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2019年11月26日

フランシスコ教皇の訪問とわが青春の地、長崎、日本26聖人記念館と焼き場に立つ少年

ローマカトリックの総本山、バチカンのトップであるフランシスコ教皇が来日し、原爆の被災地、長崎と広島を訪れたニュースに接し、教皇の出身地、アルゼンチン独特の訛り(カスティジャーノ)のスピーチを耳にして、私の青春が走馬燈ように、蘇ってきています。

南米出身の上、日本のカトリックとも縁の深いイエスズ会出身の初めての教皇です。
私が、青春時代の一時期、アルゼンチンで過ごした要因の一つとして、私がスペイン語を学んだ時の大学の外国人教師は、イエスズ会の神父さんだったのです。
18才の少年の私は、宗教には全く興味はありませんでしたが、1960年代後半の海外旅行が自由化
されて数年の日本の、そして貧しい地方出身の若者には、海外のお話、特に南米の大草原大パンパスや、タンゴ発祥の地、ブエノスアイレスの下町の様子、そして、その先生から、児童小説「母を訪ねて三千里」の舞台が、アルゼンチンのコルドバであることを知り、胸をときめかせました。

長崎、日本26聖人記念館は、高校生17才の春訪ねました。
26-1.jpg訪ねた、と云うよりも、長崎の街をさ迷って、歩いて辿り着いた先が、そこだったのです。
昭和40年、当時高校生二年生だった私は、前年1964年昭和39年開かれた「東京オリンピック」を初めてみるカラーテレビ画像に釘付けでした。
競技の成績や、金メダルよりも、まだ行ったことのない日本の首都、大都市東京の街並み、そして外国人選手の姿に、強烈に惹かれ、何時かは東京へ、そして成人したら海外へ行こうと決意しました。東京オリンピックが終わってから、先ずは、東京、そして日本全国へ旅しようと、当時高校生としては珍しいアルバイトを放課後から始めました。日本は、少しづづ豊かになってきており、大学生や若者が、リュックを担いで全国を旅し始めた頃です。

今と違って情報の乏しい時代、地元の国鉄の駅窓口に行って、九州や北海道を未成年の乏しい予算で旅するすべを教えてもらいました。
信州から、九州に行くには、一度名古屋に出て、名古屋発券の九州内の急行列車乗り降り自由の「2週間均一周遊券」を薦められました。料金は3,850円、長野・名古屋間往復各駅列車を含めて、10,000円あれば、初めての一人での日本国内旅行にいける、ついでに北海道の「均一周遊券」は東京発券で5,000円ということも教えてもらいました。
当時の高校生のアルバイトは、時給ではなく、日給で500円でした。
高校の授業が終わる、3時から夕方の7時まで4時間、自宅商店街のスーパーの鮮魚売り場で働き、1万数千円を握りしめて、家をでました。

名古屋から門司までは、各駅停車で途中下車・引き返しは出来ず、最初に降りたのが門司駅でした。当然ながら泊まる宿・ホテルはなく、自宅から持ってきた小さな薄い毛布ひとつでの野宿です。当時、国鉄の駅の一部では、夜の待合室が解放されていました。
17才の田舎出の私は、恐る恐る、初めての野宿を駅の硬いベンチに横たわりました。
すると、30分もしないうちに、お巡りさんがやって来て、色々聞かれました。
高校生だと答えると、「なんでこの季節、高校生はまだ学校があるだろう」と云います。
私は「長野県の学校は、冬が厳しいので、正月休みの他に冬季休みがあり、その分夏休みは短く春休みが長いのです。」そして、「進学校の場合、3月は終業式と卒業式の当日だけ出席すれば良く、後は進学へ受験勉強すれば良いのです」
すると、お巡りさんは、担任の先生の名前は?、校長先生性の名前は?と立て続けに聞きいてきます」どうやら、家で少年ではないと納得していただき、解放されました。
信州から比べると、暖かい南国、九州とは云え、旅の初日の文字は結構寒かったです。

