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2023年05月28日

定年クライシス 退職した夫の居場所はどこに


妻は云った「週三日は外に出て」と
朝日新聞の定期的なコラム「リライフ人生充実」を見ていて、20年前を思い出しています。
そっか、コロナパンデミックも何かしらの壁を超えて、新しく65才定年退職の船出にのりだした方々もきっと多いのでしょう。
もう、私達団塊世代は、退職者世代の代表格でも、戦後日本経済の立役者でも、トレンドでもなく、ただ単なる高齢者の一角に過ぎない存在となっていってるのでだと、最近感じ始めています。

退職後の男性の居場所探しは何世代前からのテーマです。
退職前から「一年ぐらい、ゆっくりしたい、自分探しの旅にでも出たい・・・」と思っていても実際に退職した翌日からづっと家にいる夫は長年連れ添った妻からみれば、

口答えする厄介者」
「掃除に邪魔な大きな荷物」
「食事の世話をしなくていけない生き物」
「自分の生活圏への無断侵入者」
「金食い虫」

と写っている可能性は十分にあります。
実際に、退職後の男性から「週に三日は外に出て、家にいないで」と云われたいう話は沢山聞いたことがあります。

現実問題として一番厄介なのが夫の昼ごはん
というのが、カミサンが通う「カーブス」の鎌倉婦人仲間の話です。
専業主婦のお昼は、自身一人きりなら、前夜の残り物やパンやインスタント、冷凍食で済まされるのに、夫は、妻のスポーツ通いから戻って来るのを待っていると云うのです。
それも何もしないで、せめて台所の洗い物、後片付けでもしておはぱ良いものの、そのまま、夫は妻が出ていった時そのままの位置に座ったテレビを見ていた・・・という話はいくらでもあります。
そして団塊世代の夫の現役時代のお昼は、一ヶ月の小遣いのなかでやりくりしていたのに、退職後の小遣いの減額を拒む夫のせいで、二人分のお昼代と家計費も増えていくのです。
妻から見て最低限の解決策は

■夫は自分のお昼は自分で作るor従来どおり自分の小遣いの範囲で調達する。
■台所の洗い物は、積極的に手伝う。
■自分用のカレンダーに、外出する日を明記する。
 というものです。

夫の言い分「外出するって何処へ、どうやって過ごせば良いの」
これまでの私の退職20年間の経験から
■図書館、大型書店、家電量販店巡り
■散歩・・近所に大型公園がない場合、グーグルマップで川沿いなど自然あふれる道を探す
     神社、仏閣など有料の所は日課から敬遠する。
■映画館 月に二度程度ならシニア料金でそんなにお金はかからない
■電車各駅停車に乗って、知らない駅で降りてみる 予め予算を決めて置く
■パチンコ・麻雀など、少額でもお金がかかる遊びはしない
■車、ドライブ 家計費に負担かからないように、ガゾリン代は自己負担とする。
■何らかの週一程度のスポーツをする
 長く続く、あまり体力に負担がかからないようなスポーツが良い
 初心者とベテランに大きな壁があるスポーツは避ける
 道具や、ウェアにお金がかからないスポーツ
 身ひとつで出来るスポーツ
 【例】硬式テニスは二年で頓挫、テニスコートまでの足がなかった
    卓球は半年でやめ、かなりハードなゲームであり、経験の差が大きい
    バドミントンは長く続いたが、経験者、ベテランの途中入会で、楽しみのクラブから
    大会参加、上達を目指すクラブに変遷したので辞めた
    ストレッチは、講師役への謝礼、駐車代などが負担になったのと、ただ体を動かす
    のみでつまらなくなった辞めた。
    現在まで続いているのは、屋内、スポンジテニスのみ 下記参考url
    鎌倉・大船ラケットテニス

■原則退職後夫婦の家計費に負担をかけないようにする。
退職者世代夫婦の退職後の過ごし方について、色々意見、実際のお話などがありますが、基本となるのは「お金・余裕・財産」にたどり着くのです。
朝日新聞の記事に登場した方の話があった。
引用すると

関西出身、大学を卒業後、機械メーカーに勤務
20代で結婚、娘が二人。
長い会社員生活で今暮らす街をよく知らない
退職前は県外での単身赴任が10年以上続いた。
思えば、単身生活の間に妻のことがわからなくなっていたのかも知れない。
退職後、テレビを見ようと声をかけたら、「好みが違う」と断られた。
今後の暮らしについて話した時、妻は云った「私の年金は私が全部管理する」と。
今でも、日頃の生活費は私一人の年金で賄っている。


どんなに綺麗事を並べとしても、生きて行かねばならぬのです。
最低限、退職前から夫婦二人でお金に関することは、腹を割って話し、決めて、いつでも解るようにデータを共用しておかないと、夫より長生きする女性、妻は不安になるものです。
その為に定年退職した男性はどう生きるか、過ごすかについて諸先輩方が色々書いています。

定年後の退屈地獄を回避するおすすめの過ごし方ランキングTOP5
 1,新しい仕事を始める
 2,旅行する
 3,趣味を楽しむ
 4,スポーツを始める
 5,ボランティア活動に参加する
 
定年退職後にやってはいけない「こと」TOP5は
 1,家から出ない
 2,社会との関わりを断つ
 3,年金だけに頼る
 4,資産運用にのめり込む
 5,運動をしすぎる

これらに関して色々な官公庁データ調査があります。


 


長寿日本一の自治体は川崎?
健康でいたい、長生きはしなくてもせめて平均余命は全うしたい、家族に負担をかけたくない、そんな生き方をするには、お金ではなく社会との繋がり、人と人との繋がり、最終的には家族との繋がりが一番大切であると、数百年前から変わらぬことを伝えているのてす。

同じ日の朝刊社会一面にご長寿日本一は男女とも「川崎市麻生区」秘訣は坂道?
記事の要約は、長寿の地域の住まいの特徴は
・持ち家率が高く、庭も広い戸建て
・農地、山林も多く自然環境が豊か
・市などのスポーツ、文化関係の施設が多い
・坂道が多く足腰が鍛えられる
・地域医療を賄う大病院(聖マリ大病院)がある
・・・と記事は平均寿命、平均余命の長さと住まい環境について触れていますが、反対に最下位は男女ともに大阪府西成区であると述べています。
下位には、青森県むつ市、六ケ所村も連なっており、同じ神奈川でも、日雇い労働者が多かった寿町がある横浜市中区も下位でした。

記事は「医療・所得・食生活・人と人の繋がり」が、平均寿命、平均余命に大きく影響していると結んでいました。
健康、寿命、生きがいは、所得と関わり合いが全くないとは言えない・・・
というデータだと読みました。


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2023年05月26日

旅の三日目、越中八尾と雨晴海岸 

最終日 旅のハイライト越中八尾と雨晴海岸へ


おわら風の盆の越中八尾(やつお)へ
この富山県山間部の小さな町の夏の夜の盆踊りが広く知られるようになったのは、直木賞受賞作家高橋理の長編恋愛小説「風の盆恋歌」からです。
ストリーは越中おわらの祭の夜に、死の予感にふるえつつ忍び逢う一組の男女。
互いに心を通わせながら、離ればなれに20年の歳月を生きた男と女がたどる、あやうい恋の旅路を、金沢、パリ、八尾、白峰を舞台に美しく描き出しています。
まさに、富山を代表する名作、そしてロマンチックな血を持つ、中年男性に圧倒的に支持され、定年後のいつかは、絶対に訪れてみたい場所、お祭りの代表格となっています。
私自身もいつかは、この富山の里にくることを願い続けてきて、やっと後期高齢者となり実現しました。

おはら風の盆の町、八尾への行き方
東北新幹線が出来て東京からは近くなりました。
しかし、お祭りの時は圧倒的に宿の確保が難しく不便なのは云うまでもありませんが、シーズン以外の今回とて、個人旅行者、車が運転出来ない(免許返納者)にとって
かなり大変です。
公共交通機関、列車の最寄り駅は富山・高山線「越中八尾」です。
富山駅から32分、330円。何!そんなに遠くなく、近いじゃないのと、都会の交通環境に恵まれた人たちは思うかも思われるかも知れませんが・・・
富山・越中八尾間の高山線は朝06:00の始発から最終の23:23まで、朝夕を除くと一時間に一本程度、一日24本、そのうち特急が4本です。
特急ですと16分、自由席で1,090円です。
越中八尾駅から町のお祭りが行われる中心部までは、ほぼ2kmの登り道、徒歩30分です。

越中八尾駅からはコミユニテイバスが運行しています。
八尾環状線、右回り、左回りで12から15分、平日9時から15時まで7本 200円です。
富山市コミュニティバス八尾環状線

一方、富山市内中心から、八尾鏡町まで直通バスが出ています。
〔富山地方鉄道〕(23熊野経由八尾線 八尾鏡町方面)の路線バス時刻表
富山地方鉄道バス [23]熊野経由八尾線 53分 770円です。
一番高く、時間もかかりますが、富山駅・市役所前など中心部から直接、おわら資料館前まで座ったままいけすし、一時間に一本確実に通っていますので、「路線バスの旅」ファンにはお勧めです。

おはら風の盆資料館

八尾の町が賑わうのは、5月3日の曳山まつりと、9月1,2,3日三日間おこなわれる「おはら風の盆」の年に二回です。
その他の日は静かな越中の田舎町です。
私達が訪れてのはGWあけの平日、富山からのバスは私たちだけでした。
この資料館の入り口に、今年の9月のお祭りに備えての「温習会」の案内がでていいました。
各町内会毎に、踊りの振り付けが微妙に違っているとのお話でした。

ある時期になると実際の踊り手によるパフォーマンスが見れ、手ほどきが受けられるツァーも行われているようで、詳しくは観光協会のサイトで申し込めるようでが、私達はこの資料館内での説明ビデオで十分でした。
というのも、この富山、越中八尾の「おはら風の盆」は8年前、地元藤沢で行われた日本各地の盆踊りを当地に招待した時に、秋田羽後町の西馬音内盆踊り、郡上八幡の盆踊りと合わせて、初めてこの「おはら風の盆」を見たからです。
この時の動画をユーチューブにアップしてあります。
2015 7 藤沢宿 富山越中・おわら(風の盆)
秋田西馬音内、高円寺阿波おどり、越中富山おはら風の盆、郡上八幡盆踊りと4つを7分の動画にまとめてあります。

 


 


今回の旅の最大のハイライト 雨晴海岸へ


白い雪を頂いた、遠くの大きな山は、神々しくも見え、信仰の対象となるのは理解出来ます。
これは何も日本の富士山に限ったことだけでなく、世界各地の高い、大きな山も人々に畏敬の念を与え、信仰の古代原始宗教の信仰の対象となっています。
そして現代でも、松本や長野市郊外から北アルプスが大きなビル群の先に、白きたおやかな峰が見えると、世界の都市を旅してきたことを思い出しています。
南米ボリビアの首都ラパスから見上げる6,000m級のアンデスの峰、イランの首都テヘランから見える白い峰々「イラン・アルボルズ山脈」を。
今回の旅で、新幹線の車窓ゃ都内のホテル、市役所展望台からいろいろな立山連峰の雪山をみました。


