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2021年12月05日

同世代の戦友、がまた一人逝った「神田川」の喜多條忠 74歳

昔、歳をとるにつれ新聞の訃報掲載欄・お悔やみ欄にまず目がいくという事を何かで読んだことがあります。
そんなものかと、さして気にせずにいましたが、最近、有名人の死亡記事を見るとき、先ず、その年令を確認する自分を意識しています。
「神田川」を作詞した喜多條忠がなくなった74歳、作曲した「南こうせつ」も、同じ団塊世代、1949年生まれの72歳。
南こうせつは、大都会での生活に疲れ、一時期は富士山の麓などで生活していが、夫婦共に冬の寒さに限界を感じたのがきっかけで現在、大分県への引っ越して生活しています。

「神田川」がヒットしたのは1973年です。

私はまだ、南米、アルゼンチンのブエノスアイレスにいました。
その頃、世界中でヒットしていたのは、サイモン&ガーファンクルの「エル・コンドル・パサ」(邦題コンドルはゆく)で、その名曲の舞台に近い南米にいることを誇らしく思いました。そして南米大陸、ペールー・ボリビア、アルゼンチン北部の非ヨーロッパ移民の間での歌・民謡である
フォルクローレに浸っていました。

私が日本を離れた時の、日本円とアルゼンチン・ペソのは対ドル相場は、若干アルゼンチン・ペソのほうが高かったのですが、アルゼンチンの経済不況と云うよりも日本の高度経済成長でその差はどんどんと広がっていきました。
1978のサッカーワールドカップがブエノス・アイレス開催をが決まり、当時まだ白黒だったテレビのをカラー放送化の決定を受けて、これを機会としたビジネスチャンスがあると考えた私は、一度日本に帰り、専門学校に入り、カラー化に向けての何らかの勉強をするラストチャンスだと考え、一時帰国することにしました。1975年、27歳でした。

南米に行く時は航路、35日かかったのが、日本に戻る時は空路です。
ブエノス・アイレスからチリのサンティアゴ乗り換え、ペルーのリマへリマからは当時世界一の長距離空路、エールフランスによる、リマ・タヒチ・グアム・羽田・パリ便が飛んでいました。
リマの空港に降り立った時、ちょうど軍事クーデターの真っ盛りで、一時空港は閉鎖され、三日間足止めされたのち、6年ぶりに、雨に煙る2月の羽田空港に降り立ちました。

都内の電子専門学校夜間部への入学他手続きを済ませ、築地市場・練り物問屋の早朝から午後2時までの寮・昼食つきのバイトを確保して、再びの日本の生活が始まりました。
その時にラジオから流れていたのが「神田川」でした。

その当時、まだ私のなかには、南米のフォルクローレとアルゼンチンタンゴの旋律が響いていたので、さほどの思い入れはありませんでした。
この「神田川」の世界感にふれるのは、一年後のことです。
ブエノス時代に親しかったJAICAの知り合いから、青年海外協力隊の講習で、現地事情と実用スペイン語を何回かやってくれという話があり、引き受けました。
そこで出会ったのが、「神田川」的生活を共にする、現在のカミサンです。
カミサンは、外国、特に南米に興味があり、医療関連の業務で、パラグアイ・ボリビアの日系居住地に行く予定で、講座を出席していました。

いつしか、私達二人は、上野公園に近い、東京大学の裏手にある、4畳半と3畳の部屋で暮すようになったのです。
風呂なし、トイレ共用の4部屋の2階建てで、下は大家さんの作業場で上の4部屋のの入り口には、お年寄りの女性、同じく女性、そして若い大工と、私達二人のアパートです。元々この部屋は、カミサンが勤めていた医療機関が借りてくれていたところに、承諾を得て私が転がり込んだという訳です。
その当時、まだ結婚しておらず、同棲という形でした。