26-2.jpg旅は順調に進み、長崎に入りました。
しかし、ここで誤算が生じました。
これまでの門司・博多は夜行寝台や、特急列車の発着があるので、夜間も待合室は開いているものの、長崎は終着駅、どん詰まりのこの先線路のない駅の為、夜は待合室が閉まってしまうのです。
駅を追い出され、寒い長崎の夜の街をさまよい、何処か公園か、お寺軒下でもないかと、さ迷い辿り着いたのが日本26聖人記念館でした。
ここは、長崎駅から近くの丘の上で、3月の風が冷たい場所でした。
何処かこの風の当たらない場所として横になったのは、記念碑の裏の会館のすきまのコンクリート上でした。駅で拾った新聞紙を直接身体に巻き、持ってきた全てのセーター、ヤッケを着て、薄手の毛布にくるまって横になりましたが、直ぐに寒さで起きてしまいます。
誰か、知らない人が来ないか、野犬が襲ってこないか、不安だけで初めての野宿の夜を過ごしまし、3月の遅い、朝の光を感じて起き出して、少しは陽の暖かさを感じ、駅に下る道を振り返ると、昨夜は暗くて解らなかった、26聖人の彫像の姿が目にはいりました。
17才の少年にはまだ宗教観はありませんでしたが何故か、守れていたのだと、感じた朝でした。

その後、旅を続けているうちに、同じよう「均一周遊券の旅」をしている、大勢の大学生の人達からアドバイスを受けました。
「寝る所がなかったら、何度でも乗り降りできる均一周遊券の特色を生かして、どこの方面でも良いから夜行列車に乗り、途中下車して、行きたい方向の夜行列車に乗り換える、
時間はたっぷりあるのだから、寝過ごしたって構わない」と云う方法を伝授され、以後の旅の寝る場所には苦労しなくなりました。

フランシスコ教皇の長崎訪問で、あの時の夜を鮮明に思い出した一日でした。

そして、翌日のニュースで、一度自分のブログでとりあげた、あの「感動の写真」に再び巡り合いました。「焼き場に立つ少年」です。

ニュースではローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は、長崎市の爆心地公園でスピーチを行ったあと、原爆が落とされたあとの長崎で「焼き場に立つ少年」の写真を撮影した、アメリカ軍の従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏の息子と会話を交わした。と報じています。

焼き場に立つ少年とは(※ネット記事より引用)

26-4.jpg「焼き場に立つ少年」は、アメリカ軍の従軍カメラマンだった、ジョー・オダネル氏が、原爆投下後の長崎で撮影したとしている写真です。
この写真には、目を閉じた幼い子を背負いながら、唇をかみしめて直立不動で立ち、まっすぐ前を見つめる10歳ぐらいの少年の姿が写されています。
オダネル氏は、すでに亡くなった弟を背負った少年を写したものだとし、このあと少年が見つめる中で弟は屋外で火葬されたと伝えています。
オダネル氏が長崎や広島など日本各地を回り、私用のカメラで撮影したフィルムは、アメリカに帰国したあとも悲惨な記憶とともにトランクの中にしまわれていました。
しかし、オダネル氏は過去と向き合うことを決意し、帰国から40年余りが経過した1989年にトランクを開き、翌1990年には地元・テネシー州で原爆の悲惨さを訴える写真展を開催。
アメリカ国内では反発を招いたものの、その後、日本各地でも写真展が開催され、平成19年、2007年には長崎市にある長崎県美術館で「焼き場に立つ少年」が特別公開されました。
長崎市に寄贈された「焼き場に立つ少年」は、いまも長崎市の原爆資料館に展示され、戦争の悲惨さを訴え続けています。



26-3.jpgこの写真をフランシスコ教皇は自分の絵葉書として、周辺に配っているそうです。
私は、正直、青春時代を過ごしたアルゼンチンの国民性が嫌いです。
同じ南米にありながら、アルゼンチンだけは、先住民族のインディヘナは少なく、アフリカ系の移民は全くない南米の白豪主義と云われる、スペイン・イタリアの移民を中心とした白人国家です。
ブエノスアイレスに住む人々は、周辺のパラグアイ・ボリビア・ブラジルの人々に対して、偏見・見下す態度を取ります。
アジア人に至っては、明らかな偏見がある国で、日本人移民だけは特別許可と云う移民政策があったのですが、ここ二十年ほどで韓国・中国移民が急増して、アジア人にとっては決して住み易い国ではありません。
南米を旅するバツクパッカーも、同じで、アンデスの国々、人種偏見の少ない、ブラジルから入ると、隣国に比べての急激な物価高と、アルゼンチン人の横柄な態度に、嫌気がさして、主な観光を終えるとさっさと、隣の国へ移動しています。

そんな国から初めてのローマカトリックのトップ、気さくな、飾り気のない、何よりも、「焼き場に立つ少年」を世に広めた
フランシスコ教皇に敬意を表します。
posted by 西沢 at 08:26| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ
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