最終日のこの日は、念願だった富山湾越しの立山連峰といえば、上記の画像、義経岩をバックにした、冬の気温を感じさせるような映像は季節、
撮れないのは解っていましたが、新幹線や富山市内から見えた山の風景と富山湾のコラボ的な絵が撮れれば念願が叶うと思い、三日間の日程は毎日の天気、空模様
を見て、太陽の高さまで調べて時間調整して、やってきました。

最寄り駅は高岡からの氷見線雨晴(あまはらし)駅です。
三日間のなかで一番お天気の良い日を選んで、11時過ぎに駅に到着しました。
降りた乗客は結構いました。日本人は私達の他に2組、他はアジア系の観光客が3組ほど、この駅に下車しました。
小さな駅で氷見線としては、特別扱いの委託駅員さんのいる駅でした。
その大きな理由は、この駅、電子系交通カード非対応の駅なのです。
スイカはもちろんダメ、ここはJR西日本管轄なのにICOCAも非対応なのです。
海外からの観光客は、新幹線はジャパン・レール・パスを使い、在来線も全て、スイカなどを使って日本中を旅しているので切符を買うという習慣がなく、入場してくるのてす。
京都、大阪、東京、横浜、札幌といった大都市だって、ちょっと郊外に行くと未対応の駅があるのを知っている私達は、怪しいと思うと駅員に確認していますが、当然ながら外国人観光客はそれが出来ません。
それ故に或る時期だけ、有人駅になるのです。

晴れているのに、立山連峰はうっすらとしか見えません。
駅にいた、委託NPOボラの男性駅員に聞くと、ノートを持ってきました。
毎日の天候、温度、湿度、そして立山連峰の見え具合を記録しているそうで、一昨日はまあまあ、昨日が一番良かった、と言います。
「昨日、高岡にいたけど、一時期小雨で、午後から晴天になったけど」
湿度とか、風向きとか、ともかく空気が澄んでいないと、今日のように晴れていても、湿度が高いと綺麗に見えないと云います。
確かに、私達湘南に住んでいると、いつも江ノ島の先に富士山が見えるとは限らないことを承知していますが、それと同じで・・でも
おそらく3時過ぎには、綺麗な青空になり、気温も落ちついて、真冬のような景色は無理でもまあまあ撮れると、おっしゃいました。が
私達は15時10分富山発の新幹線で帰らなくてはいけないんです。
こんな時、つくづく、車の免許がないのが残念に思われるのです。

雨晴駅の踏切はプチ江ノ電鎌高前状態
 

ここ、雨晴の名前の由来は
源義経が兄頼朝から追われて、北陸から奥州へ向かう途中、ここ(大田という地名)を通った時、にわか雨が降ったので、弁慶が岩を(のちの義経岩)持ち上げて、雨が晴れるのを待ったという“いい伝え”があります。その伝説から、氷見線の駅名として【雨晴】と名づけられたと言われています
“いい伝え”からつけられた【雨晴】という地名を駅名(本来なら太田駅)に使われているのも全国的に珍しいと言われています。
氷見線の線路は海岸線と平行に走っており、海岸側にある「義経社」との間の踏切は、私の地元江ノ電の「鎌倉高校前」踏切がアニメスラムダンクで有名になり、マニアの聖地化しているように、氷見線の赤い電車がやって来るたびに(2時間に一本程度)プチ鎌高前状態となっています。

道の駅「雨晴」が出来て便利になった
 

氷見線の電車は上り高岡方面へは1時間に一本程度しかありません。
日中の時間帯、高岡から電車でくると、帰りの電車まで25分、また次の電車を待ち1時間50分の2つの選択しかないのです。
つまり、どんな天気で雨晴駅で降りても、滞在時間は25分or1時間50分の2つの選択しかなく、この道の駅が出来るまがでは、雨風が強い日でも時間待ちするうな場所、喫茶店、お土産物屋、食堂がなかったのですが、平成27年に新幹線が開通し、その3年後平成30年にこの道の駅「雨晴」が出来て、ドライブ客や私達のような首都圏からシニア鉄道客が一気に増えたとそうです。

私達が駅に降り立ってから、富山湾方面を凝視しても、天気は変わらずここでお昼にすることにしましたが、メニューは簡単なうどん的なものとかパスタ、コロッケ的なものしかなく、ここまで三日間、富山らしい食事をしていなかったのに、残念と、最後の富山らしい、氷見らしいものをと、食べようと、事前に調べておきました。
 ■紅ズワイガニと甘エビのトマトクリームパスタ(サラダ付) 1,080円
 ■射水産サクラマスとブロッコリーのペペロンチーノ(サラダ付) 1,080円
 ■とやまポークとチキンのピザ 1,200円
 ■高岡産たまごのトロトロオムシーフードカレー 1,200円
 ■氷見牛ハンバーグ(ライス・サラダ付) 1,380円
とあったのですが、この日はすべてやってませんでした。
結局、富山旅行の最後のランチ「白エビシーフード肉まん」でした。

さて富山は終わり、次のターゲットは
来年4月に北陸新幹線は現在の金沢から、福井・敦賀までの延長開通する予定で、やっと念願の県庁所在都市に二泊してその県の名所を回りたいの、残された一つがクリア出来ることになります。
ではもうひとつとは、「佐賀」です。
佐賀は昔通り越しただけ、何があるのだろう
遠くてお金がかかりそう、飛行機?、それとも新幹線?

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2023年05月24日

富山の旅二部 富山県高岡、砺波観光

富山市内を起点としての二泊三日の旅の2日目、高岡、砺波へ


路面電車の走る街 高岡
富山県第二の都市は高岡です。
富山県には人口10万を超える都市は、県庁所在市の富山市と、ここ高山の2つの都市しかありません。
と云っても富山市の人口は全国52位の41万、高岡2位といっても16万の都市です。
富山から新幹線線開通後民営化した「あいの風とやま鉄道」で20分、390円の距離です。
高岡に新幹線が通るようになりましたが、郊外の「新高岡」という駅名で、現在まちの中心は昔ながら「高岡」です。
そして、驚いたことに。この16万都市に、路面電車「万葉線」が走っていたことです。
あいの風とやま鉄道「高岡駅」から富山湾に面した射水市の「越し潟」の間、50分と市電としてはかなり距離を走っています。
日本のベニスと云われる美しい港町「内川」は川の両岸に漁船が連なって繋留されている風景は、どこか懐かしく、日本のベニスといわれており、
近年映画のロケ地としても注目されているようですが、今回は路面電車の撮影だけにしました。

高岡はドラえもんの生まれた街
 

高岡市は、『ドラえもん』の作者・藤子・F・不二雄氏の故郷です。
駅構内の郵便局には、トラえもんポストがあり、駅前の画像の「ドラえもんの散歩道」と名付けられたこの広場では、12体のキャラクター銅像たちが高岡を訪れた人々を出迎えています。
そして、万葉線にのって乗り約8分、志貴野中学校前電停で下車すると、高岡市美術館があり、その内部に藤子・F・不二雄ふるさとギャラリーがあり、「どこでもドア」になっているギャラリーの入り口、そこをくぐると、藤子・F・不二雄がまんが家として残した軌跡の数々が展示されているコンパクトな空間が広がっています。
万葉線の電車や、国宝瑞龍寺の送迎バスにもドラえもんが登場する、ドラえもんファンの聖地となっている高岡です。

日本三大大仏のある街
日本三大大仏は「奈良」「鎌倉」はすんなりと思い浮かべます。
大仏ではなく、観音様なら、各地に大きな観音像は、高崎・大船・牛久・会津・久留米など思い浮かべられますが、大仏となると考えてしまいます。
では三番目の大仏は何処と検索すると、近畿ツーリストのページに候補は2つ、
神戸市能福寺にある「兵庫大仏」と岐阜市正法寺にある「岐阜大仏」とありました。
また別のサイトページでは、3番目の大仏は京都「方広寺」とありますが、昭和48年に焼失したので、あるいは東京板橋の「乗蓮寺」東京大仏、または富山高岡の「大仏寺」とありました。
大きさで云うと・・
像高15.85mとあり、確かに鎌倉の像高11.39mより4mも大きく、奈良の像高14.98mより約1m高いのですが・・・奈良の場合、屋内大仏殿にある為、見た目はとても大きく感じます。
鎌倉の場合、緑の背景のなかの露座ですが、与謝野晶子が「美男におわす」と詠ったように、目線が参拝者に向いておりとても美しい仏様です。
では、高岡の場合はどうか、像高15.85mプラス台座で、まっすぐ前方を見つめているのず、参拝客との目線が合わないのと、周りが一般の住宅街なので、雰囲気は今三なのが残念でした。

しかし、私達行った時、駐車場には2台の大型観光バスが停車しており、降りてきたのは、タイから観光客でした。
日本語の達者なタイ人ツァーガイドに聞くと、今回の日本ツアーの目玉は、黒部の「雪の大谷」で、今日は時間調整の都合できているが、同じ仏教国のタイ人は仏様のいないお寺には興味ないが、観音様や大仏のあるお寺が大好きで、評判がいいと云います。
私が鎌倉・大船から来たのを知ると、長谷の大仏より、大船の観音様のほうが、圧倒的にアジアの観光客に人気だと話していました。
確かに、お正月や連休には、大船観音は日本で留学・バイト・働いててるであろう、ラオス・カンボジア・ミャンマーらしき若者で一杯でした。

千本格子の家並み金屋町
高岡大仏の次は、大仏から近い、高岡城跡公園へまわります。
富山市にもお城はありますが、富山県のお城というと加賀前田家2代・前田利長の隠居城として築かれた高岡のほうが有名ですが、天守閣はなく石垣のみが残っていました。
ここから、土蔵造りの山町筋をぬけて、金町筋へ向かいます。
富山はほぼ関西文化圏に属しているようで、通りとか界隈を関西弁の「筋(すじ)」と呼ばれています。
土蔵造りの町並みというパンフの説明の山町筋は、関東の「川越」を見慣れてる関東人からすると、カメラを向けるほどのものでもなく、赤レンガづくりの洋館の建物も素通りで、千本格子の家並みが残る金屋町へ向かいました。
高岡駅構内にある観光案内所でいただいた、観光マップは駅を中心にした半径500m,1km,1.5kmと表示されており、歩き易かったです。

