退職して20年、鎌倉に越してきても、山下公園や、港の見える公園も、みなとみらい地区・赤れんが倉庫も一緒に歩いた記憶はアヤフヤ。です。
二人の共通の友人や親戚が来た時に、一緒に案内したり、食事したりすることはありましたが、二人で並んで山下公園を歩くのは昭和の大昔、初めてのデートらしきものが、ここ山下公園でした。
私が日本に戻ってきた翌年28才、カミさんは25才、その頃の写真が残っています。
二人共に若かった。
東京に住む人が、東京タワーに登ったことがないように、私は仕事、現場としては、横浜の新しい顔である、桜木町から広がるみなとみらい地区の建造物に関わってきていても、観光客的な視線ではこの地域を見たことは有りませんでした。
何処の写真の切り口をみても、あの建物、あのタワー、あのビルの地下設備構造が・・・思い起こさせます。あの初めてのデートから46年、今回、春節で賑わう横浜中華街から、山下公園に足を伸ばしました。
まるであの頃の私達二人のようなカップルが港をみています。

この二人が見つめる先の風景のひとつ、ひとつにあのバブル時の思い出があります。
あの当時・・・こんな建物はひとつもなかった。
あの当時というのは、私が20才、この横浜の港から南米アルゼンチンヘ旅立った頃・・・
ここから見える現在の桜木町駅前周辺一帯は三菱造船の工場、ドックでした。
1967年、5月、この埠頭から私は社会人として三井商船の貨客船「ブラジル丸」に乗船し旅立ちました。
この船の半数は、私と同じ年齢で留学や縁者を頼ってアメリカ本土へ向かうの若者や、海外勤務先の父親のもとに向かう母・娘家族などと、その当時の海外移住事業団(現在のJAICA)が募集した、主にブラジルのアマゾンや、ブラジルの内陸部開拓地、パラグアイのイグアス、コルメラ開拓地へ向かう家族と、サンパウロ近郊の日系農場で働く実習生と呼ばれ、二十歳前後若者、多くの若者そして、ほんの10名程度の少数派である、アルゼンチンの首都、ブエノスアイレス近郊の花卉温室農家で実習生として働く若い青年、と数人の進出を始めた日系企業に派遣される青年が乗っていました。
アルゼンチン組は圧倒的少数派でした。
最近、盛んに取り上げられて、注目をあびている言葉があります。
1971年にノーベル経済学賞を受賞した、アメリカの経済学者・統計学者サイモン・グズネッツの言葉です。
「世界には4つの国しかない。先進国と途上国、そして、日本とアルゼンチンである。」
1900年初頭、アルゼンチンは黄金期を迎えていました。
世界を制するのはアメリカかアルゼンチンか。
そう言われるほどの国力を誇っていたのです。
実際、その当時の国民1人あたりのGDPは、およそ2750ドル。
同じ時期の日本は1130ドルでしたから、日本の2倍以上の経済力があったことになります。
この関係が逆転したのは、1967年のこと。
高度経済成長に沸く日本、そして停滞・後退を始めたアルゼンチン。
戦後の混乱から、奇跡的な発展を遂げた日本は、資源がほとんどない小国でありながら先進国の仲間入りを果たしました。
一方アルゼンチンは、豊かな資源がありながら、工業化に失敗し、衰退。
途上国から先進国になった日本と、先進国から途上国になったアルゼンチン。
私はこの年1967の春先に日本からアルゼンチンに向かっていたのです。
私のなかのアルゼンチンは、「母を訪ねて三千里」の児童小説の世界そのものでした。
この小説は、ヨーロッパの田舎と云われていたイタリアから母親が当時裕福だった先進国アルゼンチンへ出稼ぎに行くお話で、ついにアルゼンチン北部の町「トゥクマン」で母に再会するというお話。
船内のブラジルへ向かう若者とアルゼンチンへ向かう若者は明らかに違っていました。
ブラジルに向かう若者は、一旗上げて大農場主になろという、意気軒昂な雰囲気を漂わせていますが、アルゼンチンに向かう若者は、南米の中のヨーロッパ、唯一の絶対的白人国家、美しいブエノスの街に憧れ、温室栽培の花卉園芸で生計をたてて、日本では味わえない西欧的な豊かな生活にあこがれる若者でした。
その後のアルゼンチンの凋落、そしてハイパーインフレ、度重なる債務超過、国家の破産、デフォルトはその当時誰も想像していませんでした。
私の場合、実質5年で日本へ帰って再入学しブエノスに戻る予定でしたが、私の日本滞在中のアルゼンチン経済の破綻で、結局日本に残り、今度は反対に日本のバブル経済期の最盛期に建設業界に在籍していたのが、現在の早期退職のベースを支えているのです。

