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2020年03月18日

コロナウイルス騒動で暇なシニアは映画三昧の日々

全国区のニュースで、我が家から徒歩10分にある、鎌倉で最大規模のショッピングモールのコーナンなかにあるキーテナントの「ライフ」のパート従業員男性のコロナ感染が報じられていました。先日は、毎日使うJR駅で倒れた女性と云い、コロナウイルス騒動はニュースの世界ではなく、身近あるのが私の現状のようです。
コロナウイルスは空気感染ではなく、接触感染と解っているのでそんなに気を使わなくても良いと解っていても、不要不急の外出は控えていますので、家にいる時間が増え、TVを見る時間が自然に増えています。
そんな事情ももあるのなか、TV番組では昔の名画の再放送が増えています。

現役時代はそんなに映画好きではなかったと自負している私ですが、退職後は映画館に足を運ぶ回数は、各段に増えています。
その一つの理由として、退職後に参加した映像のクラブの影響があるのは確かでしょう。
映画は好きですが、TVの映画を録画するとか、DVDをレンタルして家のリビングでみるとか、ネット経由の有料チャンネルで見るほどではありません。が先日は、スカパーで無料で「大脱走」をやると云うので、昼間の3時と云う時間にも関わらず、懐かしい名画「大脱走」を久しぶりにみました。
大脱走は1963 昭和38年)は私が15才の時の映画です。
当時高校一年生、当時中学生の頃は町の映画館の出入りは禁止されていましたが、高校生になりそんな規則もなく、自由に映画館に出入り出来るようになった時の初めての映画でした。

地方の県庁所在都市の繁華街で生まれ育った私の町には、今と違って映画館は沢山ありました。
思い起こしてみるに、松竹・東宝・東映・大映・日活の邦画封切館が5館洋画封切館が、3館。他に独立系の成人映画を中心とした映画館が2館、全て自宅から10分の徒歩圏内にありました。
高校生になり、映画禁止の縛りがなくなり、当時では珍しかつた高校生のアルバイトをやってましたので、小遣いはあり毎月映画館に通っていた、多少まわりからは「不良」の目で見られていたかも知りません。
この当時の思い出は、この「大脱走」よりも、吉永小百合の青春映画のほうが思い出深いものがあります。「泥だらけの純情」・「さよならの季節」をもう一度見てみたい。

この週、幸福の黄色いハンカチもBSでやっていました。
1977年(昭和52年)当時私は 29才
結婚前、渋谷道玄坂の映画館でカミサンとのデートで見ました。
南米から帰国し、専門学校を卒業しても、まだ思ったような職場に巡り合っていない時期でした。
映画に登場する「武田鉄矢」に自分を投影してみていました。
同じ団塊世代、町工場で働き、現状の仕事、自分置かれている状況に満足せず退職し、当時の憧れであった「自家用車」を買って北海道を旅する姿に。
ラストシーンにぼろ泣きし、隣の彼女に恥ずかしかったあの頃。
その後、建設エンジニアリング会社に転職して、結婚に至る懐かしい思い出の映画でした。

翌週、またTVで高倉健と吉永小百合の「海峡」の再放送を見ました。
海峡 1982年(昭和57年)当時の私は34才、すでに結婚ししています。
この映画は見ていませんでした。
34才の私は高度成長期の建設エンジニアリング会社の現場監督で忙しくて、土日も夜間もなく、働きづめで映画を見る余裕は全くありませんでした。
今、思い返してみるに、早期退職する55才まで20年以上も、映画館で見る機会はなかったのです。
初めて、この映画「海峡」を見ました。
青函トンネルに携わる、技術者の映画なのですが、当時、こんな陳腐なストーリー、特に映像が綺麗でもなく、吉永小百合の魅力も引き出せていない、映画を東宝の大御所たちが、よくも制作・上映したもの、と半分呆れてみました。
青函トンネルの本坑全貫通は1985年(昭和60年)です。
自分の人生に置き換えてみていました。
初めて、津軽海峡を渡ったのは、1965年高校三年生の夏休み、勿論、青函連絡船です。
そして、再びの北海道は2013年(平成25年)、この青函トンネルを通って在来特急で函館に入りました。
既に退職して10年たった65才の時でした。
それ以後は何度も北海道に渡っていますが、全て空路です。
洞爺丸沈没事故がきっかけで造られた青函トンネルですが、今考えると、あれだけの犠牲を払って造る必要ががあったのだろうかと考えながら見ました。

そして、今話題の映画「フクシマ50」を見てきました。
あの東日本大震災の東電原発事故に当たったプラントエンジたちの話です。
2011年(平成23年)私は63才でした。
日本人、特に私たちの世代の男性は、NHK「プロジェクトX」のような、大きな組織のなかで働く、名もなきエンジニア、ヘルメットをかぶった男たちの話が好きです。
前述の「海峡」に登場する「トンネル屋」と呼ばれる、大手ゼネコンの下で働く実務者の話が好きです。
このフクシマ原発の事故対応に当たった、海外で「Fukushima50」と呼ばれる、東電の原発プラントを支える子会社や、実際に作業に当たる協力会社の社員やその家族のお話です。

ストーリーそのものは、事故後のNHKなどの検証ドキュメンタリーで知っているので特に目新しいものは何もありませんでした。
気になったのは、NHKのドキュメンタリーでは特にフォーカスしていなかった、当時の民主党内閣の現場介入や、当時の東電本社の対応について、かなり、そして大げさに、批判的に描かれていました。
一方では、アメリカの軍隊、日本の自衛隊の活躍を大きく、好意的に描かれていたのが気になります。角川ってそんな会社だったのでしょうか。

見終わってこの震災の年、自分は何処で何をしていたのか思い出してみました。
震災の翌月、私はアンコールワットにいました。
4度目のアンコールワットで、目的地は普段なかなか行けない、ベンメリア遺跡が主目的でした。
震災から3週間目、海外に出て知ったのは、日本国内で知らされていた、原発事故の大きさ・脅威でした。
あの当時、日本国内のメディアでは伝えていなかった、事故の大きさ、日本の半分東京・神奈川までが避難しなくてはいけない、ギリギリの危険な状況であったのを、4月、海外へ出て初めて知りました。
日本のTV番組に出席していた、「専門家」は炉心溶融は起きないと云い、水素爆発で粉々に散った現場を目にしても、原発建屋は何か事故があった時に、内部を保護する為に軽く、柔に作られている・・・と本気で語っていたのを思い出します。
そして、2月15日のNHKスペシャル、原発事故の検証、津波は防げなかったのか?では、何度も津波に対する対策のチャンスがあったのに電力会社の横並び体質、政府の原発保安院の組織上の問題で見過ごされてしまった、と報じていました。

唄・曲を聞くと、その当時のことを思い出すと云いますが、映画・映像はもっと強く過去に引き戻します。唄と違って、一緒に見た人、相手、場所も鮮明によみがえってきます。
齢をとると、記憶は逆行すると云うことを聞いたことがありますが、確かに、最近、昔遊んだ路地裏はどうなっているのだろう、
今度田舎に帰ったら、行って撮影しようかな・・・となんて考えています。

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団塊世代の海外ロングステイと定年後の過ごし方
posted by 西沢 at 08:09| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ
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