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2019年12月23日

イギリスコンテナ死亡事件 日本に来ていたベトナム実習生の死

日曜日の朝日新聞社会面トップで、先月、イギリスで起きたコンテナ内で39人死亡した不法移民のなかに、昨年まで神奈川の食品工場で実習生として働いていたベトナム女性がいたこと、彼女の仲間と一緒に撮った画像と、原稿用紙のマス目のなかに丁寧に書かれた日本語のひらがな、と漢字の文章のが掲載されていました。
狭い、空気が徐々に薄くなり呼吸が苦しくなるなか、家族に送ったメールが残っていたようです。記事を読んでするだけで、私自身が苦しく覚え、目頭が熱くなります。
そして、思い起こしたのは、2週間前の鎌倉の日本語支援のボランティア団体が主催した、クリスマスパーティで出会ったベトナム人実習生の若者の姿です。

12月17日ブログ記事引用

ここ数年、このつどいのパーティに多く見かけるようになったのは、ベトナムから若者です。
主に、藤沢近辺の工場で技術研修の名目で働く3年間限定の実習生の若者です。
私は、退職後何回もベトナムを旅していますので、パーティの会食の時間、大勢のベトナム実習生の皆さんとお話しました。
昔、50年前の日本では、皆さんと同じような年代の日本の若者は、実習生と云う名で、アメリカ・カリフォルニアの苺畑で、メキシコからの労働者として一緒に働いていたこと、そして、まだ経済発展途上だった日本に戻ってきた、日本人実習生の半分は、再び、アメリカ、カナダ
ブラジル・アルゼンチンへ旅だって行ったこと等を彼らに話しました。
彼らも、3年間の期限でいったんベトナムに帰国するけど、再び日本で働きたいと云います。



この席で、私は1960年代後半の日本の若者の話をしました。
東京オリンピックが開かれて1964、昭和39年、当時のドル/円レートは360円、私の高校時代のアルバイトが1日500円(1.3ドル)高卒初級国家公務員の初任給は14,000円(38ドル)と、発展途上国レベルであったことを話し、当時は一般庶民が海外にでることは、今のベトナムよりも難しかった。
海外旅行が自由化されたのも、このオリンピックの年で、一部の超富裕層だけのものだった。
そんな時代でも、アメリカに旅立った多くの若者がいたことを話しました。
今のベトナムの若者が、名目上、先進技術習得の実習生とよばれ今、日本に来て働いているように、60年代後半から派米青年と云われる人たちがいた。

公益社団法人国際農業者交流協会

(英語名 The Japan Agricultural Exchange Council 略称:JAEC)は昭和27年に設立した社団法人国際農友会と昭和41年に発足した社団法人農業研修生派米協会が農業研修生海外派遣事業等の充実強化を図るため解散統合して、昭和63年3月30日に設立されました。
その後、公益法人制度改革により平成24年4月1日公益社団法人へ名称変更を行いました


https://www.jaec.org/summary/intro.htm
元々は、日本の農業を担う若者を海外へ派遣し、最先端の農業技術を学んでもらう為の、政府系の組織ですが、実態はアメリカ・カルフォルニアの日系農場への出稼ぎ斡旋でした。
当時、カルフォルニア日系農場は、白人農家は、高く売れるが、手間、人手がかかるイチゴ栽培を敬遠するのを見てメキシコ労働者を多く雇い入れていました。
そこの農場監督者として、同じ日本の血を引き、休日も夜もいとわない、日本の若者の受け皿となったのです。
当時の時給は1ドルでした。残業すると1日10ドル、1か月250ドル、日本円で90,000円は当時の高卒国家公務員の6.5倍、それも、寝場所も食事も日本・アメリカ間の船賃(JAEC負担)も全て無料、遊びたくても街から離れた農地ですし、まだ人種差別色が濃く残っているアメリカの街中に行く勇気もなく、連日メキシコ人労働者と過ごしているうちに、英語よりもスペイン語が上手くなっていったそうです。

ストロベリーロード
この頃の派米青年や日系人農場を描いた小説があります。
横浜出身の作家石川好の「ストロベリーロード」です。
私と同じ団塊世代、彼は派米青年制度ではなく、幼い頃別れた実兄がアメリカで暮らしているのを頼って渡米し、兄のイチゴ農場では働いていた当時を後に帰国して小説化したものです。
当時、日本の若者が労働者として働いていたのは、アメリカだけでは有りません。
ドイツの炭鉱でも大勢の技術研修と云う名目で日本の若者が働いていたのです。
参考資料:
ドイツの炭鉱で働いていた日本の若者
1950年代から60年代の半ば、東京オリンピック当時の日本は、開発途上国だったのです。

その後、これらのどうなったか?
ドイツの炭鉱で働いていた多くの若者は、政府の思惑どおり帰国してからは、日本の炭鉱の技術者として活躍したようです。
では、地方の農家出の派米青年はどうなったか?
私が彼らの存在を知ったのは、南米、ブエノスアイレスでした。
多くの派米青年は、一旦日本に戻ってきましたが、海外に暮らし、日本の何倍もの給与を手にしてからというもの、経済格差を痛感し、再び自分の将来の人生設計を、海外の地に求めて、旅だっていったのです。

は、日本語ボランティア主催のクリスマスパーティで出会った、ベトナム人実習生に、これらの日本の若者の歴史を話し、君たちの何人かは、かなり高い確率で再び海外にでることを模索するようになる。
何処の国ほ目指すかは分からないが、一度働いたことのある日本に来ることに備えて、お金を貯めることも大切であるが、一番は大切なのは、日本語をマスターすること、次回日本に自力で来日する際、正規の労働ビザを取得するには、企業の面接で重要視されるのが日本語能力であると、話し、併せて、3年間の滞在中に、積極的に日本の友人を造ることを薦めました。

このクリスマスバーティの時、私は、イギリスで起きたこの悲惨なコンテナ事件を知りませんでした。そして、12月22日の朝日新聞で39人の犠牲者のなかに、私の住まいの近くの神奈川県で働いていた、女性実習生がいたことを知りました。
彼女も昔の派米青年と同じく、一度、海外働いてから帰国し、再び海外を目指して、不幸な状況に陥ってしまったのです。

彼女の元同僚日本人の話が掲載されていました。
「もう一度日本に来れば良かったのに、正規労働ビザで」
posted by 西沢 at 08:17| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ
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