無職世帯をモデルにして、夫が95歳、妻が90歳になるまでの30年間は夫婦とも健康である。という条件下での試算したものです。

「家計調査(家計収支編)平成29年(2017年)」における高齢無職世帯(夫65歳以上、妻60歳以上)の平均的な実収入209,198円に対して、消費支出と非消費支出(税金や社会保険料など 世帯 の自由にならない支出)の合計が235,477円+28,240円=263,717円で、毎月約5万5,000円が赤字になり、ここに12月✕30年は約2,000万円ということになると発表し、財務大臣の麻生さんが渋い顔をしているのです。

何でこれが55万円で済むのか?

これは2017年の家計調査に基づく平均的な数値で計算されたものでが、今回は2020年の調査の数字で検証すると同じ条件の夫が65歳以上、妻が60歳の夫婦のみの無職世帯の実質的な実収入は伸び、支出は減っているとのデータを使って計算すると一月の赤字額は月に−1,600円弱
となり、12月✕30年で足りない額は550,000円と云う、数字のマジック、遊びになるというのが、今回のBSテレ東の番組内容でした。

2020年、収入が増えた理由は
年金だけが収入の高齢者シニア夫婦の収入が増えた理由は、コロナ特別給付金二人で20万円
2020年、支出が減った理由は
コロナ禍で、外出、旅行、外食が減ったからです。
老後2,000万円問題は何も変わっていないどころか、コロナ禍の後先ない財政出動で将来の年金額減額や円そのもの価値下落、インフレ要素の増大で、却って不安は増しています。

高齢世帯はどうやって不足額を埋めている?
金融庁の金融審議会「市場ワーキング・グループ」の報告書によれば、高齢夫婦無職世帯の平均貯蓄額は2,500万円となっています。
また、会社を退職した際に受け取れる退職給付額を平均すると1,700万円~2,000万円になります。老後2,000万円不足というのは、あくまでも2019年時点での試算不足額は2,000万円からさらに大きくなる可能性があります。

理由1 平均寿命・余命は今後も延びると推測される
理由2 現在の日本社会・企業の退職期は減少傾向にあり、実際に退職金制度を無くし、
    現役給与として加算する企業が増えている。
結論、2021年以降に退職する世帯では2,000万円では足りなくなる。
理由1 退職しても生活費は半分にならない
理由2 企業年金は減少していく
理由3 公的年金はこれ以上は絶対に増額しない
理由4 長生きリスク
理由5 医療費・介護費の増加

どうやって老後資金を作るか BSテレ東「マネーの学び」の答えは

・若いときから、収支のバランスを把握する
・家計簿をつける習慣を身につける。
・退職前世代で家計簿つけていないのは50代。
・デジタル時代、支出をカード等で、自動的に記録出来る家計簿アプリを活用する。
・余ったお金を貯蓄するのではなく、最初から一定金額を貯蓄し、余った額で生活する習慣
 を身につける
・10年先、20年先、退職後の生き方、ライフスタイルをイメージする。
  まあ、番組内容は予想はしていましたが、テレビではこんなもんでしよう。

翌朝の新聞紙面は選挙前 タイトルは「4年の変化と願い」
朝日新聞社会面引用
衆議院が14日解散され、事実上、選挙戦が始まった。
前回選挙から4年、この間社会はどう変化し、暮らしにどんな影響を与えたのか。
コロナ下の選挙で、何が問われるのか?
四年前と直近の数字の変化を辿ってみる。
参考引用 
4年前 65歳以上の就業者数は807万人。 今年、2020年は906万人と百万人増えている。

71歳、生活費のための清掃員
東京都北区の男性(71)は、65歳から6年間、公園の清掃員として働く、週に3日、朝9時前から一日5時間、日給6,000円ほど「老後は悠々自適、妻と海外旅行でもと思っていた、とんでもない、働かないと生活費が足りない」
30年以上勤めた食器の輸入販売会社を60歳定年退職、63歳まで再雇用で働いた。
その後夫婦合わせて月20万円ほどの年金で暮らしていたが、介護保険や区民税などの負担も重く、老後資金として残していた、約1,000万円の貯金の取り崩しが続き、再び働き始めた。
自宅マンションのローンは完済しているが、修繕積立や管理費で月3万円は消えていく。
「貯金を増やすのは無理、何時まで蓄えが持つか不安だ」


ここで思い出すのは、同じ団塊世代の菅さんが首相就任で語った言葉「自助・共助・公助」です。
50年代の子どもの頃から、競争の世代として育った私達は、「社会のあり方や人の生き方として、どうあるべきか」という、少し大上段に振りかぶったところからの考えるのは当たり前、

簡単に自己責任とは云いませんが先ずは、人は生きていくうえにおいて、自分が働いて稼ぐことが第一であるのはごく当たりだと社会から教えられて育ちました。

今のように、社会保険の保険という言葉、自動車保険、生命保険と同じで、自分たちの掛け金で成り立っている互助制度なんどから、助けてもらうのは、権利であるとは、なかなか割り切れません。
この朝日新聞にとりあげられた方のケースは全く普通のケースです。
現在の夫の厚生年金、妻の国民年金の世代の月平均合算公的年金額は約20万は、全国データのセンター値です。この金額、月20万で何の不満があるの?と思われる若い世代・ひとり親世帯は山ほどいるでしよう。

そうなんです、月20万で食っていけます、死にやしません、月に一度、回転寿司の外食も出来ますし、月一、映画にもいけますし、日帰り旅行もできます。
下を見れば、本当に毎日の食事に困っている人、アパート代、学費に困っている人はゴマンといるのでしょう。

「この先、何時まで保つか不安だ」は分かります。
これより先は、本当の意味で云う「共助」「公助」でしょう。
一つ、云うとすれば、この方は、定年退職後の生き方、暮らし方、お金の出費先など、詳しくご夫妻で話し合ってきたことはあるのでしょうか?
平均的な公的年金二人で月20万円、自治体によっては違うかも知れませんが、住民税非課税になるギリギリの微妙な金額なのです。
住民税非課税ですと、介護保険にも国民健康保険にもすべ影響します、高額医療費の限度額もガタと下がります。
退職前から、この壁の金額を把握し、自身の年金額を推定し、退職年月を決めるのは、自助なんであり、その先を「共助」「公助」に頼っても何ら問題なく、
国民の権利ととらえましょう。ここまで自分でやってきたと自負があれば、私だって「公助」を頼りします。

でも、古い昭和の考え方かも知れませんが・・・・
「共助」「公助」の前提として先ずは「自助」先にあるのが当たり前の民主国家、日本だと思いたいのですが、団塊世代は古いのかな?

さてさて、もしも、今回の選挙で与野党逆転、立憲民主が過半数をとったら私達、団塊・年金シニアの老後はどうなるでしょう。
ちょっと怖いもの見たさもありますが・・・

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2021年10月14日

映画「ONODA1万の夜を越えて」と団塊世代との意外な繋がり

「ONODA1万の夜を越えて」

私は、映画好きで月に一度は、メディアで取り上げられような映画を見に行くのが楽しみです。

最近のコロナ禍で外出で少なくなり、まして、「72歳リーダー、決定権引退」を唱えて実践しているので、ますます暇になり、月一回ではなく、残り少ない人生(平均余命まで後8年)を思うと、見たい映画、行きたい場所は、時間もお金も惜しまずに行こうと思うようになりました。


先月の「MINAMATA」に続き、世界の音楽祭に出品されている日本映画、或いは日本を舞台として映画は見ることにしています。
今回の「ONODA1万の夜を越えて」は、カンヌ国際映画祭2021の「ある視点」部門のオープニング上映作品です。
受賞は逃しましたが、オープニング上映という、かなり話題を集めそうな、ユニークな作品であることは間違い有りません。
メディアで紹介され、私は直ぐに上映館を検索しました。
このようなカンヌ出品作品はなかなか、大手映画配給ルートに乗らず、都市部の大手シネコン上映されないことは分かつていました。
「MINAMATA」は特別でした。ハリウッド資本系列で、主演・監督がネームバリュウのあるジョニー・ディプなので、私の行きつけの大手シネコン、109シネマ
でやっていましたが、この「ONODA1万の夜を越えて」は、独立系制作会社や社会性のあるフィルムを率先して上映するミニシアター系、名画座系で上映されます。

