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2024年08月29日

同世代 ストロベリーファームの石川好 逝く

以前、退職世代の先輩お年寄りの70台は、
朝刊紙のお悔やみ欄にどうしても目が行くと云っていた。


何歳なのか、死因は何かが気になると云っていた。
自分と同じ年頃、年齢の有名人の死亡記事はとくに気になるという。
同じ年でも、まだまだ平均余命に数年あるし、とも思うと云っていたことを思い出す。
特に、自分たち戦後ベビーブーム世代、団塊世代は人数も多く、著名人も多いので、死亡記事は比例して多くなっていく、団塊世代、昭和22年~24年生まれ、1947年から49年生まれ、今年76~77歳、そろそろ毎日、同い年の著名人が亡くなるお悔やみ記事が毎日新聞に掲載されてくるようになる。
現在、関東首都圏にすんでいるが、生まれ故郷の地方紙には昔よりもかなり縮小されたというが、現在もお悔やみ欄があるようだ。

2024年8月21日NHKニュースによると〜

ストロベリー・ロード」などのノンフィクション作品や、民放の討論番組への出演で知られる、作家の石川好さんが、19日、心筋梗塞のため東京都内の病院で亡くなった。
77歳でした
石川好さんは1947年、東京の伊豆大島生まれ。
高校卒業後にアメリカのカリフォルニアへ渡り農園で働いたあと、慶應義塾大学に入学し、卒業後に再び渡米して庭園業を営みます。
その後、1983年に「カリフォルニア・ストーリー」で作家としてデビューすると、1989年、自身の経験を元にアメリカのイチゴ農園で働く日々をつづった「ストロベリー・ロード」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、作品は映画化もされた。
石川さんは、日米関係などを専門に民放の討論番組に出演したほか、かつて日本の海運を支えた「北前船」を生かした地域振興に取り組んだりするなど、幅広く活動してきました。
2009年からは山形県の酒田市美術館の館長を務め、美術館にると、最近も業務にあたっていましたが、19日、心筋梗塞のため東京都内の病院で亡くなったということです。
77歳でした。

同世代、団塊世代ということと、青春時代の一時期、南米あるいは北米の何処ですれ違っていたという思いは今もしています。
石川好1965年, 高校卒業後渡米、カリフォルニア州の兄が経営する農園に4年間従事、メキシコから働きにきている、出稼ぎ季節労働者ともは働いた頃の、
日系アジア人のその頃のアメリカでの生活をもとにした後に小説を残している。

ガーデンボーイ、アメリカ青春物語

石川好氏は高校卒業のよく年、東京オリンピックの翌年1965年19歳、単身兄を頼って、横浜から南米へ行く貨客船に乗った思われます。
この頃、日本政府はまだ戦後であり、国内の産業で全国民を養いきれないと海外移住、移民を奨励していました。
東京五輪のあたりではかなり国内産業も人材を必要としだしていましたが、外務省は自らの「省益」を優先させ、海外移住事業団が開発途中のブラジルアマゾンやパラグアイの開拓地に大勢の日本人家族を送り出しており、神戸発横浜経由、ホノルル・ロサンゼルス・最終港ブエノス・アイレスへの商船三井の貨客船は大勢の日本人家族、青年が乗っていました。
19歳の若き石川好青年もこの横浜港からこの船に乗っていたでしょう。

石川好青年が渡米する数年前まで、「派米実習生制度」がありました。

今、日本で盛んにおこなわれて、ベトナム実習生やら、ミャンマーからの介護実習生,期間5年の実習生という名ばかりの短期出稼ぎ労働制と同じことが日本から米国に向けて行われていたのです。
1ドル350円時代、アメリカカルフォルニアの苺畑では時給1ドルだった頃の話です。
日本各地の農協を通じて、アメリカの農業を学ぶという名目で、往復の旅費は日本政府が負担して多くの日本の農家の次男・三男が2年間限定でアメリカの日系農家で働きに出かけていたのです。
これらは、1960年当初、一般日本人が海外へ行くチャンスもない時代、彼らはエリートでした。
一度、海外にでた彼らは、海外で働くこと、海外の農業、特に花栽培・園芸を学んだことにより、日本のコメ作り一辺倒から海外の都市園芸へと、多くが主にその当時まだ、過去の栄光がかすかに残っていた、南米の先進国、アルゼンチンへと向かっていました。