金町とはどんな所(パンフより)
歴史と文化の香りが漂う町並みが観光客に人気の高岡市のなかでも最も古い町、金屋町は、2012年に鋳物師町として全国で初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
1609年、加賀藩の藩主、前田利長が開町まもない城下町高岡の繁栄策として、領内から7名の鋳物師を金屋町に呼び寄せ、鋳物場を開設。
この地に鋳物産業が根付き、高岡鋳物発祥の地となり、高岡銅器産業の中心として大いに栄えました。
今も細やかな千本格子造りの家々が軒を連ね、およそ500mにわたって続く石畳の道と見事に調和して、美しいたたずまいを見せています。
石畳のところどころに散りばめられたハートや星型の銅片を見つけながら町を散策するのもおすすめです。
また、鋳物の製作体験ができる工房や錫アクセサリー作りが体験できるお店もあり、高岡の伝統工芸を直に味わうことができます。
旅の思い出に自分だけの作品を作ってみてはいかが?・・・・
「ううーーん、確かに千本格子の家並みたけど・・・・全国何処にでもあるような雰囲気の町並み、私達は観光ズレしているのかな」
写真を一枚撮って、次の目的、駅の南側を目指して歩きました。
ここはマップによると、駅からの距離は直線で1.2キロ圏内、歩いて15分、楽勝歩きです。

国宝瑞龍寺
富山県にある国宝は2つです。
瑞龍寺と勝興寺、何れも高岡市にあります。
勝興寺は、浄土真宗のお寺でこのうち「本堂」は、江戸時代後期の1975年に京都の西本願寺阿弥陀堂を模して建立され、
浄土真宗の大型本堂として破格の規模と質を誇り歴史的価値が高いと評価されたもので、越中・越前の一向宗庶民の集うシンボル的お寺です。
一方の瑞龍寺は、高岡の開祖、加賀前田家2代当主前田利長の菩提寺で、領主のお寺です。
勝興寺は高岡市内ではなく氷見線伏木駅と離れているので、この日はパスして瑞龍寺へ行きます。
瑞龍寺については、数年前のNHK特集をみて、何時かは行きたい国宝としてメモしていた場所です。
高岡駅から南へ1km圏の徒歩圏内です。
瑞龍寺の国宝指定は入り口の仁王像のある山門となかの法堂ですが、このお寺の美しさは山門と法堂を囲むようにロの字に囲まれた回廊の美しさです。
あまり歴史ものや、お寺が好きでないない「カミさん」が今回の旅で一番気に入ったと称したのが、このお寺さんでした。

高岡から次の目的地砺波へ
高岡で軽い食事をして、城端(じょうはな)線で次の目的地砺波(となみ)に向います。
一般的に、地方の旅にでたらその地の名物などを食べるのが、旅のひとつの楽しみでしょうが、私達二人はあまり食べ物、名物には拘りません。
富山にきたら、「とやま寿司」「富山湾白エビ」「鱒寿司」「富山ブラックラーメン」でしょうが、「海鮮」類は旅先ではなるべく食べないようにしています。
今年、2度お寿司・・・特にエビ・イカが原因と思われる大下痢を経験しているのと、富山寿司は、私達の食事予算を大幅にオーバーしているからです。
高岡駅前ビル内にある、「富山ブラックラーメン」を事前にチェックしておいたので行くと、改装工事中でお休みです。

交通系ICカードは使えない
近くのお店を探しましたが、次の砺波に向かう電車は一時間に一本しかないので、駅のコンピニおにぎりで、富山らしいものを駅待合室で食べて、慌てホームに向かい、スイカでタッチし入場しようとすると、駅員さんに呼び止められ、「どちらへ行かれますか」と聞かれました。
「砺波」と答えると、砺波では交通系電子カードはスイカに限らず使えませんと云われました。
富山で使えるの「富山」「高岡」「新高岡」「宇奈月黒部」でしか使えないと云うのです。
では、明日向かう予定の「雨晴」はと聞くと、「基本無人駅ですから、切符を購入して行って下さい」と言われ、タッチして入ったスイカをクリアして再び入場して、砺波に向かいました。

チューリップの街 砺波

富山のチューリップは有名で、ここ砺波が最大の球根の産地です。
私達が訪れた5月15日は、ちょうど一週間前まで開かれていた、一年に一度の大チューリップフェスティバルが終わった後でした。
事前に砺波観光協会にフェスティバルが終わった後でも、チューリップが見れるか確認したところ、「チューリップ四季彩館」で常時展示しているとの返事でやってまいりました。
でも、室内展示のチューリップをわざわざ砺波までくる必要はなく、関東の大きな公園、特にネモフィラで有名なひたち海浜公園では、広大な森の中で綺麗なチューリップの群生が見られましたのです。

もうひとつの撮影目的は「五連水車」です。
 

もともと、広大なチューリップ公園はすでに花がないのは解っており、期待していたのは、ここにある灌漑用の五連水車でした。
日本の水車と美しい水のある風景は、外国人観光客の間で大人気でよく使われているのは、安曇野の大王わさび園の水車の映像や、富士山麓の忍野八海の水車ですが私的には、知っている限りはここの五連の水車がNO1だと思います。もっと日本中には沢山あるでしょうが・・・
特に、動画撮影の場合この水の流れと音がはいるので気に入っています。

次回のブログで、旅の三日目、今回の大メインの、風の盆の「越中八尾」と富山湾越しに見る立山連峰の「雨晴海岸」の旅ドキュメントを掲載します。

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2023年05月22日

富山の旅一部 富山市内観光

東京から長野・富山間は急激に近くなった。
北陸新幹線は平成9年(1997)に長野オリンピック(1998)に合わせて高崎・長野間が開業し、その後平成27年3月(2015)には長野・金沢間が開業しました。
その年の秋、新幹線に乗って金沢を中心に二泊三日の旅行にでかけたのを思い出しています。
信州信濃・善光寺の境内商店街で生まれ育った私にとって,東京イコール上野駅は、煙を吐くSLに乗り6〜8時間かかる遠い場所。
軽井沢からの碓氷峠のトンネルを通過する時はすべての窓を閉めないと、客室内が真っ黒になり、それが面白くて顔を出したりしたものです。
やがて、汽車が関東平野、高崎に入ると日の陽射しも、匂いも違い、東京が近づいてくるのを感じる瞬間だったのです。
海外から帰ってきて、結婚し、東京人として暮らし、お正月に帰省する時はまだ、上野駅は新聞紙を敷いて次の列車を待つのは風景は当たり前の時代でした。
上野駅から実家の長野市まで、SLはなくなり、電化されたとしても、碓氷峠は存在するので上野・長野間は4時間以上、あるいはもっとかかっていたかもしれません。
それが、長野オリンピック(1998)以降の新幹線「あさま」から北陸新幹線「かがやき」に代わり、最短82分となったのです。
たったの1時間22分です
それまで、関東に住む人間にとって、東京から北陸の金沢・福井方面に行くルートと時間・お金は悩みのタネでした。
福井、敦賀に行くのに、東海道新幹線米原で乗り換えて、JR西日本の特急「しらさぎ」に乗るか、京都まで行って「サンダーバード」に乗るか迷ったものですが、来年4月からは、文句なく東京から北陸新幹線で金沢・福井・敦賀に大勢の旅行客、ビジネス客が行くことになるでしょう。
今回の目的地富山までたったの2時間8分です。
長野から富山までたったの41分で着いてしまうのです。
最終的な自宅最寄り駅(大船)から富山までの所要時間、乗り換え含んで3時間3分でした。

富山市内を起点としての二泊三日の旅は

■富山市内観光
■越中八尾 「おわら風の盆」の地
■富山の古都 「高岡」
■チュリップの「砺波」
■富山湾越しの雪の立山連邦名所「雨晴」
以上を公共交通機関のみで、ゆっくりまわる計画をたてました。

一日目 富山市内観光
路面電車の走る街が好き
一日目の午前09:28富山到着。時間はたっぷりあります。
今回の宿、富山マンテンホテルは路面電車で駅から3つ目の電停ですから、歩いても5分〜7分程度の駅チカです。
電車代210円は、貧乏旅の私には勿体ないのは確かですがスーツケースもあり、着いてそうそう、カミさん愚痴られもしたくない以上に、路面電車が好き、路面電車の走る街が好きな上、富山地方鉄には全国でも最古かもしれない、レトロもようの電車が現役で走っているのです。
3月に行きました広島の街でも見かけました、そして私の地元「江ノ電」でも、広島でも見かける、レトロな昭和の色彩の電車が現役で、目の前にいるのですから、乗り鉄としては、たった3電停、4分といえども乗車して、ホテルに向かいました。

富山市ガラス美術館・図書館
私達二人は、実はあまり美術館・博物館に興味が薄いうえ、入場料が必要とする場所は一度、考え直すといった文化・芸術に疎い、性格の二人なのですが、この富山ガラス博物館は、入場料を払ってでも入るべき価値のある施設なのです。
富山市ガラス美術館は、富山市が約30年にわたり進めてきた「ガラスの街とやま」を目指したまちづくりの集大成とも言える施設で、複合施設「TOYAMAキラリ」内にあり、泊まっているホテルから徒歩10分ほどの、富山一の繁華街(?)にあます。
ここを目指したのは、ガラス芸術品ではなく、建物そのものを見たかったからです。
今や、日本を代表する建築家、新国立スタジアムの隈研吾氏が設計を手掛けたもので、御影石、ガラス、アルミの異なる素材を組み合わせ、表情豊かな立山連峰を彷彿とさせる外観と内部は富山県産材のルーバー(羽板)を活用した温もりのある開放的な空間となっており、被写体として絶好の素材、建物で内部の大半は市立図書館となっています。
当然無料ですが、ガラス工芸展示室への入場は有料200円でした。

市役所展望台
午前最後の富山市観光は、富山城です。
その前に、富山市ガラス美術館・図書館から富山城へは徒歩10分程度で、富山市役所前にあります。
そこでこの富山市役所には、観光来場者用り無料展望台があり、一階ロビーから直通のエレベーターで、誰でもが登って見ることが出来ます。
当初、富山城を上から見るのが目的でしたが、それよりもこの季節、まだ雪を残した立山連峰の絶景が富山市内から見えるのです。さっそく上がってみました。
見えましたが、撮影は出来ませんでした。展望台のガラスの汚れと、室内の灯りがガラス窓に映り込んでしまい、使い物にならないので、市内別のオープンエァのもとで撮影する機会を伺うことにしました。

富山城址公園と滝廉太郎記念館
富山城には天守閣は残っていません。あるのは模した資料館と展望デッキだけで、入場料を払って見るべきものはありません。
富山城は天文12年(1543)に、神保長職によって築かれその後、越後長尾氏(上杉氏)や一向一揆などによる争奪の場となり、信長配下の佐々成政、前田利長の居城となった平城で、現在、石垣のみが残っています。
この程度の史実は、旅行を計画した時点が解っており期待は全くしていませんでしたが、プラニングしていた時に、この城址公園内に滝廉太郎記念館なるものを発見しました。
土井晩翠・滝廉太郎の名曲「荒城の月」のモデルとされるのは、滝廉太郎のゆかりの地大分県竹田市・岡城跡が有名ですが、滝廉太郎は東京に生まれですが、生まれてまもなく父が富山県書記官となり富山市に転居。 小学校三年生まで富山で過ごします。
この城址公園のなかにあった小学校に通っていたと言われており、「荒城の月」のメロディイメージは、富山城と、富山市民は信じているそうです。