私の自宅周辺でヒットした上映館、神奈川県では

TOHOシネマズ川崎、小田原、鴨居と、Kinocinema 横浜みなとみらいの4館のみです。
自宅から一番近いのは「Kinocinema 横浜みなとみらい」過去に何回も足を運んで、距離感もあります。
この館でみたのは「エルネスト もうひとりのゲバラ」です。
オダギリジョー主演のボリビアの日系青年がキューバ医学校で知り合った、キューバ革命の英雄、アルゼンチン人のゲバラと共に、ボリビアの革命に携わるお話・・・でした。
この時の上映館は、神奈川県ではここ、Kinocinema 横浜みなとみらいだけでした。

Kinocinemaとは

Kinocinemaは「Tutaya(蔦屋書店)が運営する、良質な映画、マイナーな、社会派映画、少数派映画を上映する、名画座系のミニシアターで、100席ほどのシアターが2つ、55席のシアターが1つのミニシネコンです。

一階は書店と喫茶が一緒になった今最先端のモダンな書店様式で、コーヒー・ケイキと一緒に購入した本をその場で読めるます、ちょっと聞いてみたいのはこの喫茶の場で、試し読みが出来るか、どうか、次に行った時に聞いてみようと思ってます。
最寄り駅は、JR横浜駅と元町・中華街を結ぶみなとみらい線のみなとみらい線ですが、初めての方は、横浜みなとみらい地区ってどんな所か、歩いていくことをお勧めてします。
桜木町から、ランドマーク内を通って横浜美術館方面へとあるくこと、10~12.3分です。


みなとみらい地区とは

ここは、一種の青春時代の思い出の地です。
1968年、ここ横浜から船でブエノスアイレスに向かいました。出発前に色々な手続きがあり、頻繁に桜木町駅にきています。
この当時、桜木町駅から旧三菱重工横浜造船所の広大なドックが広がっていたのを覚えています。
この跡地に1989年、バブル真っ盛りの頃、横浜市制100周年・横浜港開港130周年を記念して開催された万国博覧会が開催されました。
私は、この万博パビリオン建設の幾つかを担当していました。
私は40歳、なにも交通手段のない現場、横浜駅から毎日、歩いて道路もない広大な現場を駆けずり回っていました。
そして、同じように数年後、まだレインボーブリッジが開通する前の、お台場開発、それに伴う「ゆりかもめライン」全駅の無人化に伴うシステム造りに携わり、アクセス道路も泥だらけの現場を駆けずり回っていました。
ちょうど、「オウム」の地下鉄サリン事件に出くわした頃1995年・・・
ここ、みなとみらい地区にきて、立ち並ぶ大型ビルを見上げると、あの若さゆえに働きづめていた青春・壮年時代を思い出します。

映画「ONODA1万の夜を越えて」お話は

太平洋戦争終結後も任務解除の命令を受けられず、フィリピン・ルバング島で孤独な日々を過ごし、約30年後の1974年に51歳で日本に帰還した小野田寛郎旧陸軍少尉の物語を、フランスの新鋭アルチュール・アラリ監督が映画化。

終戦間近の1944年、陸軍中野学校二俣分校で秘密戦の特殊訓練を受けていた小野田寛郎は、劣勢のフィリピン・ルバング島で援軍部隊が戻るまでゲリラ戦を指揮するよう命じられる。出発前、教官からは「君たちには、死ぬ権利はない」と言い渡され、玉砕の許されない小野田たちは、何が起きても必ず生き延びなくてはならなかった。
ルバング島の過酷なジャングルの中で食糧も不足し、仲間たちは飢えや病気で次々と倒れていく。それでも小野田は、いつか必ず救援がくると信じて仲間を鼓舞し続けるが……

団塊世代の私達なら誰でもが知っているお話の映画です。

その二年前1972年に、グアム島でひとりの元日本兵(横井庄一さん)が発見されて、話題になりました。
私が南米から一時帰国したのは1975年ですから、この二人の元日本兵のニュースはブエノス・アイレスで知り、かなりセンセーショナルな、そして日本人の潜在的な戦士としての意識・考え方・生き方として報道されていました。
詳しい、潜伏生活、理由については日本に帰ってきてからのメディア報道で知りましたが、今回の映画でかなり深く知ることができました。

先ずグアム島の横井さん

私のカミサンが勤めていた当時の医療機関の院長は、元軍医で終戦当時グアム島にいた関係で、終戦後グアム戦友会の会長をしており、横井さん発見ニュースの後、戦友会を代表して直ぐにグアムに迎えに行ったそうで、何年か後に、お話を聞く機会がありました。

その時の元軍医の会長のお話は、ルパング島の小野田さんとの違いについて、かなり辛辣な意見を述べており、少し違和感・抵抗感を感じましたが、今回の映画「ONODA1万の夜を越えて」を見て、当時の将校クラスと一般兵との間にある、軍の組織の壁を感じました。

帰国した、ルパングの小野田さんに、グアムの横井さんとの対談のお話があった時に、小野田さんは拒否したと、後年伝えられいています。
自ら意思で残ったものと、恐怖と無知で隠れ続けたものと違い、全ての武器、天皇陛下からの預かりものを失い、銃剣を穴掘りの道具として使った者との会話を拒んだのではないかと、メディアから推測されたようです。
映画「ONODA1万の夜を越えて」のなかでは、食料は現地調達(現地住民からの略奪・・・)、発見された当時はかなりの銃弾を残していたようです。
そして小野田さんは、「発見された」のでもなく、自らの意思でもなく、投降でもなく、命令によって人々の前に姿を現した・・・

もうひとりの主人公、鈴木紀夫は団塊世代だった

この映画のオープニングはある日本青年(鈴木紀夫)のルパング島へ登場から始まります。
鈴木紀夫氏 1949年(昭和24年)4月 私達と同じ、団塊世代 法政大学経済学部二部中退
菅元総理と同じ時期です。総理は第一部法学部政治学科を1973年3月卒業です。
以下Wikipedia

1969年3月(21歳)
主にヒッチハイクでアジア各国を巡ったのち、中近東・ヨーロッパ・アフリカ大陸に至るバックパッカーの旅に出る。

1974年2月
小野田との接触に成功。
ルバング島には、日本語が話せる原住民が多く、日本語が話せるだけでは日本人と判断されなかったため、初対面の際には、小野田に銃を向けられて発砲される寸前だったが、毛の靴下にサンダル履きという原住民にはない珍妙なスタイルであったため、事なきを得る。
別れ際に小野田の顔写真をカメラに撮影、この接触により小野田の救出が現実味を帯び、3月に小野田は日本に帰国。
かつて「パンダ・小野田さん・雪男に会うのが夢だ」と語っており、最後に残った「雪男発見」に情熱を注ぐ
1975年7月
ヒマラヤ・ダウラギリ群の南東稜コーナボン側斜面の4200m付近に「5頭の類人物を望遠観察した」と主張。
1978年
結婚。喫茶店を夫婦で営んでいた。
1986年11月
ヒマラヤ・ダウラギリIV峰ベースキャンプ附近で遭難。
1987年10月7日
遺体発見。享年37。 


今回の映画を見てから彼の人生を初めて知りました。
同じ、団塊世代、21歳からのバツクパッカー人生、1978年結婚・・・全く私と同じ軌道を歩んで来ている、そして1986年、ヒマラヤで遭難、亡くなっている。
同じ年、私とカミサンは、新居ローン返済を記念してアジアへの旅にでていた。
そし帰路、そのヒマラヤ・ダウラギリ・K2をイスラマバード発の格安パキスタン航空の車窓から見ていた・・・

