
国際電話なら、向こうの通話料も高いので慌て出ると、懐かしいセニョーラの元気のいい声が受話器に伝わってきます。
昨年から、ブエノスアイレスの古い友人は時々、スマホのライン電話で連絡してきますが、やはりネット回線での通話なので、回線の混み具合、特に私の場合なのか向こうの事情なのか分かりませんが、時々途切れたりします。
でも、今日の固定電話ははっきりし、途切れません。
「今日はか、コンバンワかな、今、そっちは何時」
「日本から電話しているのよ、実家の鹿児島」
「どうりではっきり聞こえると思った、電話代高く付くから、こちらからかけ放題のスマホでかけ直すよ」
「こっちも、弟のスマホからかけているから、いらん心配しなくいいよ」
相変わらず、ハキハキ、元気なセニョーラなのです。
彼女は、私のブエノス時代お世話になったAさんのセニョーラ、奥様です。
Aさんは私よりちょうど10才上、お互いの独身時代から知り合い、麻雀仲間でした。
Aさんが独立してクリーニング店を開き、郷里鹿児島の知人の娘さんと結婚して長男が誕生した時も一時、私がセニョーラの病院の付き添い、通訳をするような間柄で、セニョーラも私を実の弟のように思って接してくれました。
私が帰国しても、一年に二回は、大量の文庫本を船便で送り届けていた関係が続きました。
日本のバブル経済期、ブラジルをはじめ、ボリビア、ペルー、パラグアイから日系移住者の子息あるいは、若くして南米に渡った御本人も当時の日本と南米各国の経済格差の為、日本に出稼ぎにくる人が増えました。
アルゼンチンだけは、都市生活者が多かったのか少なかったのですが、Aさんの息子さんが兵役を終えた時、お金を稼ぐのが本来の目的ではないが、この機会に日本で数年間生活を味あわせたい、送り出すが何かあったら世話になるかもしれない、と連絡がありました。
Aさんの息子さんの様子を見ていると、付き合う仲間は南米から出稼ぎに来た日系の若者たち、かれらは、日本の受け入れ先人材派遣会社が用意した小さなアパートですし詰め(タコ部屋)状態の生活をしていました。

息子さんが心配で一時的にやって来たAさんはそれを見て、こんなことを経験させるために、息子を日本にやったのではない、強引に連れ戻そうとするのですが、肝心の息子さんは抵抗します。初めての一人暮らし、日本をまだ十分に満喫していない、が理由でした。
そこで、Aさんは私に、息子を背広・ネクタイのまっとうなサラリーマン生活を体験させてやりたい、なんとかお前の会社で経験させてやれないかと、相談にきました。
ちょうど、建設業界はバブル真っ盛り、日本語もスペイン語もOK、本人の父親の素性も私経由でわかっていますので、とりあえず三年間お預かりしましょう。と会社の独身寮に入れて、週に一日は会社でデスクワーク、パソコン、キャドを覚えてもらい、後4,5日は現場に出てもらうようにしました。
お給料については正社員と同じ、しかし、Aさんからお願いで半分以上は天引きして、息子さん名義のドル預金口座に振込、通帳・印鑑は私が預かりました。
結果的にはこれが彼自身の為に良かったと思います。仕事は真面目にやりますが友人関係は現場で知り合った、ボリビア・パラグアイの二世と沖縄からの出稼ぎ目的の同年代の若者たちでした。
3年経過して、Aさんが迎えにきました。
Aさんが同じ市内に息子の為にクリーニングの支店を出す予定があったのです。
ちょうどドル安・円高の時期でしたので、3年間で5万ドルちかくの残高がありました。
かれが帰国して6年後、Aさんは大腸がんで現地ブエノスで亡くなりました。69才でした。
その後、私とカミさんは2010年に二人でAさんのお墓参りにアルゼンチンに飛びました。
息子さんは結婚して、子供を持つ父親になっていました。
その後、Aさんのセニョーラは二度、鹿児島の実家にくる用事で来日していたのですが、実家の鹿児島で過ごすのが目的ですから、帰路の東京での時間が少なく、これまで会っていません。
セニョーラのほうも、わざわざ遠い成田空港まで来てもらうのを申し訳ないと思っていたようですが、今回は、羽田空港と、湘南に近いのではとの理由で電話してきたのです。
「セニョーラ幾つになった、Aさんは僕よりちょうど10才うえだから生きていれば82才、すると82才?」
「よく覚えているわね、そうよ、おばあさんになったよ」
「よく一人で、遠いところから乗り換え、乗り換えで30時間ぐらいかけて、これたね、今回は何の用事」
「弟が心筋梗塞で突然死、68才、これで兄弟みんなしんじゃった、私、一人よ」
「弟さん夫婦、たしかお子さんいなかったけ」
「そうよ、あんたと同じよ」
「いつ帰るの?ゆっくりしてったら」
「弟の嫁さんにも悪いし、みんないなくなっちゃったから、さっさブエノスに帰るわ」
「じゃあ、冥土の土産として、羽田まで会いに行くよ」
「あたしゃ、これが最後と思っていないからね、またすぐ来るよ」
確かに、それはあり得る、元気なセニョーラなんです。彼女は
帰国便のスケヂュールは

