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2024年08月13日

玉村豊男(78才)、僕が「終活」をしない訳


ここ数ヶ月、カミさんのお友達、鎌倉夫人のご主人が立て続けに四人ほどなくなって行きます。
カミさんの食事会の仲間、ほぼカミさんよりお年上で年齢は私と同じ団塊世代で76〜78才ですから、伴侶、ご主人は概ねプラス3〜5才年上で80、2,3才でしょう。
まあ、今の平均的な亡くなる型の年齢なのでしょう。
年齢を正確に知らないのは、四人ともなくなってお葬式を済ませてから、カミさんは知ることになるからです。
四人とも、いずれも死因は「多機能臓器不全」つまり、ガンが原因のなくなり方です。
四人の方のうち、数年介護系施設に入り、なくる時だけ病院でというケースが二人、二人で「ステージ4」と宣告されてから自宅で数年すごし、最後の二週間は訪問介護派遣先の病院でなくなっています。

カミさんはこのような話しは、全て亡くなってから聞く話と云います。

田舎や地元と違って、ここ鎌倉でも、葬儀は近親者のみで行われ、ご主人の兄弟・近い親戚程度での葬儀、奥さんのお友達への連絡、通知はまったくありません。
今回、7月22日カミさんが知ったのは、カミさんのほうから何か連絡したくてLINEして知ったそうで、亡くなったのは7月5日、でも斎場が混んでいて全て済んだのは2週間後だったそうです。
ご主人は地元生まれ、育ちの長男で、親の代からの土地・建物は両親が亡くなった時に相続しており、今度は奥さんと二人の子供への相続が始まります。
大変でしょうと、カミさんが声をかけると、「全て、プロに任せるからそうでもないわ」と話しているそうです。
かなり余裕のある方のようですが、他の三名のうち二名は、ご主人がなくなってからまだ三ヶ月程度で、いろいろな書類申請、整理に追われているようです。

カミさんは我が家はどうなるの?と尋ねます。
我が家は簡単・・・財産は現金とこのマンションだけ。
子供はいないので、僕の兄弟に遺留分が発生するかもしれないが、預貯金もマンション名義も50:50だし、その50の3/4は伴侶に行くのだから、ほぼゼロに近いし、遺言状に全ての財産を妻にと書いているから、まあ、お金の問題はそう心配しなくても良いと思うよ。
ただ、名義書き換えとか、僕の身の回りの後始末はしなくてはいけないかもしれないね。
それもあって、ネット上とか、書類申請手続きについては、ヤマダに勤めているPC・ネットに精通している「甥っ子」を頼ってと話しています。

そんな時、週間現代の記事の「僕が「終活」をしない訳」に出会いました。

玉村豊男、エッセイイスト、1945年(昭和20年)10月、東京都杉並区生まれ 現在78才、10月で79才、私の兄と同い年.
1971年東京大学仏文科を卒業。在学中にパリ大学言語学研究所に2年間留学。通訳、翻訳業をへて、文筆業へ
東大争闘の後、大学を卒業しパリに留学、ヒッチハイクなどで世界中をまわり帰国後、エッセイストとして活躍、60才を前に長野県でぶどう畑とワイナリーを始めた。

41才の時、大量吐血して輸血を受け、慢性肝炎に感染。
その頃の医学書には「慢性肝炎を10年やると肝硬変にになり、さらに10年経つと肝癌になって10年で死に至る」と必ず書いてあった。
だから、自分は30年後、72才で死ぬのだと思ってきた。
でも、それから10年経っても、20年経っても肝硬変にならない。
でこのまま30年経つのかと思っていたら、今度は慢性肝炎を治す特効薬ができて2015年に肝炎が治ってしまい、肝機能数値は完璧に若い頃のレベルに戻ったとおもっていたら、その1年後70才の時、肝がんが発見された。
余命宣告を受けたわけでもないが、昔から72才で死ぬと考えていたから、「俺の余命はあと2年か、30年前の想定とぴったり計算が合うな」思った。
厳しいような、でもけっこうスッキリしたような気持ち、この2年は好きに物を食べて、健康にも気を使わなくていいから、気楽なもんだと。
しかし、それからも意外に長生きしている。
〜中略〜
今は、70才の時に感じた「2年先」を一応想定しながら、具体的に2ヶ月先までどうするかをかんがえている。
3,4m先をみながら歩いているイメージ。
でも、僕はもともと長いスパンで計画をたてず、眼の前にでてきたものに、半ば受け身で対応していく生き方をしてきた。
特に70才を越えたらいつ事故や病気があるか解らない、問題がおきたら起きたで、何とか対応していけばいい。
そういう姿勢はけっこう性にあっていた楽なんです。

