
『世界!ニッポン行きたい人応援団』は、日本文化を愛し「日本に行きたい」と熱望する外国人を世界中から探し出し、彼らの夢である日本招待を実現するテレビ東京系のバラエティ番組で、日本の技術や文化(畳、納豆、和食など)を熱狂的に学ぶ外国人に密着し、日本の匠や文化財と触れ合う体験を応援する番組ですが・・・
テレ東はあくまでも、東京の地方局の為、全国で見られる訳でもなく地方では見られない所もありるようです。地上波視聴エリア(TXN系列): 関東(東京・神奈川・千葉・埼玉・茨城・栃木・群馬)、北海道(TVh)、愛知(TVA)、大阪(TVO)、岡山・香川(TSC)、福岡(TVQ)。
見られない主なエリア: 上記以外の地域(東北、北陸、中部、近畿、中国、四国、九州の大部分)。
私の実家、長野県長野市の場合は、ケーブルテレビ経由の有線で見ているようです。
テレ東は、首都圏キー局という立場から一定の距離を置いているので、震災時など、他局が報じている災害情報を報じている時、CM入で懐メロ音楽祭などを演っていて一部から非常識と非難の声もありましたが・・・
我が家ではテレ東7チャンネルは、メインのチャンネルとなっています。
「ユーは何しに日本へ」とか、「家についていっていいですか」とか、今までの既存テレビ局の概念からすれば考えられない番組、外国テレビスタッフが口を揃えて「クレージー、我が国では考えられない」という番組を数多く作成してきました。
特番 離れ離れの日本人再会物語
普段は、日本へ行ったことのない、それでも日本の文化・工芸に憧れる外国籍の人、それも経済的に日本への交通費・滞在費に不自由な人たちを、日本にご招待して、日本の良さを知ってもらう、という番組ですが、数年に一度、若い頃日本の故郷を離れ、家族とともに海外にに移住した人たちのその後生活環境から何十年も祖国に戻っていない、「日本人」を番組としてご招待して、生き別れになっている、親族・友人との涙の対面ドキュメンタリー企画をしてきました。これまでに多くの国に移民とした滞在してきて、日本を離れてから一度も、生まれ故郷に帰っていない、日本人家族をこのテレ東「日本へ行きたい人応援団」は何度もご招待し、涙・涙の感動物語・ドキュメントを放送してきました。
「日系人の里帰り」は特に視聴質(満足度)が非常に高い番組として知られています。
レギュラー放送から不定期のスペシャル特番へと移行しましたが、2020年4月クールには視聴質ランキングで2位、2022年7月にはバラエティ注目度で1位にランクインするなど、固定ファンから根強い人気を誇ります。
高満足度: 放送開始当初から高満足度基準(3.7以上)を上回る3.84を記録するなど、内容の評価が高いとされています。
今回のご招待はアルゼンチンに住む日本人女性76歳
先日のテレ東のCMで、今回お招きする日本人はアルゼンチンからとの記事で、かなり興味が惹かれました。これまで、この番組では数多くの故郷を離れ、一度も帰国していない日本人を招待していました、そのほとんどは南米へ農業移住した人たちの家族の幼少に日本を離れた人たちでした。
日本の海外移住は1868年のハワイへの「元年者」に始まり、明治以降、約100年以上にわたり百数十万人が南北アメリカ、南洋諸島へ渡った歴史です。
人口過剰や貧困を背景とした国策移民が主流で、ハワイ・北米、次いでブラジルやペルーなどの中南米へ多くが渡航。
戦後は1950年代にブラジルなどへの移住が再開したが、1960年代後半の高度経済成長により減少に転じ、1980年代からの日本経済高度成長で日系人の日本への出稼ぎ・帰還が本格化した経緯があります。
これまで、テレ東の日本へ行きたい人応援団で、日本を発って一度も帰国していない招待者は、1960年代前半のピーク時に当時の政府・海外移住事業団の手によってに家族移住として移住事業団が開発を進めた、ブラジル、パラグアイ、ドミニカ、ボリビアなどの未開地への集団・家族移住のケースが大半でした。
今では、解っていますが、外務省の作った「海外移住事業団」※現在のJAICAは現地の情報を実際に現地調査せず、相手先国のいうがまま、役所的に予算消化で多くの日本人を緑の地獄に送り込んでいたのです。
今回のテレ東の予告で、アルゼンチンに移住した76歳の女性という前宣伝を聞いて、ブラジル、パラグアイなら解るけどアルゼンチンにそんな「緑の地獄」的、集団居住地はあったっけ、と思いました。
1960年代のアルゼンチンは、日本よりも豊かな国でした
『母をたずねて三千里』の原作はアルゼンチン、イタリアの作家エドモンド・デ・アミーチスが1886年に発表した児童小説『クオーレ(愛の学校)』の中の一挿話「アペニン山脈からアンデス山脈まで」です。ジェノバからアルゼンチンへ母を探しに行くマルコの旅を描いた短編です。
この小説の当時、アルゼンチン豊かな農地に恵まれた経済大国で、多くのイタリア人・スペイン人移住をしてきていました。
日本のアニメのなかでは、母親は生活費を稼ぐ為に、経済先進国アルゼンチンら出稼ぎにいくという設定になっています。