映画を見終わって外にでると、そこは、映画の世界と違った超近代的な町並み・・・
いつも見ている、辻堂の109シネマ湘南でも同じです。シアターを出ると、そこは巨大ショッピングモール、歩いているのはセンスの良い服をまとった湘南の若い、湘南の女性、家族連れ・・・しばらくは、映画の世界とのギャップに佇む自分がいます。
みなとみらい地区から桜木町へと歩いていくと、今年新たに開通した、「YOKOHAMA AIR CABIN」の姿が見えました。

YOKOHAMA AIR CABIN




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2021年10月12日

天声人語の筆者と、災害時の帰宅手段・方法

朝日新聞の天声人語書き写しノートというのがあります。

朝日新聞の一面下のコラムを専用の書き写し用、原稿用紙マス目のノートです。
数年前まで、我が家ではカミサンが午前中の一時間、このノートに書き写しをしていましたが、女性だけのスポーツクラブに目覚めて午前中に出掛ける習慣になり、天声人語の書き写しをやめて、ノートが余るようになり、私が代わって、朝のルーティンとして書き写すようになりました。
大きな理由が、キーボートで打てても、漢字が書けなくなっているのを、しみじみ実感しているからです。
難しい漢字ではなくても、画数の多い漢字は拡大鏡を使って大きく拡大しないと分からないし、書けないのは、お歳のせいなのでしょうが・・・

我が家が「朝日新聞」なのには訳があります。
私の育ったは信州、子供の頃父親が結核で郊外の隔離療養所に6年間も入っていた為、我が家は貧困家庭で、男兄弟三人で新聞配達をして、少しでも家計を支えていました。
その新聞社は地元で最大部数を誇る、そして格調が高いと有名な「信濃毎日新聞」でした。
当然我が家でとっている新聞もこの「信毎」かと思いきや、東京で印刷し信州までトラック配達する「朝日新聞」でした。
私達三人が働く「信濃毎日新聞」の直売所は当然のごとく、我が家の母親に「信毎」をとるようにお願いにくるのですが、母親は拒否します。
その理由は・・・数年前の信州の県立高校の入試問題の国語で、朝日新聞の天声人語が使われいたことからです。
貧乏な家庭ながら、姉は小・中と学年一番の優秀な生徒、当時、信州NO,1県立女子校を目指していたのです。
「信毎」の販売員のおじさんも今から思うと偉い人でした。
男の子三人も新聞配達で家計を助けている貧困家庭でも、子どもの教育環境を第一に考え、地元紙よりも高く、前日のプロ野球ナイターの結果も朝刊に掲載されていない、東京の新聞を購読する母親の気持ちを察してくれたのでしょう。

さて、この天声人語の筆者ですが・・・・

毎日のコラムですから一人だけではないとおもうのですが・・
10月10日のコラムで神奈川県在住と述べていました。
これは随分前から、この筆者は神奈川県であること、住まいは私の家の近くであろうと推測していました。
筆者がときおり書く、季節の花々に関する記述でご自宅近くの近所の公園や、駅前の描写が出てきます。
春のサクラの季節、地元植物園で開発された、染井吉野系早咲きサクラとなれば、地元である私には分かりますし、筆者の描写からお住まいになっているであろう、マンションまで推察されるので、親近感を抱いていました。

災害時の帰宅方法について
本日のブログのテーマは、天声人語の筆者の詮索ではありません。災害時の帰宅方法についてです。
10月7日の夜10時過ぎの首都圏震度5度の地震で、かなりの交通機関が停止し、駅に人が溢れたとの報道でした。
確かに、震度5と云うと東日本大震災レベルで、2011当時、鎌倉周辺の鉄道はすべて止まり、駅には観光客が溢れていました。
私も当時、市役所庁舎内で会議中でした。
直ぐに、古い安全確保出来ないようなボロ庁舎から離れ、市庁舎の庭は騒然としました。
私はの日の夕方から予定していました、NPOセンターの講座の中止に備えて、鎌倉から2つ先の大船まで歩いて行きました。
JRの踏切は遮断器が降りっぱなし、カンカン鳴っていて、道路は大渋滞でした。

10月10日の天声人語で筆者は書いていました。

地震で交通機関が麻痺しても、帰宅できるか、数年前、都心から神奈川県の自宅に向かってあるき始めたことがある。
道を間違えていないか、スマホの地図を何度も見る。疲れるとコンビニに入るという休み休みの道中である。
もっとも、電波もお店も震災時に何処まで頼れるか解らない。歩道だって人が殺到すれば渋滞になるに違いない、容易ではないと思いつつ、足を引きずりながら8時間近くの行程を終えた。
~省略~



この文章を読んで、あれ天声人語筆者は、おりおりの花の観察の文章から、私と同じ地域に済んでいると推測していたのに、8時間で都心から歩いて帰宅している・・・どう考えても私の住む東京駅から自宅まで50数キロはあるのに・・・神奈川県在住と書かれているけど、私が想像していた場所・地域とは違うようです。

私の住む場所は震災時東京都心(東京駅)から、何キロあるのか



一番わかり易いのはルートは正月の箱根駅伝ルートを調べれば、公式的な距離が分かります。
第1区 大手町(東京駅)から鶴見中継所 21.3km
第2区 鶴見中継所から戸塚中継所 23.1km
次に距離測定アプリで自宅からお隣の駅近くの戸塚中継所の距離を測ると、7.5km
合計51.9km 誤差を入れると52Kmとなります。

普段の歩くスピードぬ1km/15分とすると780分=13時間です。
天声人語の筆者の8時間と大きく違っており、この筆者は私がイメージしていた人はどうやら違う人のようでした。
参考 距離測定アプリは
地図蔵 ≫ 距離を測定する地図 

実際に52kmを歩けるか
現役を退いて18年、ずっと暇を持て余して、自宅いる生活が中心の私が東京都心に出向いている時に、大震災、或いは交通障害で帰宅困難者になる可能性は1%もなでしょう。・・・
がしかし可能性はゼロではありません。
現役時代、春先になると昔は頻繁に公共交通機関のストライキがあった時期がありました。
そんな時は最初から解っていましたので、会社や現場事務所に泊まることはしょっちゅうでした。
仕事がら、本社工事部、設計部にはちゃんとした仮眠所もありましたし、大型現場の場合、最初から深夜残業用という名目で畳の部屋を造り、普段は昼寝用に使っていました。
仮に、もし万が一、今の年齢で大災害で帰宅困難者になった時どうするか?
まずは横なれるホテルをさがすでしょうが先ず無理です。
今考えているプランは・・・・
東京都心から我が家までのルート上には、現役時代に竣工に携わったビルが沢山あります。
私が関わった仕事は、ビル全体の中央監視設備なので、一般の建設業者と違って、竣工後何かとお付き合いがあり、実際に管理・メンテナンスとして常駐しているビルが沢山あります。
こんな大災害の時期でも、元の会社名とそのビルの管理会社名を出せば30%ぐらい、或いははもっと確率は高いでしょうが、ヘルプしてくれるのではないかと、漠然と考えています。
そんな訳で、超大型ビルや公共物件はのぞいて、自分が関わった、そして現在でも元会社がメンテ・管理に入っている、比較的小型・中型ビルの情報をPC内に万が一に備えて記録しようと考えています。

そんな話をカミサンにしたら、「帰ってこなくていいから、連絡だけで十分」だそうです。


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2021年10月10日

富士山ぐるっとひと回り路線バスと電車の旅一日目

旅のきっかけはテレ東の旅バラ
最近の国内の旅の行き先は、テレビ番組を見て誘われることは多くなっています。
今回の富士山を回る旅の一つは「NHK72時間」でやっていました「朝霧高原」にある「ふもとっぱらキャンプ場」から見る草原に広がる富士山と、テレ東の旅バラ「かまいたちの名所名物先取り旅2」の富士五湖を巡る旅を見てからでした。