風呂なし、トイレ共用の「四畳半と三畳」の部屋・・・

今の若いカップルならとても選択の余地がない物件でしょうが、27歳と24歳の二人には、何の不足もない温かい神田川の歌の世界、そのままでした。

お風呂は、カミサンは病院の、私は、築地市場内の組合員用の大浴場があったので特別不自由しませんでしたが、一週間に一度は二人で銭湯にいこうと決めていました。
当時、銭湯は言問通りと不忍通りの角、地元スーパー「赤札堂」の向かいの路地を入った先にありました。このブログを書くにあたって、グーグルマップで調べると、昔の場所に昔の佇まいでありました。
流石に、二人で行っていたお風呂やさんの煙突は、確認できませんでした。
この下町、根津・千駄木・谷中周辺に二年以上住みました。
お風呂屋さんの帰りに、1,000円だけという約束で二人で、不忍通りにあった小さなパチンコ屋に入ってあっという間に玉がなくなり、カミサンは二度とパチンコはしないで、ふくれっ面をしました。
ある日は、近所で新しく開店した牛丼の「吉野家」がセールをしていると云うので、行ってみたら、大勢の若者が行列をしているのを見て、恥ずかしいから帰りましょ、アパートに戻ったこともあり、TVの旅番組で根津・千駄木・谷中周辺を特集する度に、あの吉野家や、パチンコ屋はどうなっているのでしょうねと話しています。
私達二人同棲し、そして結婚した時に住んだアパートが、今でも私達の本籍地として登録しています。
ですから、鎌倉に住んでいても、本籍の証書が必要な時は、東京の役所までこなくてはいけないのです。
二人が、年老いて、終活を考えるようになってから、本籍はどうしよう、元のあの場所にしておくか、現在の住まいの鎌倉に移すか、話しあっています。

結論は、私達が同棲から結婚式をあげた後まで住んだ、あの昭和の香り、プンプン、神田川の世界のあのアパートは実は今でも奇跡的に残っているのです。
40数年前のあの大家さんの大工の棟梁は代替わりしていても健在ですし、小路の入口角のお寿司屋さんも、カミサンが勤めていた医院も、地下鉄の駅への道路にある床屋さんも、裏通りのお店は昔と同じ佇まいであるのです。
二人の下した結論は、あのアパートが取り残されるまで、本籍は私達の出発点のあの住所に残しておこう、ということになりました。

あのアパートから出発した私達二人の人生は

本当は私は、アルゼンチンへ帰りたかった・・・でも、このブログでは書けない個人的な事情があって戻ることができませんでした。
戻れないと決断して、私達二人は私の生まれ故郷、信州に一度、引っ越しました。
風呂なし・共同トイレ・四畳半・三畳のボロアパートから、〇〇コーポという洒落た名前の2LDKに住むことになりました。
ここには半年、住んで見て、カミサンも私も、一人で都会で暮すことに慣れた身では、やはり地方の、それも冬の自然厳しい、信州に住めないと、カミサンは、私が先に仕事もアパートも決めてから、東京に戻って、一人でさっさとでかけ、一週間もしないうちに、世田谷、井の頭線
のアパート「〇〇ハイツ」を決めて帰ってきました。
カミサンのお友達のネットワークで住まいも仕事も簡単に決まっていく姿は、やはり、カミサンは日本に住むべきとその時に思いました。

渋谷・新宿に近い井の頭線の小綺麗なアパートに3年住みました。
今でも、このアパートは残っています。
アルゼンチンに戻ることをあきらめ、生まれ故郷にも住めない、私は当初戸惑いましたが、時代背景が良かったのでしょう、紹介されて入社した、エンジニアリング会社の子会社は、上の親会社に吸収合併され、やがて、日本のオフィスビル建設には必要な会社と成長していったのです。
入社して3年目で横浜、横須賀線新駅駅前の大規模マンション開発の1号物件を購入し、21年間住みました。
私55歳、カミサン52歳の時、二人共、早期リタイヤし、この物件を売却し、現在の鎌倉に新しく移り住み、18年経とうとしています。

テレ東の「家に付いて行っていいですか」を二人で見ています。
放送されるのは、独身・高齢者のアパート住まいが多く見受けられます。
きっと沢山取材しているのでしょうが、やはり、話にドラマがなくては、放映できないでしよう。
私達二人の間には、いろいろなドラマがあるのですが、端からみれば、神田川のアパートから、時代のバブルと日本経済の成長のおかげで
サイコロの目をふる度にあがりに近づいていく、そんな姿は面白くもないのは、わかりきっているのです。でも、こうやって、同じ団塊世代の作詞家の亡くなったニュースで、私たち二人はあの時代に戻って、あの頃の話題に浸っています。
ふたりにとってはドラマなのです。

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posted by 西沢 at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ
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