午後の観光はJR富山駅北の新しい観光名所へ
私達シニア夫婦二人のいつものパターン、ホテルに戻りお昼寝一時間して、午後からまた徒歩でかけます。

富岩運河環水公園
平成9年にオープンした「富山県 富岩運河環水公園」は、とやま都市MIRAI計画のシンボルゾーンとして水辺空間の豊かさを大切にしながら整備された面積9.8haの広大な親水文化公園です。
富山の自然と富岩運河の歴史を活かしたこの空間は、地域の文化や未来を見つめ、創造するオアシスとなり、北陸新幹線開通後、富山観光の最大の目玉となっています。

世界一美しいスターバックス
この富岩運河環水公園をいちやく有名にしたのは「世界一美しいスターバックス」とネットでバズってからです。
そう呼ばれるようになったのは、2008年に「ストアデザイン賞最優秀賞」を受賞したからだそう。
しかし、このコンテストは過去3回しか行われなかったとか、色々な批評もありますが、海外からの観光客、特に大勢の若い女性はこの前で写真を撮り、飲み物と緑に溢れた運河をSNSで紹介していますので、これを目当てに同じ体験を・・・というのが今の若い観光客のトレンドになっているのです。
今回、富山の地方都市に回って、各地の観光協会の人とお話する機会がありました。
地方の小さな街の観光協会に従事していほとんどの人は、定年退職したオジサンが多く、如何に外国人、若い観光客のソース、ニーズがネット上にあるのかを理解していないようでした。

富山県美術館
美術・芸術・歴史にほとんど興味のないカミさんとしては、高い入場料のかかる色々な施設は、私のお付き合い程度でしか興味がないのは知っています。ここ、富山県立美術館はちょうど企画展で入場料は1,500円ですから、絶対にOKはでません。
しかし、それを承知でここに来たのは、この美術館の屋上にある、2017年にープンした富山県美術館の屋上庭園「オノマトペの屋上庭園」です。
オノマトペとは
自然界の音・声、物事の状態や動きなどを音(おん)で象徴的に表した語。音象徴語。擬音語・擬声語・擬態語などこと
この富山県美術館の屋上庭園には元々この地にあった「ふわふわドーム」を作ることだけは決まっていたそうです。
その「ふわふわ」という言葉から「オノマトペ」へと繋がり、ただどこにでもある遊具を揃えるのではなく、「オノマトペ」で繋がった遊具があれば面白いのではないか?
子ども達に楽しんでもらえるのではないだろうか?と出来あがった子供の遊び場なのですが、今ではこの遊具、場所が一つのデザイン、芸術として広く、世界に評価されている場所なのです。当然無料でした。

雪の立山連峰を望む展望露天風呂
富山観光というと、何があるの、見どころは?と聞かれます。
富山は、黒部アルペンルートの起点となる街、金沢への通過駅と思っていました。
ただ一つ、富山で絶対見たいと思っていたのは、大きな街のビルの向かうに見える、「白い・たおやかな・峰々」の風景でした。
富山出身の有名人が必ず云うのが、街と一体となった立山連峰の白い姿です。
確かに、白く輝く雪の山は、なにか神々しく、宗教的なものを感じさせます。
雪山は信仰対象であることは、富士山が世界文化遺産に登録されたことでも分かります。
私はイランのテヘランとボリビアのラパスで、ビルの間から見える「白い・たおやかな・峰々」を見て感激しました。
そう、この富山にも同じ風景があるのです。
今回のホテルを決める時の第一条件が、部屋から「立山連峰」が見えることが条件でした。
そして、数年前にプラニングした時、屋上大浴場露天風呂から、「立山連峰」が見えるホテルがあることを知りました。
ツインルームの仕様、部屋の大きさは私達夫婦の基準に満たされていませんでしたが、このホテル「富山マンテン」を選び、て正解でした。
泊まるまで「マウンテン」登山客が多いのでは思っていましたら、「マンテン」と植物の名から由来しており、北陸を中心にホテルチェーンを展開しているようです。


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2023年05月20日

戻るインバウンド訪日客 増えアウトバウンド日本人海外旅行

富山を旅していて、海外から旅行者の多さに驚く

富山の観光名所の一つが富山駅北の運河沿いに開けた「富岩運河環水公園」です。
この大都市のしかも、新幹線駅から徒歩10分のところに、緑の水の大公園が広がってするのですが、この程度の公園なら海外の大都市にも多くあるのに何故か、欧米・台湾・シンガポール系の若い観光客か多いのです。

彼らのお目当ては「世界一美しいスタバ」として世界中にヒットしたお店がここにあるからです。
それは2008年のこと、スターバックスコーヒー社内におけるストアデザインアワードで最優秀賞を受賞したことに起因します。
2017年現在、世界中で2万店を超えるスターバックスの店舗の中から選ばれたということであれば、世界一の冠もけっして大げさなものではないのではないでしょうが、大きな芝の庭先は、確かに広大な水辺の風景が広がっているのです。
私達夫婦は滞在中二回いきました。
一度目はお昼時、テラス席は勿論のこと店内は満員で入れませんでした。
お客の半数は欧米系と見られるインバウンド観光客、そしてよーく観察しないと解りませんが、中華系(台湾・香港・シンガポール)のインバウンド、若い女性客、もしかすると、日本人かと思われる若い女性のある程度の割合は韓国からかも知れません。

翌日、この公園の隣にある「富山県立美術館」の屋上にある2017年4月29日にオープンしたオノマトペの遊具(芸術作品)を早朝8時オープンに見に行き昨日入れなかった「スタバ」に行きました。9時過ぎですが、テラス席はほぼ埋まっていました。
さすがに、この時間は日本人で埋まっていました。

カミさんと私は、滅多にスタバに入りません。

理由は簡単、高いからです。
それでも、せっかくだすらと「ストロベリーカプチーノ」を二人で一つ注文しました。680+税=734円です。
お隣に欧米系のカップルは、「ストロベリーカプチーノ」とトールコーヒーを注文していました。トールコーヒーと合わせて二人で2,311円は何ドルになるか?
単純な計算方法は日本円✕0.008が、現在のインバウンドのドル換算方法です。
1ドル125円換算時、日本の標準の豚骨にラーメン800円はドルに換算すると6.4ドル・・・彼らには信じられない値段、激安天国なのです。
スタバの、2311円は18ドル50セント、一人10ドルにも満たないのです。
アメリカ人の感覚でテーブル席に座って、州税、チップなしとは考えられない感覚で、長時間この風景を眺めながら、スマホで写真をとり、インスタにUPしていました。
この反対の事象が私達が海外に行った時に経験するのです。

欧米系旅行者だけではありません。

2日目に高岡へ行った時、奈良・鎌倉と並んで日本三大大仏、の一つ高岡大仏に寄りました。
ここの大仏と比べられて奈良・鎌倉の方々は「なんちゃつて大仏」と思うかもしれませんが・・・
驚いたのは、このお寺の駐車場に大型観光バスが二台停まっており、降りてきたのは、ひと目でアジア系、紛れもなくバンコクからツアー客のようでした。
通訳ガイドの説明の後、お客さんが散っていた時に、日本語の達者なタイ人のガイドさお話しました。
日本人でもそんなに有名でもない、「高岡大仏」に何でわざわざ来るの?
日本人がスコータイに行くのと違って、鎌倉や奈良なら解るけど、そんなに歴史的意義がふるものでもないのに?。

ガイドの男性が云うには
元々、ここがメインではなくメインは黒部の雪の大谷、ここは時間調整と考えていたが、かなり仏教国タイ人の間では評判がよくて、必ずコースに組み込んでいるとの話、
一年間ほ通じて、桜・雪・紅葉・食事・京都・大阪・東京と今、タイ人の一番人気は日本、文化圏も近く、日本は安全、そして安い・・・
タイ人の言葉から「日本は安い」という言葉を聞くようになるとは。
ところで、今バーツは幾らなの?
10年以上前、頻繁にタイ北部を旅していた時、安い時で2.8〜3円程度だったけど、今は4円ぐらいだよね。
そう、ここ10年で特に、バンコクの人たちは豊かになったよ、ガイドさんは話していました。

ようやく、コロナパンデミックが収まりつつある今
ダイレクトメール、パンフが大量に各社から届きますが、値段にびっくりです。
10年前に海外旅行を卒業し、パスポートの更新をしなかった時、もし、もう一度最後の海外旅行となれば、文句なく「ワイキキ」になるだうとカミさんと話していましたが、とても現在のアメリカのインフレ、オイルの価格を見ていると、海外へはいけません。
特に、私達のような個人・自由旅行派にとって、現在のハワイの物価では三日と暮らせないでしょう。
昔・・・20年前、退職して最初の頃のハワイ旅行総費用の予算は
七泊九日、自宅から成田空港往復の値段も含めて、二人で30万円以内が鉄則予算でした。
あの「テルミークラブ」のセットで、ホテルはアンバサダーと云う格安でも、十分に楽しめた時代です。
今、あのレベルのセットをさがして行くと幾ら嫌いになるか?

羽田発7泊9日のハワイパックツアーの値段(参考HIS)

7泊9日 羽田発ANA共同運航便 二人520,000 燃油諸税込 ホテル7泊込
往路 HND21:55 HNL10:15 帰路HNL14:25 HND18:00
宿泊 アクア パームズ ワイキキ(イリカイの前) or パール ホテル ワイキキ(バーニアンの隣)
7日分の滞在費、移動費、観光費 二人分 一日150ドル☓7=1,050☓140円 150,000
合計67万円也 或いは一人一日100ドル二人200ドル☓7=1,400☓=200,000
合計72万円となる計算で10年前の倍の値段です。
果たして、ワイキキで二人一日150ドルで済むかどうか怪しいところでしょう。

2023年5月のワイキキの物価
USD ドル買い現金 137.18
ホノルルの交通費 市バス 料金は 2.75ドル 参考URL
http://www.thebus.org/t_jap/fare/Adultfare.asp?l=jap

ホノルルのレストランでの食事 値段
日本の消費税と同様に、ハワイのレストランで食事をしたり、お店で商品を購入する際には4.712%の州税がかかります。
また、ホテルの宿泊料には州税のほかに、10.25%の宿泊税が加算されます。
フルキッチンセットの部屋でない限り、スーパーやコンビニの出来合いの弁当やチンするだけにしても、二人で50ドルでいけるかどうか?
そこまでして、後期高齢者夫婦は海外へは出かけないでしょう。