富士山の周りは学生時代からと退職してからも何度が日帰り旅行で旅しています。
特に、湘南に暮らすようになってからは、直通バスが藤沢から一日一便でてるのを知ってから、二度河口湖周りに行っていますが、この番組でしている場所には行ったことがないので、いつかは行こうと考えていました。

富士山周りのプランはお天気を最優先
富士山周りに行くには、予め日にちが決まっているパック旅行は絶對によそうと思っていました。
確かに、個人で行くよりは格段に費用も安く、現地での移動もツァーバスなので格段に効率が良いのは解っていましたが、富士山周りを動くですから、絶対にお天気の良い日を選ばなくてはなりません。団体パックですと、例え当日雨と解っていても、キャンセル料金を考えると、行かなくてはならない!
そこで、最初から多少高くつこうが、100%お天気の良い日を見極め、宿は前日に予約して行こうと計画しました。

当初、9月の最終週の平日の二日間を計画しました。
まだ、緊急事態宣言は解除されていませんでしたが、二人共ワクチンを二回接種しているので、まあ大丈夫だろう、そして二人共に70代に入っており、だんだんと気力・体力・好奇心が下降気味なのだから・・と、もっと大きな、旅に出るのを後押ししたのが、暇と、旅行予算が余ってきているのが一番でした。
毎日、富士山周辺の天気予報を眺めていました。
二日間完璧に晴れると分かつたのは、10月に入り非常事態宣言が解除された10月3日、4日に决定、後ろ指さされずに堂々と旅にでることが出来るのです。

まずは、最初の目的地 日本三代奇橋の「猿橋」へ

日本三代奇橋 とは
・甲斐の猿橋(山梨)
 猿橋は、山梨県を流れる桂川の渓谷に架かる橋で、橋脚を全く使用せず、両岸から4層の
 刎木(はねぎ)という支え木をせり出すことによって橋を支えている独特の構造をしています。

 大きさは全長30.9m、幅3.3m、水面からの高さは31mで、江戸時代には街道の重要な橋で
 もありました。
 現在では国の名勝に指定されています。たくさんの猿が体を支えあい、繋がりあって対岸
 へ渡る姿から橋の架け方の着想を得たという言い伝えが残っており、
 名前の由来ともいわれています。
・錦帯橋(山口) 
 過去に二度行ったことがあり、桜の季節が一番美しい、岩国から何本もバスがでています。
・愛本橋(富山) 
 愛本橋は、富山県を流れる黒部川中流に架かっている橋で、かつては猿橋のように両岸から
 支え木をせり出して架ける刎橋でした。
 江戸初期の1663年に架けられて以降明治時代まで架かっていた刎橋だった当時の大きさは、
 全長約61m、幅3.6mで、世界的に見ても例のない大規模な木橋でしたが現在、失われて
 おり、再現の話が出ています。

猿橋の駅(中央線大月の一つ手前)には観光協会もなく、駅から橋へのルートマップも有りません。
徒歩片道、15分から20分、甲州街道を新宿方面に歩くと直ぐに分かります。
ここでの滞在は、JR猿橋から大月に向かう時刻表次第となり、私達は約1時間の滞在でした。
カミサンは全く橋には興味がなく、そして到着したのが早くて、大好きなお土産物屋さんもほとんど開いておらず、ご機嫌は良くありませんでした。

大月で富士急の乗り換え

大月に戻って、名物の吉田うどんを食べる予定でしたが、予定よりも二本早い電車に乗ったので、まだ開店しておらず、そのまま次の目的地、「田原の滝」へ向かいます
が、富士急の電車で、私達が向かう「十日市場」に停車する電車は、日曜日の為、観光用の特急電車優先で各駅停車は極端に少ないのです。
そして、一度「十日市場」で下車して、田原の滝を観光して、再び河口湖に向かおうことすると、1時間以上各駅停車はないのです。
富士急の日曜日のタイムテーブルをじっくり調べると11時01分に乗り、次の各駅停車が25分後に来るパターンの時間帯がベストなのですが、観光は滝で5分だけになるのは覚悟の上となります。

大月の駅には初めて立ち降りました。
いつもは、新宿から松本への特急列車の停車駅として車窓から眺めていた、富士山山麓への起点駅であり、最近は、定年後のスローライフを求める人に人気の北杜市や、都留市のゲート駅として認知していましたが、降りてみると駅前は小さく、10月の緊急事態宣言の開けた日曜日というのに、人影もまばらでした。
富士急の電車は、河口湖・富士山観光とテーマパーク富士急ハイランドを中心に組まれているのか、特急列車中心で、スローライフを目指す都会ぐらしのリタイヤシニアにとっては戸惑うことでしょう。

田原の滝 富士急十日市場徒歩10分

田原の滝を知ったのは、前述の「かまいたちの名所名物先取り旅2」のなかでした。
ここにこんなフォトジェニックな滝があるとは知りませんでした。
しかもかの松尾芭蕉が訪れて「勢あり 氷柱消えては 滝津魚」と詠んだ名滝とは。
私の友人の滝マニアに聞いたところ、一発で知っていました。駅からも近く、見るための公園設備充実していると云います。
私達、電車・路線バス派にとって、交通の便が良いのは何よりです。

当初の計画では、1時間に一本の電車で来て、次の1時間後の電車で再び、河口湖を目指す予定でしたが、この日自宅大船を予定よりも二本早い電車で出発したので、この富士急線の電車は行き当たりばったりとなり、最寄り駅25分の滞在となりました。
グーグルマップでは、駅のすぐ隣と思えた滝ですが、県道を迂回するルートしかなく、片道10分、往復20分とかかり、実際の滝の撮影5分となりました。
以前の計画では最寄り駅「十日市場」で次の電車のくるまで1時間でしたから、かなりゆっくりとこの名瀑を楽しめたのでしょうが、しかしこの、周辺にはお店も、喫茶もコンビニもなく、ここで30~40分はちょつとキツイ、おまけにこの日は、台風一過の好天、日差しも強く、10月だと云うのに気温は30度超えの日でした。歩道もなく車の行き交う県道は暑かったです。

河口湖駅に観光客の姿はなし

非常事態宣言明けの日曜日、観光地「河口湖駅」はさぞや混んでいるだろうと思って下車する、あまりの閑散ぶりにビックリです。
二年前の秋の紅葉シーズンに来た時の喧騒が嘘のようです。

あの当時は、インバウンド観光客、特に中国からの個人客よヨーロッパから富士山と紅葉と湖を求めてくる人で、駅前のバスのりばは乗ろうとするバスの30分前には並んでいないと、定員オーバーで乗れないのが当たり前でした。
駅近くのレストランも一時間待ち、名物のほうとうが煮上がるまで30分、食事に1.5時間かかりました。
それが、この有様です。
十日市場からの電車は河口湖の手前の「富士急ハイランド」を通りますが、下車・乗車する客はまばらです。日本人客も来ないのか?
理由は富士急ハイランドの名物「トドンパ」を初めとするジェットコースターが、全て停まっている為のようです。
あの悲鳴を上げて楽しむジェットコースターで、理由はまだ良くわかっていませんが、骨折事故があったとの報道で全ての乗り物系アトラクションが停止しているようです。
でも、この日はピーカンの好天、河口湖駅の先に綺麗な富士山が見えました。