今回の応援来日する日本人女性は76歳、12歳の時と云いますから64年ぶり、つまり日本をでた時は1962年昭和37年です。
団塊世代は中学生、東京五輪の二年前、まだ日本経済はスタートラインに立つ準備段階の頃で、アルゼンチンは第二次世界大戦後の農業大国・経済先進国だった。
私がアルゼンチン・ブエノスに就職した頃1970年、日本円のタイドル相場とアルゼンチンの通貨ペソはほぼ同程度でした。
今回の日本へ行きたい人応援団で、アルゼンチンに住む日本人女性76歳と聞いて、「エー、ブラジルやパラグアイと違って、アルゼンチンに住む日本人移民・移住者で、何十年も日本に帰れないような経済的な生活困窮者がいるなんて・・・」と思いました。
他の移住された南米各国と違って、アルゼンチンへの移住政策は、主にブエノスアイレス近郊の花卉園芸・温室栽培する先住日本人農家の跡継ぎ、応援が主たる目的されていて、集団・家族移住は少ないと聞いていました。
住まいも首都ブエノス・アイレスから遠くても30km圏内で、ブラジルのような大成功するお金持ちもいませんが、一般的に余裕のある、都市郊外型の園芸農家が多いが特徴でした。
今回の日本人女性が家族移住したのはイグアス
1970年、アルゼンチン・ブエノスアイレスの日・米・亜の合弁会社に籍を得るようになった頃、ブラジル、パラグアイそしてアルゼンチン・ミシオネス州(事業団イグアス移住地)から首都郊外の古くからの日本人が営農する、温室栽培花卉園芸農家で働く日本人を多く見受けるようになりました。ほぼ全てが、ブラジル、パラグアイの緑の魔境と云われる日本国・外務省・海外移住事業団が、手掛け、開発、募集し日本の地方の県に募集ノルマを課して集めた移住者家族の人々なのです。1960年代に行っていた人口調整、棄民だったのです。当時、ブエノスに住む同じ日本人定住者の間でも格差はありました。
一番の格差は、上から外務省・政府関係者、次に日本からの商社・金融、この頃アルゼンチンではまだ日本企業はブラジルのようには進出してきていませんでした。
一般日本人の間でも日本から直接ブエノス近郊の園芸農家と沖縄からの移住で市内洗濯屋を営む人の間には格差が存在し、そこに、ミシオネス・パラグアイ・ボリビア・ブラジルからまだその当時先進国扱いであったアルゼンチンの首都、ブエノスアイレスに逃れてきた同じ、日本人の間でも微妙な格差、差別は確実に存在していました。
その一番が結婚問題のようでした。
やはり、直接アルゼンチンにやってきた、ブエノス日系社会の跡取りとなる男性は、日本から直接、園芸農家に実習生としてやってきた日本人男性が最優先となります。
どうしても、他の地域から「逃げ帰ってきた家族」とあまり経済的に関わりたくないという意識はとても強いように見受けられました。
そして、内地と沖縄の壁もその当時かなり障壁と見受けられました。
64年ぶりの帰国、故郷熊本で別れた姉を探す
この南米に向かった家族を探すドキュメントは今回の里帰りはちょっと変わっていて、移住事業団に応募したのは父親一人が2人の娘さん、今回のメイン主人公当時12歳と姉年齢不詳を連れての海外移住のようでした。日本に残った兄弟は多く、今でも存命している兄と姉がいるはず・・・しかし、実際に手紙で確認で出来たのは10年前、彼女の故郷、熊本から64年前のルーツを探す旅はスタートする。
テレビ番組を見ていて、自分の64年前を思い出して見ていた。
あの昭和の64前の時代、私なら14歳、私の生まれ育った家は、信州の最大繁華街、アーケード街の裏小路にあった。
いまでもあのアーケード街は残っているが、昔の我が家はなく、現在は雑居ビルとなっている。
それでも、我が家の場合、近所の知り合いのお店、パン屋さん、親戚の質屋さんも残っていて、現在の兄夫婦が暮らす、市郊外の住宅地には辿りつけるであろう。
でも、後10年経ったら、そろそろ、人々も記憶も薄くなり、私もそして実家をついで兄もいなくなる確率は高くなる。
まだ78歳だが、そろそろ準備は必要かなとこの番組を見ながら考えた。
実際には、今回の実の姉は広島で元気で暮らしていました。
今回のお応援団主人公は一緒に来日した長女と一緒にアルゼンチンに帰っていった。
番組の最初で、この主人公のブエノスアイレスの町の名を知った。
5年間住んだブエノスアイレスだが、全くその郊外の町の名前は知らず、さっそく思いだしてグーグル・マップ位置を確かめて見た。
首都ブエノスアイレスの北東120km、鉄道は通っていない、全く初めて耳にする町の名前。
アルゼンチンの大草原、パンパスにある、二階建ての建物も少ない、典型的な町だった。
12歳で日本を離れ、ミシオネスの熱帯雨林の開拓生活を経験し、18歳でブエノスアイレス出てきて、アルゼンチン白人と結婚し、その後子宝に恵まれ、離婚して現在の地に娘さんと住んでいる。
どうか、日本の思い出を胸に穏やかな老後を過ごしてもらいたい。と、思うだけです。
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