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2019年10月26日

有楽町スバル座の閉館のニュース 我が青春の思い出の地

天声人語で有楽町スバル座の閉館で知りました。
有楽町スバル座は、カミサンと初デートの地です。1976年、28才の時です。
有楽町は、田舎の生まれ、育ちの若者にとって、東京・都会そのものの場所でした。
今でも思い出すのは、小学生の時、その当時流行っていたフランク永井の「有楽町で逢いましょう」を教室で唄ったと、クラスメートが担任に告げ口にして、たいそう怒られたことです。
当時子供ながら、「何でこんなことで、怒られるのか」と思いました。

青春時代を南米過ごして、帰国後に住んだのは、築地でした。
築地は有楽町から真っ直ぐ、銀座4丁目交差点、三原橋、歌伎座を抜けた先にあります。
最寄のJR駅が有楽町だったのです。
ブエノスアイレスから帰国し、電子専門学校の夜間部に通うのに、築地市場の職場は、朝が早いものの午後2時には仕事が終わり、朝昼兼用の食事と寝る場所と風呂が無料で提供された上、帰国後の仮のバイトとしてはかなりの高給でした。
そして、今、自分は東京都心、子供の頃の憧れの象徴であった、銀座・有楽町が目の前と云う満足感に浸っていました。

専門学校で新しく電子を学んでいる頃、JAICAの南米の日系人社会の現地事情の説明会の場で、カミサンと出会いました。当時カミサンは海外医療ボランティアに興味があったようです。
初めてのデートが有楽町スバル座でした。
カミサンから東宝系の無料招待券を持っているから、と云うお誘いが初デートでした。
70年代の知合って間もない若い男女の初デートと云えば、映画を見て、お食事が定番でした。
映画の内容は、ほとんど記憶にない、ハリウッドのコメディーでした。
食事は、銀座スエヒロでステーキ。今思い返すと、二人とも若かった。

就職し、結婚し、横浜の新駅駅前開発のマンションに住まうようになってから、有楽町・銀座周辺には縁がなくなりました。
再び、毎日のように有楽町・日比谷周辺に関係を持つようになったのは、退職前の5年間です。
建設業界もバブル景気が弾けて、下降線をたどり始めた頃、私は新築部門から日比谷・内幸町・虎ノ門周辺の大型ビルのリニュウアル部門に移動しました。
この頃から、50代半ばの早期退職計画の最終段階に入っており、自己体力・健康改造プランの実行を始めました。
きっかけは、社内の定期健康検査でした。
ドクターとの面談で、早期退職、海外移住の話をした時に、
「このまま健康状態で退職し、ブラブラ遊んで暮らしていくと数年で病院通いの生活になる」
「血圧を下げ、血液検査の数値を正常値に戻すには、減量が必要」
「体重を落とし、筋力、持久力をつけるには、歩くのが一番」
「朝の通勤、一駅前か先で下車して、最低20分歩きなさい」

この忠告に従うことにしました。
良く聞く話、定年後数年で病院通いの退職生活は真っ平御免ですから。
当時担当していた、大型ビルリニュウアル工事現場の最寄り駅は、JRは新橋駅、地下鉄は三田線内幸町です。地下鉄だと、雨に濡れない距離です。
20分歩くには・・・、有楽町ではまだ近すぎるし、通勤の横須賀線は停まらない。そこで東京駅まで行って下車し、丸の内・有楽町・日比谷・帝国ホテル前から、日比谷公園を横切り、担当するビルまで、ジャスト20分歩くことにしました。
現場の朝礼は8:00ですから、自宅を6時半にでて、当然ながら座れないまま横須賀線にのり、東京駅で降り、まだ人影もまばら有楽町・日比谷界隈を毎日、退職する日まで5年間歩きました。
おかげで、ドクターの云うとおり、メタボな体重は落ち、血液検査の数値もほぼ全て、正常値になり、晴れて退職しました。

あれから、16年。
毎日通っていた東京都心にでることは、滅多にありません。
有楽町・日比谷周辺はかなり変わっているのでしょう。
新聞記事では、多くの商業ビル、オフイスビルがどんどん建設されていきます。
きっと昔の会社の同僚・部下だった仲間がトップにたって活躍しているのてしょう。
今週末、早起きして、あの朝、健康・減量の為のルートを歩いてみようかな。
そして、思い出の有楽町スバル座の前で写真を撮ろうか。
posted by 西沢 at 08:08| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ
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