初めて行く、忍野八海へ

富士山周辺は今回で三度目ですが、忍野八海は初めてです。
カミサンは何度かお友達とグループできているようですが、私は忍野八海は「食わず嫌い」なのです。
理由のもっとも大きいのはインバウンド特に中国系の観光客の多さと、河口湖からのバス便不自由さです。
富士山周辺の外国人取材で定番は、富士五合目とこの忍野八海です。
特に、春の桜の季節の忍野八海は、まるで絵に書いたような、富士山・桜め透明な池と鯉の姿・・・
分かりきつている・・・しかしまだ自分の目で見たことのない風景ですなのですが、あの喧騒と物価高と、交通渋滞は嫌だ
とこれまで敬遠していたのですが、今回は河口湖畔に一泊するし、時間的に余裕があるので、行ってみることにしました。
緊急事態宣言開けの最初の日曜日、お天気も良い・・・
忍野八海は、河口湖駅前の閑散として風景とは正反対に県外からの車の観光客で大混雑していました。

時間は日曜日のちょうどお昼時です。
名物の硬い、コシのある吉田うどんのお店はいずれも行列待ちです。
愉快だったのは、私達が入った忍野八海入り口から少し離れたうどんやさんの一押しメニュウが630円と、うどん屋さんらしい値段なのですが、ここから、忍野八海へ向かうと、その値段は奥に行くに連れ、値段が上がっていき、一番ひとが集まる有名な綺麗な池前では1,200円の値段
でした。
帰りに、疲れたので小綺麗な出来たばかりのおしゃれなカフェにはいり、バスの時間までここで過ごすことにして、シフォンケーキクリームを注文すると、時間が少し経って出てきたものを口にすると、シフォンケーキは冷たく一部凍っていました。
何と、冷凍ものを解凍しクリームをのせてだしているようです。
630円、最初食べた吉田うどんの全部のせと同じ値段でした。もう、これで忍野八海はいいやというのが今回の感想でした。

今晩の宿 富士屋ホテル系列の富士ビューホテル

今回の旅は当初、猿橋・田原の滝・忍野八海だけの日帰りを予定していましたが、10月の緊急時代宣言解除の報で、急遽、河口湖で一泊することにし、ネットで宿を探しました。
私達の宿のポリシーは、20平米以上のツインルーム、食事なし、大浴場有りの移動に便利な場所でしたが、二人共に古希を迎えると、多少金額が予算オーバーしても良いから、落ち着いた幾らか見栄えの良いロケーションの宿を選択するように変化しています。
格安サイト「トラベルコ」でヒットしたのが、河口湖湖畔の老舗ホテル系列の富士ビューホテルでした。
場所は駅からかなり離れておりますが、調べると駅から無料送迎シャトルバスがあり、翌朝の早い時間帯のシャトル便もあるようです。
このホテルの24平米のカジュアルツイン、ガーデンビューの部屋の二人一泊の値段15,800円プラス入湯料300円でした。
ホテル予約サイトの値段も、直接ホテル予約値段も一緒でした。
すると、カミサンは私が直接ホテルに電話すると言い出します。
これまでの知識から云うと、ホタル予約は直接よりも、ホテル予約サイトを通したほうが若干安いのは、この業界の常識なのですが、同じ値段なら直接、電話予約のほうがホテル側対応が良いのは、これまでの経験から学んでいます。
カミサンは前日に電話しました。
「私達は鎌倉に住む、70代の老夫婦です。久しぶりに出かけられることになり、楽しみにしています」
「同じカジュアルツインのなかでもできるだけ景色の良いお部屋をお願いします」
このパターンは、シーズン中でかなり混んでいない限り、有効です。
今回、フロントでは、
「ご予約していただいたお部屋よりも、若干広めの上のお部屋を用意させていだきました」
通されたのは最上階の「モデレートツイン」36平米のお部屋でした。
ガーデンビューのお部屋で、富士山は見えませんが、河口湖畔はみえます。そして一つ上の展望デッキに階段で上がれば、真正面に富士山が見えるので何ら問題はありませんでした。
カミサンは常々、「電話予約なら私に任せて」と言いいます。
確かに、これまで日本各地の宿で、同じ価格設定のなかでしたら、一番良いお部屋を提供されたり、連泊の場合、二日目にお部屋のグレードアップしてくれました。とても良い印象のホテルでした。

Blog 次回は旅の二日目、朝霧高原・白糸の滝・富士宮世界遺産センターに続く

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2021年10月08日

駅の話題ニ題 エスカレーターの乗り方とストリートピアノ

ご覧のマークデザインのバッチを見たことはありますか?

私は見たことがないのですが、いろいろ身体的な訳があった、片側のベルトを掴まないと利用できない方はいらっしゃいます。
片側と云っても、怪我や先天的な障害がどちらかの手、肩、或いは半身が不自由な方は、どちらかに寄らなくてはなりません。
例えば関東では、一般的に右側を急ぐ人の為に空けてエスカレーターに乗る、暗黙のルールがありますが、左半身が不自由な障害者は、右手でエスカレーターのベルトを掴まないと、立っていられない云う方もいらっしゃいます。
何かと、迷惑そうな目で見られたり、「チェ」と横顔を睨んただりして駆け上がっていく人もいます。
現在、空けるのが、長年のマナーのようになっていますようですが、この社会的な暗黙のルールに参加できない方々が、胸や肩、或いは背負っているディーバックにつけている人を見かけたら、ご配慮下さい。

エスカレーターで「歩かない」条例

エスカレーターを立ち止まって利用するよう努力義務を課す全国初の条例が、10月1日に埼玉県で施行されました。
前の人を追い越そうとして転倒したり、別の利用者とぶつかったりする事故を防ぐのが目的です。
ただ、条例には罰則がないうえ、エスカレーターでは後から急いで歩いて来る人のために片側を空けて乗る慣習(東京では右側を、大阪では左側を)が定着しており、実効性が課題となりそうですが、 埼玉県の「県エスカレーターの安全な利用の促進に関する条例」では、安全な利用に向けた県の責務や利用者、管理者それぞれの義務を明記し、県は管理者に対し、必要に応じて指導や勧告を行うもようです。


エスカレーターでのキャリーケースの持ち位置

数ヶ月前、テレビの面白・ビックリ動画的番組の中で、中国の動画だと思いますが、スーツケースを持って長いエレカレーターに乗った女性の手からスーツケースが離れて、下まで転がり落ちて、沢山の乗客が転倒しパニックになる動画が公開されていました。
これは、日本でもあり得ることで、意外にエスカレーターに乗る際のキャリーケースの位置をご存じない方が多く見受けられます。
エスカレーターにキャリーケースを持っての乗る時の常識は・・・・
上りは前に、下りは後ろに置くのが常識です。
理由は、キャリーケースを落としても他人に迷惑をかけないためです。
意外と知らない人がいるもんです。
だって、JR東日本のグリーン車や、特急列車に乗務する女性アテンダントは平気で、キャリーケースを引っ張ったままの姿勢で上りのエスカレータでは自分の後ろに置いて乗っているんですもん。

ストリートピアノとは
街中などに置いてある誰でも自由に弾くことのできるピアノのことを言い、音楽を通して、音楽好きな知らないもの同士をつなげたいという意味を持っています。
イギリスの「Play Me, I'm Yours」という名で始まったプロジェクトにより、海外で人気になったと言われています。
ここ数年、街角や駅、空港、商業施設などにある誰でも自由に演奏することができる“ストリートピアノ”が世界中で注目を集めています。
東京では都庁の展望室に草間彌生デザイン監修のストリートピアノが設置されたことも記憶に新しいが、このムーブメントは東京のみならず、全国各地で急速に広がっており、ここ鎌倉でも大船駅構内に誕生しました。

ストリートピアノ in大船駅構内通路 



大船駅構内中央通路の休憩所「せせらぎパーク」にストリートピアノが置かれました。
誰でも、自由に弾いて下さい。という今、ちょっと人気のストリートピアノです。
設置期間は2021 年 8 月 29 日(日)〜11 月 30 日(火)
利用時間は10 時 30 分〜20 時 30 分
JR 東日本横浜支社と公益社団法人鎌倉青年会議所の共同企画のようです。
11月いっぱいとなっていますが、何か特別の理由があるのでしょうか?

