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2020年08月22日

海外旅行自慢話は3K、危険・汚い・キツイほど面白い

私たち団塊世代の海外へあこがれた時代の旅の小説、旅行記と云えば、五木寛之の「さらばモスクワ愚連隊」(1966)や、これに続く一連のロシア・北欧の旅小説の「青年は荒野をめざせ」(1967)でした。
成熟し、老年にさしかかった大人の私たちが、若者に向けて話す「青年よ荒野をめざせ」はこの小説から来ています。
これ以前の海外旅行小説・旅行記と云うと、海外旅行が自由化(1964年)される前の、ある種の職業、学生、特権階級に属するような人たちによるもので、「何でもみてやろう」は26歳のフルブライト留学生小田実が、1958年から欧米・アジア22カ国を貧乏旅行したこの旅行記ですが、
今の時代のバツクパッカーと違い、彼はエリート留学生で、小説のなかで書かれている1日1ドル旅行は、本気にしてはいけない、旅行記ではなく小説的なものなのでしょう。

同じ時期(1958)に北杜夫の「ドクトルマンボー航海記」があります。
これも、水産庁の調査船の船医として乗船した時の様子、作家らしいユーモアと筆致で描いて、海外にあこがれていた私たちにとっての羅針盤的な本でした。

もう一冊もほぼ同じ時期、ミッキー安川の「ふうらい坊留学記」でした。
まだ、アメリカ南部では、日本人はカラードとして扱われ、レストランもバスも差別されていた時代の話です。かなりフィクションが織り込まれて(この本を読んでいる時は全て事実だと信じ、ワクワクしてましたが)たと、今は解りますが。
私の高校の同級生の女性(当然同い年)は大学2年(1968)の時に、交換留学生として南部の州に一年間滞在しました。
数年前、もう少しで古稀を迎えるころ、信州の宿での一泊の同級会があり、50年ぶりに再会し、私が海外に出たのと同じ頃、日本の女子大生としては珍しく、彼女も海外、アメリカで過ごしていたのです。
彼女自身は、これまでアメリカ南部の一年間の生活について、詳しく話す事なかったそうですが、古稀近くなり、同じ時期を海外で過ごしていた中学校時代の同級生の私に、溢れるように話してくれました。
この当時、女子大生のアメリカ留学は珍しく、国内では一種のエリート扱いされ、周りもそのような目で見ていたそうです。
日本からの女子大生は一種のイベントのお客様扱いだと、彼女は感じたそうです。
何処かでパーティがあれば必ず呼ばれたそうです。但し和服を着てきてくれと、云う条件で。
まだ慣れない、南部なまり英語でも、まるで何も知らないアジア人が英語をしゃべるのに驚嘆し、大げさに上手と持ち上げるのは直ぐに分かったといいます。
友達と都市から田舎町に行った時に初めて、人種隔離を経験したと云います。
同じホテルに泊まれなかった。町の中のバスに乗った時、座る席を指定された。
アジアの女性は芸者でだれとでも簡単に付き合うと男たちは信じていた。と

そんな時代から時は流れ、日本社会は成熟し、誰でもが、若者は海外旅行にでれる時代になり、「地球の歩き方」(1979)が店頭に出てきました。
私たちが結婚した年(1978)の1年後のことです。
カミサンはその当時、すでにハワイ・台湾・タイ・スリランカ・フィリピン・サイパン・グアムを旅行していたました。
カミサンは、青年海外協力隊を目指していましたが、私と出会い、この人なら自分を世界各地に連れてってくれると確信したと、後から聞きました。

この当時の旅行記と云えば沢木耕太郎(1947 団塊世代)の「深夜特急」と蔵前仁一(1956生まれ、私より8歳下)の「あの日、僕は旅に出た」が私ととって最良の旅行記です。
これ以降、「ゴーゴーインド」「ホテルアジアの眠れない夜」などを読みました。
「深夜特急」は沢木耕太郎が過去の旅を後に小説化したものですが、同年代・同時代を生きてきた同士と、自分の旅とシンクロさせながら読んでいました。
蔵前仁一の本は、これぞリアルな個人自由旅行の指南書と読みました。
極端に貧乏、節約てきな旅ではないのが、この時の私たちに共感を与えてくれました。
バツクパッカーの合言葉に「タクシー、飛行機」は裏切り行為。と云う不問律があったのです。
原則、すべて現地の庶民の足である公共交通機関でなければ、本当のその国姿が見えない・・・一理はあります。
然しながら、仁ちゃんはパートナーと一緒の旅であり、節約旅ながらちゃんと一年間の海外旅行保険に加入し、安全に、快適に二人の個人・自由旅行を楽しんでいたのは、私たち夫婦の旅にシンクロしていました。

