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2018年11月19日

かつての私の戦場、桜木町近辺、東横線高架下とみなとみらいを歩く

b-01.jpg華氏119を」見終わって、桜木町から横浜駅まで歩きます。桜木町駅構内には、桜木町駅の今昔の写真が展示されています。桜木町は鉄道が新橋・横浜間に開通した時の旧横浜なのです。
そして、そのなかの一枚戦後の桜木町駅を良く知っています。私のなかではついこの間までの、渋谷から の東横線の終着駅の桜木町駅の写真です。

横浜博覧会を覚えていますか?
1989年(平成元年)に神奈川県横浜市の現在のみなとみらい21地区で、横浜市制100周年、横浜港開港130周年を 記念して開催された博覧会です。当時私は41才、横浜駅から横須賀線二駅の駅前大開発マンション群の第一号棟に住んでいました。
東京勤務でしたが、世の中、バブルは弾けておらず、今では考えられないのですが、東京の超大型現場を担当しながら 自宅が近いだけの理由で片手間で横浜万博パビリオンを数多く手がけ、終った後は跡地には、雨後の筍のごとく、 オフィスビルが建設されていくのです。

b-02.jpg東京の現場をひと回りし、渋谷から東横線急行で向かうのがこの桜木町駅でした。 この国道旧16号線、上を東横線が走る高架下の通路は、当時落書きだらけでした。そしていつしかここは、 グラフィティアートのメッカとも云われるようなっていくのです。
消しても、消しても書かれていく、落書き。
b-03.jpgしかし、それも東急東横線の地下鉄化で、この高架は取り壊されるか、保存するかとなり、何時しかこの 桜木町名所も落書きは消され綺麗になりました。・・・と思っていたら、高架下の道路に名残りが残って いました。
写真を撮った後に気が付いたのですが、あれ、この踏切は何なんだろう?
b-04.jpgこんなところに、電車は走っていないし、この場所は元の高島町駅あたり、東横線高架前のな残りなのか? それとも、三菱造船の引き込み線の跡なのだろうか?

映画を見に行こうと出かけた朝の朝刊で、この東横線高架下の活用・開発を巡る記事がありました。 横浜市は創造都市構想を打ち出し、アート・芸術での町づくりを進めています。
b-05.jpg東横線高架の上は遊歩道として 残し、高架下を若い芸術家たちのシェアスタジオとするプランのテストケースとして、今、先進的な若い 芸術家に、この高架下にブースを貸し出しています。
見学に訪れて若い芸術家に話を聞きました。
何と有料だと云うのです。幾らなのかは聞きませんでしたが、利用価値が決まっていない、ガード下、高架下なんだから ただで貸せばよいものを。

建設エンジニアにとって「横浜みなとみらい地区」は、古戦場なのです。
b-07.jpg団塊世代の40代の半ばから50代にかけての働き盛り、日本はバブル景気に沸いていました。
工事部署の責任者として、バブルの象徴と云われた「東京都都庁舎」を側面サポートしながら、 部内のメンバーをこの「みなとみらい地区」のオフィスビルに宛てていたのですが、私より上の年代は次々に、内臓系が原因で 倒れ、入院したり、若手は仕事量のストレスで出勤できないような状況になり、全て責任が私の元に押し寄せて来たのです。 今思い出しても、仕事人生で一番苦しい時期でした。
ストレス退社・病気原因で退社・最悪のケース自死までありました。
あれから20数年、再び横浜駅・桜木町から眺める、みなとみらい地区のビル群は、かつての戦場に散って行った、建設 エンジニアの墓標に見えます。
私自身も、未だに絶対に近寄りたくない高層建築が横浜西口にあります。
あの当時の苦しみ、辛さ、不安感を思い出すので嫌だからです。
でも、あの辛い、嫌な現場があったからこそ、55才早期退職を決意できて、私の今の老後があるのですから、 何時かは、あの建物に入り、最上階のレストランで食事して、この辛い・苦い思い出を消し去りたいと思っています。
posted by 西沢 at 08:26| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ
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