ストリートピアノが広がる背景には、家庭で使わなくなったピアノ(休眠ピアノ)の行き先の問題であるようです。
中古ピアノを扱う業者の組合である『ユーズドピアノ協同組合』によれば、日本は世界でも有数のピアノ保有国として有名で、約1000万台のピアノが流通していると言われています。しかし、国内に流通しているピアノのうち約7割がこの『休眠ピアノ』と呼ばれる状態にあり、実際に弾かれることなく放置されています。
実際にはこれら「休眠ピアノ」は引けるような状態にするには、かなりの人手・費用・日数を要すようです。
やはり、ストリートピアノとして使われるには。それ相応のレベルのピアノのようでしょう。



これまで、2回、駅構内でピアノの音色が聞こえてきたので、寄ってみました。
2回とも男性でした。ひとりは若者、一人はオジサン。二人共に結構上手でした。
そうでしょうね、少し腕に自信がなけりゃあの場所ではひけませんもね。
同じ団塊世代西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」を思い出しています。
楽器引ける人はうらやましい、昭和23年貧乏な家庭に生まれた少年には楽器を手にして演奏するような環境は全くありませんでした。
小学校でハーモニカとか、縦笛をやった記憶も怪しいものです。
私は楽器は全くダメなのですが、カミサンはエレクトーンをやってました。
結婚前、当時流行っていた「神田川」と全く同じような世界でした。
風呂なし、トイレ共同、四畳半と三畳のアパートで暮らし始めた二人、カミサンがエレクトーンを習いたいと云います。
習うのは良いけど、この狭いアパートの階段にそんな大きなものが入るのかな、と不安で、購入予定の楽器店の人に入るようでしたら買うのでみてもらいましたら辛うじて入りました。

このエレクトーンは、過去2回の引っ越しの時まで一緒でした。
過去2回の部屋ははいずれもエレベーターのある大きな部屋でした。
現在の我が家には、楽器は何もありません。
部屋の大きさとか、搬入ルートには何ら問題はないのですが、やはり一番の懸念はご近所への音の問題と、もう一つはカミサンが高齢で一人になった時の処分のことなのでしょう。

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2021年10月06日

映画MINAMATA(みなまた)を見に行く

土曜日のTV番組「王様のブランチ」でリリコが紹介していた

この手の独立系、環境保護啓発系の映画は大手シネコンでの上映は無理だろう、どこか都心のミニシアター、或いは意識の高い名画座系でしか上映していないだろうと、検索すると、なんといつも超商用映画系の109シネマ湘南でやってるではないですか?

どうやら、ベルリン国際映画祭・特別招待作品というよりは、ハリウッドのジョニーデップの監督・主演というのがマスコミ・配給会社と上映館の気をひいたようです。

先週の金曜日上映開始、でさっそく日曜日朝一、8:35上演に行ってきました。
一番小さなシアターかと思いきや、シアター4。176席の湘南としては中程のシアターです。
先月観にいった「キネマの神様」は84席のシアター9でした。
古い松竹映画の懐古的映画よりは、ジョニー・デップの環境ものの入りが多いと踏んだ、劇場側・・・決断は正しかったようで日曜日の朝イチ、8時35分開演なのに、土曜夜のネット画面では、私の好きな、一番上の端の席は埋まっていました。

客層は・・子供、年寄、おばさんグループはほぼゼロ、上から会場を見回してみると、コロナで使える席は半分なのですが、その半分以上は入っているなと、踏みました。都合50~60人程度、この手の内容としは意外に多いのか。

109シネマの入場客予測AIコンピューターはの実力を今回の「MINAMATA」と前回の「キネマの神様」で見せつけられました。
さして如何に自分は、生きてきた、見てきた、体験してきた経験で判断しているかと云うことを理解しました。
ベルリン楽祭特別招待・・・か、芸術的でも、娯楽的でもなく、興行的には難のある作品だけど、何か賞はあげなくてはいけないのでは、と云った作品なのでしょう。

上映作品概略
アメリカの写真週刊誌LIFEの廃刊最終号飾った、企業による環境汚染・公害告発の発端になった水俣病を扱ったものです。

ジョニー・デップが製作・主演を務め、水俣病の存在を世界に知らしめた写真家ユージン・スミスとアイリーン・美緒子・スミスの写真集「MINAMATA」を題材に描いた伝記ドラマ。
1971年、ニューヨーク。かつてアメリカを代表する写真家と称えられたユージン・スミスは、現在は酒に溺れる日々を送っていた。そんなある日、アイリーンと名乗る日系女性から、熊本県水俣市のチッソ工場が海に流す有害物質によって苦しんでいる人々を撮影してほしいと頼まれる。

そこで彼が見たのは、水銀に冒され歩くことも話すこともできない子どもたちの姿や、激化する抗議運動、そしてそれを力で押さえ込もうとする工場側という信じられない光景だった。
衝撃を受けながらも冷静にカメラを向け続けるユージンだったが、やがて自らも危険にさらされてしまう。
追い詰められた彼は水俣病と共に生きる人々に、あることを提案。
ユージンが撮影した写真は、彼自身の人生と世界を変えることになる。
アメリカの写真週刊誌LIFEの廃刊最終号飾り、世界各地で起こっている。経済優先の産業廃棄物による環境汚染告発のきつかけとなる。



映像の展開、狂言廻しは妻のアイリーン・美緒子・スミスさん(71)です。

米国人の父と日本人の母の間に東京で生まれ。
11歳で渡った米国では、物が壊れるたび「日本製だから」と言われた時代にアメリカで育った。ほぼ私達同じ世代です。
「公害で人が重い病気になったり、亡くなったりしているって?」。
水俣病の被害を日本の知人から聞いたのは1970年秋、米国でのことだった。
後に夫となる写真家、ユージン・スミス氏(78年に59歳で死去)とすぐに来日を決断。
こうして世界に衝撃を与えた夫婦共作の写真集「MINAMATA(ミナマタ)」が誕生した。
写真集を基にした映画が「MINAMATA」です。
水俣病の公式確認から65年を経た今、世代や国を越えて映画に関心が寄せられるよう、本作は脚色が施されている。
だから、水俣病についての知識がなくても十分、映画に没頭することができる。
一方で、合間に挟まれる記録映像や写真、患者たちの言葉は、水俣病事件が確かに起きた事実であることを絶えず観客に突きつける。

水俣病とはWikipedia引用

1931年(昭和6年)、熊本県水俣町(現・水俣市)にある日本窒素肥料株式会社(チッソの前身)水俣工場の技術者の橋本彦七らは、カーバイトからアセチレンを作り,これを水銀触媒を使ってアセトアルデヒドに変える一連の合成方法を発明し、特許原簿に登録した。
1932年(昭和7年)から同工場で操業開始。アセトアルデヒドを原料とするブタノール、酢酸、酢酸エチル、無水酢酸、酢酸繊維素、酢酸ビニールなどの製品化に成功した。1938年(昭和13年)、橋本は水俣工場長に就任。
1941年(昭和16年)、チッソは日本で初めてアセチレンから塩化ビニルへの合成に成功した。橋本は戦後、水俣市長を通算4期務めた。

チッソは、アセチレンの付加反応に金属水銀を用いており、目的の反応生成物を取り除いたあとの工業廃水を無処理で水俣湾に排出していた。
そのため、これに含まれていたメチル水銀が魚介類の食物連鎖によって生物濃縮し、これらの魚介類が汚染されていると知らずに摂取した不知火海沿岸の熊本県および鹿児島県の住民の一部に「メチル水銀中毒症」がみられ、これが水俣病と呼ばれることとなった。
環境汚染の食物連鎖で起きた人類史上最初の大規模有機水銀中毒でかつ世界中に知れ渡った公害病である。