それでも今回のブログのテーマ、3K 危険・汚い・キツイは付きまといます。
私たちの旅は、サラリーマンの休暇を利用した旅で、最長でも45日、普通は10日から2週間の旅でした。
3Kの危険は、今思い返すと沢山ありました。
命の危険を感じたのは、サンパウロから空港に向かうタクシーでした。
タクシーは高速道路をぶっ飛ばすのですが途中、南米特有の豪雨で、走っている車はほぼすべて一時路肩に停まるような雨なのに、このタクシーは停まらず、かえってスピードを上げて走り続けるのです。
カミサンは恐怖を覚え、タクシーの運転手の頭を叩いて、stopと云うのに停まらずに、運転手は私にお前の女房はうるさい、飴でもなめさせておけと、私に飴を投げてよこすのです。そして、今ここで停まると、フライトに間に合わないと云うのです。
時計を見ると、まだ1時間の余裕があるのと云うと、お前の時計は一時間遅れている、と云います。その時、初めてアルゼンチンとブラジルに時差、1時間あるのに気がついたのです。
空港のカウンターに飛び込んだ時、アナウンスが私の名前を呼んでいるのに気が付いたのでした。

時差、夏時間の失敗は他にもあります。
キューバからコスタリカに戻る際にもありました。
ホテルでタクシーを待っていても来ないので、急きょタクシー呼んだタクシーは、ホテルをでた途端、ガソリンを買う金を先に払ってくれと云います。
よくある手で、一度拒否すると、メーターを見せてくれ、本当にないのです。
このままでは、帰りのフライトに間に合わないとガソリンスタンドにより、給油してギリギリの時間に空港に着くと、時計は一時間違っていました。
このまだまだ2時間も余裕があるのです。なん帰国するこの日に、夏時間に切り替わっていたのです。

3Kの汚いは、それこそ何処にでも経験しました
特にトイレです。
個人・自由旅行でなくても、日本・西欧の衛生観念と違った国山ほどあります。
昔の中国の万里の長城の公衆トイレは、ドアも仕切りもなく、女性トイレは一列に前の相手のお尻をみながらする、とカミサンは終わったあとニコニコと話してくれました。
砂漠、草むらで隠れてするのは当たり前の常識、アジアの少数民族のトレッキングで民家で借りたトイレは、ボッチャンならぬ、穴一つとかが当たり前。
インド、パキスタンのトイレは、斜めのコンクリートの床とか、カミサンは女性トイレのエキスパートになりました。
一番驚いたたのは、インドの中程度の都市の朝でした。
まだ暗い明け方、ツァーバスが町中から郊外へと走ると、道端にライトが当たると、片手に水桶を持った女性が立ち上がる姿が連続して見えるのです。
ガイドに聞くと、道端で朝の用をたしているのだそうです。
ネパールの田舎では、道端で出産らしき姿を見たこともありました。

汚いという衛生感覚の差
ニカラグア・ホンジュラスでの経験です。
ある地元の人たちが食べる食堂はオープンエアーで、食事が出てくると少女が団扇をもって立つのです。
すると、出された食事にいっせいに大量の蠅が黒山のように集まってきます。その少女はこのハエを追い払うために、私たちの食卓に立っているのです。私たち二人は片手でハエを追い払いながら、一気に食べないとあっという間に食卓は真っ黒になるのです。

ガテマラのジャングルの中の遺跡では蚊の大群です。
蚊柱と云うのを初めてみました。
この遺跡を訪ねる時にガイドからモスキートガイドフェースを持っているか?と聞かれました。
あらかじめ知っていましたので、日本を出る前から準備し、手足には蚊よけスプレーを塗って防備していましたが、同行の西洋人カップルは持っておらず、悲鳴を上げて、遺跡観光になりませんでした。

3Kのキツイは、暑さとおんぼろバスでの移動です。
一番キツイ思い出は、ガテマラ・キリグアからホンジュラスのコパン遺跡に向かうバスでした。
ホンジュラスのコパンに行くルートの最短ルートはキリグアから直接いくのが最短コースで、私たちが参加した現地ツァーも安かったのか小人数だったのか、ツァーバスは、路線バスのチャーターでした。
道路はほぼ、未舗装のでこぼこ道、勿論エアコンはなし、周りは熱帯ジャングル、もう何かのお仕置き、罰ゲームのような状態で3時間の移動でした。
まだ二人とも若かった。
1994年、私は46歳、カミサンは43歳、何処でも怖いもの知らずでした。

他人の旅の話は、3K 危険・汚い・キツイほど面白いものです。
また、別の機会に、命の危険を感じたような、今では思い出となった話を掲載します。


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団塊世代の海外ロングステイと定年後の過ごし方
posted by 西沢 at 08:06| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ
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