チップ相場:食事代金(税抜き)の15〜20%
高級レストランでは食事代金の20%〜が目安です
ホテルの場合
●フロントから客室まで荷物を運んでくれチンたポーターへ、客室についたときに現金で手渡しする(チップ相場:バッグひとつに付き$2〜)
●客室清掃をしてもらうときは、枕元やサイドテーブルに現金を置いておく、または封筒に入れてHousekeepingと書いておけばOK。(チップ相場:$2)
●ルームサービスを注文する際はメニューや説明などをよく読み、チップが注文金額にサービス料として含まれるか確認を。含まれていなければ、届けてくれた人へ現金を手渡しする(チップ相場:注文金額の15~20%)
●ホテルのバレー駐車を利用する場合は、車をフロントまで持ってきてくれた人に車へ乗り込む前に手渡しする(チップ相場:$2〜5)
チップが2ドルなんて、信じられない
こういった昔をよく知っている、日本人旅人はもう、チップ社会では旅できないてしよう。

●アクティビティ&ツアー
サーフィンや島内一周などのアクティビティやツアーのサービスを利用する場合は、インストラクターまたはガイドに対してアクティビティ終了後に現金でチップを手渡しします。
場合によってはチップ・ジャーが設置されているので、そこへ入れてもOK。
パッケージツアーでは、チップ不要の場合もあるので代金を支払う際に確認しましょう。
チップ相場:アクティビティ料金の15〜20%(ツアー時間の長さにもよる。例えば1〜2時間のツアーの場合は、ガイドに対して1人$5。
2〜4時間のツアーの場合は、ガイドに対して1人$10。4時間〜1日のツアーの場合は、ガイドに対して1人$20が目安)

観光庁が日本人海外旅行観光客の数を増やしたい理由が解らない。

今まで私達が経験してきたのは、この目で、この足で実際の海外を見てみたい。できるだけ、安全でリーズナブルな値段で、特にバックバックパッカー、貧乏旅行志向ではなくてもいいけど、老後の生活資金を食いつぶしてでも行きたいとは思わない。

若い頃は、この海外旅行資金が今後の生活に影響するなんて考えたこともなかったけど、このインフレの影が近づいてきている現在、二人で100万円の旅行なんて絶対に出来ない。
昔とは違う、二人共専門職の共稼ぎ、世界中どこでも二人で100万使えば、何処へでもいけた時代。ボーナスはすべて二人の趣味である世界の辺境の地への旅行代に使える時代だった。

観光庁が幾ら音頭をとり、旗を振っても、後期高齢者・団塊世代の小金持ちたちは、せいぜいアジアを巡るクルーズ船が良いところであろう。
私達のように、パスポートもなく、同じような世代の人間(年齢・経済環境・これまでの生き方も似通った人たち)と10日間も一緒に朝から晩まで顔を突き合わせるようなクルーズは真っ平御免でお断り致します。


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2023年05月18日

齢とともに友人・知人の姿が見えなくなる

今、振り返ると3年前、2020年2月からだろうか
2月の誕生日に72才を迎えた時、55才で早期退職し移ってきた鎌倉の地で新たな定年後の生活をスタートし参加した、色々な趣味のクラブや毎日の日々の生活の基盤となる、NPOボランティアセンターのスタッフから身を引いたのは・・・

ちょうどその頃
私は横浜大黒埠頭の「ダイヤモンド・プリンセス」の撮影に行った。
タイミング的に、コロナパンデミックと各種ボラ、役職、講座講師、趣味のクラブから距離を置くようになったのはこの時から。
そして、バイト、副業感覚でお付き合いしていた横浜歓楽街のお店も休業・廃業状態となり、瞬く間に私の予定表カレンドーは真っ白になり自宅にいる時間が長くなりました。
初めてこの時、定年退職した65才の男性が自分の居場所探しで苦労するという現実を理解しました。
これまで、55才で退職し、あらたな見知らぬ地に移り住んできて、一ヶ月もせぬうちに、私を必要とする環境が向こうからやってくるのでした。
55才の若さ、IT・webエンジニアの経歴、趣味の写真・映像の世界の結びつき、海外旅行・滞在歴の豊かさなどが、この地て求められたのです。
前々から、古希を過ぎたら、現場から退こうと考えており、実際に退くにはそれなりの後始末、後継者養成が必要にらり、現実的には72才になり、奇しくもそれがコロンパンデミックの始まりと一緒になった訳です。

最近、近所、周りにいた友人・知人の姿がここ一年めっきり見かけません。

ご近所にお住まいで、NPOセンターの会員・理事をされていたH氏、何度もお宅にお邪魔して、パソコンのメンテや、ブログやフェースブックの設定、書き方などを指導していた方で、最後にお見掛けしたのは凡そ、一年前、杖をついて散歩している姿を拝見して声をかけました。
どうやら、目がわるそうで
 「その声は〇〇さん、ワシは緑内障で半分以上見えないんだよ」
 「でも一日中、家にいると体にも悪いんで、一日一回、夕方には散歩するようにしているだ」
 「大丈夫ですか、車は見えるんですか、信号はみえますか、奥さんは知っているですか、
 外出してるのを」
 「うるさいから、黙ってでてきた、大丈夫、携帯、ガラケーを持っているから」
確か年齢はより5〜6才ほど上ですから、80はとうに超えているはずです。
奥様は一年前あたりでは、毎日駅前商店街でお見かけして声をかけていたのですが、ここ半年、奥様のお姿も見かけません。

同じ町内会のA氏の姿を見たのは、ちょうど昨年の桜の季節


多彩な趣味をお持ちで、男の料理教室と似顔絵のクラブなどで活躍しており、鎌倉・大船の各種イベントには引っ張りだこの超有名人で、ご近所でもあり、同郷の信州人でもあり、度々お宅に伺い、パソコンのメンテやら、グラフイク系ソフトのお手伝いをしてきましたが、
ここ半年否、一年以上お見かけしません。
駐車場にはAさんの車が置いてあるのは、通りすがら拝見しています。
私が「Aさんみかけないけど、どうしているかな」と云うカミさんは「電話してみたら」と云いますが、何故か噂さぐりのようで遠慮したままになっています。
特段、電話しなくてもいつもなら、夕方の散歩でお見かけするので、待っている状態です。

スポーツ関係も同じような状況・状態が続いています。


室内の軽い運動量のラケットテニスには、団塊世代の一回り上、12才違いの男性が三人、10年以上前から一緒に試合をしていました。
コロナパンデミックになった時、このお三方は練習に参加されなくなりました。
当然高齢ですから、ご家族やらも心配していたでしょうに。
私より一回り上ですから、10年前でも77才ぐらいでとてもその年齢とは思われぬ動きをしていました。
昨年あたりから室内スポーツの場もコロナな影響が薄くなり、メンバーが戻ってきたのですが、このお三方の姿がなく、少し心配していたところこのうちのお一人と元勤務先が同じ方が「亡くなった」と教えてくれました。
あとのお二方の現況は知りません。
古いメンバーですから、住所も電話も解っていますが、あえて連絡はとりません。
ここ鎌倉だけではなく、恐らく全国の老人、シニアか集うクラブ、団体では、病気、入院、或いはお亡くなりになっても、お見舞いや葬儀の通知はしないことが暗黙の了解となっています。

これまで参加しきたた、趣味や学習の今までのクラブ・関係団体は

・英会話
・海外ロングステイ
・写真クラブ
・ビテオクラブ
・パソコンくらぶ
・団塊プロジェクトシニアサポートセンター
・NPOボランティアセンター広報
・市民活動団体向けIT・Net講座講師
・Web制作サポートセンター代表
・公式テニスクラブ
・室内ラケットテニスクラブ
・ストレッチ体操クラブ
色々やってきて、様々の出会いがありました。
鬼籍に入られた方も沢山います。
そのなかで誰一人して、正式に連絡いただいたり、葬儀に参列した方はおりません。
すべて、風の便りとして知っただけです。
地方から上京し、都会の特に観光地近くの住宅地に暮らすという事はこんなもんなんです。

私が逝った後のカミさんの暮らしを考えると・・・
金銭的な面はともかく、生きていく上、生活面、お付き合いなどが心配になります。
カミさんの現在のスポーツクラブの友人・鎌倉婦人は、「私達がいるから大丈夫よ、一人きりじゃないから心配ないわよ」と云いますが、カミさんも解っています。
現在、元気なうちはそうかもしれませんが・・・
でも、そういうお友達は皆、子供も孫もいる人達ばかり。
私達は二人だけなのです。
そして、カミさんはいつか一人になる。

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2023年05月16日

駅前に屯ろする、出前館・ウーバーイーツの配達員

駅前でよく見かける出前配達自転車

小雨降る休日のお昼時、駅前周辺にいる私にスマホにカサミンから電話。
「今、何処?今日のお昼、何にする?」
「中通り商店街、マックでいいなら買っていくけど」
「お願い、チキンタツタでいいわ」
「了解、11時半には帰る、コーヒー沸かしておいて」
早速マックに行くと、休日のお昼どき行列が出来ていました。
半分は店内で、半分は持ち帰りのようです。
その中に、3人明らかにマックのお客さんではないような、風体のオジサンと若者を見掛けました。何時もの平日なら5分も待たずに、用意されてのですが、この日、は12,3分待たされました。
その理由は、このオジサン、若者が出前館やウーバーイーツの配達員で、かなり大量の注文をしていたようです。

「吉野家」でも「はなまるうどん」や「ケンタッキー」でもよく見かけるようになりました。
この中年の男性はかなり大量の「マック」の袋をバックに詰めて、自転車で走り去りました。
この中年の男性、最近頻繁に駅周辺で見かけます。
この宅配で食っていけるのだろうか?
それに誰が注文しているのだろうか?
当然配達料金が加算されることになるだろうし。

日本には昔から出前というシステムがあります。

近所の蕎麦屋さん、中華屋さん、寿司屋さんなど、お客さんが来たりする時、特別な時に出前をとることがありました。
それは、お店側の顧客サービスであって、出前料金はとりませんでした。
やがて、宅配ピザ、宅配寿司と分野は広がっていっても、私達は配達料は無料、サービスという感覚がありました。
しかし最近、宅配ピザは店舗まで自分で行けば、一つ無料とか知ると、やはり、今までの宅配ピザ、宅配寿司の価格の中に予め配達経費が見込まれててたのだと、今更ながら納得しました。
近所の昔からの蕎麦屋さん、中華屋さん、寿司屋さんは純粋に顧客サービスだったのです。

では、値段が公に公表されている定価のマックやケンタの場合どうなのか他人事ながら、自分では絶対に「出前館・ウーバーイーツ」などのを利用しないのに面白半分で調べてみました
ネット上で公開されている資料によると
出前館の手数料は3つ
配達料(配送手数料とは100円〜420円ほどの配達料がかかります、お店によっても違う
少額注文手数料は、決められた金額以下の注文をした場合、追加で手数料がかかるというものです
800円未満の注文に対して、330円の手数料がかかるようになっています。
現金払い手数料は 出前館では、さまざまな決済方法を選べますが、その中でも現金には手数料がかかってしまいます。
現金払い手数料は110円です。そのため、キャッシュレスで注文した方が圧倒的にお得