有機水銀は自然界にごく普通に存在し、魚介類で有機水銀を含まないものはない。
人間は日常的に魚類から有機水銀を摂取している。
日常の食事などからの摂取が一定の範囲内であれば、適切に排出され問題はないが、大量に摂取した場合は排出しきれず蓄積され、激しい中毒症状を引き起こす場合がある。
後年わかるように、水俣病は昭和20年代後半から30年代前半に、触媒の変更によって、一時に爆発的大量の有機水銀が海中に放出され、それを摂取した魚類が適切に排出できずに高い濃度で蓄積し、さらにそれを食べた人間に激烈な中毒症状が発生したものである。
水俣病はいわば量的問題で起こったものであり、自然界における摂取と排出のバランスの崩壊で発生したものであった。
当初は原因が分からず「奇病」と呼ばれていたが、地名をとって「水俣病」と呼ばれるようになった。原因が解明されたあとは、同様の公害病の呼称にも用いられた。
水俣病、第二水俣病(新潟水俣病)、イタイイタイ病、四日市ぜんそくの4つは、四大公害病と呼ばれる。



あの頃の日本、そして私は

水俣病裁判でチッソが原因と正式製造側チッソの不法行為と賠償責任を確定したのは1973 年 3 月でした。私はこの頃、まだ南米で青春時代を過ごしており、70年代前半の日本の公害について無知でした。
帰国してからは、日本国内の公害問題を耳にすることが多くなり、作家「石牟礼道子」さんの「苦海浄土―わが水俣病」は読まなければと思っていましたが、タイトルのおどろおどろしさに身がすくみ、これまで読んだことありませんでした。

日本の企業体質、隠蔽体質、そして政界・官界・経済界との切って切れない結びつき、或いは癒着があるの理解していました。
しかし、それは70年代~80年代のことで、「公害」は、発展途上の、住民・国民を無視し、産業発展を優先する中国では当たり前に起きているけど、今の日本では過去の話と思っていましたが、2011東日本大震災の東京電力の体質、対応をみていると、違った形の公害ともみとれ如何に、一般市民の監視の目が必要であり、企業の情報公開が必須、義務であるかが問われますが、長年日本経済のセンター的位置に属していた自分たち団塊世代のこれまでにやってきた仕事を振り返ると、例え時代は違うとは云え、一種の犯罪行為に手を貸していたと云うことは消しようのない事実です。

バブル時代の建設業界は、設計通りの機能・仕様を守り、如何に現場の努力でコスト削減し、利益を上げていくかが、私達現場担当者に課された一番大きな仕事でした。外からは、或いは専門家以外は絶對にわからない方法でのコストダウンと云う名の手抜き、或いは設計段階から、過剰な設計、原価設定、見積もりはがまかり通っていたのです。
今考えれば、これも、一私企業が利益を優先し、一般大衆の得るべき利益を蝕んだ「公害」ではなかったのかと・・・映画を見終わって考えました。

すこし気になること・・・水俣と現皇室の関係
映画館から帰ってくるとカミサンはいつも同じ質問をします。
「どう、私達シニアおばさんグループでも見れる映画」
「どうかな・・社会意識の高いNPOボラのおばさんなら解るけど・・・ちょっとむずかしいな」
「でも何で?公害問題がテーマだよ」
「現皇后陛下、雅子サマの実家が、水俣チッソの社長って聞いたことがあって!、でも単純にそれだけ話!、私って難しい話は苦手だから」

ヤフー知恵袋 参照

ヤフー知恵袋に質問

水俣病を引き起こしたチッソと皇太子妃雅子様は、いったいどのような関係があるのでしょうか?詳しい方々、ぜひ教えてください。
公に口外は、はばかられる事なんでしょうか?


ベストアンサーは

別に口外して憚られる事ではないと思います。
調べれば分かる事だし多くの人は既に知っていること。
水俣病を引き起こしたチッソの社長、江頭豊氏は皇太子妃雅子さまの母方の祖父。
彼は水俣病被害者に対し「死んだ魚を食べる乞食がカネせびりに来たな」「腐った魚を食べるから汚い病気にかかる。伝染るから近づくな」(株主総会で一株株主の患者達に)と恫喝したり、暴力団を雇って患者や新聞記者を襲わせた。
この時、アメリカ人カメラマン、ユージン・スミス氏(水俣病の写真を世界に発信していたことで有名)が脊椎を損傷。片目を失明した。
このような人物の血縁者が皇室に入る事には当然当初から賛否両論あり、皇太子さまも婚約内定会見で「チッソの事もあり宮内庁から慎重論が出ていた。一時は断念せざるを得なかった」と仰っています。
皇居に怨旗が立つと言った者もいたようです。水俣病患者や遺族の方々にしてみれば、雅子さま自身には何の罪も無いにせよ国民と共にあるべき天下の皇室がチッソの親族を受け入れるというのは複雑な思いだったことでしょう。
そういう事もあって、東宮家が色々とうまくいっていないのは「水俣の呪い」だなんて言う人もいます。



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2021年10月04日

85歳の母親に運転をやめさせるには

朝はゆっくりと新聞を見ながらワンプレート洋朝食

カミサンが起きるのは5時30分、それから365日、結婚していらい、ずーーーと同じメニューの朝食を食べています。
ドリップコーヒー、トースト一枚、野菜サラダ、卵料理(目玉焼きorゆで卵orたまにオムレツ)、フルーツ入ヨーグルト栄養的にも、量的にも、見事、立派、文句のつけようがないも、典型的な洋風朝食ワンプレートなのです。
でも・・・一緒に暮らすようになって43年、全く変わりません。
ごく稀に、はずみなのかチョリッソのボイルが付くことがありますが、年に数回ていどです。
「たまには違う朝食をって云ってみたら」と友人は云いますが・・・
「そんなこと言ったら・・返事は解っています、私よりも1時間早く起きて、君がつくったら」と300%そうなるでしょう。

そんな訳で、私は6時半に起きます。
6時前に目が醒めても定時の6時半までベットに入っています。
理由は、カミサン一人の時間を大切にしたいと思うからです。
例え夫婦と云えども、自分ひとりの時間は必要です。
カミサンは、リビングの外に広がる公園と、観音山から登る朝日を眺めながら、ゆっくりと端から端まで新聞を読むのです。

端から端ではなく、スポーツと経済・株式欄紙面は最初から私のテーブルに寄せてありますが・・
今日もカミサンの読み終わったのを確認してから、ゆっくりと私は新聞に目を通します
今日、目が止まったのは、「オピニオン・声Voice」ページです。
やはりと云うか、新聞の投稿欄への投稿者は圧倒的にシニアの男性が多いのは昔から同じです。
参考データ引用
日経ビジネス https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00122/00028/

新聞の投書欄「平均年齢50〜60歳代」が意味するもの
2019年【7月23日火曜日 朝刊】より
◇朝日新聞「声」 20歳(大学生)、21歳(大学生)、63歳(無職)、43歳(会社員)、
         61歳(主婦)
◇読売新聞「気流」 34歳(主婦)、49歳(主婦)、60歳(会社員)
◇毎日新聞「みんなの広場」 77歳(無職)、66歳(主婦)、57歳(公務員)、21歳(保育士)
◇産経新聞「談話室」  67歳(主婦)、45歳(会社員)、60歳(主婦)、69歳(無職)、
           74歳(自営業)
◇東京新聞「発言」 70歳(主婦)、67歳(派遣社員)、62歳(主婦)、58歳(会社員)、
          37歳(小学校教諭)、72歳(英会話塾長)
この日の投書掲載者の平均年齢は54.5歳という、かなりの高さである。
約1カ月前にサンプルをとった6月18日火曜日の場合、投書者の平均年齢は、なんと63.0歳だった


意外だったのは、私達団塊世代といわれる、この統計の2019年で云えば、団塊世代の70台前半は思ったよりも少ないな、全紙、東京新聞のような偏った年齢層なのかと思いましたが、朝日新聞のように、テーマを決めての投稿がたまたま、シニア向けだったのかもしれませんが・・

