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2023年03月27日

定年後海外ロングステイ 海外脱出 夢と現実

朝日新聞のオピニオン&フォーラムで語られていた話題に目がいきました。

前文引用
沈みゆく経済、性や年齢による差別、脅かされる思想、表現の自由、その環境下で子供を育てる不安・・・様々な理由で「日本脱出」を考える人達がいます。
でも、語学や就業の高い壁も。多くのひとにとって脱出願望は、はかない夢想に過ぎないのでしょうか




2003年、55才、早めの退職をし目指したのは、その当時のトレンド「海外ロングステイ」でした。
当時から一部の海外生活経験者や富裕層の間で、南ヨーロッパや太平洋地域で退職後の余生を過ごすライフスタイルがもてはやされいました。
しかし、そんな生活が出来るのは、お金持ちのタレントやスポーツ選手、大企業の役員クラスを務めた、お年寄りだけと思われていました。
そして、このトレンドに刺激を受けて1986年に通商産業省のサービス産業室が提唱した、リタイア層の第二の人生を海外で送るプログラム、シルバーコロンビア計画がスタートしました。


「2千万円の退職金と月額20万円ほどの年金があれば、海外でのんびりセカンドライフを送れますよ」

が謳い文句でした。
当時、日本円はドルに対して強く、1ドル100時代はすぐにくると思われていました。
しかし、所詮、エリート官僚が頭のなかで作り上げたプログラムです。
設定した土地は同時、ヨーロッパのなかで一番物価の安かったスペイン南部です。
ここは昔から、ヨーロッパの富裕層が寒い冬を過ごす土地柄です。
ここに、小金持ちの東洋人が住むにはかなりハードルが高いことは海外、特に、ラテン系白人国に住んだことがある日本人なら容易に想像できることでした。
このプランを造ったのは、通産のエリート官僚たちです。
かれらは、海外に慣れていたとしても、日本国の看板が背負って生活しているので、幾ら小金を持っているとは云え、いち東洋人として海外で暮らしたことへのハードルの高さヨーロッパの階層社会で東洋人が生活する難しさを想定出来なかったのです。
そして、スペインがユーロ圏に入ると物価は高騰し、コスタデルソールでは「月額20万円ほどの年金」では食っていけるけど、豊かな余裕のある生活はできなくなりました。

2003年私が退職した頃の人気の土地はアジアでした。
このシルバーコロンビア計画がうまくいかなかった理由を、「2千万円の退職金と月額20万円」で海外を目指す、ごく普通の会社退職者夫婦はよく理解しており
彼らが目指したのが物価も安く、同じアジア人の国、地域、アジアでした。
インドネシア・マレーシア・タイそして一部は台湾。
この頃が海外ロングステイブームの絶頂期でした。
この頃、夫婦ともに国民年金でもアジアなら貯金出来ると、眉唾ものの記事まで現れました。
確かに、嘘ではなく、現地の人と全く同じ生活様式、食事、共同体に属し、もちろん言葉も含めての話し、でした。
或いは、若者単身者なら、可能でしょう。
60才を過ぎた日本人ご夫婦では絶対に無理なのは、私のように若い頃の一時期海外で生活したことが人間なら容易に想像出来ます。

ここ数年日本の若者がそのアジアに出ていく話しが聞こえています。

旅行ではなく、「海外脱出」に希望を感じる人が増えていると聞きます。
その理由のひとつが、日本の将来に不安・・・というか低成長、円安、就職難、低賃金だと云います。
確かに、ワーキングホリデーを利用して、オーストラリアやカナダへ渡る若者の時給だけを見ると、一種の単純労働でも日本の1.5倍もする国もあります。
でもそれは、メティアが報じているほんの一握りの職種や国であることを、短い報道のなかでは報じていません。
日本食料理人とか、美容師とか、あまり語学力が問われない職種のことが多いのです。
そして、ワーホリを延長し正規に就労しようと思うと、途端に道が閉鎖されてしまうことは容易に想像できます。

海外で働いて、現地人以上の生活をしようとするのは大変です。
勿論専門知識、技術、それに伴う語学力、現地の言葉プラス世界の共通語(英語・フランス語)、私はスペイン語は堪能ですが、海外ではスペイン語がある程度話せるのは当たり前なのです。ラテン語系の言葉ですから。
同じように、ユーロー圏の人間にとって英語もドイツ語もスペイン語までは話せて当たり前の感覚があります。
今や、南米でも若者の英語習得率は昔の何十倍にも増えています。
特にアルゼンチンのように、慢性的な経済クライシスの国に生まれると、自衛の為に英語を学んでおかないと、一生閉ざされた経済三流国のなかで生きていかねばならないのです。