ウーバーイーツの配達料 出前には送料・手数料が発生する
実際に、ユーザーがウーバーイーツを利用して料理を注文すると「送料」や「手数料」などがかかり、店舗で食べるよりもやや割り高の金額となります。
日本人がこれまで経験してきた、近所の蕎麦屋さん、中華屋さんの出前サービスとは全く違うのです。そもそも送料や手数料がなぜ発生するのかというと、ウーバーイーツ側は、加盟店・配達パートナー・注文者のそれぞれから手数料という形で利益を得ることで、成り立つビジネスモデルなのです。

試しにケンタッキーをウーバーイーツで頼んでみると

了解、謎が判明しました。
お店側では店頭のメニユーとデリバリー用メニューの二種類用意してあり、デリバリー用には予め、配達パートナー料金が組み込まれているのです。
そして、その他のデリバリーメニュウにない単品を頼むと少額注文手数料が発生する仕組みになっているのです。
ですから、注文する客側からすると、かなりの負担が生じるのですが・・・
これについて、さるお金持ち大家族の鎌倉婦人に聞いてみると
「子供や孫たちが来ている、それも小雨の休日に誰がわざわざ混む駅前まで車をだすのよ、それに駐車料金もかかるし、自分で取りにいくことを考えれば、たまの日曜日それぐらいの出費は仕方ないわよ」
我が家では考えられないことですが、解らないではないな。
ちなみに吉野家の牛丼をひとつ頼むと「牛丼並つゆだく、紅生姜大盛り」税込448円に配達料420円が最低かかります。

配達員の報酬の仕組みや時給相場は
次の疑問、若者、学生のバイトとしてのウーバーイーツ配達員なら解るけど、かなり年配の大人の男性が、これで食っていけるのだろうかと、他人事ながら心配します。
ネットによると
Uber Eats(ウーバーイーツ)の配達パートナーは、どのように収入を得ているのでしょうか。
配達パートナー(配達員)は、Uber Eats や飲食店に雇われるのではなく、個人事業主として契約します。このため、収入を得る仕組みは、給料制ではなく、報酬制です。

詳しく見ると 配送料=基本配送料+配達調整金額
※基本配送料は商品の受け取りにかかる時間と距離、また、受け取りや届け先が複数あるかどうかにより、アプリで算出される。
※配達調整金額は基本金額にくわえて、以下のようなときに追加で支払われる金額です。
通常より交通状況が混雑している。
通常より店舗での待ち時間が長い。
通常より配達員の数が少なく、需要が高い。

インセンティブとは配達員が得られる追加報酬のことです。
@ ブースト  注文の多い時間や場所で配達をする場合に、「基本金額」が増額
       (1.1倍、1.4倍     など)される仕組みです
A ピーク料金 注文の多い時間帯やエリアに発生する追加報酬です。昼夜の食事どきや
       悪天候のときに、アプリ上でヒートマップがあらわれます。
B クエスト  配達件数に応じて、個々にもらえるインセンティブが「クエスト」です。
       たとえば、「4回配達完了で400 円を獲得」「8回配達完了で1,000 円を獲得
       」などのクエストが存在します

サービス手数料とは
配送料の10%にあたる金額が、「サービス手数料」として、報酬から差し引かれます。

チップとは
悪天候だったり、ルートがわかりづらいなど、大変な配達をこなしたときに、注文者が感謝を示す手段として、チップを渡してくれることもあります。
チップの金額は注文者の任意、チップの金額は、注文者がUber Eats のアプリ上で選択するか、希望する金額を設定することも可能です。
チップからはサービス料が差し引かれないので、全額が配達パートナーの収入になります

配達員の報酬額の相場は?

Uber Eats の配達1件あたりの報酬額は、350円〜550円が相場のようです
サラリーマンのようにお給料をもらうのとは違い、成果報酬を受け取る仕組みのUber Eats 配達員の仕事。
その報酬を時給換算するとどのくらいなのでしょか?
お凡そ、時給1,340円と云うdataがあるようです。

たったそれだけなの?
食っていけないじゃないの?
そこでUber Eats配達員が高収入を得る方法は、インセンティブ(追加報酬)を有効に使う、狙う。
(1) 土日をねらう
(2) 昼食時、夕食時のピークタイムをねらう
(3) 雨の日をねらう
(4) 激戦区の朝をねらう
(5) 店の近くで待機する


これらを駆使して月収40万の収入をあげている配達員 をTVドキュメントで見たことがあります。
Uber Eatsの配達員は、従業員ではなく、独立した請負業者なのですが、報酬の基礎となる部分はすべて元請け側のプログラム次第で、働かされているとも云え、現在一部で裁判になっているようです。確かに、時給で時間も場所も縛られて働かされるより、自分の才覚、タイミング、体力で収入を得ると錯覚させる仕事かも知れませんが、オジサンとしては、息子も孫もいませんが「手に職を持って働けよ」と云いたくなります。

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2023年05月14日

中学校の同級会のお誘い

知らない番号の電話がスマホにかかってきた

ゴールデンウィークの日曜日の午後、私のスマホの電話呼び出し音がつづき、開くと見覚えのない番号が表示されているので出ずに放っておくと、留守電通知に変っていました。
我が家には子供がいないのが分かつているのか、詐欺まがいの電話はいっさいなく、時に固定電話にかかってくるのはデパートや保険会社のお誘い電話程度ですが、カミさんにはスマホにかかってくる、知らない番号の電話には絶対にでるな、SMSにも反応、返信はするなと云っています。
最近のシニアの趣味のクラブやスポーツ仲間の間でも、昔は当然あった連絡帳名簿、会員名簿は現在は個人情報保護云々ではなく、サギ・迷惑電話対策で作らない時代です。
ても、無視した電話の留守電となると、何処からかかって来たのか少し気になり、留守伝言を聞きました。
中学校の同級生のT君からでした。
4〜5年前に開いた中学校の同級会温泉旅行はその後、コロナパンデミックで中止になっていが、落ち着いてきたので、75才後期高齢者となる今年、もしかすると最後の同級会になるかも知れないので、皆の意見を聞きたいのでと電話したそうです。
「ゴメン、知らない電話番号には基本的には出ないようにしているので」
「そうだよな、自分のまわりでも未払い閲覧料があるとか、ひっかかっているのが数人いるよ」と、お互いに通話料無料かどうか確認したのち、長電話となりました。

中学校の同級会に限っては支障ない限り出席します。

同級会、同窓会、同期会など退職してからいろいろなお誘いがあります。
先ず、小学校の同級会というものは、存在しているのかどうかも解りません。
昭和29年入学、35年卒業するまで、ほぼ二年おきに学級編成がかわり、担任の先生も変わりました。
生徒数は今の子供には信じられないでしょうが、60名だったと思います。
地方の県庁所在市の中心にある小学校は、卒業すると2つの市立中学校と国立大学付属にと分かれて進学します。
まだ、クラスのリーダー的な役割の子供がいない12才ですから、卒業してから先、お互いに連絡をとろうと云うような環境ではありませんでした。
また、教師、先生にしても六年間通しての担任でもなく、クラスの生徒も二年置きに代わっていたので思いも深くはないでしょう。

高校の同級会について 
小学校・中学校の同級生は、義務教育でもあり勉強の成績も、家庭環境も、経済的、社会的環境もバラバラ、良い意味での横一線のスタートライン上でしたが、
高校となると入試という人生の最初の分岐点を通過し、ハードルをくぐり抜けてきていますから、ある程度の能力・社会レベルは平均化されてきています。
そして、そして何よりもベビーブーマー世代の宿命の競争を生き抜いてきています。
高校は県下一の進学校とあって、進学先、そしてその後の就職先によって、同級生の人生は大きく変ってきています。
私は二度、高校の同級会に出たことがあります。
一度は南米から帰ってきた直後の20代後半、次は10年後の40才の時でした。

この頃の年代の同級会は・・・
このブログを読んでいらっしゃる方々にも思い当たる節があるでしょうが、高校・大学の同期はまわりは皆んな同級生ではなくライバルなのです。
会社や仕事の話、自慢、家族や子供の話、常に他人と比べて上か下かを考えながらの応対、旧交を懐かしがる、温めるような出会いではないのです。
40才を過ぎた頃の同級会は、今の自分の社会的ポジション確認の為のような会合になってました。
今、家は何処に住んでいるの?、会社で何をしているの?、給料は聞きにくいので、今年のボーナスはどう?
これらの会話に参加したくない人は誰も出席しないのです。
出席するのは、ある程度のフロントランナーと自負している人が多いのです。
40代の働き盛り頃を最後として、全ての同窓会・同級会レベルのものには現在出席していません。

55才の時久しぶりに中学の同級会のお知らせが有りました。

既にこの時は、早期退職し海外の理想の、終の棲家を探して旅している時でした。
中学を卒業してから初めての同級会です、でもどうして今の鎌倉の住所を知っているのか?
以前、現役時代に住んでいた横浜なら、高校と中学とで同クラスがいるので知っているかもしれませんが・・、
後から解ったのは、実兄と同じ会社同じ部署に勤めていた同級生がいたようです。
私はそれすらも知りませんでした。
ちょうどその時は、職安に失業手当の申請が必要な時期で日本に帰ってきていたので、出席することにしました。
中学校を卒業して40年ぶりです。
一番楽しみしていたのは、昔の担任の先生でも、旧友でもなく、クラスのマドンナ的の女子生徒の姿に接することでした。

しかし、そのお目当ての彼女は参加していませんでした。

その彼女と一番親しい女性は、生まれ育った街が一緒で、会場で会った途端に名前がでてくるほどの顔見知りですから、そのマドンナの近況を聞いてみました。
彼女は高校を卒業してからずっと地元で就職し、結婚したそうです。この日参加出来なかったのは、お姑さんの介護で来れないとようだと、友人の女性の話でした。

あの時、55才。
あの時から既に夫の両親の介護生活が始まっていたのかと、今になって思い出します。
そのマドンナと一番の友人女性とは、その後何度もクラス会でお会いし、長話になってます。
その理由は・・・
この団塊世代の時代には珍しく早くから海外に出ていた女性なので、私のこれまでの行き方、そして早期退職してからの行き方、住い、暮らしぶりにとても興味を持って聞いてくるのです。
長野県一の進学県立女子高から東京の女子大を出て、そのままアメリカに留学していたそうです。
私の海外での暮らしや、退職後の海外ロングステイ生活に興味を示し、同じ世代で自分のアメリカ時代の苦労話を理解してくれる人に初めて出会ったと云います。
彼女は1970年、アメリカ公民権法が成立した6年後、南部テキサスの大学にアジア人女性として数年、留学、暮らしてきたそうです。
その当時、まだホワイト・カラードの区別が残っていたそうです。
よーく分かります、その気持。
クラスメートから毎週末、パーテイに誘われのですが、その都度日本の着物を着て来て頂戴とリクエストされるそうです。
結局、私はアジアからの珍しい見世物、パーティーの余興なのよと云います。