この日9月25日の「声」の一文に目が止まりました。
タイトル「85歳母の運転やめさせるには」

投稿者は女性60歳 少し意訳・引用します。

「もう、あなたなんかに一生会いたくない」
85歳の母親は電話口で怒鳴った。
運転免許返納を促すたびにこのセリフを何度聞いたことか。云われると気持ちずすさむ、しかし、自分のつらい思いは我慢できても、社会に迷惑をかけるわけにはいかない。
母から嫌われる60歳の娘に出来ることはあるだろうか・・と
後略



免許返納ではなく、更新せずほったらかし
私は60歳の誕生日前に来た交通安全協会からの免許更新の通知を、そのまま破リ捨て、ゴミ箱に直行させました。後悔しない為です。
私は、自動車の運転は苦手、というより嫌いなんです。
好きな場所に止まれない、右折したいのに出来ない、首都高だって降りたい所に降りれずにする、こんな不便な乗り物はない、自分の足で歩くのが一番という
へんな性格と云うとか、怖がり屋なんです。
理由ははっきりと解っています。
傷害事故はないものの、自損事故や軽度の衝突事故はやっていて、あの程度で済んだのはラッキーだったと自覚しているからです。
そして、ヒヤリとした、あのままだったら確実に生命に関わる事故になっていただろうと云う経験も数度あります。
この投書のお母さんは、「運転は20歳の若者よりうまい」と云うし、伴侶の92歳になる父親も、母親の運転を「問題ない」と云うそうです。
確かに、そうかもしれませんが・・・このお母様過去に事故を起こしたことはなくても、ヒヤリとした事、ハットした事は有るハズです。
「ヒヤリ・ハット教育」は建設現場ではごくあたり前に、毎日のように朝礼で指示し、月に一度の現場安全大会でも、参加者に具体例を話してもらってきました。
具体的な統計は探せませんでしたが、高齢者の自損事故、重大な生命に関わる事故を起こす、起こしたシニアは、これまでに「ヒヤリ・ハット教育」を
受けていないのではないかと、運転は上手で、好きだったのではないかと、私の経験から推測します。

私は二十歳前に海外に出て、運転免許は海外で取りました
免許の試験は、現地のスペイン語による筆記試験・・・と言ってもイラストを見てのマルバツ式と、自分で持ち込んだ車で、警察署の周りを一周して、縦列駐車をするだけです。
南米の縦列駐車は、二台の隙間に頭を突っ込んで、前の車を動かし、バックで後ろの車を押しのけ駐車するのはノーマルややり方です。
ですから、路上で駐車する時はサイドブレーキは引かないのが南米流です。
パンバーは日本の車のようなおしゃれなデザインの一部ではなく、本当に車同士の保護や、牽引、自分用のがっしりしたヤツですから、多少こすった程度で警察沙汰になるなんてことは有りません。私は6年間、南米アルゼンチンでダッジのピックアップを運転していて、軽い衝突事故は何度も経験しています。

そもそも、交通ルールが日本とは違うのです。
深夜、ブエノスの大通りで赤信号で停まっていると、後ろの車がパッシングしてきます。
赤でも左右を見て行けというのが、南米流なのです。誰もこない信号で停まっていると却って、銃を持った輩に狙われる危険がうるからです。
そして、反対に小さな通りから、大通りにでる際に例え青信号でも一時停止するのは、深夜に限らず当たり前の、自分を守るための知恵なのです。

日本に戻ってきて、再就職する際に車免許は必要なので、国際免許にして持ってきたのですが、諦めました。
私の南米の運転の常識だと、日本で必ず重大事故を起こすだろうと感じたからです。
専門学校を卒業する際に、福島の免許合宿二週間で日本国内の免許を取得しましたが、都内の運転は怖かったです。
特に、大きな交差点を右折する際、自然に右折先で車を右側に寄せてしまうのです。左折は大丈夫なのですが。曲がった先が広い、対向車がこないような時、何度もびっくりした経験があります。ですから私は、反対に海外に行っても、車の運転はしません。

日本で一度だけ交通事故を起こしました。

冬の深夜の上田から上州・中之条へ抜ける峠道の長い下り車線でした。
隣にはカミサンが乗っており、この峠を下ると町中にでると云う時、下り坂の下からヘッドライトが見えたので、左側に車を寄せようと、軽くブレーキを踏んだのですが、ロツクしてしまい、そのまま、スローモーションの夢のように対向車に衝突しました。
お互いの車は運転するには支障もなく、怪我もなかったのですが、100%私の側に原因があるので、保険証などを提示して、全て保険で保証する胸の示談が成立しました。
今、考えるとお互いに怪我がなく、双方ともに車が動く状態でしたから良かったもの、今のように携帯電話もなく、事故現場は深夜の山奥、峠道途方にくれる状態に陥っていたでしよう。

あの事故(1978年)以来、私は、免許証は更新していましたが、ハンドルを握ることはありませんでした。
ですから、わたしはオートマを運転したことがないのです。
必ず左足でクラッチを踏んで、ギアを入れると云う車しか動かしたことがないのです。
毎日のように交通事故ののュースが流れます。
そしても運転していたのはきっと高齢者だろうとみていると、ほぼ90%が私よりも上の80代、90代なのです。

車がないと生活出来ない・・・と云いますが、車がなくも出来ます。
それは、都会の公共交通の便利がよくて、買い物も、病院も行きたい時間に行ける環境だから・・・といいますが
1の案、先ずはそういう環境に移り住むということを考えてみませんか?
2,の案、この声に投稿した60歳の女性の場合、免許を返納して、お母さんが動きたい時、貴方はどの程度動けるか、もし貴方が動けなかつたら
 タクシーとか、運転サービース代行の費用を貴方が負担出来るか?なんです。
3の案,安全も便利も、ほぼ90%はお金で解決できるのが、今の世の中なんです。
 車を手放すと、車の保険代、車の税金、場所によっては駐車場代、ガソリン代が浮きます、冷静に車がなくなった時、どんな不便があり、それを補うには幾らお金が必要なのか、実際に数字にするとことをやってみませんか、と私は云いたいのですが・・・

このブログ投稿は、旅先の河口湖富士ビューホテルにて書いて今朝、サーバーUPしました。
昨日は自宅からJRと富士急の移動、河口湖駅からホテルまでは、送迎ミニバスでした。
車があったならな・・・運転が出来たらなー・・・と思うことはありませんでした。
そして、今日これから、ホテルの送迎バスで河口湖駅まで向かい、ここから一日4便の富士急山梨バスを乗り継いで、朝霧高原の「ふもとっぱら」、白糸の滝
、富士山世界遺産センターと途中下車観光して、JR東海身延線の富士宮まで行き、熱海経由で自宅最寄り駅まで戻ります。
帰宅時間は夜の18:00になるでしょう。
今日は、お天気も良さそう、バスの進行方向左側に座るとずっと富士山が間近に見えるはずです。そして、車ならここに停車して、ゆっくりとこの雄大な風景を眺め、カメラに撮りたいと思うでしょう。でも一日4便のバスは下車すると次のバスは最大4時間後にしか来ないのです。
事前にネットで路線図・時刻表をじっくりと調べるのは必須です。
そして今回は幾ら調べてもバスが無い場所へは歩いて行きます。
朝霧グリーンパークバス停から「ふもとっぱら」まで2,3km、歩きなりた私達二人ですと片道30分です。
30分歩いて、富士山を間近で見れる大人気キャンプ場に40分滞在、撮影と、景色を楽しんでもトイレに行き、再び下車したバス停まで30分歩きます、そしてバス停へは、次の白糸の滝へ行くバスまで30分の余裕があるハズ。
これを逃すと、ここ朝霧高原の道路端で3時間も待たなくてはならないのです。
確かに、例えレンタカーにしても、免許証はあったほうが良いと、旅先ではほんの一瞬思います。でも、私は車は乗りません・・・だって何十年も乗ってないので怖くて運転出来ないんですから。

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