私の場合、学内がやや騒がしくなり始めていた頃、海外脱出を夢見ていましたが、正面から海外移住でなく一定期間海外に住む手段を模索していた頃、学内の掲示板でスペイン語が必要な
現地アルゼンチンの仕事にが目に入り、応募しした所、正社員の派遣ではなく、現地採用扱いの「片道切符」当然日本・アルゼンチン間の旅費と、とりあえずの支度金がでます。
仕事は現地での新規工場建設の通訳兼下働き程度、会社はアメリカ・日本・ユダヤ資本の合弁会社、最低3年の契約でした。
もちろん、行きます
東京五輪の3年後19歳でした。
この雇用契約では日本・ブエノスの旅費は会社持ちで、指定日までに到着すればルートは自由、旅費は会社持ちでした。空路もかんがえましたが、荷物もありますし、時間もあるのでこの当時の一番的ルート、海路を選びました。
横浜からの乗船では大勢の同じような世代の若者が多く多く乗っていました。
1968年、最初の寄港地ハワイ・ホノルルが私の初めての外国でした。やがて、船はロサンゼルスに到着し、乗客のほぼ七割は下船していきました。ほほ自分とおなじ若い世代でした。
かの、石川好青年もここから下船して、実兄の待つ、いちご農園向かったのでしょう。

船の中は、南米移住の人々です。
圧倒的メインは、ブラジルの大地に三年間契約で就業する農業実習生と、この頃最盛期だったアマゾン川流域の胡椒農園開拓地にいく家族でした。
船はブラジル・サントスに着くと、船内はガラガラ、残るのは、最終寄港地アルゼンチンの大都市ブエノスアイレス近郊の花卉園芸農家への実習生少々と、アルゼンチン経由で奥地のパラグアイの開拓地に向かう家族連れだけでした。
今、アジア各地から実習生としてくる、ベトナム・ミャンマー・インネシアの青年も女性もきっと、全く文化の違う先進国日本の地に足を踏み入れて、これからの自分の人生の夢の設計図
を描いているのでしょう。

あれから半世紀日本の青年、若者の世界感は変わろうとしている
21世紀の今、日本の若者は日本経済の停滞、極端な円安と海外の賃金の差で、「ワーキングホリデー」という名を借りて出稼ぎに出ようとしています。
一定期間、働いて収入を得ても良い滞在ビザで、先進各国間の協定で、若者のの海外進出、経験と視野をひろげる目的です。

現在日本とワーキングホリデー協定を結んでいる国は27ケ国

一番人気の国は「オーストラリア」
人気の原因は、何と言っても時給の違いです。
2024年7月現在、オーストラリアの法定最低時給はA$24.10(約2,410円)で、所得税15%を差し引いたワーキングホリデービザ保有者の実質最低時給(手取り)は約2,049円です。
オーストラリアの最低賃金は世界的に見ても高く設定されており、日本の最低賃金の全国平均(2023年10月以降の時給1,004円)と比較すると約2倍の差があります。
そして、日本と時差がなく、気候もほぼ四季があり温暖、情報量も豊富、アジア系住民も多く、人種的偏見も少ない(?)
しかし、データでは、現地で自分で英文の履歴書を20箇所送ったけど、面接にこぎつけてのは1件だけ、後はなしのつぶて、オーストラリアに入国して三ヶ月、仕事なし、アパート家賃
たけででていき、物価の高いオーストラリアで、即席麺の生活という話が多いと云います。
平成生まれの日本の若者は、私達の世代と違って、世界の最先端・先進国日本生まれ、育ちという思いがあると思います。
オーストラリアにいけば、英語が出来なくとも、周りに日本人も多く、寿司屋の下働きでも日本の倍稼げると思ってきているのです。
雇う側にすれば、專門職ならともかく、英語で接客も出来ない日本の若者は、他のヨーロッパの若者よりも使い物にならないと、敬遠気味だと云います。

なくなった石川好さんも、私も同じ年頃、同じ時代、南米・北米を経験してきています。
石川さんは、晩年、日本海の北前船に興味を持った縁で晩年は秋田の美術館館長として、地域貢献していたようです。
・・・、そう「晩年」というワードがそろそろ、身の回りにでてくるお年頃なったようです。
でも、私が逝っても、お悔やみ欄にも、ましてや地域のコミュニティ紙にも掲載されることはないでしょう。
せいぜい、自分のサイト、ブログに最後のテキストを掲載する準備をしとこうかな。
でも、それをやってくる子供も孫も友人もいない・・・

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posted by 西沢 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ
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