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2020年08月14日

私たちが海外旅行を卒業した理由は

パスポートを更新しなくなってから6年経ちます

1967年にパスポートを手にしてから、づっと更新し、パスポートがないという状態を想像すらしていませんでした。

最後の海外旅行は定期的に訪れていました、2014年のハワイ・ホノルル滞在でした。
あれから、6年、パスポートの更新せずに、海外には出ていません。
66歳で海外旅行を卒業しました。

元々、55歳で早期退職した大きな理由は、航空券の安い時期にいつでも自由に、行きたい処に行くのが夫婦二人の大目的でした。

退職する以前でも、自分の休暇は比較的、自由にとれる仕事内容、立場でしたが、それでも長期間や、最良の季節、お祭りのタイミングでとるのは難しく、早く退職するのを夢見て、55歳で退職後の老後資金のメドがたち、退職に至りました。

退職した2003年、最初に目指したのは、海外ロングステイの候補地探し行脚で、3週間単位でバリ島、オーストラリア、チェンマイ、ペナンなどに滞在し、その後の5年は、バリ島とホノルルの居心地の良いホテル・ゲストハウスに定期的に滞在し、他には、アジアの奥地、ラオス・ベトナム・カンボジア・ミャンマーなどの少数民族の村や、お祭りに出かける、退職後の海外旅行行脚の生活を続けていました。

アジアの奥地の旅行を卒業するきっかけは、2012年のミャンマーでした。

ミャンマーがほぼ鎖国状態の頃から旅してきた私たちですが、2010年あたりから、ミャンマーはアウンサンスーチーさんの政党が民主化を目指しはじめ、行くたびに現地のホテルの値段が上昇し、昔は秘境パーミッションが必要な、特別な聖地、チャイティーパゴダにも日本人の団体旅行客が入ってくるようになりました。

最後のミャンマーは、ミャンマー南部とタイ国境でカレン族との内戦状況下にあった地域でした。
馴染みの現地旅行社から、政府とカレン族の間での停戦が成立し、今がのチャンスと云うお誘いで、これまで一般旅行者が入れなかった場所、前々から行きたかった場所に行けることが決まり、日本の品川にあるミャンマー大使館でビザを発給してもらって、旅にでました。
この旅行記はガイドブックにないミャンマーの旅 カレン州・パアンとモン州・モーラミャイン書いています。
この旅行から帰ってきて、数日後の深夜、みぞおちに強烈な痛みと発熱で、すぐ近くの湘南鎌倉総合病院へ救急搬送されました。
検査の結果、胆管結石の疑い、再度、すい臓から胆のうまでの精密検査が再入院となりました。

身に覚えがない訳ではありません。
このミャンマー南部からヤンゴンに戻る途中、のどが渇いたので一軒の小ぎれいなカフェに立ち寄りました。
店は、ヤンゴンの町なかの高級住宅街、見まわすと外国人観光客の姿が多く、衛生的に大丈夫そうな雰囲気で、ここでミックスジュースを注文しました。
へんな炭酸飲料よりも、安全だろうという意識がありました。
しかし、これがいけなかった。その日の最後のミャンマーのホテルで強烈な下痢に見舞われました。
今、考えてみると、ミルクシェーク的な飲み物で、氷が使われていたのでしょう、その氷が原因だったと思われます。
帰国の朝は多少の体調の悪さもありましたが、そのまま飛行機に乗って帰国しました。
救急車で運ばれたのは、帰国して2日目の夜でした。

救急外来のドクターにこの旨を話しましたが、今の私のみぞおちの痛みとは、直接むすびつかず、元々胆石があっと処の誘因になったかもしれないが直接的には関係ないだろうと言われました。
その後、胆石発作は以前ような強烈な痛みではないものの、時、所を問わずに発生するようになり、1日二錠3回の服用が必須となりました。
これが、我が家の元医療関係者であったカミサンに恐怖心を与え、少なくとも、医療の充実した国でないと、海外には出られないとなりました。
この騒動の後、海外はいつものホノルルののんびり滞在のみとなりました。