あの当時の私が出国した大桟橋はすでになく、現在のオール木造デッキの横浜港大さん橋国際客船ターミナルは、2002年(平成14年)にリニューアルオープンしたもので、個性的なデザインと斬新な構造の空間美を持ち、日本を代表する港にふさわしい客船ターミナルとなっています。
10年ほど前に、海外ロングステイを目指す、同世代の友人がこの大桟橋から「ピースボート」で旅たって行くときに初めてこの国際客船ターミナルの木造デッキに立ちました。
あれから10年以上経っててるのに・・・・
この木造デッキは汚れも傷もなく固くしっかりしていました。
自分の家のベランダのデッキとはもちろん素材も厚みも違うのでしょうが・・と帰宅してから調べてみました。
やはり、相当綿密なメンテナンスが行われているようですが、この面積、大きさ、自然環境下、いったい幾らぐらい費用がかかるのてしょう。
画像だけみると、圧倒的に手作業です。少なくとも億単位のお金がきっとかかるのでしょうね、


訪れた1月の最終日曜日、10数年に一度という大寒波が西日本から日本海側、東北に押し寄せているのに、東京首都圏南部の横浜の港公園には陽光が溢れ、多くの若い家族で賑わっていました。

あまり知られてはいませんが、山下公園は、関東大震災のがれきを埋め立てて作られました。1930年(昭和5年)3月に開園した公園です。
海への眺望、記念碑や歌碑など見どころの多い公園で、横浜ベイブリッジや港を行き交う船の眺めがロマンチック。童謡で馴染みの深い「赤い靴はいてた女の子」像や、在日インド人協会から昭和12年に寄贈された「インド水塔」、姉妹都市であるアメリカ・サンディエゴ市寄贈の「水の守護神」など、海外との豊かな交流を感じさせる記念碑が多いことでも有名です。
また、山下公園は横浜のバラの名所でもあり、毎年春と秋の時期には、「未来のバラ園」にたくさんのバラが咲き誇りますが、さすがにこの季節は鮮やかな色を花々はありませんでした。
帰路、少し遠回りして帰ることにします。

ひさしぶりの山下公園ですから、歩行者専用の、ちょと高い位置にある「山下臨港プロムナード」を通って赤レンガ倉庫ショッピングモール経由で桜木町にでることにしました。
桜木町に着いてから、カミさんが山下公園で「赤い靴の少女」の写真を撮るのを忘れてと云い出しました。
確かに、あの童謡で有名な「赤い靴の少女」は二人が出会った頃にみかけた、思い出の場所です。
ではここからも戻ろうか、というと・・・どうしよう、かなり疲れたし、何処かゆっくり座れる喫茶でケーキを食べながら休みたいわね、と云う話しになり、スマホの歩数計をみると今日は結構歩いたつもりでもまだ12,000歩、では元東横線の高架下を歩いて横浜駅まで歩きましょう。
横浜駅のセンター通路にも、「赤い靴の少女」像が、待ち合わせポイントしてあるし、それで代用しよう。
結局、この日は石川町・関内・桜木町・横浜と四駅歩いたことになります。
でも歩いた歩数は2万歩に届かず、翌日の朝の体重計は、0.2K太っていました。
お昼の台湾料理店の魯肉飯(ルーローハン)と、横浜のモンブランケーキセットがかなり効いているようでした。
最近、全く痩せない、お正月から1kg太ってしまっている。
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