何で大豆栽培をしようと思ったのか
[2020年10月15日(Thu)]
私(苫小牧)の庭のミニトマト。
去年栽培したミニトマトの落ちたものの種から発芽したもの。
9月中旬に撮影したもの。
苫小牧は気温が低いので、この時期でやっとここまで。
甘くないです。
昔のトマトの味がします。
さて、なぜ、大豆の栽培に取り組んだのか、ちょっと説明しますね。
種プロの母体は、食の自給ネットワーク。
会員区分を見ると団体会員、消費者会員、生産者会員、流通・加工業者会員、道外会員となっています。
ところで「消費者」って何なんでしょう?
「消費者」を広辞苑で調べると「物資を消費する人生産者」とあります。
「消費者」とは「生産されたものを費やして(食べて、使って等)無くす人」であり、「産み出す人」じゃないんですね。
環境問題が大きく取り上げられていた頃「グリーンコンシューマー(Green - Consumer)=環境に優しい消費者になろう」という運動がありました。何を買うべきかよく考えて選択し、そのことによって社会を変えていく(環境に配慮した社会を創りだす)賢い消費者になろうというものでした。
これは、「費やす人」が「産み出す人にもなろう」とするものでした。
今も変わらず大切な思想だと思いますが、これは直接自分が何かを産み出すわけではなく、あくまでも「消費者」という範疇で行うことでしかないという限界がありました。
私は、20年くらい前、2年ほど初夏から晩秋にかけて大体毎週土日に厚真の大きな農家に手伝いに行っていた事があります。
それまで知識しかない消費者だった私は、初めて自分と生産現場との関係を具体的に感じる事ができました。「作る」ってホントに大変だなあって想いました。
販売されている種の袋の裏面を見てください。日本のメーカーが自身の所有する種を海外で交配させたのか、海外のメーカーの種子を買ってそこで交配させているのかはわからないけれど、野菜の種のほとんどが海外で生産されています。
種子法廃止や海外で起きている種に関する問題を見ていると、私たちの食べ物が、ある巨大な企業に支配される(統制下に置かれる)、それは非現実的なことではないと思えます。
その社会は、消費者が選択できない社会、すなわち賢い消費者など存在できない社会というものです。
こういう社会の出現を防ぐには、私たちが消費者の反対の面、すなわち「作る」という面も持つ事が必要だと思うのです。作物でなくても構いません、例えば樹木でも。
加工品を利用してつくる(作る)のではなく、一からつくり(創り)出すのです。
そもそも、食べられている野菜の多くは、野生のものを人が長い時間をかけて人間が自身に都合の良いように改良してきたもの。そもそも種は、誰のものでもなく、公共物(コモンズ)だったのだと思うのです。
より、美味しく、よりたくさん収穫できる品種を開発した人の権利は認めますが、公共物という一面は永遠に消えないものだと思います。「水」と同じように。
私たちが、一つでもいいから何かを栽培し、それをみんなで共有し交換する事ができたら、それは決して専業農家に脅威を与えるものではないし、むしろ生産現場のことを理解することにつながると思います。
そして、巨大企業が手を出せない、地方の風土に根ざした公共財としての種を産み出すことになります。
自給ネットで育てられた種が、会員によって地域を超えて広がり、時代を超えて広がっていったら。
そんなことを考えて、大豆を栽培してみました。
去年栽培したミニトマトの落ちたものの種から発芽したもの。
9月中旬に撮影したもの。
苫小牧は気温が低いので、この時期でやっとここまで。
甘くないです。
昔のトマトの味がします。
さて、なぜ、大豆の栽培に取り組んだのか、ちょっと説明しますね。
種プロの母体は、食の自給ネットワーク。
会員区分を見ると団体会員、消費者会員、生産者会員、流通・加工業者会員、道外会員となっています。
ところで「消費者」って何なんでしょう?
「消費者」を広辞苑で調べると「物資を消費する人生産者」とあります。
「消費者」とは「生産されたものを費やして(食べて、使って等)無くす人」であり、「産み出す人」じゃないんですね。
環境問題が大きく取り上げられていた頃「グリーンコンシューマー(Green - Consumer)=環境に優しい消費者になろう」という運動がありました。何を買うべきかよく考えて選択し、そのことによって社会を変えていく(環境に配慮した社会を創りだす)賢い消費者になろうというものでした。
これは、「費やす人」が「産み出す人にもなろう」とするものでした。
今も変わらず大切な思想だと思いますが、これは直接自分が何かを産み出すわけではなく、あくまでも「消費者」という範疇で行うことでしかないという限界がありました。
私は、20年くらい前、2年ほど初夏から晩秋にかけて大体毎週土日に厚真の大きな農家に手伝いに行っていた事があります。
それまで知識しかない消費者だった私は、初めて自分と生産現場との関係を具体的に感じる事ができました。「作る」ってホントに大変だなあって想いました。
販売されている種の袋の裏面を見てください。日本のメーカーが自身の所有する種を海外で交配させたのか、海外のメーカーの種子を買ってそこで交配させているのかはわからないけれど、野菜の種のほとんどが海外で生産されています。
種子法廃止や海外で起きている種に関する問題を見ていると、私たちの食べ物が、ある巨大な企業に支配される(統制下に置かれる)、それは非現実的なことではないと思えます。
その社会は、消費者が選択できない社会、すなわち賢い消費者など存在できない社会というものです。
こういう社会の出現を防ぐには、私たちが消費者の反対の面、すなわち「作る」という面も持つ事が必要だと思うのです。作物でなくても構いません、例えば樹木でも。
加工品を利用してつくる(作る)のではなく、一からつくり(創り)出すのです。
そもそも、食べられている野菜の多くは、野生のものを人が長い時間をかけて人間が自身に都合の良いように改良してきたもの。そもそも種は、誰のものでもなく、公共物(コモンズ)だったのだと思うのです。
より、美味しく、よりたくさん収穫できる品種を開発した人の権利は認めますが、公共物という一面は永遠に消えないものだと思います。「水」と同じように。
私たちが、一つでもいいから何かを栽培し、それをみんなで共有し交換する事ができたら、それは決して専業農家に脅威を与えるものではないし、むしろ生産現場のことを理解することにつながると思います。
そして、巨大企業が手を出せない、地方の風土に根ざした公共財としての種を産み出すことになります。
自給ネットで育てられた種が、会員によって地域を超えて広がり、時代を超えて広がっていったら。
そんなことを考えて、大豆を栽培してみました。