鹿児島頴娃町の自宅発11:00→13:00鹿児島空港(実家の車・高速バス) 2時間
ANA626 鹿児島空港(KOJ)14:25→羽田第二ターミナる(HND)16:00 1時間35分
国際線へ乗り換え 第三ターミナルに移動
乗り換え時間 3時間
DL296便19:20→アトランタ(ATL):同日17:40着 フライト時間12時間20分
乗り換え3時間10分
アトランタ発20:50→ブエノス(EZE)翌日09:00着 フライト時間10時間10分
空港から市内の自宅まで家族の車て 1時間
鹿児島の実家からブエノスの家まで帰宅実質所要時間 31時間の移動となる、超ロングジャニーです。
国際線ターミナル3は完成直後2011年に来て以来初めてです。
セニョーラを第二ターミナル出口で出迎え、第3ターミナルの出発ゲートまでエスコートするために、一人若干早く来て、ターミナル間の移動方法や
レストラン・お土産物屋さんの下見をすることにしました。
各ターミナル間の移動手段は

第1ターミナル(主にJAL)からモノレールで第3ターミナルへは
モノレール 200円 京急 140円
無料シャトル 0円 8番乗り場 5分置き 行き先の確認必須
第2ターミナル(主にANA)からモノレールで第3ターミナルへは
モノレール 200円 京急 140円
無料シャトル 0円 9番乗り場 5分置き
第3国際線ターミナルから、第1・第2ターミナルへは
無料シャトル 0円 1階0番乗り場
こらんのようにターミナル間の移動は無料シャトル便が一番安く無料、5分置きにパスは出ています。
帰国前日、セニョーラから再び電話がありました。

「別に無理していくんじゃなくて、暇だし、久しぶりの第三ターミナルだし、セニョーラに会うのがこれが最後かもしれないから行くよ、それに、手配したって何を手配したの?」
「云うのは忘れていたけど、私入国する時、空港職員が車いすを持っては来てくれて、私も荷物も一緒に、第二ターミナルのANAのゲートまで運んでくれたのよ」
「ええー、セニョーラ足が悪いの?、あるけないの?」
「バカにすんな、歩けるに決まっているでしょ、でもエセイサ(ブエノスの国際空港)でデルタに乗る時に優先登場に手を上げたらさ、乗り換えのアトランタで空港職員のお兄ちゃんが車椅子に乗せてくれて、私の荷物とともに乗り換えの羽田行きのチェックインゲートまで連れてってくれたのよ。そしたら羽田でも、お兄ちゃんが車いす持って来て、国内線のゲートまで運んでくれたんで、歩けますとも云えなかったから、鹿児島まで超楽ちんだったのよ」
「なんて、ばあさんなんだよ、それで帰りもその手を使うのかよ」
「きっと、日本のANAもアメリカのDeltaにも情報が上がっているハズだから、今回もエセイサまで手ぶら、王女様気分よ」
「まあ、一応、ANAの国内線到着ロビーで待っているよ、どんな顔して車いすに乗るか、ビデオ撮影するからね」
国内線ターミナル2から、大きな荷物2つを持って現れました。

早速私が引き継いで、国際線第三ターミナルに向かいます。
「何処へ行くのる時はモノレールで来たけど」と云います
「モノレールは有料で200円もするし、駅からターミナル構内まで歩くし、第一このシャトルは無料、ただ」
「そっか、あんた達は旅慣れているもんね」
「いいや、セニョーラと違って、貧乏人だから」
無料シャトルは空港の外周一般道路を走って、第三ターミナル一階に横付けです。
デルタのアトランタ便まで3時間と少し、余裕はありそうですが、この大きな荷物を持ったままでは困るのですぐにデルタのカウンターに行くと、長蛇の列です。
このセニョーラは、こんな時上手く立ち回ります、さも年老いた老婆を装い、私が引っ張って来たスーツケースを自分で一つ持って、デルタ空港職員のもとに行ってなにやらお願いしているようです。
私は、海外旅行を卒業してほぼ10年になりますが、今のチェクインは全てモニター相手のみの様子です。
特に米国デルタのアトランタ便は、コロナ解禁とは云え、いろいろな書類のコピー、もちろんESTAも必要です。
かのセニョーラは、スペイン語も日本語も解るのに、何も分からない、無知さを演出するすべをご存知のように、下で出て、何もせずにこの場を切り抜けていきました。
無事に、ボーディングパスをて手に入れ、大きなスーツケースを預け終わると、空港職員は、日本の出国セキュリテイがかなり混んでいるので、少なくとも2時間前には出国して下さい。というの聞いても無視して、「さあ、休憩、ゆっくりお茶でもしよう、このターミナル初めてだから、ブラブラしよう」と云います。
3階出発階の上4階が飲食店、お土産コーナー




ここで初めて、ゆっくりと話しをすることが出来ました。
お互いのスマホのアドレスを交換し、セニョーラは、帰ってから息子さんにラインの設定をしてもらい、これからゆっくりと話せるね、と上機嫌で帰っていきました。
「また来るね、二年後、ちゃんと元気でいてね・・・」と言い残して
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