同じような話はスェーデンに留学した旅仲間の女性からも聞きました。

大柄な体格の北欧、ストックホルムでアジア人の小柄な女性はモテる・・・
それは一人前の女性としでなく、小柄なキュートな子供のような存在として、
或いはその頃、スウェーデンは大量のベトナム・カンボジア難民を受け入れていたので、一般市民からは、自分達の高い税金を食いつぶす、アジアからの売春婦的に思われていたそうで、彼女も街なかで、簡単な遊び相手のアジア人女性的な扱いもされ、警察官からも暗に求められたそうです。
最終的には、彼女は自分の通っている王立医学大学員研究生の身分証明書を突きつけることで回避してきたそうです。
ほとんどの男性は、女性でそれも小柄アジア人女性で、王立医科大の研究員ということでびっくりして、逃げるように立ち去ったそうで、北欧の女性の人権が昔から今のように大きく、強かったのではなく、勝ちとったものなのよ、日本の女はもっと強くなくちゃと、云ってました。

その数年後、テキサス留学の同級生はマドンナ的同級と三人一緒にお茶する機会を造ってくれました。あれからもう、何年経つのか、当然ながら彼女たち二人も今は後期高齢者です。
特に、元テキサス留学経験のある彼女は、現在東海地方に住み、恵まれた生活はしているようですが、果たして一泊の中学時代の同級会に出席できるか解りません。

翌日、電話をくれたT君から電話がありました。
一応、今年の秋、信州北部渋温泉の知り合いの宿に男性用2部屋、女性用1部屋抑えた。
メンバーは恐らく、前回と一緒程度になるだろうと云います。
首都圏から、W大卒NTTとエリート畑を歩んだA君と、私大中退、専門学校から建設業界と波乱万丈人生の私、地元からは、幹事のT君、W大卒後、父親の会社を継いで、昨年息子にバトンタッチし。同じW大卒地元農JAらのトップを長年勤めてきたU君。
東京六大学のうちの一つを卒業後、地方行政に携わってきたM君、
地元高等専門学校第一期卒業で父親の会社を引き継いできた現役社長のTA君
ここまでは出席決定、後は、T大卒自治官僚のKと、東北の国立大卒、長崎のM造船のエリートGは、返事待ち。
女性四名は地元で独身のUさんのみ今の所参加の返事あり、他の前回参加した女性はこれから介護の問題を抱えて直ぐに返事は出来ない様子です。

ここで、お気づきの方がいらっしゃると思いますが、
「中学校の同級生は、義務教育でもあり勉強の成績も、家庭環境も、経済的、社会的環境もバラバラ、良い意味での横一線のスタートライン上」
と述べましたが、あれから60年目の同級会にとりあえず参加の意志を表明したのは、少数派の私と高専卒・自営のTA君の二人の他は、日本の誰でも知っている有名大学、有名企業に関わってきた人たちだけです。これまでの日本経済社会或いは政府官僚組織にいた人たちだけです。
女性にしても、生涯独身のUさんの他は、内情は良く伺いませんが少なくとも、家庭的にも、経済的にも恵まれた方々と推測出来ます。
全生徒男女合わせて52名のクラス、3年16組の生徒のうち、6〜8名程度なのか・・・
そして、これが最後の中学校の同級会となる可能性は極めて大きいのでしょう。

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2023年05月12日

20年目、2度目のマンション管理組合理事

12年ぶり2度目の管理組合理事当番が回ってきた

2003年、55才で退職し21年間住んでいた、横浜・横須賀線新駅駅前の大規模開発マンション群の住まいを売却し、現在の鎌倉の53世帯の中層5階建てのマンションというより、共同住宅に越して引っ越ししてきて、今年で20年目になりました。
53世帯を4グループに分けて、4名の理事ということでほぼ12年に一度は、管理組合の理事の順番が回ってきて、今回が二回目となります。
団塊世代の後期高齢者75才ですから、12年後は恐らく次はないと思います。
カミさんは72才ですから、ここに住み続ける限り3回目のおが当番は回ってくる可能性は、現在の日本人女性の平均寿命からするとかなり高い確率であり得るでしょうが、カミさんは嫌がっていますがそれはその時こと。

このマンションの住民の平均年齢は?

今の時代、個人情報にうるさい時代ですから、53戸の住民の平均年齢を調べようにも、管理組合の理事長になってもデータはありません。
名前さえもよく分からない状態です。
エントランス内の郵便受けにさえ、名前表示がないのです。
入居当時、郵便局や宅配の方々が困るのではと、個人的にテプラシールで表示する方が多かったのですが、現在は部屋番号のみ表示となっています。
各戸のエントランスには、彫刻銘板表示を出している方は半数以下です。
私のような世代は、住戸を購入し入居した時に、当然、名字だけの彫刻ネーププレートを張り出していますが、少数派です。

20年前に入居した時でも、全住人が一緒に集まる機会はなかったのですが、暮らしていくうちに、少しづつですが顔が見えてきました。
53世帯の大半は入居時、30台半ばから40台の働き盛りだと推測しました。
私と同じ世代或いは、もっと上と思われるご家族はほんの数世帯でした。
その数世帯の方はこの住まいで亡くなられたと推測しています。
推測というの、本当に推測でいつの間にか、姿をみかけなくなった、という程度の推測です。
特に、マンション内の共有スペースでお葬式をする訳でもなく、その都度全戸にお知らせもしていません。

最近、お一人、気になる方がいます
入居説明会でご一緒した老夫婦、20年前に私達団塊世代から見て、老夫婦と思われるご年齢でした。
下の駐車場でひときわ目立つ、大きな高級車「ベンツ」に乗っていました。
奥様はいつも小さな小型犬を抱えて、助手席に座っていました。
恐らく、私と同じ退職者、或いは自営経営者で、仕事を畳んで現金でこの鎌倉の閑静な住まいを「終の棲家」として選択したのでしょう。
午後3時過ぎ頃になると、犬を連れて目の前公園を二人で散歩するお姿をよく見かけいました。
しかしここ数年、ご主人をみかけなくなりました。
今、午後の公園には、犬を抱いて公園のベンチに一人座り、公園で5遊び子どもたちを見ている、年老いた小柄な奥様一人だけを見かけます。
カミさんの情報によると、昨年までマンションに入り口に、デー介護施設の車に乗り込む姿をよくお見かけしたけど、最近はあまり見かけしなくなりました。
施設に入って居るのかもしれない・・・私達の5年後の姿をみているようだ云います。
そして、あのおばあちゃんも、当番で理事をやらなくてはならないのかしら、と云います。

理事になったからと云って、色々なことに口出ししたくないのですが、今回は、各理事の当番について少し、投げかけようと思っています。
今回理事名簿を見て53世帯全員が候補者になっていませんでした。
5戸が所有者が何らの理由不在で、賃貸に出しているお宅です。
そのうちに3戸は、転勤で海外だったり国内の遠隔地に住んでいます。
お一人は、同じ町内にお住まいで、所有者の義理の母親が住んでいます。
他のお一人は現在の状況では、なぜリストにないのか解りませんが、次の理事会に出席した時に聞いてみようと思います。
4人の理事は年に7回の理事会に出席する義務・責任があります。
他のマンションではどうなっているのか知りませんが、管理委託しているM地所の担当者なら知っているでしょう。
義務を果たせないのなら、何かしら金銭的にでも負担して、管理費に組み込みたい方向て考えています。
もうひとつ、住民の高齢化で、あのようなおばあちゃんや、12年後に理事の役目が回ってくるであろう、我が家のカミさんの負担を幾らかでも軽減する思案を今回の理事であるうちに、提案し進めたいとと考えています。

副理事長の担当は地域自治会・町内会への出席です。

理事の順番がきた四人の役割分担は
理事長
副理事長
会計
監査
  の四役はこれまでと変わりありません。
四役を決めるのは、相互の話し合い、或いは立候補ですが、立候補は一番楽な仕事内容の「監査」「会計」をやりたいの誰しもそうですし、相互の話し合いでは、年長者や、専門知識(法律知識・建設有資格者・金融関係者)が一番重要な役目を押し付けられるますので、他のマンション管理組合は知りませんが、私のところでは20年間、「アミダクジ」としています。

当初、ジャンケンというアイディアもありましたが、勝った・負けたとなりますし、何よりも「アミダクジ」紙の書類が残るので、今のところ最良の方法でしょう。
一番、法的に責任が重いのは、理事長ですが、原則、書類を印鑑を押すのが一番の仕事となります。
そして、一番、作業量が多く、時間をとられるのが、副理事長で私達の理事会の場合、町内会、対外組織、役所担当なのです。
一番やりたくない役割で今回もアミダクジで当たってしまいました。
理事会は二ヶ月に一度の出席なのに、町内会は毎月、全53戸を代表して、近くの町内会館に出向いて、回覧板を受け取り、マンション内4グループに分けて配布し回収しなければなりません。
前回の副理事担当の時は、町内会費、赤い羽根募金その他諸々の書類の配布、回収で相当の時間手間がかかりました。
現在、町内会費、募金などは全て、マンション管理費自動引落のさいに、徴収し、町内会へ自動振込にしましたので、かなり楽にはなりましたが。


昔、20年前は新しく越して来たマンション住民といえども、昔からこの町内会に住む戸建ての家庭と同じ、コミュニティとしての役割分担を課せられていましたが今は、無条件にお金で解決するようになりました。
しかし、私が副理事長となるとそう簡単なわけには行かないのです。
それは、私が鎌倉市市民活動センターの広報担当責任者としての立場で、自治会・町内会の組織づくりに関わって来た為、ここの町内会のお偉いさん、古いおじさんたちに知り合いが多く、多大な期待をされているからなのです。
自宅前の大きな児童公園のなかに、町内会の防災備蓄倉庫もあり、その管理やら、児童公園の清掃、花壇の維持まで町内会の仕事です。
それなのに、公園前にある大きなマンションの住民は、上から眺めているだけで、誰も参加しない、と攻められもします。
公園では、夏休みラジオ体操をやってますが、マンション住民は誰も参加しませんし、町内にある鎌倉時代から続く、由緒ある神社の御祭礼にも誰も参加しません。
唯一、鎌倉市NPOセンターのスタッフとして解っている私が顔をだして、「まあまあ、いいじゃないですか」と顔見知りの地元の顔役と繋がっているのです。

マンション管理組合と自治会の関係について、煎じ詰めれば、何ら法的根拠がないのは、最高裁の凡例にあります。
退会する旨申し入れた場合、自治会費の支払義務は負わない

<最高裁判例(平成17年4月26日(判時1897号10頁)>
「自治会は(略)権利能力のない社団であり、いわゆる強制加入団体でもなく、 その規約において会員の退会を制限する規定を設けていないのであるから、
被上告人の会員は、いつでも被上告人に対する一方的意思表示により被上告人を退会することができると解するのが相当であり、本件退会の申入れは有効であるというべきである」とし、自治会を退会する旨申し入れた場合、 その後の自治会費の支払い義務は負わないとした最高裁判例。


