11月3日、長谷川泰を語る会では昨年に続き郷土史の史跡を歩きました。
今回は燕市の長善館史料館を見学の後、良寛生誕の地出雲崎へ。
いつもお世話になっている長善館史料館吉田館長から、解説を頂きました。
新組地区の住人には、すでにこの館の常連もおります。
先月まで企画展示をされていた、長谷川泰の特集資料を使った解説。
「長谷川泰ものがたり」も使われていました。ありがとうございます!
長谷川泰は長善館の門下生として第一に顕彰すべき人物だと吉田館長。燕市にとっても、長岡市にとっても誇りです。
新たな展示には良寛の書「天上大風」の解釈がありました。
「天上大風」は、良寛の書を手に入れたい村民が子どもを使って、「凧にするから」といって書かせました。子ども好きの良寛は、それを分っていながら書いたと言われます。
展示には、良寛は「見えないところで大変革が起こっている」と世に問うたとも考えられると書かれていました。
上の写真は、長善館のルーツ図解です。
長善館開学の鈴木文臺は良寛を師に持ちます。その良寛のルーツをさらに遡ったものです。
寺泊の大森子陽が良寛の少年時代の師であり、子陽と米沢上杉家の名君「鷹山公」との共通の師が細井平洲であると解説させています。
自然、この学びの系譜は長谷川泰にも繋がるものです。
長谷川泰は上杉謙信を尊敬しましたが、「謙信」「良寛」といった偉大な先人の思想は、越後の文化の基礎として脈々と流れていたように感じられます。
さて、バスで長善館を後にして向かったのは出雲崎です。
天候が良ければ寺泊も歩き、大森子陽の墓なども訪ねるところでしたが、今回は初冬の日本海の寒風に煽られ断念。
その日本海の雪を歌った「ジェロ」で話題になったのが出雲崎ですね。
良寛生誕の地として有名な出雲崎は、油田と佐渡の金銀の公益で栄えました。
金の集まる所には揉め事も付き物。町には代官所が設けられ住人を監理し始めましたが、その事が良寛の社会観の原点となったのでした。
栄えた時代の人口の流入で過密となった町は、北国街道沿いに特徴的な「妻入り」の街並を作りました。今もその面影を残す街中には、趣きのある散策路が整えられています。
生家跡にある良寛堂で記念撮影です。
※参考リンク
「大森子陽先生の墓」「出雲崎、妻入の街並/新潟県まちなみ博」