かならずやり残しはある

東京の原稿を書く仕事から、農業を始めて、時間の感覚は大きく変わった。
農業は「暗くなったら終わり」書き物は夜おそくまでできるけど、農業は暗くなったら出来ない
そうすると必ず翌日に仕事残るんです。
夕暮れには仕事が打ち切られ「あとは風呂入ってメシ食ってねるだけ」となる。
それで翌日にはやることがあるから、またがんばろうとエネルギーが湧く。
東京にいた時はは締切があるから間に合わないと挫折感を覚えるし、逆に何かを完成させてしまうと燃え尽きるひとさえあった。
それに引き換え農業は「持続することが目的」だかに挫折感がない。
〜中略〜
農業では畑や木こそが主役で、それに関わっていることは脇役です。
ぶどう作りでも自分はいまたまたま関わっているだけで、後の人にひきついでいくものと考えている。
こういうのを「農業的価値観けとよんでいて「達観」というところまで行かないけど、農業を始めてから、こうした価値観を体感するようになった。

終活には積極的なれないと玉村は云う
一度試みたもののなかなか整理しきれなくて、なかば諦めていると。
でも、持ち物を綺麗に整理してしまわず残しておいたほうがいいことも多い思っている。
お葬式など細かい指示する気にはなれない、お葬式は残された人たちの気持ちの整理のためにやるものであって、故人のためのものではない。
最近、東京から地方に移り住んで悠々と生活する「理想の生き方おじさん」みたいにメディアであつかわれるようになって、そんなんでいいのかなと思いもあります。
良く考えたら若い頃から、予定調和が嫌いで、世界を流浪しているときも、当たり前のルートは面白くないから、わざわざ裏道を選んで歩いてきた面もあり、
出来るところまでやって、出来なかったらそこてやめればいい、成り行きまかせと計画の間の生き方のままでいいと思っている。

私の当初のリタイヤライフプランでは

私達、似た者夫婦か最初のマンションのローン返済を終えた38才・35才の時、
次の人生プランンとして、早期リタイヤ、海外移住計画(後にロングステイに変更になりますが)に向けて動き出しました。

その時、最終的、終の棲家は日本でにとしていました。※一度でも長い海外生活をした経験のある日本人はほぼ同じで、最後は日本になるのです。

このエッセイスト玉村豊男氏と同じような人生を歩み、若い二十代半ばまで海外で自由に過ごし、そして40代で中央アジアでA型肝炎に感染し、結果幼い頃の輸血でC型肝炎キャリアであることが判明し、その時に、この玉村氏と同じ運命、肝臓がんでの死をたどることになるだろうと思いましたが、医療の進歩でC型肝炎を克服しました。この時49才でした。
そんな事もあり、私達二人は一定目標金額をクリアしたら、早期退職して、自由に暮らそうと計画した時、基準となるのは、自分が何歳で逝くのか、そして残されたカミさんは何歳までと、おおよその日本のインフレ率の想定でした。
私のサヨナラする年齢は78才としました。
その当時の団塊世代の平均寿命です。
普通ですと、平均寿命よりは平均余命なのでしょうが、今年の夏の日の暑さと、日々衰えていく体力・脚力を考えると、当初のライフプランの78才で終活を進めていきそれそれ以上は余った人生と思うようにしたいと思ってこれから暮らすことにしましょう。

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posted by 西沢 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ
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