町内会費の徴収は管理組合の目的外であり、管理規約で定めてもその拘束力はない

<東京簡易裁判決(平成19年8月7日(判例集未掲載)>
「マンション管理組合は、区分所有の対象となる建物並びにその敷地及び付属施設の管理を 行うために設置されるのであるから、同組合における多数決による決議は、 その目的内の事項に限って、その効力を認めることができるものと解すべきである。
しかし、町内会費の徴収は、共有財産の管理に関する事項ではなく、 区分所有法第3条の目的外の事項であるから、 マンション管理組合において多数決で決定したり、規約等で定めても、 その拘束力はないものと解すべきである。
本件では、原告の規約や議事録によると、管理組合費は月額500円とっており、 親和会当時からの経緯によると、 そのうちの100円は実質的に町内会費相当分としての徴収の趣旨であり、 この町内会費相当分の徴収をマンション管理組合の規約等で定めてもその拘束力はないものと解される」


私達マンションの住民は、町内会・自治会と無関係で暮らせるのですが、そこは大人の解決方法、お金は無条件でだします。
本来、市の行政がやるべき仕事・回覧板やら、諸々の書類の配布も、アンケート回収も最低限、地元コミュニティとのお付き合いの範囲内でやります。
少なくとも、私がマンション管理組合の副理事、町内会担当のうちは。
次の12年後、とにかくカミさんが管理組合の理事になった時に負担にならないよう、今年一年、何らかの改革をしなければ。


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2023年05月10日

日本へ行きたい人応援団 アマゾンに暮らす同年代



日本へ行きたい人は外国人だけではない
テレ東の人気番組「日本へ行きたい人応援団」は、海外に暮らす、日本の文化、伝統工芸、食べ物その他すべてに私達日本人以上に関心を持ち、日本へは一度も行ったことのもないのに私達日本人以上に、詳しく、情熱を持って接している人達を、日本に招いて、本物を体験してもらおうと云う番組です。

番組はここ数年、世界的なコロナパンデミックで中断していましたが、漸く復活してきました。
この番組では、そんな日本に憧れる、来日したいけど経済的な問題で来れない人は、外国籍の人たちだけでなく、世界には沢山の日系の方々が住んでいます。
その中には子供の頃、家族と一緒に南米へ移住して、もう何十年も自分の生まれ育った日本に降り立ったことのない、年老いた日本人も沢山います。
これまで番組では、
ブラジルのアマゾン
パラグアイのイグアス
ボリビアのサンタ・クルス
アルゼンチンのメンドサなど日本政府が率先して送り込んできた開拓居住地を訪ね、入植60数年経ち、一度も帰国したことのない、日本人の方々を招いてきました。

日本政府は戦前から、アメリカ本土をはじめ、南米ペルー・ブラジルを中心に多く日本人を移民、労働者、として送り出してきました。
やがて第二次世界大戦後、国策として政府はブラジル・ボリビアはては、ドミニカまで多くの日本人開拓団を日本の食糧難解決の一策として、海外での食料生産の美名・・実際には口減らしの棄民として送り出してきました。
現在のJAICA、国際協力事業団、元の名は「海外移住事業団」です。
そんな、移住・開拓地も事業団の無知で当初の数十年は移住者は大変な苦労をし、離散していきましたが、残った方々本当に頭が下がるご苦労と犠牲の元、現在は立派な、やや豊かな村・町になってきています。
実際にはあまりメディアでは語られていないのですが、これら人々が現在の生活基盤を作り上げたのは、この方々の勤勉な努力や日本人としての国民性だけでなく、80年年代後半からの日本バブル経済期の日系の血を持つ外国国籍の人の出稼ぎによる資金の流入で成り立っているのです。
あれがければ、現在の居住地現在の姿はないしょう。

その典型を今回の番組で垣間見えました。


住んでいるのはブラジル、アマゾン、トメアスです。
アマゾン川の河口の大都市ベレンから200kmのジャングルの中にある、昔、日本人移住者が持ち込んだ、胡椒栽培で一時期アマゾンバブル、胡椒御殿が沢山出来た町です。
大都市から200kmという距離感覚は日本で云うと、
東京駅から200kmは
東海道線では 藤枝が200.3キロです。
東北本線では 矢吹が 203.4キロ、(黒磯と郡山の間)
上越線では 越後湯沢が 199.2キロ
中央線では 上諏訪が 201.9キロ
常磐線では 泉が 200.8キロ 

乗り換え2回と便利な東海道線各駅停車の電車で行く藤枝でも3時間30分かかります。
他の路線はもっと、倍近くかかると思います。
ベレン中心部から、トメアス居住地の中心までは一般的にはベレンから船とバスと最後は徒步でおよそ6時間かかる場所です。
参考サイト トメアス訪問記 http://www.mumyosha.co.jp/topics/tomeasu/tomeasu.html
そのアマゾンの大都市ベレンへはサンパウロから飛行機で3時間30分 15,000円
そして、日本からブラジルサンパウロへのルートと料金は以下のとおりです。
最高値 カタール航空 成田・ドーハ乗り換え 29時間25分 375,440円
最安値 メキシコ航空 成田・メヒコ乗り換え 帰り31時間 142,525円
燃油サーチャージ 不明 恐らく含まれていないでしょう・
参考サイト 航空券検索 スカイスキャナー https://www.skyscanner.jp

アマゾントメアスとはどんな所で、どんな日本人か住んでいるのか

今回のこの放送は6年前にこの番組の主人公ブラジル・アマゾンにお住まいで、60数年一度も日本に帰っていない草野さんを、生まれ育った日本に招待したものの続編です。
草野さんはあれから6年75才になっていました。
6年前のこの番組は良く覚えていますが、このトメアスに住む日本人「草野さん」の年齢に私琴線は引っ掛かりませんでしたが、今回6年後の75才と聞いて「あれ、私と同じ団塊世代、後期高齢者だ」この草野さんは家族移住、4才か5才の時に家族で、南米、ブラジル、アマゾンの奥地に移住していったのかとすると、1950年代、日本人のアマゾン開拓団の第一陣、一番苦労した世代なのだろう。案の定、母親はこの「緑の地獄」と呼ばれた地に入居しまもなく、マラリアで亡くなっています。

私は移住者ではありませんが、1960年代後半からの6年ほど、南米、アルゼンチン、ブエノスアイレスに住んでいました。当時吹き荒れていた学園紛争から逃れるというよりも、単純に海外にでる手段を探していたのです。
ある電気メーカーから語学力だけを買われ、片道きっぷの条件でアルゼンチン行の船に乗りました。この船には大勢の若者が乗船していました。
横浜港を出て、生まれて初めての外国がハワイのホノルルでした。
やがて、この貨客船はロスアンゼルスで多くの若者が下船して、夢見た新天地、アメリカへ散っていきました。
残ったのは、南米の移住地に向かう若者と少数派の家族でした。
大戦後20数年も経つと、日本人の海外移民もすくなり大半はブラジルへの農業移民移住者でした。その半数は第二次胡椒ブームで湧いていた、アマゾンの第二トメアスと呼ばれた地域への入植者でした。トメアス日系コロニアの歴史

1960年代後半「技能実習生」制度は日本にもあった
最後の寄港地、アルゼンチン・ブエノス港で下船したのは、7名の私を含めた青年だけでした。
アルゼンチンに移住ビザにやってくる青年はほとんどは、ブエノスアイレス近郊の日本人花卉園芸農家の「技能実習生」と呼ばれる労働力です。
現在日本では働いている、ベトナムやインドネシアの青年と一緒で、1960年代後半、日本から海外に出るそんな制度があったのです。
しかし、単純に今のような労働力というよりも、日系社会の次の世代の担い手という面のほうが大きかったでしょう。
同じ、南米への移住・移民とは環境は全く違い、当時の一ヶ月の給料はドル換算で云うと、アルゼンチンの方が一時的に高かったようですが、70年代にはいり日本の高度成長が加速するとあっという間にその差は逆転しました。

この番組を見ていて、全く同じ時期、国は違えど同じ南米大陸の北のブラジルと、南のアルゼンチンに住んでいた二人の生活を思い出していました。
アマゾンの奥地で広大な土地と暑さと大量の虫と一緒に暮らしていた同世代の「草野さん」と、
ヨーロッパと同じ街並みのブエノスアイレスにタンゴの響きが聞え、夜更かしして朝、外にでると
紫のジャカランダーの花が雨で落ちた石畳の道を見つめていた自分を比べて見ていました。
日本に帰ってきてすら数年後、あの同じ船に乗っていた青年と、東京で出会うことがありました。
彼も私と同い年、あの頃、第二次胡椒ブームで、アマゾン・第二トメアスは若者が夢を見て集まってきていたのです。

アマゾン開拓地は緑の地獄
彼の話では、アマゾンは緑の地獄と云われているのを知っており、覚悟の上で入ったが、想像以上だったと云います。気温・湿度・蒸し暑さはなんとか我慢できたが、虫・昆虫・寄生虫・蚊・鳥・獣そして病気には耐えられなかった。
何処に行くにも、何時間何日も歩く生活、道路は寸断何処へ行っても川に遮られる生活、4年で断念して日本に帰ってきたと云ってました。
やがて、第一トメアス・第二トメアスの胡椒畑にまん延した原因不明の病原菌で、全ての胡椒の木を伐採することになり、次々と日本人はこの地を離れて町に出ていったと云います。

75才になった「草野さん」は今も、トメアスの町から1時間あまりの場所に自然農法の果樹園を一人やって暮らしているようです。
お子さんは4人、長男と次女は日本に出稼ぎにいったまま、日本でき暮らし、次男と長女は現在のトメアスで暮らしているようです。
そして、草野さんの妹さんは、ベレンで一人住い。
番組の都合上なのか、草野さんの奥様はいっさい登場してきませんでした。
同い年で同じ南米の地で同時期を過ごした私は、草野さんをとても他人事としてテレビ画面を見てはいられませんでした。

最近、シニア男性の年齢の表示に敏感になっています。
「草野さん」は私と同じ年齢です。
75才という年齢の男性はこんな感じなのか、日本の田舎に住んでいる75才の方より若く、ハツラツと見えます。
かたや、日本のテレビのドキュメンタリー番組に登場する、生活困窮者や、家族なしで一人暮らし人、何かしらの問題を抱えている同年代の人達の年齢を見て、75才、後期高齢者ってこんなふうに見られているのかと、洗面所の鏡に映し出される、自分の姿をしみじみと見ます。
同じく、地元鎌倉でも同じ団塊世代、後期高齢者の75才はまわりに沢山います。
経済的な余裕より、格好いい言葉で云えば「心に余裕を持っている人」は顔にも体全体にも現れるのではないかと思われます。最近そう思うようになりました。
では、自分はどうか、全て年相応、平均的に日本の後期高齢者のようです。

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