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2019年12月10日

12月8日の太平洋戦争開戦の日、真珠湾トラトラトラの日

今時の世、「12月8日」、「トラトラトラ」の文字を目にして日米開戦、真珠湾を思い起こすのは私たちの世代まででしょうか?
「トラトラトラ」は映画のタイトルです。
『トラ・トラ・トラ!』(Tora! Tora! Tora!)は、1970年に公開されたアメリカの戦争映画です。
1941年12月の大日本帝国海軍による真珠湾攻撃をめぐる両国の動きを題材に据え、日本との合同スタッフ・キャストで制作され1970年のアカデミー視覚効果賞を獲得した名作です。
ハリウッドの戦争映画としては、珍しく、この世界大戦の発端を日米両国の視点で描いています。
1970年のこの映画を、私は、当時住んでいましたブエノスアレスの映画館でみました。
スクリーンでゼロ戦がアメリカ戦艦アリゾナを撃沈するシーンなどで観客は固唾をのんでシーンとしてみているのですが、アメリカ側の飛行隊が、ゼロ戦を撃墜すると、映画館内に拍手があがったのを、今も鮮明覚えています。
「トラトラトラ」とは、真珠湾攻撃隊が連合艦隊へ送った暗号通信で「我奇襲に成功セリ」の意味でした。

2019年、12月8日朝日新聞の「天声人語」コラムでは、この日に合わせ、文豪であり、非戦論者・平和主義者である「武者小路実篤の開戦前の日米戦争にいだく危惧と、開戦後に発表した高揚した気持ちの言葉について書いていました。
時代に流される・・・、マスメディアの迎合に警鐘をならしています。

この日の天声人語を書き写しながら、私は別の想いでいました。
改めて、昭和16年、1941年、自分の両親はこの時、何歳だったのか、気になったのです。
それは、私が71才、父が亡くなった年齢になったからが大きな要因なのは間違いありません。
何時かは、自分史ではなく記憶の整理しておかねばならないと、常々いたのですが、このコラムを機会に、先ずは単純な年齢年表原稿を造り始めました。

両親の誕生年
父 大正05年 1916年 誕生
母 大正10年 1921年 誕生

昭和16年 1941年 太平洋戦争勃発 父は25才 母20才でした。
父は日中戦争当時から召集され、肋膜炎を病んで、開戦当時はどうやら国内に居たようです。

昭和18年 1943年 両親の結婚 父27才 母22才
第二次世界大戦真っ最中の結婚のようで、結婚式の写真は何も残っていませんでした。
代わりに、軍帽をかぶったまま白衣姿の病院内の写真が残っていました。

姉誕生 昭和19年 1944 4月生 父28才 母23才
姉は戦中派と云う言葉を嫌います。この年、アメリカ軍はサイパンに上陸してきています。
続いて、グアム、レイテに上陸、本土空襲が始まった年です。

兄誕生 昭和20年 1945 7月生 父29才 母24才
終戦の前月に双子の兄がうまれています。

終戦 昭和20年8月 1945  父29才 母24才
終戦の年、父29才。今の私たちの感覚では、まだ青年盛の年齢

私誕生 昭和23年 1948  父32才 母27才の時でした。
終戦の混乱、食糧不足が続く中、4才、3才の双子、0才の4人の子供と病弱な夫を抱えた母の窮状を察します。

父、結核療養所入院 1954 父38才 母33才 私6才
父はどうやら病弱のようで、戦中に患った肋膜炎が当時まだ不治の病と云われた、肺結核に発展したようです。
私の微か記憶のなかで、まだ小学校に上がる前に、父が結核専門療養所に入ったのを覚えており、町のはずれにある松林に囲まれた国立療養所に、母と父と幼い私が映った写真が残されていました。改めて、こうやって年表にしてみた時、父は38才から44才、男盛りの時代を結核療養所で過ごしていたのです。
33才と云う女ざかりの妻と、4人の子供を残しての療養所生活の無念さ、やるせなさ、焦り、嫉妬、妄想は今となって解ります。

父結核療養所退院 1960 父44才 母39才 私12才
退所してからの我が家の家庭は、毎日夫婦喧嘩が絶えない日が続いていました。
家業の青果業は父のいない間に、母親は車の免許を取り、子供4人を養うために一生懸命に働いていました。
療養所を退所した父の居場所はもうなかったのです。 あの当時母はまだ30代だったとは。

東京オリンピック開催 1964 父48才 母43才 私16才
私は高校二年生、近所の美容院のカラーテレビで開会式を見たのを覚えています。

高校卒業 1966 父50才 母45才 私18才
当時の地方の大学進学率10%、10人の一人程度でした。
私の家の経済的環境から大学進学は無理でしたが、さるカトリック系の神父さんに誘われて、スペイン語系大学にはいりましたが、1年後中退します。

横浜港出航 1968 父52 母47 私20
幼いころからの夢だった海外、南米ブエノスアイレスに旅立ちました。
港には、父・母・兄・姉が見送りにきていました。
船が岸壁を離れても長い五色のテープが手元に残っていたのを覚えています。
不思議に悲しみはなく、やっと日本を出発出来るという嬉しさだけでした。

日本帰国 1975 父59 母54 私27
27才の春、電子系の専門学校で学び直すのを目的に帰国しました。

結婚 1978 父62 母57 私30
結局、結婚によりアルゼンチンへの帰国を断念し、日本での生活の道を選びました。
結婚式当時、父62 母57と若かったのです。

父亡くなる 1987  父71 母66 私39
父は、動脈瘤破裂で一晩でなくなっています。71才、今の私と同じ年齢です。
葬式のお棺を閉める時、母は棺に抱き着いて号泣していました。
私の知っている母は、肝っ玉母さんで、子供頃から、お前たちが成長したら父と父別れる、常々言っていた子供から見れば、夫婦仲が険悪だったはずなのに・・・、
子供には解らない、夫婦の絆というものをこの時初めて知りました。

母を偲んでビデオ映像 1991 母70才
父が亡くなって4年後の母の姿が動画で残っています。この時の母はな、まだ70才だったとは。


母亡くなる 2007 母86才  私59才
多少認知症の軽い症状が見受けましたが、寝たきりにはならず、信州の寒い冬の朝、トイレに座ったまま母は逝きました。

12月8日の開戦の日を機会に今まであやふやだった、両親の年齢と71才になる自分の年齢を重ねた記録です。こんなものを記録しようとしている自分は、今週末に予定している検査入院のせいかもしれません。
posted by 西沢 at 07:45| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ
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