私が1968年にアルゼンチンに渡った理由は・・・

単純に日本から出たかっただけです。
子供の頃から、世界地図、地球儀をみるのが好きでした。
世界には色々な国がある、世界地図の東端にある日本を初めて見た時、極東の意味を知りました。
学生運動が盛んな頃でした。
私のような貧乏家庭に生まれ育った人間には、イデオロギーよりも食うこと、生活することが最優先でした。
兄や姉が、家の家庭環境のことで就職に苦労していたのを見ていました。
同じ思いはしたくない、日本から出たい、それも出来るだけ若いうちに、家に負担をかけずに出ていく術を探していました。
運良く、学園封鎖のなかで、片道切符ながら海外にでる道を見つけてました。
その当時、アルゼンチンはまだ豊かな国の残照が残っていました。
児童小説の「母を訪ねて三千里」の舞台がアルゼンチンです。
イタリアの田舎の子マルコが、当時の先進国、南米アルゼンチンに出稼ぎにでていった母親を訪ねていく物語でした。

私がアルゼンチンに入国した当時、1ドルは360円、アルゼンチン・ペソは1ドル300ペソでした。
私の初任給は当時の大卒初任給は3万円、83.3ドル、アルゼンチンでの初任給は3万ペソ、100ドルとほんの少し日本よりも高かったのです。
しかし、この年を境にアルゼンチンと高度成長期に入った日本経済の格差は何百倍にも広がって行くのでした。

人生は自分の努力だけで左右できるものではない
何かと、云われる団塊世代ですが、この世代に属する私が思うに、ラッキーな、ついていた、恵まれた世代だと思います。
経済的にはバブル勝ち逃げ世代です。
ハブル期にサラリーマンの絶頂期にあり、高給に恵まれ、多少の投資の失敗があっても今の世代の人から比べると、一般的な凡庸な会社員でもかなりの高給と退職金に恵まれ退職期を迎えてきました。
退職後流行、当たり前のように、海外に頻繁に出かけても、ドル安円高、航空機の値段は過激な競争でどんどん下がっていく一方でハワイに数ヶ月置きに出かけられるような状況にありました。
盛んに、物価の安いアジア諸国での定年退職後の生活を謳歌していました。

宴はいつかは終わりを迎えるのです。

私はいつも思い出すご夫婦がおります。
中米のコスタリカサンホセに暮らす、もう80代になったでしょうご夫婦。
1ドル100時代に、日本のクリーニング店を畳んで、お二人で中米の楽園コスタリスに2万ドルの定期預金口座を開く条件で、定住ビザを取得してサンホセ郊外の住宅地の一軒を購入しました。
私達夫婦がお訪ねしたのは、移住後3、4年でした。
スペイン語は片言程度で、通訳は市内の日本食レストランを開いている日本人男性と現地女性の家族を頼っていました。
二度、強盗にはいられとの話しです。
言葉の問題や、生活環境に慣れないのですが、家も店も全て売り払っての移住で帰るに帰れないと話していました。
食堂をやっている日本人男性の生活も苦しいようで、二人のお子さんをこのご夫婦に預け、お互いにサポートしあって暮らしていました。
コスタリカは、軍隊を持たない、豊かな、安全な観光立国と云います。
しかし、中米のなかでは・・・という但し書きがあります。

もう一組のご夫婦、マレーシア、ペナンに暮らす老夫婦
ペナンのリゾートホテルに滞在中、市内中心部との送迎でお世話になった、日本語達者運手さんがいました。
ホテルから市内に向かう時、ある住宅街にくると運転手さんは、ちょっとより道していいかと、聞くのでOKでも何処へと聞くと、気になる日本人女性がいると云うので、彼女かと問うと、お年寄りのおばあさんだと云います。
ペナンに退職ピザで移住してきてもう5年以上になるが、ご主人が病気気味で70才を越した奥さんが一人で、面倒を見ていて、昔移住直後いろいろ手続きや通訳としてお世話したことがあり、気になっている。
向こうは、私に何か頼むとお金がかかると遠慮しているようだけど、マレーシア人はそんなことない、困っている時はお互いに助け合いが普通、それでそれで、日本人お客を乗せた時、訳をはなして遠回りして寄って、様子を見ていると話します。
そっか、私達の料金で少しでもお互いに安心できるなら、遠回りでも、何時間でも寄っていいよと話したことを覚えています。

日本国内の田舎暮らし、夫婦二人で喫茶店、夫婦二人で農業も、海外ロングステイも同じです。
いつか、どちらかがいなくなるのです。
その時を常に想定しながら、最近生きています。


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posted by 西沢 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ
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