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2020年02月24日

徳仁天皇陛下は60歳、還暦のお誕生日を迎えられたのですね。

退職してからというもの、現役時代と違い、カレンダーの連休日を全く意識しなくなるもので、今週、2月23日、24日が何の祝日での連休なのか、当日になって「そうなんだ、天皇誕生日なんだ」と知りました。
あの「ナルちゃん」が還暦、60歳・・・信じられない。
私は、どういう訳か徳仁天皇陛下のお生まれになった日、昭和35年2月23日のことを、しっかりと覚えています。
昭和35年2月23日と云えば、私は小学6年生、後2ケ月で中学生ですし、私の誕生日はその2日後です。
今日、それじゃ徳仁天皇陛下の干支はネズミ、ちょうど私とひと回り、12歳の差なんですね。

どうして、徳仁天皇陛下お生まれになった日の事を鮮明に覚えているかと云うと
我が家は、父親が結核で国立療養所に6年間の長きに亘って隔離されており、母は一人で末っ子の私を含む4人の子供を喰わせていかねばならない状況で、上の兄二人と私は、新聞配達をしていました。
地元の「信濃毎日新聞」の朝刊・夕刊を150軒ほど配って、1か月のお給料は、たしか1,250円ほどだった記憶があります。
その当時の大卒の初任給が12~13の,000円との記録がありますから、小学生新聞配達の1,250円は大卒の1/10ですから、今の物価・価値観で云うと20,000円×兄弟3人で60,000万円は、食べ盛りの母子家庭の我が家では、結構大きかったのでしょう。
天皇陛下のお生まれになった2月23日、夕刊配達時間になっても、なかなか販売所に新聞が届きませんでした。
冬の信州の2月、暗くなるの早いし、信州の2月は寒いのです。
そして、私の新聞配達受け持ち区域は、善光寺の仲見世通りや、大本願や大勧進といったお寺さんの境内のなかまでの配達で暗くなるのが怖かったのです。
新聞が販売所に届いたのは、定時の3時から1時間程度遅れて届き、早足で夕方の善光寺境内に、新聞を150部肩掛けして歩いて配ったのを覚えています。

そうか、あの時にお生まれになったナルちゃんが、還暦60歳か。
自分が還暦、60才になった時、何の感慨もありませんでした。
既に、退職して5年経過しており、厚生年金の一部が支給されるのか、という程度でした。
その頃、アジア仏教国の人間としての12年と云う干支周期について考えたことがあります。
12歳、24歳、36歳、48歳、60歳、そしていよいよ次の最後の12年間が始まろうとしている72歳

12歳の時、何をしていたろう、何を考えていたろう。
中学に入る齢、特別何にも考えていませんでした。ましてや将来のことも。夢も。
普通の只々貧しい中学一年生だっただけです。

次の12年間の24歳の時はどうしていたろう?
はっきりと覚えています。
南米アルゼンチンに来て4年目、かなり海外、スペイン語圏、ラテン社会に慣れていました。
その頃、日本から来た出張社員が持ってきた電卓、1972(昭和47)年の『カシオミニ』を見て、衝撃でした。俺は「取り残されている」と感じました。
古い石畳のタンゴが流れる港の下町ボカの町のアパート、親しい女性、土日に揺れるボカスタジアム、そんな南米アルゼンチン・ブエノスアイレスの生活は好きでしたが、この『カシオミニ』は、私の人生にある種の投石を投じたのです。
「この先、どうしよう、」と考えたのが24歳でした。

次の12年間の36歳の時はどうしていたか?
日本に戻って、日本高度成長期の建設業界に身を投じており、35歳での横浜新駅駅前大規模開発マンションの第1期物件を買っており、
翌年の36歳の時、購入融資の一つ、民間銀行からの金利7%のローンを全額払い、残りは金融公庫の5.5%だけにしたのを鮮明に覚えています。この住宅ローン返済のメドを機会に、カミサンと二人、年に2回の比較的長い海外旅行にでるようになった年でした。
バブルへ突進していた日本経済、六本木の深夜のタクシーの群れを見ながら、朝までビル建設現場で働いていました。

次の12年目の48歳、今の人生を決めた大転換の年でした。
バブルは弾けたものの、建設業界はまだバブル時の受注残を抱えて忙しかった頃、48歳働き盛りです。
この頃、すでに子供を持つことはないのが解り、二人で休暇の度に世界各地を回っており、老後の生き方、資金について、出始めたばかりのマイクロソフトウインドースパソコンのエクセルに入力をし始めていました。
この年、スーパーゼネコンとぶつかり、このまま建設業界で定年まで過ごすことに疑問を持ち、現場放棄に近い状態で、カミサンと二人中米、カリブ海で老後の夢、バックパッカー宿の候補地探しの数ヵ月の旅にでたのが、48歳でした。
結果は、再び元の会社に戻り、他のスーパーゼネコンに拾われた形で、55歳の目標資金達成までいたことになる年でした。

次の12年目、徳仁天皇と同じ還暦の60歳
還暦は暦上の通過点でしかない・・・、体力的にも何ら変わりはなく、気力も十分、この年から年金受給が始まり、老後資金の減少カーブ曲線が緩やかになってきました。
変わったことと云えば、退職前の海外移住、海外ロングステイを諦め、止めたことでしょう。
もう十分に海外にづっと住むという事がどんな事なのかを実感していました。
陛下は宴会の儀で「もう還暦ではなく、まだ還暦という思い」と述べていられるそうです。
まだ還暦・・・か、長生きなさるのでしょうね。

そして、恐らくですが、最後12年目になるでしょう72歳を迎えます。
自分の人生を他人の目でみるような人生でいいのかな。
かなり、いい加減な、成り行き次第の最後の12年目でしょう。

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団塊世代の海外ロングステイと定年後の過ごし方



posted by 西沢 at 07:47| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ
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