私たちの感覚では、ハワイは海外ではなく、何時も滞在する心休まる場所だったのです。
胆石と云う持病を抱えた身でも、ホノルルの医療事情は日本と同じで、日本語対応のクリニックも多く、安心できます。
これまで、海外医療保険はクレジットカードの保険でしたが、胆石発作以降は、空港で単発の、死亡時は安いけど、日本への移動・救援者の手当を厚くした、保険に加入するようになりました。
胆石発作以降も、退職した年2003年から繰り返してきました、年に2回、9日間、7泊の旅を続けてきました。
しかし、同じ航空会社・同じホテルで、2003年当時は全て現地の観光移動費、食事代込みこみで二人で25万円で収まっていたものが徐々に変化し始めたのです。

理由のひとつが、宿泊費の高騰です。
ずっと定宿としていた、ワイキキの西のはずれにある、パジェットホテルの一つ、アンバサダーホテルが中華資本に買収されてからです。
アンバサダーホテルについては、私のロングステイ情報サイトで詳しく紹介しています。
ホノルル・アンバサダーホテルで過ごす、ミドルステイこの頃から、ワイキキには、中国人の団体客が目立ち始めました。
夕刻になると、十数人の大きな黒い塊が一緒になって、カラカウワ通りを移動する姿が目立ち始めました。
そして、カラカウワ大通りの裏側、クヒオ通りに高級ホテルの「リッツカールトン」が建設を始めていたのです。

やがて、ハワイを卒業する決定的な出来事が起こりました。
2017年(平成29年)「テルミークラブ」の破綻です。
2003年に退職し、ハワイへの年に数回のリピートミドルステイは、「テルミークラブ」のパックを利用し、航空会社は中華航空(台湾)、ホテルはアンバサダーと決めて利用していましたが、2015年あたりから、「テルミークラブ」はハワイ専門店から、世界各地へのツァーを手掛け始め、ホームページのハワイページへのアクセスがつながりにくくなり、webの世界の人間として何か違和感を感じていました。
ハワイにもそろそろ飽きてきていましたし、今更、ホノルルの中級ホテルに7泊9日二人で、40万円も出して行く気がしなくなっている頃、案の定、「テルミークラブ」は破綻しました。
webの世界に属する人間として、その会社の状況見分け方として、会社の顔であるホームページが更新されなくなったとか、アクセスの反応が極端に鈍いとの症状がでてきた時は、「要注意」です。会社の経営人の目が行き届かなくなっている証拠です。

1978年結婚した私たちは最後のハワイまで、二人一緒の海外旅行は都合、98回、年に2.7回のペースでした。
少なくとも、この先100回は行くものと思っていましたが、98回で打ち止めです。
人間、徐々に年齢を重ねると、体力・気力・好奇心に変化が訪れます。
何時かは、何かをひとつづつ卒業していくのが人生だと悟るのは、古稀と呼ばれる70歳です。
勿論、個人差はあるでしょうが・・・


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団塊世代の海外ロングステイと定年後の過ごし方
posted by 西沢 at 07:30| Comment(1) | TrackBack(0) | シニアライフ
この記事へのコメント
こんにちは!
あと少しで65歳で年金生活に入ります。57歳で、健康寿命があるうちに好きなことをやっておかないと後悔すると思い、毎年ヨーロッパへツアー(6泊8日)へ行きだしました。幼いころ、憧れた外国の絵本の中の風景を確認するがごとく、中世の町並みやお城見学が中心です。年金生活を始めたら、年2回ヨーロッパへ行きたいですが、確かに資金が危ういです。でも、今のうちは、国内旅行は後回しと考えてます。ロングステイも憧れてます。イタリアへ一ヵ月位暮らすように住みたいと憧れてます。まずは、つたない英語の勉強からです。ロングステイや国内旅行等このブログで勉強になりました。
Posted by はなこ at 2020年09月22日 13:11
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